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雪之丞

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海蓝之钻(II)
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【 第一話 】


 グラン暦757年夏、ノディオンのエルトシャン王がグランベル侵攻を決定したシャガール王を諌め、王都アグスティに捕らわれたことを契機として、ハイライン城主がノディオンに侵攻を開始した。
 兵力の大半が北のシルベール城にあるノディオン軍には、その侵攻に耐えうる力はなく、王妹ラケシスはやむなくグランベル領エバンス城主のシグルドに救援を請うた。
 要請にこたえたシグルド軍がアグストリア領内に入ったことにより、この戦いはアグストリア諸公国連合対グランベル王国の戦いにまで発展し、最終的に王都アグスティまで軍を進めたシグルドは、ここを制圧。グランベル国王の命令で、この城に駐屯することとなった。
 捕らえていたエルトシャンを解放し、彼の助力のもと王都から無事に逃れたシャガール王は、アグスティより更に北のマディノ城に宮廷を移し、エルトシャン王もシルベール城に向かった。
 親友であるエルトシャン王はシグルドのアグストリア侵攻に怒り、そしてシグルドは彼に一年の猶予を請うた。
 一年以内にグランベル王国はアグストリアから手を引くと。
 エルトシャン王はそれを認め、親友同士の戦いは食い止めることが出来たのであった。

 グラン暦757年秋。
 シグルド軍はアグスティ城にて、しばしの休息をえることになる。


   ------


 アグストリアの秋空はどこまでも青く、高い。
 アグスティ城を制圧して約一ヶ月。
 先日ヴェルダンの第三王子ジャムカと、グランベル王国ユングウィの公女エーディンの結婚式を執り行なったシグルド軍は、ようやくアグストリアとの戦いから解放されつつあった。
 それまでは、いつシャガール王が協定を破り軍を差し向けてくるか、といった危惧の念がシグルド軍の中に存在していたのだ。
 心休まる一件があり、彼らは徐々に平穏を取り戻し始めていた。


 「ベオウルフ、行きましょう」
 秋もすっかり終わりに近付き、昼でも少々肌寒いと感じるようになったこの日、先に厩で馬の手入れをしていたベオウルフにラケシスは声をかけた。
 「おう」
 ラケシスとベオウルフの馬を引いて、ベオウルフは厩から出る。
 彼から手綱を渡されると、ラケシスはひらりと優雅な動作で馬に飛び乗\った。
 アグスティ城を制圧してもう一ヶ月以上経過していた。
 先のマッキリー戦で負傷したベオウルフの怪我も完治しており、彼はかねてからの約束であったラケシスの剣の訓練を開始していた。
 それとともに、ベオウルフはラケシスに馬の乗\り方、戦争での知識、魔法では治せない傷の応急処置の仕方なども教え込んでいた。
 周りの者はそこまで教える必要はないと考えるのだが、できることは一つでも多い方がいいというベオウルフの考え方は変わらなかった。
 「お兄様に会うのも久し振りだわ」
 「この一ヶ月、会いたい会いたい言い続けていたからな。やっと会えるからって、張り切りすぎて馬から落ちるなよ」
 「まあ、わたくし落馬したことなんかありません」
 隣りに馬を並べたベオウルフにラケシスは口をとがらせた。
 彼女がシグルド軍に参加するようになって早三ヶ月。周囲の影響もあるのだろう、彼女の仕草は以前の王女然としたものに比べるとだいぶん柔らかくなっていた。
 年の近いシルヴィアやデューと親しくなったせいもあるのだろう、口をとがらせて怒る様子は年齢相応の少女のようだ。
 「ま、エルトシャンの前で恥をかくのだけは止めてくれよ。あんたに教えてる俺の腕が問われちまう」
 「ベオウルフったら!」
 からかうように笑うベオウルフに、ラケシスは憮然とした。
 もちろん冗談だとは分かっているのだが、それをいちいち聞き流せるほどの人生経験は、彼女にはなかった。
 彼女にこのような口を聞ける存在など、今までいなかったのだから、あしらうことが出来ないのも無理はないのだ。
 「さ、行くか。あいつも待ってるだろうしな」
 「え、ええ」
 するりと話題を変えてしまうベオウルフに、ラケシスは頷いた。


 エルトシャンがシルベール城に移ってから半月後、シグルドが彼に提案したのだ。月に一度、妹であるラケシスに会ってやってくれと。
 エルトシャンも妹の存在はずっと気になっていたのだろう、条件は付いたもののシグルドの提案は受け入れられ、ラケシスは月に一度、シルベールを訪れることが許された。
 だが、休戦中とはいえアグストリア領内にグランベルの人間が出向くわけには行かない。ラケシスがシルベールに向かう際の供は、必然的にグランベル以外の人間、傭兵であった自由騎士のベオウルフがその任に就いた。
 キュアンによりシグルド軍に雇われることになったベオウルフは、そのことに異を唱えるはずもなく、これも仕事の内だ、と承諾したのだが、ラケシスは当初そのことについて釈然としないものを感じていた。
 ベオウルフは先の戦いでラケシスの看病から逃れて、怪我を受けた身でありながらアグスティ戦に加わったのだ。
 すべてが終わった後、以前に受けた彼の傷は悪化しており、そして更に新しい傷まで増やしていたのを見て、ラケシスは本気で怒ったのだ。かつてない程に。
 それを覚えており、言い過ぎたと後に後悔したからこそラケシスはベオウルフが護衛の任につくことにためらいを覚えたのだが、しかし以前とまったく変わらずに接してくるベオウルフの態度に、次第に思い悩むことを止めていった。
 相手が気にもしていないのに、自分だけが悩むのは奇妙ではないか、と。


   *


 二度目のシルベール城訪問では、こちらも相手も勝手が分かっていたためか何の問題もなくラケシスたちは入城することができた。
 シルベール領の砦まで出迎えに出ていたクロスナイツの騎士たちに先導され、ラケシスは兄王の待つ城に向かう。ベオウルフは城には入らず、城下町に宿を取ってラケシスの対面の終了を待っていた。
 だが、宿で眠っていたベオウルフはなぜかシルベール城に呼ばれることになる。
 昨日城に入ったラケシスが、城門までベオウルフを迎えに来るのを、彼は嫌でも目にする。
 「どうした?わざわざ俺を呼ぶなんて」
 三日しかない滞在だ、ゆっくりしていろよ。
 ベオウルフの声に、ラケシスは頷いた。
 「ええ、もちろんゆっくりします。ベオウルフを呼んだのはお兄さまなのよ」
 「エルトシャンが?」
 さすがに周囲の目もあるので、ベオウルフは小声で王女の兄の名を呼び捨てにした。
 この城にはエルトシャン王が率いるアグストリア一の騎馬兵団クロスナイツが駐屯しているのだ。エルトシャンに忠義を尽くす騎士たちに、無礼を咎められたらすぐにこの城から追い出されるだろう。
 「ええ、ぜひベオウルフに会いたいと」
 こちらです。
 ベオウルフの前に立って城の中を歩き始めたラケシスに、ベオウルフは肩をすくめて付いて行った。




 「久し振りだな、ベオウルフ」
 豪奢な部屋の中には、部屋の装飾にも見劣りしないだけの美貌を誇る金の髪の青年がいた。
 長いすに腰掛けて、入ってきた客人に笑いかける。
 「姫さんの名で俺を呼びつけるとは、小狡いことをしやがるな」
 「俺が呼んだと素直に言えば、お前はここに来たか?」
 「誰が来るか、こんな堅苦しい場所」
 「ほら見ろ」
 挨拶もろくにしないで部屋の中に入っていくベオウルフと、それを咎めようともしないで軽口を叩く兄を、珍しいものでも見るかのようにラケシスは眺めた。
 ベオウルフやエルトシャンの口から、二人が友人同士だということは聞いてきたが、実際に二人が親しげに会話するのをラケシスは初めて見たのだ。
 シグルドやキュアンとは違った態度でベオウルフに笑いかけるエルトシャンは、一国の王というよりはただの青年のように見えてしまう。
 「ラケシス、出迎えすまなかったな」
 優しく微笑む兄王に、ラケシスは慌てて笑んだ。
 「いいえ、お兄さま。わたくし少し外に出ていますね。お茶をお持ちするように伝えておきます」
 「ああ、頼む」
 礼をして、ラケシスは部屋を出る。
 扉を閉めるときに、ベオウルフがエルトシャンの向かいに腰掛けながら何かを言っているのが耳に届いたのだが、その内容まではわからなかった。

 「お前にはずっと礼を言わなければと思っていたんだ」
 ラケシスが部屋の外に出たのを見計らって、エルトシャンはそう切り出した。
 「俺との約束を覚えていてくれたのだからな」
 「そんな大層なもんでもない。偶然さ」
 ベオウルフは軽く言ったが、しかしエルトシャンは微笑んだ。
 「偶然か?聞いたぞ、わざわざアンフォニーのマクベスを裏切ってまでシグルドに付いたそうじゃないか」
 「どこで仕入れたんだ、そんな暇な情報」
 嫌そうに年下の悪友を見やる。
 「五年前お前と初めて会って、ともに旅をした。その間にお前の性格は少しでも把握したつもりだ」
 「俺も知ってるぞ。お前は根性悪で甲斐性なしだ」
 「…酷いな」
 ベオウルフの切り返しにエルトシャンは憮然とした。
 その様子にベオウルフは笑いを堪えるように肩を揺らす。
 「甲斐性があったらわざわざレンスターにグラーニェ殿を迎えに行かなくてもよかったはずだろうが」
 その台詞に言葉をなくしたエルトシャンに、今度こそベオウルフは笑った。
 椅子の手すりをバンバンと叩いて、すっかりやり込められてしまった黒\騎士ヘズルの末裔を見る。もちろんそれはわざと大仰に行っている動作である。
 それを分かっているのだろう。、エルトシャンはすぐに思考を切り替えて、ベオウルフと同じように笑った。
 「…甲斐性なしだと思うのならば、年長者らしく手を貸してくれればいい」
 「自分で弱みと認めているやつが言うことか。開き直ってやがるな、てめぇ。……まあいい、話を戻してやろうか?」
 「ベオウルフ?」
 珍しいベオウルフの提案に、エルトシャンは軽く眉をひそめた。
 「俺があのお姫さんを守るのは、お前との約束もあったが、グラーニェ殿に直々に頼まれたからでもあるのさ」
 「グラーニェが…!?」
 思いもしなかったベオウルフの言葉に、エルトシャンはわずかに身体を浮かせた。
 グラーニェとはエルトシャンの正妃であり、ラケシスの義姉にあたる。身体の弱い彼女は、今は戦を逃れるために祖国レンスターで静養している。
 「お前と約束した、その後だな。二人分の誓約だ、守らないわけにはいかないだろう」
 苦笑するベオウルフは、かつてを懐かしむように目を細めた。
 エルトシャンも深く息を吐いて、ゆっくりと椅子に背をあずける。
 「そうか、グラーニェが……」
 沈黙の向こうにあるのは遠い地でたった一人の息子とともに居る妻の姿。
 彼女をレンスターに送ったのは他でもないエルトシャン自身だが、しかし家族に会うことのできない寂しさは変わらない。
 「さっさと終わらせて、また迎えに行くんだな」
 そんなエルトシャンの心情を分かっているのだろう。
 存外に柔らかい声音でベオウルフは言った。
 「ああ、それを願うさ。……ベオウルフ、すまないがこれからもラケシスを頼む。あれは少し向こう見ずなところがあるからな」
 「もう何度もこの目で見たさ。あのお姫さんはお前そっくりだよ」
 「褒めていないだろう」
 「当たり前だ。その度に巻き込まれるんだぞ、俺は」
 不満を漏らすかのようなベオウルフの言動に、エルトシャンは笑った。
 さりげなく話題を変えて、周りの空気を和らげるベオウルフに笑顔を向けた。
 「それはいい、せいぜいお前に迷惑をかけよう」
 さらりと言って、エルトシャンは続けた。
 「お前さえ良ければ、ラケシスがこの城に来るときはともに俺のところまで来てくれ。街で時間を潰すぐらいなら、俺と剣の手合わせでもしないか?」
 この城には訓練でも俺に剣を向けてくれる騎士がいない。
 「そりゃあ、忠誠\心の厚いことだな」
 主君とともにシルベールに駐屯するクロスナイツの忠義心に、ベオウルフは苦笑した。そして、それを理由にベオウルフを城に呼ぼうとするエルトシャンの心遣いにも。
 「なら、せいぜい旨い酒でも用意しておいてくれ」
 ベオウルフは軽く頷いて、ソファーに深く背中を沈めた。



【 第二話 】


 十一月の空は、ひんやりとした空気をアグスティ城の中に運\んだ。
 冬の王国とまで言われるシレジア王国に近いこのアグストリアの冬は、隣国グランベルよりも少しだけ早く訪れ、その期間も長い。
 ゆっくりと、冬の季節が近付いていた。
 「くしゅん!」
 小さなくしゃみが中庭に響いた。
 とっさに口を押さえた両手を肩に触れさせて、シルヴィアはふるり、と震えた。
 「うー、やっぱりちょっと寒かったかな…?」
 水分を失い、散っていく庭の草木に目をやって、シルヴィアは呟く。
 踊り子である彼女の衣服は薄く、肌の露出も多い。このような姿で外に出歩くのは、季節的にも無理があったのだろう。
 「シルヴィア、寒くないのか?」
 中庭に面した城の廊下から、声がかかった。
 シアルフィの騎士、アレクだ。
 「寒ーい!だけど、これから踊りの練習をするから、ちょうどいいわ。踊っていると、熱くってしかたがないもの」
 元気に笑ってみせると、アレクは階段を下りて中庭に足を向けた。
 「へえ、踊るのかい?まったく、よく飽きないな」
 「当たり前よ、あたし踊っているときが一番幸せなんだから」
 言いながら、くるりと回ってみせる。
 オレンジ色の薄布が彼女の若葉色の髪の毛と一緒に舞って、アレクは目を細めた。
 「そうだな、シルヴィアは踊っているときが一番きれいだよ」
 さらりと、アレクは言ってのける。
 浮いた台詞をいかにも言いなれているようなアレクの笑顔に、しかしシルヴィアも軽く笑った。
 「ありがと。あたしもそう思うわ」
 様々なところで踊りを披露するシルヴィアは、色々な賞賛の言葉を得てきたし、様々な男たちの行動も見てきた。
 少しばかりの台詞では、この少女を動じさせることはできないのだ。
 このアレクは、シルヴィアがシグルド軍に参加したときから彼女にこのような態度を取り続けていた。今ではすっかり慣れてしまって、日常の挨拶に近いものにもなっている。
 それに、どれほどアレクが良い青年であろうともシルヴィアが見つめるのはレヴィンであり、他の男の賞賛はシルヴィアにはそれ以上の価値を認められなかったのだ。
 「今暇なんだ、見ていていいかい?」
 アレクは言いながら、そばにあったベンチに腰掛ける。
 シルヴィアの許可を取る前から、見物を決め込んでいる風情であった。
 「いいわ、誰かに見られている方が、あたしも嬉しいもん」
 にっこりと笑って、シルヴィアはひらりと舞い始めた。

 数十分ほど経過しただろうか、中庭にいるアレクは、廊下を走る小さな足音に気がついた。何気なしにそちらを見やって、軽く笑む。
 「どうしたんだ、ウィル」
 走ってくる幼い少女に声をかける。
 舞っていたシルヴィアも、動作を止めてそちらを見た。
 まだ十歳にもなっていないウィルシェルーンは、アレクとシルヴィアの姿を見て、走っていた進路をわずかに変えて、ふたりを見た。
 「今からディアドラ様のところに行くんだ!赤ちゃんを見せてもらうの!」
 満面の笑顔でウィルは言う。
 シグルドの妻であるディアドラは、現在妊娠七ヶ月の状態にあった。
 すっかり大きくなった彼女のおなかの中には、シグルドの後継でもある子供がおり、城中の者が出産を待ち遠しく思っていた。
 ディアドラのおなかの中で元気に動き回っているらしい赤ん坊を見ることが、ここ最近のウィルの楽しみであったのだ。
 それを知っているからこそ、アレクもシルヴィアも笑顔になる。
 「そうか、でもあまりディアドラ様をお疲れにならせてはいけないぞ」
 大切な主君の妻室は、アレクにとっては忠誠\を向ける相手だ。
 だからこその言葉に、ウィルは頬を膨らませた。
 「わかってる。さっきアーダンにも同じことを言われたぞ!シアルフィの騎士団はどうも私を誤解しているんじゃないか!?」
 至極真面目なウィルの言葉に、たまらずにアレクは吹き出した。それがかえってウィルシェルーンを怒らせることになるとわかってはいたのだが。
 「アレク!」
 やはり、ウィルは顔を真っ赤にしている。
 「そうよ、アレク。ちょっと今のは失礼よ!」
 隣りでシルヴィアがウィルの援護をする。
 しかし、彼女の表情から見るに、自分も思わず笑ってしまいそうになったので誤魔化しているようであった。
 だが、ウィルはそれには気付かなかったのだろう。自分の味方をしてくれたシルヴィアの手を掴む。
 「シルヴィア、アレクなんて放っておいて、一緒にディアドラ様のところに行こう!シャナンももう行っているんだ。遅れたくない」
 にこにこと見上げてくる少女に、シルヴィアも微笑んだ。 「ええ、行きましょう!アレクなんか放っておいてね」
 「ひどいな」
 さすがに苦笑するアレクにシルヴィアは大きく手を振って、ウィルは「いーだ」と舌を出して駆けて行く。
 「まあ、ディアドラ様によろしくお伝えしてくれ」
 二人の後ろ姿に、アレクは声をかけたのだった。


   *


 妊娠中であるディアドラが休んでいる部屋には、いつも誰かしらの人がいた。
 それは女官であったりエーディンたち女性であったり。
 しかし、やはり妊娠を迎えたディアドラに遠慮をして、アグスティ城の男たちは彼女の部屋には行かなかった。
 ディアドラの部屋に赴くのは、彼女の夫であるシグルドと、エスリンに伴われたキュアン、それにまだ幼いシャナンくらいである。
 「ねえディアドラ、いつ生まれるの?」
 ゆったりと椅子に腰掛けているディアドラにシャナンは尋ねる。
 「さあ、でも、きっともうすぐよ」
 「もうすぐっていつ?」
 「もうすぐよ」
 穏やかな笑みを浮かべるディアドラは、聖母そのものの美しさだ。
 愛するシグルドとの子供を守るように、暖かな光をまとっているようだ。
 「ディアドラはいつも同じことばかり。もうすぐもうすぐって、いつなんだろう」
 早く二人の赤ん坊が見たくて仕方がないシャナンは、そう言って口を尖らせる。
 そんな少年の後ろで、アイラが笑った。
 「シャナンも、『いつ生まれる?』と同じことばかりを聞いているぞ?」
 「だって、はやく赤ちゃんが見たいんだもの」
 素直な答えにその場にいる女性たちは笑う。
 ディアドラとアイラ、そしてディアドラ付きの女官たちだ。
 そこに小さなノックの音がして、ウィルとシルヴィアがその輪の中に加わる。
 「遅いよ、ウィル!」
 咎めるシャナンにウィルは憮然とする。この喜怒哀楽を隠そうともしない少女は、くるくると表情を変えるのだ。
 「私のせいじゃない。アーダンやアレクたちが私を馬鹿にするから遅れたんだ」
 ウィルの言葉に、その場に居合わせていたシルヴィアは思わず口を手でふさいだ。笑ってしまいそうになるのを、脇を見やることで収めようとする。
 「それよりもディアドラ様、赤ちゃんはまだ生まれないのか?」
 近づいて来て見上げるウィルに、女性たちは堪えきれずに笑った。
 シャナンと同じことを、この少女も尋ねてきたのだから。
 「なんだ、何で笑っているんだ?」
 理由がわからないウィルは、大人たちを見回すしかない。シャナンもわからなかったようで、首を傾げた。
 「ウィル、心配しなくても、きっともうすぐ生まれるわ」
 微笑んで、ディアドラはウィルの髪を撫でた。
 「リヴェナさんが言っていたの。この子はもうすぐ生まれるわ、とても元気にね」
 リヴェナは占い師であるが、長い旅の生活の中で、ある程度の医学の知識は得たらしい。彼女が告げる言葉は、医学の技と、占い師の腕と、両方から伝えられたものだった。
 「そうか、元気だったら私も嬉しい」
 「僕だって!」
 ウィルに負けじとシャナンも言う。
 後ろでアイラも微笑んだ。
 「子供が元気に生まれてくるとは良い占いがでたな。だが、ディアドラ殿自身の健康も大切だ。どうか大事にしてくれ」
 「ええ、アイラ様。ありがとうございます」
 「僕、ディアドラの赤ちゃんは男の子がいいな」
 大きく膨らんだディアドラのおなかを見つめながら、シャナンはぽつりと言う。それをきちんと聞いていたウィルは、反論した。
 「私は女の子がいい!一緒に遊ぶんだ」
 「やだよ、男の子がいい!」
 首を振るシャナンに、ウィルは頬を膨らませた。
 「シャナンのわからずや!」
 「ウィルだって!」
 「なんだい?楽しそうだね」
 二人の子供たちの小さな口論に割って入るように、部屋の扉を開けたのはシグルドだ。
 優しく笑みながら、ディアドラの前で対峙している子供たちを見おろす。
 「シグルドさま」
 夫の姿に、ディアドラは嬉しそうに微笑む。
 「ディアドラ、調子はどうだい?」
 「はい、皆さんがよくしてくださるので」
 「そうか、良かった」
 安心したようにシグルドは頷く。妻の身が心配なのだろう、毎日彼女のもとに参じては同じことを聞くのだから、周りの者には可笑しく映るのだが、しかし夫が自分を気遣ってくれることを素直に喜んでいるディアドラの姿に、この夫婦がとてもほほ笑ましく見えるのだ。
 「ラケシスとベオウルフが帰ってきたから、それを伝えにきたんだ」
 「まあ、お早いお帰りでしたのね」
 折角の兄との時間。
 もう少しゆっくりして来ても、誰も咎める者はいないであろうに。
 「では、私はラケシスたちでも迎えに行こうか。シャナン、ウィル、そろそろ行こうか」
 「うん!」
 元気に頷くシャナンと、少しだけ残念そうなウィル。
 どうやらもう少しこの場に居たいらしいのだが、
 「ウィル、行きましょう。一緒に遊ぼうか」
 シルヴィアの言葉ににっこりと笑って頷いた。


   *


 ゆっくりと雲が流れていくように、アグストリアの大地も冬の準備を始めている。
 暖炉には火が入れられるようになり、人々が吐く息も、白くなっていく。
 西にそびえる高い山により、グランベルではあまり降らなかった雪もこのアグストリアでは珍しくないようだ。
 シレジアは早くも雪の大地となっていると、アグスティ城のシグルドたちは伝え聞く。
 そして、十二月も半ばを回った頃、アグスティ領内にこの冬初めての雪が降った。
 アグスティから北には街道沿いに長い平原が続いている。
 城の塔からは、ふわりと積もっていく雪が街道を白く染めていく様を見ることができた。

 医学の心得も持っているというリヴェナが伝えたディアドラの出産予定日まで、あと一ヶ月ほどになった頃、シグルド軍の中で二人目の懐妊の知らせが伝えられた。
 ユングウィの公女でありジャムカの妻であるエーディンだ。
 現在二ヶ月目だというエーディンに祝いの言葉を述べる者たちが殺到して、喜ぶエーディンと彼女の身を案じるジャムカ、という構図が、まるで以前のシグルドとディアドラのようだと、エスリンは冗談交じりに笑ったそうだ。
 エーディンの懐妊は、確かに城中の人間から祝福された。
 しかしただ一人、笑顔の内に一筋の寂しさを封じ込めた者がいた。
 ヴェルトマーの公子、アゼルである。
 かつて彼がシグルドに協力を申し出たのは、彼女、エーディンの存在があったからである。
 想いを寄せている年上の女性を襲った、ヴェルダンの襲撃。
 それを聞いたとたんに他の事を考えられなくなり、一にも二にもなく城を飛び出した。
 偶然一緒にいた親友レックスの助力と、最終的に得られた兄アルヴィスの許可のもと、アゼルはシグルド軍に参加し、そうしてエーディンを助けるために出陣した。
 だが、彼女を盗賊\デューとともに救ったのは、ヴェルダンの第三王子。
 そして、彼女はアゼルではなく自分を拉致したヴェルダンの、ジャムカ王子を選んだ。
 侵略国の王女を逃がしたということで兄を裏切り、シグルド軍に協力することで祖国そのものを裏切ったジャムカ王子は、しかしその正義感の強さと心根の優しさで、自らの汚名を甘んじて受け入れた。
 強く誇り高い青年であった。
 だからこそ、二人が想い合っていることをアゼルは誰よりも早くに気付き、そして身を引いたのだから。
 (これでいいんだ)
 服を着込んでも肌寒い空を窓越しに見上げ、アゼルはひとつ、ため息をついた。
 自分はエーディンを愛した。
 だが、それよりも彼女の幸せを望んでいた。
 だから、これで良いのだと。
 そう心に刻んで、アゼルはゆっくりと目を閉じた。
 心からの祝福を、彼女たちに贈るために。



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繰り返し申し訳ありません。ウィルとリヴェナはオリジナルキャラクターです。



[180 楼] | Posted:2004-05-24 09:51| 顶端
雪之丞

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【 第三話 】



 積もる雪に子供たちは外に出て、寒さも感じないかのように一日中遊びまわっている。
 女たちは暖かな部屋で歓談し、男たちも思い思いに冬の日を過ごす。
 穏やかな日々は人々の心を落ち着かせ、度重なるかつての戦いの疲れを忘れさせた。
 人々が雪の中、ほとんど城の外へ出なくなったこととは反対に、フュリーは頻繁に外出を繰り返していた。
 とはいえ、さほど長い間城を留守にしているわけではない。
 まだ暗い早朝に、自分のペガサスと共に城を出て、日が暮れる頃に返ってくるのがほとんどだ。
 シレジアからレヴィンを追ってやってきた天馬騎士は、その生真面目すぎる性格もあってかあまり周囲となじんでいなかったが、それでもけっして敬遠されたりしているわけではない。
 彼女に好意を持つ、たとえばエスリンたちなどは時折雪の中を飛ぶ彼女を心配もしたが、もとよりフュリーの生国は雪の国シレジア。もしかすると、自分たちには寒すぎるここの気候も、彼女には行動を制限するさしたる理由にはなっていないのかもしれない。そんな風にも考えるのだ。
 「あまり、無理はしたらだめよ?」
 何をしているのか、その理由は問わずに、エスリンはフュリーにそれだけを言って、ほほ笑んだ。


   *


 今日の遠出は控えた方がいいのかもしれない。
 空模様をじっと眺め、フュリーは内心で呟く。鉛色の空はまだ雪こそ降らしてはいなかったが、午後を過ぎる頃にはきっとまた大きな雪が降り積もることだろう。
 いつもより出発時間の遅れたこの日だが、しかし特に時間を決められているわけではないので気にはならない。
 ただ、あまり遠くにはいけないだろうと、それだけを考えてフュリーは自室へ向かった。
 小走りで廊下を走り、アグスティでの自室へ戻る。
 必要な荷物を手早く袋に詰め、フュリー自身の武器を携え外套をまとったところで、扉を叩く音がした。
 「フュリー、いいか?」
 「レヴィン様!?」
 部屋を訪れたのは彼女が仕えるシレジアの王子だ。
 彼の姿を見とめ、フュリーはあることを失念していたことに気付く。
 そういえば、自分は今までの外出の許可を、彼に伺ってはいなかった……!
 この城から離れるということは、つまりその間レヴィンから離れるということでもあるのだ。
 王子に仕える騎士として、許されない行為にあたる。
 「今シグルド公子たちとゲームをしてるんだが、お前もどうだ?」
 女性たちもほとんど集まっているぞ。
 誘ってくれるレヴィンに、フュリーは心底戸惑った表情を浮かべた。
 「…どうした?」
 「レヴィン様、申し訳ありません」
 深々と頭を下げるフュリーに、レヴィンは首をかしげる。自分は何か謝られるようなことをされたのだろうか。
 「私はレヴィン様にお仕えする騎士でありながら、レヴィン様の許可も仰がずに勝手な行動に走っておりました」
 生真面目に言って、自分の汚点を恥じるようにうつむいた。
 「レヴィン様がこのアグストリアに滞在する間、少しでもシレジアの役に立てればと何度もアグスティの情勢を調査しておりました。ですが、それはあくまで私の独断で行っていたこと」
 「フュリー?」
 とつとつと、話し出したフュリーにレヴィンはいささか慌てる。
 何を言っているんだ?
 言おうとする言葉は、話し続けるフュリーの前に飲まれて、落ちた。
 「私の役目はレヴィン様をお探ししてシレジアにお連れすること、そしてレヴィン様がアグストリアに留まるとお決めになられた今は、レヴィン様のお側でレヴィン様をお守りすることだというのに……」
 「…なあ、フュリー…」
 「なのに私はお仕えするレヴィン様の許可もいただかずに、レヴィン様のお側を離れて勝手な行動をとってしまっていたのです。レヴィン様、申し訳ありません」
 「おい、フュリー…」
 「この上は、いかような罰もお受けいたします。どうか、」
 「フュリー」
 謝罪するフュリーに、レヴィンは止めるように名を呼んだはいいが、たまらなくなってついには吹き出した。
 「レヴィン様…?」
 笑われたフュリーは、面食らったように顔を上げた。
 怒られこそすれ、笑われるようなことはしていないつもりだからだ。
 だが、レヴィンは怒るどころか笑うしかない。
 「そんなに真剣に謝るからだ、フュリー。お前はお前なんだ、いちいち俺の様子を確かめないで、もっと好き勝手にしたほうがいいぞ?」
 「しかし、私はレヴィン様にお仕えする…」
 「本当にお前は真面目だな」
 くくく、と笑いを必死でかみ殺そうとしているレヴィンを見上げて、フュリーはわずかに表情を固くした。
 真面目で、お堅いとは、以前から言われていた言葉だ。レヴィンだけでなく、姉や友人たちからも。
 「……申し訳ありません…」
 たまらなくなって頭を下げると、わずかに慌てたようなレヴィンの声。
 「いや、謝る必要はない、責めているわけじゃないからな。…俺こそ笑ってすまなかたな」
 「いえ、そんな滅相もない…」
 主君に謝罪されるなど、もっての外だ。
 フュリーは首を振ると、レヴィンは ふ、と笑んだ。
 「真面目なのはお前の美徳だと思うぞ?」
 軽く肩を叩いて、レヴィンはわずかにフュリーから離れた。
 「じゃあ、シグルド公子たちには俺が言っておこう。今日も調査に行くんだろう。気を付けて行くんだぞ?無理はせずに、またほどほどで帰って来い」
 「は、はい…!」
 軽やかな足取りで去って行くレヴィンの後ろ姿を、フュリーは一礼しながら見送った。
 耳に残るレヴィンの優しげな声音に、頬の辺りが熱くなったことに、わずかに動揺しながら。


 「レーヴィン!」
 「うわっ」
 フュリーの部屋から帰る途中、レヴィンはいきなり背後から飛びつかれ、わずかによろめいた。
 「なんだ、シルヴィアかよ。びっくりさせるな」
 そう、彼の腰に手をまわして体重をかけているのは、若葉色の髪の少女だ。
 彼女の体重など、簡単に支えられるのだが、しかしレヴィンは軽く前のめりになってシルヴィアを振り返る。
 「あら、びっくりさせたかったんだもん」
 楽しげに笑う仕草が、あどけない。
 「仕方ないな…。まあいいや、とにかく離れろよ」
 「いや」
 「嫌ってな…」
 即座に断ってくるシルヴィアに、レヴィンは頭を抱えたくなった。無邪気で強引なこの少女は、時々とても彼を困らせるのだ。
 こんなところを誰かに見られたらどうしろというのだ。
 「ねえねえ、レヴィン、それより今からリヴェナのところに行かない?この城の女官が言ってたんだけど、リヴェナって恋占いもできるんだって!」
 嬉々としたシルヴィアの声音に、しかしレヴィンは軽く首を振った。
 「あいにく占いには興味が湧かないな。それより、シグルド公子のところでゲームでもしたらどうだ?フュリーが不参加だから、人数が足りていないんだ」
 「フュリー?」
 「げ。」
 わずかに声音を落としたシルヴィアに、レヴィンは口の中で小さく呟いた。
 彼女がフュリーを良く思っていないのは知っているし、その原因が自分にあることも彼なりに自覚しているのだ。
 しかも、まるでシルヴィアのフュリーの代わりのように言ってしまった。
 失言だと、判断は出来たのだが、後悔はわずかに遅かった。
 「あたしには会いに来てくれないのに、フュリーには会うのね!フュリーのことは考えるのね!レヴィンの馬鹿!」
 この細い身体でどうやってこんな大きな声をだせるのかというほどの声量と、離れざまに思い切り突き飛ばされて、今度こそレヴィンは本気でよろめいた。
 慌てて廊下の手すりを掴んで、転倒を免れる。
 後ろを振り返ったが、そこにはシルヴィアの姿はもうなかった。
 「……まいったな…」
 苦虫を噛み潰したような表情で、レヴィンは顔を手で覆った。
 降り積もる雪と同じくらい白いため息を、ひとつ、吐いた。


   *


 「なんだ、辛気臭い顔して」
 呆れたような声音で片手を上げてきた友人に、レヴィンは何を取り繕うわけでもなく愛想のない視線でもって応える。
 「ほっとけ」
 そっけなく返して、それでも音の聞こえない自然な動作でアーダンの隣の椅子に腰掛けた。
 食堂の長いテーブルにはたくさんの椅子が狭い間隔で並べられており、食事の時間からはだいぶんずれた今は、大きな食堂の中は閑散としている。
 隣に座ったとはいっても、それはただ人の有無を表しただけで、レヴィンは実際には椅子を三つ、飛ばしていた。
 「なんだ、シグルド公子達といたんじゃないのか?」
 気分を害した風もなく言うアーダンに、あからさまに不快気な顔を浮かべる。
 「出て来たんだよ」
 それでもそれなりの返事はするレヴィンに、アーダンは口の端を上げた。
 「じゃあ、シルヴィアのところにでも行ってやったらどうだ?さっき、お前を探してたぞ」
 「………お前がそれを言うのかよ」
 軽く言ったつもりのアーダンに、レヴィンは恨めしげな目を向ける。
 低い声に、もともと勘は悪くないし人の機微にも疎くはなかったアーダンは、しばし目を大きく開けて、そして笑った。
 堂々たる体躯の男が、天井の高い広間で笑うのだ。自然、声が反響する。
 「笑うなっ」
 「自業自得だろうが」
 決して馬鹿にしているのではない、非難しているわけでもないアーダンのからかいを含めた笑い声は、しかしレヴィンの耳には痛い。自覚は充分にあるからだ。
 苦虫を噛み潰したかのような表情で、無言になるレヴィンに、アーダンはただ肩をすくめた。大きな体躯が、わずかに揺れる。
 「まあ、気長にやれよ。愚痴なら聞いてやるからさ」
 「……せいぜい当てにしてるよ」
 投げやりなせりふに、アーダンはまた、笑った。




--------------------------------------------------------------------------------

アーダンとレヴィンは仲が良い、という自己設定が幅をきかせています…。

【 第四話 】


 アグストリアの民衆\の不満が高まっている。
 その報告をしたのは、シグルドの部下ではなく度々アグストリア国内を回っていたフュリーであった。
 彼女はレヴィンの部下だ。グランベル国王からアグスティの統治を任されたシグルドの政治に口を出す資格はなく、またさしたる問題も起こさずに新たな異国での統治を行うシグルドに対し、何事かを告げる気もなかった。
 だが、そうせざるを得なくなったと感じたのは、先日赴いたアンフォニー王国の民衆\を見た時。
 シグルド率いる軍に破れ、グランベル領となったアグストリア諸公連合の南半分。その広大な地域を統治することは容易ではなく、また北に宮廷を移したシャガール王への警戒から、シグルドはアグスティのみを領有した。
 残る地方、ラケシスの母国であるノディオン以外の王国は、すべてグランベルより派遣された者たちによって行われていた。
 敗戦国である地方の統治に当たる者は、もちろんグランベル王国出身の貴族。アグストリアの民衆\に対する慈悲など、持ち合わせてはいなかった。
 横暴な政策が強引に進められ、グランベルの役人たちがわがもの顔で領内を歩くようになる。軽視され、重い課税に苦しめられ、自らの生活を脅かされ始めた各地の人々は、目に見えてその不満を大きくしている。
 「このままでは、暴動や反乱が起きるのも時間の問題かと」
 控えめだが、確固たる確信を持ってフュリーはシグルドに告げた。
 対するシグルドは沈黙のままだ。
 側に控えるオイフェ、ノイッシュたちの表情も厳しい。決して、初めて知ることなのではないのだろう。
 グランベルの横暴は、きっとこのグランベル人たちにも届いている。
 フュリーはそう感じ、シグルドの言葉を待った。


   *


 「このままアグストリアはグランベルの支配を受け続けるのかしら」
 呟いたのはラケシスだ。
 「ラケシスさま?」
 首をかしげたシルヴィアは、椅子に腰掛けたまま軽く揺らしていた足を止めた。よくは聞こえなかったらしい。伺う視線に、ラケシスは慌てて首を振った。
 「ごめんなさい、ひとりごとなの」
 動く振動で椅子がきしり、と小さくなった。
 少しずつ温かくなっていく日差しが、冬がもうすぐ終わることを告げている。
 中庭に備えられた長いすに二人、ラケシスとシルヴィアが横に並んで座る姿は、最近よく見られた。
 冷えた風さえなければもっと過ごしやすいのに。そう言い合ったのはつい昨日のことだ。
 中庭の木々が、膨らみ始めた蕾を付けているのを見つけて、笑い合ったのはついさっきのことだ。
 春は、もう遠くはない。
 アグストリアの首長国、アグスティのシャガール王が北のマディノに宮廷を移してから、五ヶ月が過ぎようとしていた。
 母国ノディオンを大臣たちに任せ、シグルドの保護下にいるラケシスの耳にも、このアグストリアの政情は届く。特に、よく外の町に出かけているベオウルフが口にする町の様子は、ラケシスの表情を曇らせた。
 ベオウルフは決して、ラケシスに隠しごとをしなかった。
 真実を、ありのままに伝えるのだ。
 アグストリアの人間であり、ノディオンの王女であるラケシスに告げる言葉は、傍から見れば残酷ととられるかもしれない。気遣いが足りないと。だが、ラケシスはそうは思わなかった。
 お前は知っていなければいけない。
 ベオウルフにそう言われているような気さえ、したのだ。
 「そういえば、ベオウルフはどこなのかしら。今日はずっと見ていないけれど……」
 会話を変えるつもりでもあった。
 不自然ではない風を装ってシルヴィアに尋ねれば、確かに話題は変わったのだが、シルヴィアに思いきり笑われた。
 「……シルヴィア?」
 笑われたラケシスはといえば、きょとんとするしかない。
 「もうラケシスさまってば!」
 からかうように笑われる理由も分からず、ただ目を大きく開けてシルヴィアを見た。肩が震え、波打つ緑の髪の毛も揺れる。自分よりも遥かに長い友人の髪に、思わず視線がつられた。
 「ラケシスさまってばすぐにベオウルフを気にするのね」
 「…え?」
 指摘されて瞬きする。
 「本当にベオウルフが好きなのねっ」
 「ええ!?」
 今度は、大声。
 自分でも間の抜けた声を出してしまったと、ラケシスは次の瞬間に感じる。恥ずかしさに赤くなる顔は、しかしシルヴィアに別の意味で受け取られたようだった。
 「やっぱりー」
 得意気に笑む少女に、慌ててラケシスは首を振る。
 ものすごい勢いで振られる首に、金の髪が舞った。
 「違うわ、どうしたのシルヴィア、何を言っているの?」
 急いで否定する。
 突拍子もない、とはこのことだ。
 考えもしなかったシルヴィアの言葉に、あっという間にラケシスは動転した。
  その様子に、シルヴィアはなおも笑い続ける。高めの声がおかしそうに辺りに響いた。
 「だって、あたしラケシスさまが他の男の人のことを気にしているの、見たことないもの。ベオウルフだけじゃない?そうやって、探すの」
 当たり前のことのように、まるで当然といわんばかりに告げられて、ラケシスは咄嗟に口を開く。
 そんなことはないわ。だって、私が好きなのはお兄さまだもの。
 そう言うはずだったのに、言葉が出てこなかった。
 口を開いたまま、その言葉を発することができなかったのだ。
 止まってしまったラケシスは、まるで何かに驚いているかのようにも見えて、シルヴィアは笑い声を止め、ラケシスをまじまじと見つめる。
 当たり前のことだが、何が彼女を突然そうさせたのか、分からなかったのだ。
 周囲を見回しても、誰かいるわけでもない。特に何か、変化があったわけでもない。
 「…ラケシスさま?」
 伺うように声をかけて、かすかにラケシスが肩を揺らしたのが見て取れた。
 「ああ、……ごめんなさい。なんでもないわ」
 小さく首を振って、息を吐く。
 吐かれる息は、昼間の陽気に白くはならなかった。
 「あたし嫌なこと言っちゃった?」
 せっかく仲良くなれた同世代の友人に、気遣う声音。先程とは一転した不安そうな声に、ラケシスは首を振った。
 「いいえ。ただ、驚いただけよ。わたくし、そんなこと考えたことなかったから」
 話す声は明るかった。
 シルヴィアは本心からラケシスに嫌われたくないと、そう思ってくれていることが純粋に嬉しかったのだ。ラケシスにとっては、初めてに近い、友人なのだ。



 ベオウルフがアレクとホリンと共にエバンスに向かうと聞いたのは、その日の夕方だった。
 夕飯時、広い食堂が集まった人々の話し声や食器のなる音でにぎやかな中、シルヴィアと並んで食堂に入ったラケシスに、ベオウルフが声をかけてきたのだ。
 よう姫さん、と。
 「なぜ?」
 とっさにラケシスがそう口にしたのも仕方のないことだ。
 明日からエバンスに向かう、と唐突に言い出したベオウルフに、どこか憮然として彼を見上げる。いつもそうなのだ、この年上の青年は、全部決めてしまってから、自分に言うのだ。
 「なんでって、仕事だ仕事。俺も雇われてる身だからな、上の命令には従うさ」
 その、仕事の内容は何なのだと、こちらからは決して尋ねられないような言葉にラケシスは唇を噛む。
 なぜか湧き上がってくるのは、悔しいという思いだ。
 ベオウルフのことが好き。
 そう言った昼間のシルヴィアの言葉が浮かんできて、心の底からそれは違うと思った。
 好きならば、きっと今こんなに悔しくはない。
 じゃあわたくしはどうすればいいの。
 気を抜けば口にしてしまいそうな言葉を、冷静な思考が止める。そんなくだらないこと、訊いてどうするのだ。
 きっと、そんな考えの足りないことを言えば、ベオウルフは呆れて、お前は留守番だ、とでも返すに決まっている。付いて来るか、なんて絶対に言わないし、ベオウルフたちの遠出が仕事、である限りそこにラケシスが口をはさむ理由はない。付いて行く資格もない。
 自分が、ここで何の役目も持たず、ただ養われているだけだということを、こういうささいなことから思い知らされて、心臓が重くなる。
 ベオウルフはお兄さまからわたくしを任されたのではなかったの。
 そんな傲慢な考えも、かすかに自覚できるから、余計に気分が悪くなるのだ。
 「そう。行ってらっしゃい」
 ほんの一秒くらいしか経過していないのだろう。人の心の中の葛藤は、思っている以上に短い時間で行われるものだ。
 気にもならないような間をおいて、そうやってベオウルフを見上げたラケシスに、ベオウルフが笑う。声も出さない、苦笑のような、いつもの笑み。
 「ああ」
 いつ返ってくる予定なの。
 そんなことも聞けずに、ラケシスはその場を去った。
 隣にいたシルヴィアが、不思議そうにラケシスとベオウルフを交互に見ていた。



[181 楼] | Posted:2004-05-24 09:52| 顶端
雪之丞

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海蓝之钻(II)
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【 第五話 】



 グランベル本国に向けた使者、嘆願の数々はすべて聞き流されていた。
 アグストリアに自治を。
 グランベルによる支配を止めるように。
 エルトシャンとそう約束したシグルドの意思は、しかし本国の重鎮たちには通じなかった。最後まで、受け入れられなかった。
 アグストリアでの戦いがひとまずの終結を迎えてから半年。
 シャガール王は、対グランベル王国の軍を、挙げた。



 「どういうことなのです!?」
 その事実を知ったのは、シグルド軍に属する仲間たちからではではなかった。
 ノディオンからの正式な使者……いや、密使と言った方が良いのかもしれない、から直接伝えられたものだ。
 事態は急を要します。どうか、ノディオンへご帰還を。
 膝を折る使者に、ラケシスは信じられないように首を振った。
 シグルドと彼女の兄エルトシャンが結んだ協定、猶予期間はまだあと半年、残っているのだ。なのになぜ、今まさに戦いが始まろうとしているのか。
 「シャガール王は出兵を決断されました。……このことはエルトシャン陛下に相談もなかったようですが…」
 「当たり前だわ、シャガール王はお兄さまを嫌っているもの。相談なんてするわけがない」
 きっぱりと言い切って、ラケシスは自分と使者以外、誰もいない部屋の中を見渡した。
 さして広くもない、だが特別に与えられている個室。ここは、かつてシャガール王が居城としていた城なのだ。
 「ラケシス様、どうぞノディオンにお戻りを。このままこの軍に逗留されては、ご自身に危険が及びます」
 膝を付く青年の言いたいことは分かる。これがシルベールに居るエルトシャンに代わり、ノディオンを守る大臣達の総意であることも。
 ラケシスはノディオンの王女であり、グランベルに属するものではないのだ。シャガール王が決起した今、グランベル王国と、シグルド軍との決別を。その声が今にも聞こえてきそうだ。
 だが、ラケシスは首を縦には振らなかった。振ることができなかった。
 考えなくてはいけないことが多すぎて、今ここで簡単に判断してはいけないと、そう感じたのだ。
 「…お兄さまは…なんと…?」
 こんな時期に兵を挙げるシャガール王を、黙って見ている兄ではないはずだ。かならず、王を諌めるはず。
 言外の言葉に使者は頭を下げるのみ。
 ノディオンに、いまだ国王の言葉は届いていないらしい。
 兄の動向を知ることもできず、ラケシスはただ額を押さえた。



 この報告を受けて一番額を押さえたかったのは、シグルドであろう。
 グランベルとの交渉もままならぬ中、伝えられたシャガール王決起の知らせ。もう、アグスティの返還どころではない。
 この報告はすぐに本国、グランベルにも伝えられる。そして、本国は決定を下すだろう。
 シャガール王の軍を倒し、アグストリアを制圧せよ、と。
 誰に聞かなくとも、それは容易に想像ができた。
 だが、眉を寄せ、ため息をついてもシグルドは額を押さえなかった。頭を抱えなかった。
 ただ、表情を曇らせただけだ。
 すぐに、オイフェとキュアンが呼ばれる。
 これはグランベルと、シグルド軍の問題。だが、たとえレンスターに属するキュアンであっても、彼がこの軍の中核を担う存在なのは確かだ。
 シグルドはレンスターの助力を借りるためではなく、キュアン個人の才覚を頼り、彼を自分の部屋に呼んだ。
 まだ少年の枠を出ないオイフェを呼ぶのも、同様だ。
 「今からシャガール王に使者を送っても、無駄でしょうね」
 年齢からは想像もできないほど冷静に、述べたのはオイフェだ。
 暗に、シグルドの心の内の考えを否定したオイフェは、若干気遣うような視線を主君に向ける。
 まだ若い少年の言葉ではあったが、それを聞くものたちは否定することはできなかった。
 軍師をも務める少年の目は、誰よりも冷静で公平だった。
 「戦うしかないということか」
 シグルドに代わり口を開いたキュアンに、オイフェは頷く。
 「本国からの命令が下るもの、時間の問題でしょう」
 言い切る言葉にためらいはない。
 「…すぐに、みんなを集めてくれ」
 シグルドは目を伏せた。



   *



 「……どういうことだ!」
 部下からの報告を受けたエルトシャンが放った一言は、さして大きい声ではなかったものの、部屋の中に控える部下たちの視線を集めるには十分だった。
 シグルドたちがシャガール王の決起を知るその少し前、マディノに居るシャガール王の下へ派遣していた部下が帰還した。彼が持参した情報は、いや、持参した事実にエルトシャンは思わず立ち上がる。
 「ばかな…!」
 なぜ待っていられなかったのだ。あと、半年足らずのことではないか。
 あれほど諭したというのに、シャガール王は何を考えているのだ。
 さまざまな言葉が内心をよぎる。
 しかし、それをエルトシャンは口には出さなかった。
 アグストリア諸公連合の一国王として、首長国の王に仕える身なのだ。決して、不敬は口にしない。
 「…どうりで宮廷に呼ばれなかったわけだ」
 呟きは、確信。
 きっと、自分に悟られないように、秘密裏に軍備を整えたに違いない。
 主君であるシャガール王と、親友であるシグルドたちの姿を思い出し、エルトシャンは苦渋に眉を寄せた。



 良くない事態は、重なるものだ。
 シャガール王がマディノで軍を挙げた、という事実がアグストリア中に知れ渡った頃、シグルドのもとにマッキリーの住民たちが蜂起したという知らせが、届いた。
 シグルドが治めるアグスティのすぐ南、地図の上では隣国に位置するマッキリーもグランベルから派遣された貴族が統治をしていた。
 その支配は、決して国民が望む形では行われていなかった。
 さして広くはないマッキリーの国土の中で、武器を手に取ったのは比較的王城マッキリーのそばにある町や村の住人たちだった。
 城を囲む形で蜂起した住民たちの勢いは凄まじく、マッキリー城主となったグランベル人はやむなく本国と、そしてアグスティ城主のシグルドに救援を要請した。
 戦いを知らない男が率いる軍隊は、怒りと憎しみを腹の内に溜め続けた一介の町民にも勝てなかったのだ。
 シグルドにとっては同国の同僚の危機。正式に請われた救援に、否を唱えることができるはずもない。たとえ北からシャガール王の軍がアグスティに南下しているとしても、だ。
 「先に手を打たなければいけないのはマッキリーの方だ。すぐに鎮圧軍を編成しよう」
 一度決意をしたシグルドの視線は揺るがない。
 隣で、不安そうに見上げる妻ディアドラの腕の中には、彼らの息子セリスが眠っている。
 彼女たちを振り返り、柔らかくほほ笑むと、シグルドはオイフェと共に部屋を出て行った。

 「わたくしも……」
 「ばかを言うな」
 言いかけたラケシスの言葉を簡単にさえぎって、ベオウルフは廊下を歩む足を止めた。
 使い慣れた鎧を身にまとい鋼の剣を腰に佩いたベオウルフは、すでに戦いに向かう者の姿だ。対するラケシスもなぜか、彼に比べるとだいぶ装飾が多い鎧を身にまとっていた。
 「お前が行ってどうするんだ」
 自分を追いかけるように廊下を小走りで進んできたラケシスを振り返る。
 決め付けるように見下ろせば、ラケシスはわずかにひるんだように立ち止まった。
 「わたくしも何かをしたいの」
 「お前のすることはこの城に残ることだ」
 「なぜです!」
 感情の起伏が激しいのは、自覚している。
 彼女は年上の青年を睨んだ。
 ラケシスは、ノディオンに帰還するように懇願した使者の言葉に首を振った。
 考えた末の、決断だった。
 わたくしはノディオンの王女として、シグルドさまを信じています。
 そう告げられた使者の目は、驚きに満ちていた。
 ここにいるのはラケシス個人ではない、ノディオン王女はグランベルのシグルドを信じると、そう決めたのだ。だから、この軍に残ると。
 だからこそ、彼女はただ戦いを見ていることが許せなかった。
 急遽編成されたマッキリーへの鎮圧部隊。
 その一員となったベオウルフに、従軍を求めたラケシスは、だがいとも簡単に却下を受けた。
 「戦いになれば怪我人だって、出るでしょう?」
 自分は回復魔法が使えるのだ。この半年間、剣の修行と共に魔力を高める修行だって行ってきた。その言葉に、しかしベオウルフは表情を緩めない。
 いつもの飄々とした態度はどこにもない。
 厳しい視線だった。
 戦いに行く前のこの男は、こんな表情をしていたのだっただろうか。
 自分の記憶をたどろうとして、ラケシスは思いとどまった。ベオウルフが口を開いたからだ。
 「前線には俺達と一緒にエスリン妃も来る。馬がある分お前より使い勝手がいい」
 一言で、切り捨てられたと思った。
 一国の王太子妃をそう評したベオウルフの態度よりも、ラケシスに対する酷評に唇を噛む。
 「戦場には怪我人だけが出るんじゃない。死人も出る。たくさんな」
 冷静な声は、淡々としている。
 「お前は怪我人を癒すことと死者を生むことを一度に行えるか」
 突きつけられた、と思った。
 同時に悟る。
 今回ベオウルフたちが戦うのは騎士ではない。傭兵ではない。
 戦うことを知らない、一般人たちなのだ。
 自らの生活を守るために立ち上がった、……罪のない、町人たちなのだ。
 はっとして、目を見開く。
 お前は一般人を殺せるのか。
 ベオウルフの考えが理解できた気がした。
 ノディオンの王女が、民衆\を殺して良いのか。
 言葉を失ったラケシスに、わずかに表情を緩めて、ベオウルフはラケシスの頭に手を乗\せた。
 「お前の役目は見届けることだ。受け止めろ、事実をすべて」
 言って、また歩き出す。
 もうラケシスの方は見なかった。
 「……ベオウルフ!」
 かけられた声にも立ち止まらない。ラケシスは追いかけなかった。
 「絶対に生きて帰って来て!」
 怪我は私が治すから!
 大声に、ベオウルフは軽く手を挙げた。
 そのまま、歩いて行ってしまった。
 その背中を見届けて、ラケシスは口を押さえる。
 固く固く、ぎゅ、と目を閉じて、唇を噛む。
 言ってはいけないことを口にしてしまった気がした。浮かび上がる強い思いを口に出すことに対する勇気は、半端なものではない。だからこそ、出て行ってしまった言葉に迷いが浮かぶ。
 言わない方が良かったのかもしれない。
 ラケシス個人としての、本音、だ。
 彼女には分かっているのだ。
 ベオウルフが生き残るためには、彼に危害を加える者を倒さなくてはいけないということを。そしてその相手は、民衆\だということ。
 ノディオン王女として、自分はどう言うべきだったのか。
 何を言わなくてはいけなかったのか。
 迷いと後悔が、胸のうちを駆け巡った。






【 第六話 】



 つかつかと、決して穏やかとは言えない足音が廊下に響き渡る。
 固い石造りの床に反響する音は、歩く女性以外の人間がいない廊下で、ひどく大きく聞こえた。
 「ドバール!ドバールどこだ!」
 張り上げる声は鋭い。
 声と同じ剣呑な光を宿した目は、きつく周囲に走らされた。
 「お頭…どうしたんですか?」
 声を聞きつけた男が数人、慌てた様子で走ってくる。しかし、彼女の怒りはおさまらなかった。
 「ドバールを呼んで来い、今すぐだ!」
 命令に、即座に男たちがその場を離れる。
 残った一人が、伺うように女性を見た。
 「どうかしたんですかい?ブリギットさま」
 「マディノのシャガールが出兵するどさくさに、うちの下っ端が何人か出て行ったと報告があった」
 ブリギット、と呼ばれた女性は忌々しげに吐き捨てる。
 この岩城を出て行った男たちが何をなそうとしているのか、容易に想像ができたのだ。
 それは、隣に立つ男もそうであったらしい。
 わずかに眉を寄せると、ちらりと廊下の先を見た。
 「オーガヒルの海賊\の名を汚すようなことを……!」
 ドバールは何をやっているんだ。
 呟きは、向こうの方から近付いてくる足音に消された。



   *



 「アイラ」
 軍議を終え、部屋に戻る彼女を背後から呼び止めたのは、もはやなじみとなった青年の声だった。
 「なんだ?ホリン」
 軽く振り返る。
 歩みを止めなかったのは、ホリンがすぐに隣に並んだからだ。
 「いよいよ、だな」
 何が、とは言わないホリンの言葉に、しかしアイラは深く頷く。今まで行われていたのはこれから起こる戦いについての軍議。その言葉が、来るシャガール王との戦いをさすのだと、分からないアイラではなかった。
 「お前に渡したいものがあるんだが」
 そう言って、ホリンは軽く親指を動かした。部屋まで来てくれと、そういうことなのだろうか。
 「渡す、何をだ?」
 軽く首をかしげるアイラに、ホリンは口元を緩めた。

 そら、と簡単に手渡されたものの正体をみとめて、アイラは怪訝な顔をした。
 ずしりと、両手にかかる重みがありありと感じられる。
 「ホリン?」
 これが、渡すと言っていたものなのか。
 この、一振りの剣が。
 「これは、勇者の剣、じゃないのか?」
 「ああ」
 「なぜ……」
 問う声が驚きにかすれている。
 この剣を知らぬ剣士は少ないだろう、使いこなせる者は少ない、まれに強き武器のひとつ。
 勇者の剣。
 それを、ホリンはアイラに手渡したのだ。
 「俺が持っていても仕方のないものだしな。お前にやるよ」
 「仕方がないことはないだろう。お前ならばこれを充分に使いこなせるはずだ」
 「俺には使い慣れた剣があるからな」
 見上げるアイラに、ホリンは笑った。
 差し出したものに対する執着や未練は、まったく感じられない。
 「もしいらないなら、デューにでもやればいい。あいつならそのうち、その剣を手にできるだろう」
 見ていれば分かる。あいつは強くなった。
 ふいに弟子のような少年の名前を出されて、アイラが目をしばたかせる。
 一瞬考え込んでしまったのは、デューがこの剣を手にした姿でも想像したためだろう。
 そんなアイラを見下ろして、ふ、と軽く笑うとホリンはアイラのそばを通り抜けるように足を踏み出した。
 すれ違いざまに、ぽん、と肩を叩く。アイラが振り返った時には、ホリンは部屋を出ようとしているところだった。
 「待て、ホリン」
 慌ててアイラも歩き出す。部屋の主たちがいない他人の部屋に、長居する気はなかった。
 「すまない、ありがたくいただく!」
 部屋を出る瞬間に発した声は、アイラ自身自覚するくらい大きく、高揚したものになった。


 シャガール王の命を受けた軍隊が、アグスティに向けて南下をはじめたという報告を受けてから一夜が明けた。
 その頃にシグルドのもとにまい込んだ新たな知らせは、シャガール王が宮廷を移したマディノよりさらに北東にあるオーガヒルの情勢だった。
 オーガヒルは悪名高き海賊\たちの城。
 その一団が、数組に分かれてオーガヒル城を立ったというのだ。向かう先はアグストリア領。陸路を徒歩で、内海の海路を小船で進む海賊\たちの進度は遅いが、その目的がはっきりしている限りシグルドたちも放っておくことはできない。
 海賊\たちが常に狙っているのはアグストリアの覇権でも領土でもない。この国に住む人々の生活の糧を、蓄えた金銭を奪うことなのだ。
 かつて何度も何度も、数え切れないほど行われてきた略奪は、長い歴史の中でアグストリア諸侯国の頭を悩ませてきた問題だ。
 海賊\たちの頭領が死んでからのここ数年、静かだった海賊\たちが再び動き出した。それも、シャガール王の決起にまぎれて。
 おそらく戦いのどさくさに、各町や村を襲うつもりなのだろう。
 報告を受け、シグルドは立ち上がった。
 「みんなに伝えてくれ。一時間後に会議を始める」


 第一陣の目的はマディノ城から差し向けられた軍隊を迎え撃つことではない。
 王都アグスティより北に広がる町を、オーガヒルの海賊\から守るために出兵するのだ。
 遠い場所には機動力に飛んだ者たちを。
 比較的近い場所には、歩兵部隊を。
 派遣する数は決して多くはない。それはこれから迎え討たなければいけない、避けることのできないシャガール王の部隊に備えるためであった。
 もちろん、シグルドやキュアンが本城であるアグスティを離れるわけにはいかない。
 すでに兵の一部はマッキリーの住民蜂起の鎮圧のために、この城にいない。
 もとよりさほど多くないシグルド指揮下の兵士だ。無駄なことはできなかった。

 「おいらが行くよ」
 名乗\りあげたのはデューだった。
 なんでもないことのようにひょいと手を上げた少年に、大人たちの視線が集まる。
 「ここから一番近いのは東の村だよね。そこはおいらが行くよ」
 「デュー!?」
 隣に立っていたアイラが眉を寄せる。
 まだ軍議が始まって数分と経っていない。さすがに今ここに集まっている者たちの中に、軍儀の主題を把握していない者はいなかったであろうが、それでもこのデューの早すぎる発言に驚かぬ者はいなかった。
 「確かにあなたにも、海賊\の討伐部隊の一員となっていただきたいのですが、ですが……」
 シグルドの隣に控えるオイフェが戸惑いを浮かべる。
 もっとよく話し合ってから。
 そんな風に考えていたことがありありと伝わって、デューは軽く肩をすくめた。
 「早く決まるに越したことはないさ。急いだ方がいいんだろう?」
 「確かに、その通りですね。…ですがあなた一人で向かっていただくわけにもいきません」
 頭の回転の速いオイフェだ。
 すぐに納得した表情で、しかし首を振る。他にもまだ、決めなくてはいけないことがたくさんある。
 年少者二人だけの会話に、会議室内の大人たちの視線が交差する。
 主催者であり最終的な決定権をもつシグルドは、周囲と少年たちを見比べて、苦笑した。
 「私が行こう」
 次に名乗\りを上げたのはアイラだ。
 デューが隣を見る。
 「その村には私とデューが向かう。歩兵部隊を三十人ほど、いただきたいが」
 どうだろうシグルド殿。
 具体的な申し出にシグルドがオイフェを見やる。一瞬の沈黙の後、頷くオイフェにシグルドは深く頷いた。
 「ああ。お願いしよう」
 それがきっかけとなって、活発さを帯びた軍議は、さほどの時間をかけずに終了しそうだった。
 ふいに、オイフェが顔を上げる。
 「では、こうしたらどうでしょうか」
 会議室内のすべての視線が、若い軍師に集中した。



   *



 長く入り組んだ廊下の先の広間で、ブリギットは壁にもたれかかっていた。
 頭領のためにあつらえた大きな椅子に腰掛けたことは、数えるほどしかない。
 そこは彼女の養父の席であった場所だ。
 そしてその養父が死んだのち、そこは彼女の椅子となった。自らの持ち物に、何かしらの疑念と、不適格だという感覚の末、彼女はその椅子に座ろうとはしなかった。
 特に周りに誰もいない今のような時は、ただ部屋の隅の壁を背に立っているだけだ。
 そこで思案にふける。
 そうして、ぎり、と唇の端を噛んだ。
 自分の知らぬ内に部下たちが城を出たのを知ったのは、昨夜のことだ。
 頭領であるブリギットの許可も得ず、無断で城を出た部下たちもいらだたしいが、それをすぐに彼女に報告に来なかった他の部下たちも気にかかる。
 ようやく、という言葉がふさわしい態度で自分のもとを訪れた部下たちに、眉を寄せたまま部屋を出た。
 そのまま自分の補佐であり、副頭領、という役がもしあるならば、そのくらいの位置にいる男を捜せば、さして驚いた風もなくブリギットを見返した。
 ドバール、という男は先代であるブリギットの養父にも長く仕えて来た男だ。
 後を継いだブリギットにとって信頼に足る男だとはどうしても思えなかったが、それでも重要な場所にいなくてはいけない人物だった。
 女であるブリギットがこの地位に就く時、主だった反対がなかったのは、彼女自身が腕の立つ戦士であったためと、このドバールがブリギットを推薦したためだ。
 ブリギットを良く思っていなくても、ドバールに従う者は多かった。
 はあ、とため息をひとつ。
 寄せられた眉間に刻まれる皺は深く、ブリギットはまた、唇を噛んだ。
 ドバールに命じて、先日城を出た部下たちを連れ戻す者たちを派遣させた。
 村や町に被害が出る前に、捕まえて戻ってくればいいが。
 ただでさえシャガール王とグランベルの戦いがまた始まろうとしているこの時期。オーガヒルのそばで行われる戦争に、いつここが巻き込まれるのかも分からないというのに。
 「…ばかどもが……」
 ブリギットは、舌打ちと共に呟いた。



[182 楼] | Posted:2004-05-24 09:53| 顶端
雪之丞

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【 第七話 】



 アグスティに向かって南下を始めたシャガール王の軍勢を挟撃する。
 オイフェの作戦に否を唱える者はなく、作戦決行に向けての準備が着々と進められる。
 すでにオーガヒルの海賊\に狙われている各町を救出する部隊は、城を発っている。
 つい先程、このアグスティとシャガール王の居城であるマディノを繋ぐ街道の脇にある町に向かうキュアンの軍が、出撃していた。
 そしてそのキュアン率いる部隊こそが、今回の戦いの要になる。
 シグルドたちは本城であるアグスティで、篭\城の構えは取らなかった。
 高台に立つこの城に登ってくるには、細い二つの道を使うしかない。
 その道を囲むように、陣を張った。

 今まで、時にはシグルドの隣で、時には戦いの中心で、その強力な魔法を行使してきたディアドラの従軍は、今回は許されなかった。
 かつてないほど激しくなるであろう戦いに、シグルドが妻の身を心配したわけではない。
 生まれたばかりの幼いセリスと、そして今まさに子を身篭\っているエーディンを守るためだ。
 シグルドは妻にそう言った。
 「どうか、私が留守の間は君が皆を守って欲しい」
 優しく告げるシグルドに、しかしディアドラの顔色は晴れなかった。
 これから始まる戦いに不安を感じているためなのか。シグルドの考えは、しかしディアドラに否定される。
 「こわいのです。なぜか」
 「ディアドラ?」
 「なぜか、もう二度とシグルドさまに会えないような気がして……」
 不吉な言葉を告げている自覚はある。
 だが、胸のうちに溜まるこの暗い不安は紛れもない真実。
 うつむき、夫の腕にすがるディアドラを、シグルドはそっと抱きしめた。
 「大丈夫だ、きっと無事に帰って来るから」
 だから、安心して待っていてくれ。
 髪を撫でてくれるシグルドに、ディアドラはただ頷くことしかできなかった。決して消えない不安を抱えて。



   *



 ベオウルフに許されなかったラケシスの戦闘参加を求める声の多さに、一番驚いたのは当人であるラケシスであった。
 先日、ベオウルフに従軍を禁止された時より、ラケシスなりに今回も城で待機をするのであろうということの心積もりをしていたのだ。
 城にいれば直接戦闘に関わることはない。
 だが、それは決して暇だということではないのだ。
 回復の魔法を扱えるラケシスは、いや、傷の手当てという意味だけでも、城に残る者たちの中で暇な者はいない。
 最も効果的に傷を癒すことのできる力を持つラケシスは、その中でも特に多忙な時間を過ごすひとりであった。
 「ラケシス様は城に残られるのか」
 その声が聞かれるようになったのは、シグルドがディアドラとエーディンを従軍させないと決定した時からだ。当たり前の話なのだが、妊婦を戦争に連れて行くわけには行かない。
 シグルドの妻であるディアドラは、エーディンの支えとなるためだ。
 では、戦闘の中で重い傷を負ったときにどうするのか。
 城に戻る時間もないくらいに重い傷を負えば。
 もとより、生きるために戦うのだ。生き抜くために考えることは多い。
 常から戦争の最中での回復を一身に担ってきたのは、レンスター王妃であるエスリンだ。しかし、彼女は今マッキリーにおり、ここにはいない。
 他に回復の杖が扱える人間は、ラケシスしかいないのだ。

 「…わたくしは、構いませんわ」
 数瞬の思案の後に顔を上げたラケシスは、思いの外はっきりと承諾の旨を伝えた。
 以前から従軍を、幾度にも渡って求めてきたラケシスだ。この返事は決して周囲の目に意外そうには映らなかったようで、しかし、苦味を含むように礼を言うシグルドの笑顔だけがラケシスにためらいを生んだ。
 ふいに思い出したのは、ベオウルフの姿だ。
 怒られるのだろうか、呆れられるのだろうか。あれほど、戦には出るなと言われ続けていたのに。
 マッキリーの救援に向かったまま、ずっと姿を見ていない年上の青年に、後ろぐらいものを感じる。
 シグルド公子に頼まれた。そういう大義名分があるにせよ、だ。
 「すまない、ラケシス。エルトシャンの妹である君をこういう形で巻き込むつもりではなかったのだが……」
 「いいえ、シグルドさま」
 準備をすっかり整え、鎧をまとった兄の親友にラケシスは首を振る。
 「わたくしは巻き込まれたのではありません。わたくしの意思で、シグルドさまたちのお手伝いをするのです」
 賓客としてここでもてなされてきた。
 衣食住をまかなってもらっている。
 与えられるものに報いるのは当然のことだ。そういう考えが、浮かぶ。
 きっぱりと告げて、ほほ笑んで見せたラケシスにつられるように、シグルドも目元を緩めた。
 「ありがとう」
 助かるよ。
 心底からの言葉に、ラケシスは胸の奥が熱くなった。
 必要とされた。その事実が彼女に力を与えた。
 ベオウルフの言葉を、はねのけるほどの。



 シャガール王の部隊が南下を進める。
 街道の中心にある教会付近で陣を張ったと、その知らせを受けたシグルド軍には緊張が走った。
 高台のアグスティから一望できる北の平原。西には大森林が、東には内海と、それに沿うように町々が点在している。
 城の物見の塔を使わなくとも、敵となる軍勢が点より少しだけ大きな輪郭で目にすることができた。
 すべての兵士が先を睨んでいる。
 上層部の面々ならいざ知らず、末端の兵士たちはこの作戦を無事に成功させること以外を考えることができないだろう。生き抜くこと、戦い抜くこと、まずそれを考える。
 海岸沿いの町を襲撃するオーガヒルの海賊\たちの動向など、おそらく考える隙間もない。
 ただ、眼下に広がる平原に、そこで行われる戦いに、息を呑んだ。
 「おそらくこちらの開戦の方が早いでしょう」
 何と比べて早いのか、オイフェは口にしなかった。しかし意を得た風にシグルドは頷く。
 予定通り、とまでは行かなくとも想定の範囲内だ。
 キュアンたちはおそらく、もう目的の町に到着しているだろう。もっとも機動力に優れた騎馬部隊を選りすぐって、彼に任せてある。
 「申し上げます」
 陣幕に、ノイッシュが現れた。
 「敵軍、数は三千。前方が重装歩兵部隊三割、後方を騎馬部隊七割。進撃を開始しました」
 歩兵より騎馬を重視するのはアグストリアの特徴でもある。同じくレンスターでも騎馬部隊を重視しているが、前者は剣を持つ騎馬兵を、後者は槍を持つ騎馬兵を多く有している。
 「全軍待機、合図があるまで動かないように」
 「はっ」
 シグルドの言葉に、ノイッシュが頷いてすばやく去っていった。


 高台の城のふもとを攻める不利は、おそらく向こうも承知しているのだろう。
 そもそも、シャガール王が軍を挙げた理由は軍備の潤いからではない。現在の、シャガール王にとっての苦境に耐えられなくなっただけなのだ。
 オイフェはそう考える。
 つまり、あの軍は勝算があって出撃したのではない。出撃せざるをえなかったのだ。
 もちろんそれだけではないだろう。
 オイフェとて、少なくとも停戦から一年は戦争は起こらないものと考えていた。一年くらい、彼らは辛抱するであろうと、そう思い込んでいたのだ。
 考えの甘かった自分の未熟の内に、重い物が落ちてくる心境をなんとか追いやって、オイフェは机上の地図と、そして眼前の平原を眺めやる。
 おそらく明日の朝。早朝。シャガール王の軍勢は動き出すだろう。
 ここ、アグスティに向けて。



   *



 戦いが始まっている場所もあった。
 アグストリアの王が直接係わる戦いではない。だが、アグストリア王国内の町や村が襲撃を受けているのは事実。
 そして、オーガヒルの海賊\たちから町々を守るためにアグスティ数組の部隊が出発をしたのも事実。
 少数対少数の戦いは、それでも町中や町の周囲で起こり、人々に混乱と動揺、不安を与えていた。

 「デュー!」
 「大丈夫!」
 かけられた声に、デューは笑顔で頷いた。
 振り返って視線を合わせるだけの余裕を見せる弟子に、アイラはわずかに驚いて、それでも剣を振るう手を休めることはなかった。
 手にするのはホリンに手渡された勇者の剣ではない。稀に強気武器は腰に佩いたまま、今まで愛用して来た剣で向かってくる男たちを切り倒す。
 使い慣れないからではないが、それでもこの武器を手に戦うことが、アイラにはためらわれたのだ。
 流星のごとき緑の光がアイラの振るう剣の弧として描かれる。
 イザーク王家に伝わる剣術に敵う者など、この場所にはいない。
 シグルドから借り受けた歩兵部隊の統制に、見るからに荒くれ者ぞろいの海賊\たちが太刀打ちできるわけもなかった。
 集団戦法は、規律を守る軍隊に分があった。
 「うわっ」
 聞こえる声に今度はアイラが振り返った。
 固いものが一瞬にして折れてしまう、硬い澄んだ音が響き渡る。
 「デュー!」
 相手の斧に真っ二つにされた細身の剣の刀身が地面に突き刺さったと同時に、アイラは少年のもとに駆け出した。
 真上から振り下ろされる斧を避け、わずかに距離を保ちながらデューはアイラの駆ける音を聞きつける。
 この町に来た海賊\討伐軍の中で、ただ一人金の髪をした、ただ一人の少年はいかにも力足りぬ風で、海賊\たちの目を引いた。弱い者をいたぶる趣向を持ち合わせた男たちは率先してデューを狙う。
 武器を失ったデューに向けられる嘲笑に、アイラの剣戟が突き刺さった。
 「無事か?」
 「平気。ありがと、アイラさん」
 横に並んだり向かい合うような愚は犯さない。背中合わせに言葉を交わし、間を割るような斧の一撃にまた離れた。
 「デュー、これを使え!」
 とっさに放った言葉と、手にした物にアイラは瞬時に後悔した。
 左手で投げたのは腰に佩いたままだった武器。勇者の剣。
 あの少年にはまだ無理だ。
 とっさにそう思い、またそれを打ち消す期待も膨らむ。
 ホリンも言っていたではないか。
 「あいつならそのうち、その剣を手にできるだろう」
 それが今で何が悪い。
 最初に浮かんだ後悔が、期待と興味に変わる。デューもこの剣が一体何なのか、知っているはずだ。
 折れた剣の代わりになるたったひとつの武器を、どうするのか。
 投げられた剣を受け取った少年に、アイラは笑顔を向けた。


【 第八話 】



 「弓隊は前へ!」
 シグルドの声が響き渡る。決して多くはない弓兵たちは、それでもジャムカの指揮のもと、整然と並び前を向く。
 築かれた木の壁の隙間の穴から、向かってくる部隊を見い出した。
 早朝。
 夜が明けると同時に、敵軍から声が上がった。
 次に、粉塵。
 だが、シグルドたちの準備もすでに終わっていた。とうに起きていた者たちが迷いなく動く。
 シグルドは陣の中心で、馬に乗\った。
 「アゼル、リヴェナ」
 呼ぶ声に、二人の魔道師が背後の指揮官を振り返る。
 「よろしく頼む」
 シグルドの言葉に、軽く笑んで頷いた。

 重装歩兵の歩みは決して速くない。だが、一列になり武器を構え、接近してくる様子はただならぬ威圧感を与える。
 そして、その背後から同様に並んで直進してくる騎兵集団。粉塵の中、決して見失うことのない大部隊だ。
 「弓隊、準備を!」
 鋭い声と共に、シグルドの陣の前方に並んだ弓兵たちが一斉に弓を絞る。
 限界まで弦を引き、そのまま止まる。
 先頭で同じく弓を絞ったジャムカは、睨み据えるように眼前の敵軍を見た。
 まだだ。
 まだ、遠い。
 後ろの方から兵士たちの静かな息遣いが聞こえる。
 近付いてくる。
 こちらの動向も分かっているのだろう。重装歩兵たちが武器を構える。
 一歩、ジャムカの視界の中で決められた横線を、歩兵の一人が踏んだ。
 「放て!」
 命令とともに、無数の矢がシグルドの陣から、敵軍に降り注いだ。



 静まりかえった重い空気に、息を吸うことも、緊張につばを飲み込む音すらあたりに伝わるのではと、なんとなくはばかられた時間は、長かった。
 だが実際のところ、きっとそれは決して長いものではなかったのだろう。
 響き渡るシグルド公子の声にラケシスが顔を上げたとき、多くの足音が前方に向かって駆け出すのを感じた。
 さわりと、一瞬だけ周囲にざわめきが広がり、また一瞬で静まりかえる。
 だが、今度は自分がためらった呼吸の音や、つばを飲み込む気配などがあたりから伝わってくる。
 感じる。きっと、みな気持ちは同じなのだ。
 不思議と緊張にも高鳴らない胸とはうらはらに、ラケシスの手にはじっとりと汗が浮かんでいた。
 回復の杖を握る手を滑らせてしまわないか、それを思考のすみで思う。また、もし腰に指した剣を手にしたくてはいけない場合が来たならば、自分は誤まらずにそれを抜くことができるだろうか。
 はじまる戦いよりもまず、ラケシスは自分のことばかりを考えていた。
 だが、やはり止めておけば良かったというような後悔は、ひとかけらたりとも、浮かんでは来なかった。



   *



 まず弓が放たれる。
 第一矢が無数に降り注ぎ、そのすぐ後に第二矢が続く。ジャムカの指示は的確だった。自らも弓を引き、固い鎧に守られた敵兵たちを倒していく。
 鎧の継ぎ目、わずかに開いている首の守りの隙間を縫うように狙いを絞り、一矢で確実に相手を仕留める手練はさすがのものだった。
 だが、敵の第一陣は重装歩兵。全身を分厚い鎧で守り固めた敵兵の半数も減らせずに、敵兵の接近と同時に弓兵は後ろに下がる。
 次に構えたのは何本も横に束ねた木の柵を支える兵士たち。ずしん、ずしんと千人近くの重装歩兵が向かってくる、大地を揺るがす足音に、緊張が高まる。
 決して早くはない足並みだが、だからこそ威圧感は大きい。
 シグルド軍の前衛は決して前には動かない。ただ、待つだけだ。
 地面が揺れる。砂埃が、眼前にまで、迫った。
 うおおおおおおおおっ!
 戦士たちのぶつかる声が、天空に響き渡った。


 実際に。
 実際に目の前で戦争が繰り広げられるのを見たのは、初めてなのかもしれなかった。
 見たことがないとしか思えないような光景だった。
 人が、倒れていく。
 起き上がり、走り、討たれ、ひざまずき、立ち上がり、斬られ、そして沈黙。
 雄たけびのような声があちらこちらから聞こえ、混ざり、巨大な咆哮になる。
 ラケシスは立っていた。
 もとより回復要員だ。前衛には出ない。だが、城の中で、遠くを眺めるのと戦場で目の前を見るのとは違う。
 シグルド公子の姿をとっさに探した。白馬にまたがり、彼も戦場を駆けていた。大将が安穏と座っていられるほど、この軍は人がいない。
 ノイッシュは、どこに行ったのだろう。
 シグルド軍に数少ない重装歩兵を束ねるアーダンは、ずっと前衛にいた彼は?
 炎と雷が時折光る。アゼル公子とリヴェナだ。
 おそらくホリンも、あの混戦状態になったところにいるに違いない。
 ラケシスは瞬きすらろくにできなかった。ただ、強く握り過ぎた回復の杖だけが、手のひらに痛みと実感を与えてくれる。
 「ラケシス王女!治療を……!」
 足元に倒れた兵士と、彼を支える傷ついた兵士の声に、ラケシスは返事もままならぬまま回復の魔法を行使した。

 騎馬部隊が来たぞ!
 そう叫んだのは、誰だったのか。混戦に、新たな敵の部隊が突撃してくる。錘のように展開して、シグルド軍に向かってくる騎馬部隊は、陣の一点突破を図っているようだった。
 「防いでください!」
 オイフェが叫ぶ。一番先に反応して、馬首をめぐらせたのは指揮官シグルドだった。
 突撃してくる部隊の前に立ちふさがり、剣を構える。
 次々と、彼の周りに兵が集まった。シグルドの前に悠然と立ったのは、アーダンだ。
 「アーダン!」
 「主君に一番危険なまねをさせられるわけが、ないでしょう」
 なに、大丈夫ですよ。俺は遅いが固くて強いから。
 冗談めかして言う部下に、シグルドはかすかに笑う。自分に周りに集まった部下、仲間たちを一瞬だけ見回して、剣を更に強く握る。
 「来るぞ!迎え討て!」
 言うと共に、敵騎馬部隊が突撃してきた。



 まだか。
 まだなのか?
 数の上ですら劣っているままに始められた戦い。シグルドたちの中にわずかな焦りが生まれる。
 続く戦いの中、一体何人の味方が倒れ、何人の敵兵が討たれたのだろうか。だが、まだ彼らは負けていなかった。この高台の中腹で、シャガール王の部隊は少しも先へ進めていない。
 彼らの目的がアグスティ城奪還である限り、いまだその目的は果たされていない。
 しかしそれがシグルド軍の有利につながるのかといえば、そうではない。
 優勢なわけでは、ないのだ。苦しい戦い。
 まだか、キュアン…!
 声には出さない。指揮官の弱い言葉は軍全体の士気にかかわる。だが内心で口の端を噛むような心持で、シグルドは剣を振るった。
 開戦から数時間。死者の数は、刻一刻と増えていく。
 一向に平行線を抜け出ない戦況と、増えていく怪我人、死亡者の数に、どうしても士気は下がってくる。それはシグルド軍だけではない、敵軍も同じだ。
 打破するなら今。
 状況を変えるのは、今しかないのだ。

 ふと、
 遠くの方から地面がかすかに揺れる響きが伝わってくる。
 平原の向こうに、粉塵。黒\い影。
 物見の兵が大きく鐘を打つ。一度叩いて間を空ける打ち方は作戦の移行を、三度鳴らして間を空ける今の叩き方は。
 「援軍だ!キュアン王子の部隊だ!」
 叫ぶ声に疲れた兵士たちの顔色が変わる。生気が、蘇ってくる。
 歓声が、上がった。しだいにそれは強くなる。
 転機が、来た。
 シグルドは確信する。
 「シグルド様!」
 叫ぶオイフェの声は、しかし離れすぎて、歓声に消されて届かない。少年の合図に鐘兵は鐘を再び鳴らした。
 作戦の移行。
 「全軍、体勢を立て直せ!突撃する!」
 横に並び、再び厚い列となった兵士たちは、彼らとは正反対に、援軍の到来に動揺した敵兵に向かっていく。
 はるか後方から、幾数十本もの手槍が、敵軍の背後から投げ付けられた。
 「敵軍を背後から撃つ!陣形を整えろ!」
 全力で馬を駆り、槍を手にするキュアンの大声が、馬蹄の音に消されることなく部下たちに届く。
 新たな咆哮が、戦場に響いた。



[183 楼] | Posted:2004-05-24 09:53| 顶端
雪之丞

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【 第九話 】



 追討軍は、すぐに編成された。
 予想外、ではなかったであろうが背後からの援軍の出現にとっさの対処ができなかったシャガール軍は程なくして壊滅。
 兵たちが散りぢりになったところに、シグルド軍が殺到。逃げ出した者たち、倒れ動けなくなった者たち、動かなくなった者たち。そして、残った兵士たちは幾人かの分隊長の必死の号令で集結し、そのまま逃げるように馬首をめぐらせた。敗走したのだ。
 「追って下さい!」
 叫んだのはオイフェだ。それを遮る気はシグルドにはない。すぐに騎馬兵たちを集め、剣先を北に、まっすぐ向けた。
 「追撃を開始する!敵軍をマディノ城に帰還させるな!そのままシャガール王を討つ!」
 高らかな声に、喊声が上がる。
 それが、ときの声となった。



   *



 エスリンがアグスティに帰還したのは、シグルドたちがマディノ城を目指し出撃した後だった。
 アグスティに残った者たちが歓声の中若い主君の妹を迎える。エスリンは軽やかにそれに応じながら、周囲を見回した。
 集まる人々の間を分けるように、オイフェとアーダンが向かってくる。
 「エスリン様!」
 「ただいまオイフェ、アーダン。状況はどうなっているの?」
 機転の利くレンスター王太子妃は、少年の簡潔な説明に頷くと、すぐに馬首をひるがえした。北上したシグルドたちを、追うためだ。

 「エスリンさま…!」
 城門を出ようとするエスリンの耳に、なじんだ声が届いたので彼女は慌てて手綱を引いた。
 長い裾を手で持ち上げて、走ってくる義姉の姿に今度は慌てて馬を下りた。
 「ディアドラお姉さま…!」
 走りよって来る銀の髪の女性に驚く声をそのまま口にする。
 ディアドラの後ろからは小さなシャナンが、必死で呼び止めるように追いかけてきていた。
 「エスリンさま、シグルドさまのところに行かれるのですか……?」
 「はい。兄と、キュアンたちの手伝いに……」
 尋ねられた言葉に、頷く。
 エスリンの様子に、ディアドラは一瞬口から飛び出しそうになった言葉を必死になって飲み込んだ。
 「ディアドラ!」
 シャナンが隣に立ち止まる。
 「どうか、どうかご無事で。シグルドさまにも……どうか、お怪我などされないようにと……」
 どうか私も連れて行ってください。
 最初に打ち消した言葉。
 どうか、早く帰ってきてください。
 次に打ち消した言葉。
 どうか、私のこの不安を、解き放ってください。
 最後に打ち消した言葉。
 ただ、みなの無事を望んだ実際の言葉に、エスリンはほほ笑んだ。
 「はい。必ず」
 お伝えしますと。そう言って、エスリンは再びひらりと馬にまたがった。
 去っていく姿に、ディアドラはただ震えた。
 胸の中に訪れ、どんどんと溜まっていく暗い不安に、ただ震え続けた。



 エスリンが帰還した。
 その知らせを聞いたラケシスがエスリンの姿を探し出すよりも前に、彼女は次の戦場に向かっていってしまった。
 徒歩では追いつけぬという理由で、ラケシスは追討軍からは外された。それを補ってなお余りあるほどの人物の登場という間の良さに、少し寂しい気持ちが浮かぶ。
 だが、それもささいなことだった。
 「反乱はどうなったの?」
 エスリンから報告を受けとであろうオイフェたちのもとまで行く。帰還したのはエスリンと数人の兵士のみ。その中に、ベオウルフはいなかった。
 言外にベオウルフがどうなっているのか、気にしているのが伝わったらしい。
 苦笑する年下の少年が、自分よりも大人びて見えてラケシスはわずかに発言を悔いた。
 「鎮圧は完了したそうです。今は、反乱を起こした民衆\達とグランベルの間に立って、話し合いを行っているそうです」
 とりあえずこちらの戦いは終わったのだ。
 そう教えてくれるオイフェに、ラケシスは安堵の息を漏らす。
 アグストリアに生きる人々。その中にラケシスも含まれている。
 では、…ベオウルフはなぜまだ帰って来ないのだろうか。
 彼は傭兵だ。戦うために、向かったのに。
 「間に立っているのはユングウィのミデェールさんです。彼はユングウィのエーディン公女の名代ですからね」
 「そうなの…。はやく…無事に終わればよいけれど……」
 実際には、これほど早く事態が収拾に向かって動いていることは快挙といっても良い。
 ただ、不安定な周辺の状況に、落ち着いて静観していることができないだけだ。
 「はやく、みんなが無事に帰って来てくれればよいけれど……」
 ラケシスの呟きに、オイフェも小さく頷いた。



   *



 マディノ城から出撃したシャガール王の軍を撃退したシグルドたちは、そのまま北上。
 一路マディノ城を目指した。
 一方、オーガヒルから各町へ向かった海賊\たちは、それぞれの地点でシグルド軍の分隊と遭遇、かかる時間や手間はそれぞれだったが、すべて討ち取られている。
 シャガール王決起とほぼ同じ頃に蜂起したアグストリア南部の住民たちは、今は仲介となっているユングウィの騎士ミデェールのもと、いちようの落ち着きを取り戻している。
 中心で、また、その周辺で起こる数々の事態は、併発しており、その対応におわれるのもまたしかたのないことなのだろう。
 だが、気になることがある。
 本国であるグランベルからは、シャガール王を討てという命令のみで、援軍はない。今から本国を発っても間に合わないであろう、ということが第一の理由であるようだ。
 それはいい、まだ、良い。
 気になるのは。
 ノディオン国王エルトシャン。
 マディノに宮廷を移したシャガール王に従い、その西南のシルベール城を拠点としたノディオンの獅子王が、いまだに沈黙を守っているということだ。
 もしもの時のためにと向かわせた偵察軍も、シルベール城に何の変化もないことを伝えている。変わったことといえば、シルベール地方の町にわずかながら動揺がはしっていることくらいだ。
 また、オーガヒルの海賊\の標的にされているかもしれないと、マディノとシルベールの中間にある海岸線沿いの町に派遣したフュリーの動向を気にした風もない。
 アグスティから深い森の上空を飛ぶペガサスの騎影は、さぞ目に付いたであろうに。
 そしてまた、遠方に向かったフュリーの帰還はいまだなく、特に際立った報告も、アグスティには入っていなかった。
 「オイフェ」
 思案の表情で沈黙していた少年に声をかけたのは、アーダンだった。
 わざと軽く開けていた部屋の扉を開いて、中を覗き込む。
 「アーダンさん」
 顔を上げて、息をつく。
 「どうかしたんですか?」
 何か、変化でも?
 尋ねる声色にアーダンは苦笑する。シグルドがアグスティを発ち、エスリンが同じくシグルドを追ってから半日。そうそう事態は変わるものではない。
 「海賊\討伐に出ていた部隊のひとつが帰還したぞ。報告を聞いてやってくれ」
 まるで、少年をアグスティ城主シグルドの代行であるかのように扱う言動に、今度はオイフェが苦笑した。
 自分はただの、軍師だ。それも、未熟な。
 「報告を受けるのはアーダンさんでしょう。…ですが、できれば僕も同席させてください」
 やはり、気になることは気になるのだ。
 正直な言葉に、アーダンは笑った。
 「ああ、助かるよ」


 帰還したのはアグスティから最も近い地点に派遣されていた、アイラの部隊であった。
 迎える面々が少ないことに、彼女たちはすぐ気付く。
 そして、マディノ軍との戦いの経過を、城門から会議室に向かうまでの間にすべて聞き終えたアイラは、ただ眉を寄せた。
 もとより多くはないシグルドの軍勢。人員を分けることはいままでにも行われてきたことだが、できればそれは、短期間のうちに終わらせたいものだ。
 「アーダン殿とオイフェ殿たちがお待ちです」
 兵士の一人が扉を開ける。
 その扉をくぐるときに、アイラは今まで後ろで歩いていたはずの金髪の少年の姿がないことに気付き、呆然とした。

 「報告に行かなかったのか」
 呆れたような声音が降ってきて、反射的にデューは笑った。いたずらをしている子供のような、そんな響きを含んで。
 「別においらが行く必要、ないかなと思って」
 振り返って、立っているホリンを見上げる。ここ数ヶ月で身長も驚くほど伸びたデューだが、しかしこの長身の青年と並ぶまでにはあと数年の歳月を要することだろう。
 「お前が町の救援に行くと言い出したんだろう」
 とがめるような言葉だが、声音は柔らかい。彼なりにデューの性分を理解しているからなのだろう。
 自分が堅苦しい場にふさわしくないと思う心理は、ホリンの中にもあった。
 「同じことを言う人は何人もいらないでしょ」
 「達者な口だ。その通りでもあるか」
 互いに軽く笑う。
 そうして、ふと気付いたようにホリンがデューの腰に佩いたものを見た。
 「……デュー、それは」
 そこにあるのは見慣れていたものだった。つい先日まで、彼の所有する物であったのだから。指摘を受けて、デューは一瞬申し訳なさそうな表情になる。快活な少年には、珍しいことだった。
 「あ、ごめん。おいら剣が壊れちゃって」
 アイラさんに借りたんだ。
 説明するデューは、その剣がかつてホリンの手にあったことを知っているらしい。きっと、アイラが教えたのだろう。
 まれに強き武器、勇者の剣。
 だが、その剣を手にできた意味までは、気付いていないようだ。果たしてアイラは分かってこの剣を渡したのだろうか。もしそうであるならば、と、ホリンは胸のうちで興味がふくらむのを感じた。
 「お前が使えばいい」
 提案とも許可ともとれる物言いに、デューが疑問に眉を寄せる。
 「もともと、いずれお前に渡ればいいと思っていたんだ。予想より時期は早いが、まあいいい、お前がその剣を使えばいい」
 「ホリン?」
 高揚する気分に、口の端が上がった。わずかにためらいと、そして疑問を表すデューに口の端を上げる。
 「その剣で、お前がアイラを守ってやれ」
 言って、ホリンは少年の肩を軽く叩いたのだった。



 そしてその頃。
 アイラたちの帰還に意識をとられた城内の人々の目を盗んで、ディアドラがアグスティ城を出たことに気付けたのは、ずっと彼女と、彼女の息子セリスのそばにいたシャナンだけであった。
 そして、ディアドラがマディノに続く平原で、消息を絶ったことに人々が気付いたのは、泣きそうな顔でセリスを抱いた幼いシャナンが、城の裏門で立ちすくんでいるのを発見してからであった。

【 第十話 】




 マッキリーで起こった住民蜂起。
 それを鎮圧するために派遣されたミデェールたちは、いまだマッキリー城にあった。
 北の状況が分からない彼らではない。
 本城の危機に、すぐにでも武器を手に駆けつけたい衝動を堪え、ミデェールたちはマッキリー城主と、住民たちの話し合いの間に座っていた。
 マディノから出撃した部隊を、シグルド軍が撃ち破ったと知らせを聞いたエスリンが、マッキリーを後にしたのはつい先日だ。
 もはや大規模な戦いは起こらないであろうマッキリーよりも、これから更なる戦いを迎えるのであろう兄たちのもとに、向かったのだ。
 安全な場所ではなく、自ら危険に赴くレンスター王太子妃への視線は、畏敬すら含まれている。
 後に残ったミデェールたちは、はやる気持ちを抑え、ただ確実に、この紛争を終結させることに尽力している。

 「ミデェール殿」
 臨時の執務室となったマッキリー城の一室に、兵士の一人が現れた。
 難しい表情で文面を睨んでいたミデェールは顔を上げると、声音こそ冷静なものの若干困惑を浮かべた兵士の顔が目に入る。
 「どうした」
 かたんと、立ち上がったのは廊下から他の足音が聞こえてきたからだ。
 「それが…エッダのクロード公爵が……」
 「…なに……?」
 予測しえない唐突な報告に、一瞬思考が止まる。
 しかし、
 「なんの予告もなく失礼します。ぜひ北に向かう許可をいただきたいと思いまして」
 ゆっくりと、執務室に姿を現した金の髪の青年に、ミデェールは反射的に膝を付いた。



   *



 マディノ城にシャガール王の姿はなかった。
 城に残る守備兵を倒し、マディノを制圧したシグルドであったが、そこに討つべき…少なくとも身柄を拘束するべき相手はおらず、ただ広間に残るワープの魔方陣と、それを行使したと思われる魔道師の姿に、シャガール王が他所に逃れたことを知った。
 「シグルド…」
 共にマディノに入城したキュアンが、広間の中央に立つシグルドの背後から声をかけた。
 親友の声に振り返らず、シグルドはただ頷いた。
 隣に、キュアンが歩いてきて、立った。
 「あの魔道師が吐いたぞ。……シャガール王は、シルベールに向かったそうだ」
 「…そうか…」
 その声に含まれているのは、自分の予想が肯定されたことへの焦燥だった。
 気持ちは、キュアンも同じなのだろう。ため息をつきたい気持ちを抑え、気を紛らわせるように腕を組んだ。
 「考えていなかったわけではないんだが」
 「…俺も同じだ。ただ、考えたくはなかった」
 シグルドに、キュアンが答える。ようやっと、シグルドはキュアンを見た。
 「……すぐにアグスティに戻ろう」
 アグスティが危ない。
 「ああ」
 キュアンの承諾に、シグルドは決意を込めた目で頷いた。
 シャガール王がシルベール城に逃れた。その城を守るのは、エルトシャン。
 決して戦いたくないと、二人が思っていた親友である。



 マディノの城門が破られると共に、シャガール王はワープの魔法陣の中に入った。
 一瞬の浮遊感に目を閉じ、次に見たのはシルベールの一角だった。
 日常ではほとんど使用されることがないその場所に、あろことかアグストリア国王が現れたことで、その場にいた守備兵はただ眼を見開くこともできなかった。
 「何をしている!早くエルトシャンを呼べ!」
 怒りの形相で一喝するシャガールに、兵はただ弾かれたように姿勢を正した。

 「陛下…!」
 シャガール王がシルベールに逃れてきたという報告に息をのんだのは、エルトシャンも同じだった。
 シルベール城の執務室で部下と共に聞いた報告に、とっさに顔を見合わせる。それでもすぐに馬の用意を命じたのは、この事態が決して予測に反していたわけではないからだった。
 エルトシャンのもとまで案内しろ、ではなく呼んで来るように命じたシャガール王を、最初に出発させた部下に領内の分城まで案内させる。
 エルトシャンが主君のもとに着いたのは、半日が経過してからだった。
 向かわせた軍隊を撃破され、マディノまで奪われたシャガールの様子は他の者たちが近寄りがたいほどだったが、今回エルトシャンの到着に要した時間も彼の苛立ちを募らせるには十分なものだった。
 だが、シルベールからここまでの距離を考えれば、半日という時間は決して遅くはない。
 「…今まで何をしていたのだ!」
 良くぞご無事で…!
 マディノの状況をいち早く知っていたエルトシャンは、城を追われながらも無傷でたどり着いた主君にまず膝を付いた。
 しかし、開口一番にシャガール王の怒号を受け、ただ頭を低くした。
 怯えや焦りの色はない。ただ、主君の憤りを黙って受けるだけだ。
 「お前は私が軍を挙げた時何をしていた!あのシグルドめが私の城に向かってきた時何をしていた!」
 「お言葉ですが陛下、グランベルとの休戦協定で定められた期間は一年……」
 「だからなんだというのだ!お前はアグストリアがグランベルの属国化するのを、黙って見ていろととでも言う気か!」
 一喝に、その場に控えた兵士たちがわずかに身を固くする。
 しかし、エルトシャンは表情を変えなかった。
 先に協定を破ったシャガール王にこそ非はある。だが、使えるべき主君の決起に、諌めることも協力することもしなかった責任もまた、エルトシャンは持っているのだ。
 彼に言えることは何もない。
 「このままマディノまで奪われ、黙って見ているだけということはあるまいな…!」
 その言葉に含まれているのは、明らかな命令。
 だが、エルトシャンは自分からは動けなかった。
 ただ沈黙することで、シャガール王に彼なりの意思を示したつもりだった。
 …だが。
 「エルトシャン、主命だ!今すぐあのグランベルの者どもを討ち取って来い!」
 主命。
 その言葉ですべてが決まる。
 「かしこまりました」
 エルトシャンは膝を付いたまま一度主君を見上げ、そうして再びこうべを垂れた。



   *



 「お兄さま、キュアン」
 マディノを制圧したからといって、すぐに城を発てるわけではなかった。
 他国の城を手中に収めることとなってしまったシグルドたちには、マディノ領内の民衆\との協議や本国への報告など、諸事をこなさなくてはいけなかった。
 それでもマディノの民衆\が比較的シグルド軍に好意的であったことが幸いして、さほどの問題は今のところ起きてはいなかった。
 彼らは知っているのだ。休戦協定を破ったのは彼らの王であり、そしてオーガヒルの海賊\から彼らを守ってくれたのがシグルド軍下の兵士たちだったということを。
 それでも予測されるべき、避けられないであろう親友エルトシャンとの戦いにはやくアグスティに戻らなければいけないという気持ちに変わりはない。
 手続きを急ぐ傍ら、本城にいるオイフェたちに状況を伝え、シルベールへの警戒を指示する使者を立てた。だがきっとオイフェのことだ、シグルドたちが考えていることはすでに予測済みだろうというのが、シグルドの本音ではあったのだが。
 そんな折、共にマディノに留まっていたエスリンがやや緊張した面持ちでシグルドたちのもとまで走ってきた。
 「エスリン、どうしたんだい?」
 迎える兄と夫に、エスリンは一度、自分が入ってきた扉を見た。
 「驚かないでね。エッダ公国のクロード公と、フリージ公国のティルテュ公女が、いらっしゃったの」
 「……なんだって…?」
 唐突な言葉に、キュアンとシグルドは顔を見合わせた。


 「クロード神父…なぜこのような所へ…?」
 謁見室でクロードたちを迎える頃には驚く心も落ち着いたが、それでも彼らの突然の訪問に尋ねないわけにはいかなかった。
 「それに、ティルテュ公女まで……レプトール卿は知ってらっしゃるのですか…?」
 案内されてソファに腰掛けた青年、クロードは、シグルドのティルテュに向けられた言葉に困ったようにほほ笑んだ。同じくソファの隣に座った少女は、明るい表情のまま首を振った。
 束ねられた長い銀の髪が軽く揺れる。
 「いいえ、シグルドさま。お父さまには内緒なの」
 さらりと言って、にこりと笑う。一公国の公女が遠い国の、しかも戦場となるところにいる。それも無断で。そのことにシグルドはわずかにめまいを感じたが、クロードの控えめな弁護に、額を手で押さえる行為は免れた。
 「彼女は私を守ってくれているのです。あいにくと私には戦う力はありませんので」
 言うクロードも、実のところ供は二人しか連れていなかった。
 エッダとは、かつての十二聖戦士、後に神格化される大司祭ブラギの末裔が起こした国だ。そしてそのブラギが、暗黒\教団ロプト教団から人々を救うために起こしたのがエッダ教団。
 ブラギの末裔である人々が代々聖職者となり、エッダ教団を存続させていく長い間、この宗教は大陸で最も信奉されるものとなった。
 その最高司祭であり、また同時にグランベル王国エッダ公国の当主でもあるのが、このクロードなのだ。大陸で最も権威ある司祭が、わずか二名の僧兵とフリージの公女を伴って旅に出ることもまた、常軌を逸している。
 わずかなりとも困惑の色を見せるシグルドと、彼の後ろに控えるキュアンに、クロードは穏やかな表情から一転して、真剣な光を目に宿した。
 「どうか落ち着いて聞いてください。シグルド公子。……クルト王子が、何者かに暗殺されました」
 「……な……」
 クロードの言葉に、シグルドは息をのむ。
 立ち上がりそうになるのを、必死の思いで堪えた。
 クロードの声は、静かだ。
 「そしてクルト王子暗殺の嫌疑が、……かつてイザーク遠征に同行していたバイロン卿にかかっています」
 「そんな馬鹿な…!」
 思わず、シグルドが声を荒げた。だが、それも仕方のないことだ。
 グランベル王家…聖者ヘイムの力を受け継ぐ次期王位継承者、クルト王子を暗殺したのが、あろうことか父バイロンだなどと。
 ありえないことだ。
 シグルドの脳裏には否定の言葉しか浮かんでこない。
 一国の当主を、そしてエッダの最高司祭の言葉に対する非礼に、しかしとがめる者は誰もいなかった。みな、シグルドの心中を慮ってのことだ。
 「もちろん、バイロン卿のような心根の立派な方がそのようなことをするとは私も思ってはいません。ですが、バイロン卿が指示を出したのだという証拠がいくつか見つかっているのも事実なのです」
 「……クロード様、……それは一体、なぜ…」
 平静を必死で保とうとしているシグルドの声はわずかに震えている。この場にエスリンがいなくて良かったと、キュアンはかすかに考えて、そっとシグルドの肩に手を置いた。
 「詳しいことは分かりません。…ただ、レプトール卿とランゴバルト卿が強くバイロン卿の処刑を訴えています」
 わずかに落とされた声は、レプトールの娘であるティルテュに配慮したものだ。シグルドとキュアンは、まだ少女の域を出ないティルテュが一瞬目を閉じたことに、気が付いていた。
 「バイロン卿の無罪を主張する人々と、有罪を主張する人々の間で王都が揺れています。アズムール王もご子息を亡くされたことで宮廷に出ていただくことも難しくなっているのです。ですから、私がここに来ました」
 穏やかな声音は変わらない。だが、毅然とした態度で、クロードは自分よりいくらか年下のシアルフィ公子を見つめた。
 「ここマディノの北西にあるブラギの塔に赴き、ブラギ神に真実を伺います」
 「……ブラギの信託を……」
 クロードの言葉にシグルドは弾かれたように顔を上げた。
 ブラギの意思と力が封印されたブラギの塔は、エッダの聖地でもある。多くの巡礼者が訪れる塔に入れるのは、しかし選ばれた力を持つ者のみ。それはブラギの聖痕を持ち、聖器バルキリーの継承者、クロードに他ならない。
 「では、父の冤罪が晴れるかもしれないのですね」
 「はい。ブラギの言葉に、否を唱えることができる方は、おそらくいないはずです」
 期待を込めたシグルドの言葉に、クロードは頷いた。
 「こうしている間にも、王都では時間が経過していきます。あわただしいことですが、私達はすぐに塔へ向かおうと思います」
 「こちらからも誰か供を……」
 立ち上がったクロードにシグルドも立ち上がる。申し出に、クロードはやんわりと首を振った。
 「いいえ、今はあなたも予断を許されぬ時。どうか、私のことはかまわずに早くアグスティに戻ってください」
 お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした。
 告げるクロードの言葉が暗示するものに、シグルドもキュアンも重いものが身体の中を落ちていくような感覚を覚えた。
 ブラギの継承者は、未来を予見する力を持つという。クロードの言葉は、予見をもとにしたものなのだろうか。それとも。


 ちょうどその頃。マディノの南西シルベールでは。
 「皆、用意はいいな。…出撃するぞ!」
 アグストリア最強の騎馬兵団、獅子王エルトシャンが率いるクロスナイツが、アグスティに向かって出兵を開始していた。



[184 楼] | Posted:2004-05-24 09:54| 顶端
雪之丞

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【 第十一話 】




 クロスナイツが大森林に差し掛かる。
 その報告を受けた時、アグスティ城にいまだシグルドは戻っていなかった。
 街道の発達したこの地では、地形が彼らの進軍を遮ることはない。シグルドがこちらに向かうことも、エルトシャン率いるクロスナイツがアグスティに向かうことも、容易なのであった。
 迎え撃つ側であるアグスティの兵士たちは、それぞれに焦りや狼狽の色を浮かべている。
 獅子王エルトシャンとクロスナイツの勇名は、グランベルにも知れ渡っている。そして彼らの軍の指揮官は、いまだ帰還していないのだ。
 どうするのだ、こんな、負けるに決まっている戦。
 末端の兵士たちの心情は、はなはだ気弱なものであった。

 「どうするつもりだ?オイフェ」
 尋ねるアーダンの口調や表情に焦りはない。悠然と構えるその様は、さすがにシアルフィ公国が誇るグリューンリッターの中核を担う騎士である。
 質問の形式をとってはいるものの、アーダンもまた、道がひとつでしかないことを知っている。ただ、主君であるシグルド公子が帰還するまでの間に果たして何をすべきなのか、それを尋ねているのだ。
 「シグルド公子たちが戻ってくるより先に、クロスナイツが来る確率の方が高そうだぞ」
 珍しく場に同席しているのはレヴィンだ。
 彼なりにこの軍の行く末を気にしているのだろう。フュリーが調査してきた周囲の状況を、オイフェたちに知らせる。
 「もちろん、出撃します」
 オイフェに迷いの表情はなかった。だが同時に、勝算も少ない。
 「マディノ軍との戦いとは違う方法をとりましょう。相手は騎馬部隊、できうるかぎり森に誘導しましょう」
 オイフェがまだ決まっていない作戦を口にするのは珍しかった。目を見張る大人たちに、オイフェは一度目を閉じる。
 「フュリー殿にシグルド様のところへ向かっていただきたいのですが、よろしいですか」
 「ああ、かまわないだろう」
 オイフェの言葉に、レヴィンはすぐに頷いた。



   *



 エルトシャンが出撃した後のシルベールに、クロスナイツは残っていなかった。もともとのシルベール兵のみとなった城で、シャガール王はひとり舌打ちをする。
 すべてが忌々しかった。
 「陛下、トラキアよりトラバント王が到着されました」
 部下の言葉に、シャガールはわずかに目を上げる。
 入室を促すまでもなく入ってきた青年に、口の端を上げた。



 作戦決定後の行動は、迅速だった。
 もともと、度重なる戦に休む間のほうが少ないくらいなのだ。準備はほぼ整っていて、後は武器の補強や食料の補充をすればよいくらいのもので、早い者はすでに鎧を身に付けていた。
 今回の出撃に、ラケシスの従軍は許されなかった。理由は分かっている、敵となる相手が、彼女の兄だからだ。
 妹の身をさらして、相手を退かせるようなことをする者は、この軍の上層にはいない。
 正々堂々と。それがシグルドの考えである以上、指揮官がいないアグスティの軍も、それにならうのだ。
 だが、ラケシスとしては一方的に決まる決定に、不満を感じずにはいられない。今だからこそ、ラケシスだからこそできることがきっとあるはずなのだ。
 手のひらを握り締める。
 しかし、それが一体なんであるのか。そしてそれは正しいことなのか。皆が望むことなのか。
 何かをしなくてはいけないという焦りと、しかし何をして良いのか分からない不安が、ラケシスの身を震わせた。
 「ラケシスさま……」
 実の兄と戦わなくてはいけない。それを知ってからずっと、ラケシスを気遣うようにそばにいてくれるシルヴィアの声が、あたたかかった。


 「第二陣は出発してください」
 オイフェの声に城門が開く。整然と並んだ騎馬部隊が平原へ続く坂道を下っていく。
 同時に頭上で一騎のペガサスが、北へ向かって飛び立った。
 主だった騎兵はすべて北のマディノにある。
 少数の騎馬兵は、それでもその機動力で重要視された。ただ、この部隊で獅子王率いる最強の騎馬部隊と戦う気は、オイフェにはない。
 あくまで彼らは囮であり、時間稼ぎであるのだ。
 「第三陣の各部隊も待機していてください」
 「ああ、分かった」
 後ろにいたホリンを振り返る。歩兵部隊の要は、このホリンとアイラだ。彼らをそれぞれ中心とする部隊には、剣を得意とする者たちが集められている。
 そして、第一陣は、ジャムカ率いる弓兵だ。彼らはすでに、大森林に潜んでいる。
 「奇襲、だな」
 レヴィンは呟いた。



   *



 半日も経過しないうちに、アグスティ軍の第二陣はクロスナイツとぶつかった。
 もとより実力差は明白。だが、エルトシャン自ら聖器を振るい、鬼気迫るほどの勢いを持ったクロスナイツの力は、おそらくオイフェの予想を超えていたのであろう。
 騎馬部隊の壊滅は、あっという間だった。
 森に潜むジャムカたちと、そこから離れた場所で待機する歩兵部隊も一方的とも言える戦いに息を呑む。
 しかし、ここから退くことはできず、また、その気もなかった。
 クロスナイツはそれでもなんとかやや軌道をそらし、森に近付く。
 シグルドたちの到着は、まだ先であった。


 報告は随時、オイフェたちの元に届いてる。
 騎馬部隊の早すぎる壊滅にオイフェはぎゅ、と目を閉じた。だが彼は幼くとも軍師として、立ち続けなくてはいけない。それを理解しているからこそ、すぐに目を開けて前を向いた。
 「クロスナイツが接近しているのですか!?」
 急くようなノックの後に、入室してきたのはラケシスだ。
 オイフェたちは彼女の戦闘参加は却下したものの、戦いそのものから隔離することまではしていなかった。
 蒼白な顔色のノディオン王女に、ただ頷く。
 「はい。すでに騎馬部隊が破られ、現在歩兵部隊と交戦中です」
 あくまで冷静に、オイフェは告げる。彼自身、そうなるように努めていた。
 簡潔な言葉を耳にしたラケシスは、手のひらを握り締める。それは、彼女の兄なのだ。
 彼女のたった一人の兄が、率いている部隊なのだ。
 「……どちらが、優勢なのですか?」
 「もちろん、敵軍です」
 オイフェの言葉は短い。この少年も、ラケシスを案じてはいる。しかし、戦を決めた本人である以上、彼がラケシスに気休めの言葉をかけることはできない。
 反対に、敵、と兄をひとくくりにされたラケシスは、めまいがするような心地だった。
 当然のことを、現実として認識する。いまや兄は敵なのだ。
 では、自分は。
 ノディオン王の妹であり、シグルド軍に守られている自分は一体、何であるのか。
 「…わたくしは……」
 かすかに震える声で言いかけたとき、兵士の一人が扉を開けた。
 「オイフェ殿、マッキリーに向かっていたミデェール殿たちが、帰還しました」
 「ミデェールさんたちが!?」
 報告に、オイフェは驚きと気色を浮かべた。
 住民蜂起を鎮圧したした部隊。その兵力は、今のアグスティ軍にはとても大きなものだ。
 ラケシスも報告に来た兵士を振り返る。とっさに脳裏に浮かんだのは、今まで何度思い出したかわからない青年の姿だ。
 「ミデェールさんたちはどちらです?すぐに向かいま……いえ、すぐにこちらに呼んでください」
 外で作戦を立てるわけにもいかない。オイフェはわずかにはやった心を落ち着けて、兵士に頼む。
 「はい、ただちに」
 踵を返す兵士に、ラケシスも続いた。
 「ラケシス姫…!?」
 オイフェの言葉も、届かなかった。


 「ベオウルフ!ベオウルフ……!」
 ミデェールのやや後方で悠然と歩いているベオウルフは、十数日振りに聞いた少女の声に顔を上げる。走る音に苦笑を浮かべようとして、ラケシスの必死の表情に、思いとどまる。
 ミデェールを迎える兵士を追い越して走るラケシスに、その場にいた者たちが軽く頭を下げる。
 自分はあまり目に入ってはいないと分かっていたが、ミデェールはノディオン王家姫に対して敬礼をした。
 「…どうしたよ」
 立ち止まったベオウルフの前に立って、青年を見上げる。
 一瞬躊躇したように周りを見回したラケシスに、ミデェールがベオウルフと視線を交し合った。無言で、その場から立ち去る。
 尋ねるベオウルフの声音は、質問というよりは気持ちを落ち着かせるためのものだ。
 静かな低い声に、ラケシスの思考に冷えたものが落ちる。
 「……お兄さまが軍を上げました」
 「ああ。聞いた」
 「今、こちらの軍と交戦中です」
 「らしいな」
 「シグルドさまたちが合流して、お兄さまのクロスナイツと戦うことになってしまうのは、まだ先です」
 ラケシスはわざと声を低くしていた。
 息を吸い、吐く。何度も。
 「お兄さまとクロスナイツが相手ではあきらかにこちらの軍に不利があります」
 「そうだろうな」
 「今アイラ王女たちの率いる歩兵部隊が奮戦していますが、戦況はよくありません」
 「…そうか」
 さすがにそこまでの情報はまだ回っていなかったらしい。
 一瞬の間、ベオウルフは沈黙して、そしてまた簡潔な返答を返した。
 地上の人間が馬上の兵士と戦う困難は、ベオウルフ自身よく知っている。彼は普段は騎上で戦う人間だが、戦の際に馬を失い地に足つけて戦う窮地に陥ったことも多くあるのだ。
 たとえアイラたちが大陸屈指の腕前を持つとしても、彼女達が率いる部下たちがそうであるわけではない。
 若干眉を動かしたベオウルフは、かすかに表情を改める。だが、ラケシスはその些細な変化にまで気を回さなかった。
 「わたくしを手伝ってください」
 一息で、言った。
 強い視線でベオウルフを見上げる。揺らぎはどこにもなかった。
 何を、と、ベオウルフも聞かなかった。
 どこかで、この先にどのような言葉が続くのか、知っている気がした。
 「お兄さまのもとに参ります」
 「……それがどこか分かっているな」
 「戦場です。あなたに行くことを止められた」
 簡潔だ。
 すでに一度、請われて戦場に出てしまっている。そのことが言動の強みであり、また、今ベオウルフに知られるわけにもいかない弱みでもあった。
 今のこの決意を、ベオウルフの叱責に曲げられるわけにはいかない。漠然と、ラケシスはそう感じたのだ。
 「お前が行って何になる」
 詰問ではない。だが、厳しい声だった。今までラケシスに相対してきた時の、皮肉気な楽し気な声ではない。ラケシスの握った手のひらに、じわりと汗がしみた。
 「わかりません。ですが、強く思うのです。わたくしはお兄さまとシグルドさまたちが戦うのを見たくはない。それはあるべきではない姿です。きっと、もっと他の方法があるはずです」
 「その方法とは何だ」
 ひどくあいまいな主張だった。だが、ラケシスはあまりにもきっぱりと、口にした。
 「わかりません。でも、この戦いで私以外にお兄さまを説得できる者がいるとも思いません」
 今起こっている戦いを止めなければ、ここですべてが終わってしまう。ラケシスの訴えはベオウルフにも分かる。だが。
 「その結果起こることは分かるか」
 「……混乱を先延ばしにするだけでしょう。ですが、双方に時間が生まれます。今回の戦いはシャガール陛下の気のはやりが原因。本来ならばまだ一年までの時間は、あったはずなのです」
 言いつのる。
 ラケシスに、ベオウルフは一度、長い長い息を吐いた。



   *



 「もういい、何も言うなシグルド」
 すまないと、謝罪するエルトシャンは親友を前にただ苦渋の表情を浮かべる。
 だが、その手に握る剣は数え切れないほどの人間の命を吸っている。赤い血が、鍔に溜まっていた。
 そしてまた、シグルドの腕もまた同様。互いに互いの仲間部下を打ち倒し、それでもまだ戦いたくないのだと、言えるはずもなかった。
 停戦の申し出も拒否される。二人が対峙するその距離十数メートル。指揮官の周囲は奇妙な沈黙が降りていたが、そこから離れた場所では戦がずっと続いている。まるで目の前の相手を打ち倒すことにしか、意識が働いていないかのように。
 キュアンもまた、シグルド、エルトシャンのそばに近付けないでいた。アグストリアが誇る騎馬兵団の攻撃に、キュアンもまた、槍を使い続けなければいけなかった。
 作戦などほとんどなくなってしまった混戦は、立ち上る砂煙に遠くを見ることも難しくなっている。
 エルトシャンは、ただ眼前を見据えた。
 「すまない。だが、俺はアグストリアの、ノディオンの王なのだ」
 「エルトシャン」
 固く目を閉じ、頭を下げることが戦場でどれほど危険なことかシグルドも分かっているはずだった。だが、せずにはおれなかった。
 剣が、鳴る音がする。
 無意識にシグルドも、己が剣を握る手に力を込めた。
 戦う相手は眼前にいる。そう、敵軍の大将は、目の前に。
 「行くぞ、シグルド!」
 馬の腹を蹴る。敵を前にする獅子王の気迫を初めて身に受けて、シグルドも強く先を睨んだ。
 その魔剣を、討つために。



【 第十二話 】




 重い。
 シグルドはそう感じずにはいられなかった。
 馬の腹をほぼ同時に蹴り、剣を構えたふたりだが、その一撃を繰り出したのはエルトシャンの方が早かった。
 確実な狙い。避けるのではなく、自らの剣で受け止めたミストルティンの一撃は、途方もなく重かった。
 だが、恐れるひまも躊躇するひまも、ない。
 何度も、何度も、自分に向かい刃が光る。あるいは受け、あるいは避け、シグルドは防戦に回っていた。親友を攻撃するということに二の足を踏んでいるのではない。
 そんな悠長なことは考えていられない。反撃の機会を見つけられないのだ。このままでは負ける、それだけが明確に、冷静な思考に浮かぶ。
 エルトシャンは、強かった。
 訓練以外でこの親友と剣を合わせたことはない。
 獅子王と呼ばれるこの青年を初めて目の当たりにした気分だった。その気迫は、威圧は、まるで。
 「シグルド!エルトシャン!」
 キュアンの制止の声が飛ぶ。だが、その言葉だけで止まるはずもない。かつてキュアンだけは、本気でエルトシャンと剣を合わせたことがあると伝え聞いたが、それと今とは状況が違う。立場が違う。背負うものが、違った。
 ギィン! と、打ち弾かれた刀身が震える。この魔剣ミストルティンの強烈な一撃一撃を、受け止められるだけでも奇跡なのだと、シグルドは思わずにはいられない。
 エルトシャンは、強い。
 強すぎるのだ。
 「だが、私も、負けるわけには行かないんだ………!」
 汗だくの手のひらで柄を握り締める。
 片手で手綱を操り、防戦から転じようとした、その時だった。

 「お兄さま!シグルドさま!止めてください!」

 この、戦場にふさわしくない高い少女の声が、響き渡ったのだった。



   *



 「……ラケシス…!」
 もはや止まらない、誰にも止められることはない。自らも、周囲もそう考えていたエルトシャンが、目を見開く。純粋な、驚愕がそこにあった。
 エルトシャンとシグルドの戦い。そこからわずかに離れた場所で繰り広げられる戦争。その輪のような争いの中を一直線に突進してきた騎影。
 ラケシスの叫びは、一瞬の沈黙と、そしてざわめきを生んだ。
 「…ベオウルフ……」
 エルトシャンが、妹の背後にまたがっている青年の名を呟く。一騎の馬で、ラケシスを前に乗\せて、走り抜けてきたのだ。この戦場を。
 彼の両側にはシグルド軍下の騎士二名と、ベオウルフの背後にミデェール。剣を持つ者の腕は、真っ赤だった。
 「お兄さま、どうか、お止めください。どうか、考え直してください」
 すべてを省みずに、兄へ懇願するラケシスの手にも、剣。その刀身も、白いはずの鎧も、赤い斑点に染まっていた。
 「ベオウルフ……どうして…」
 「悪いな公子さん。俺の独断でこいつを連れてきた」
 シグルドの言葉に、悪びれもせずにベオウルフは言う。だが、その口調は真剣だった。
 一瞬止まった周囲の戦いに、キュアンがようやく近付いてくる。シグルドの隣に馬を並べて、ノディオンの王と、妹を見つめた。
 「お兄さまも、分かっていらっしゃるのでしょう?このような戦い、あるべきではありません」
 「何も言うな、ラケシス。もう遅いのだ」
 「いいえ、いいえ」
 毅然とした兄の態度に、ラケシスはただ首を振った。
 「たとえ遅かったとしても、それでもまだ道はあるはずです。こんなの、間違っています」
 どこが、なにが。そんなことをラケシスは言わない。説明する言葉を持たないのだ。だが、聞く者の耳には、思考には、きちんと届く。たとえ言葉にはならなくても、それは誰もが持っている疑問なのだから。
 この戦いは間違っている。本来ならば、あるべきではないものなのだ。ただ、それを真っ向から否定することができないだけで。
 なぜ、戦わなければいけないのか。この場にいる誰も、望んでなどいないのに。
 「シャガール王は、今シルベールにおいでですか?」
 「…ああ。度重なる敗戦に…冷静さを欠いておられる」
 「ですが、いまや陛下をお守りできるのはお兄さまだけです」
 ラケシスは堪えるように眉を寄せた。
 「……陛下に道を進言できるのも、お兄さまだけだと、わたくしは思います」
 「……ラケシス…」
 「お願いです、お兄さま。どうかシャガール陛下にご進言を。この戦いは、間違っています」
 言い募る妹に、ラケシスとはやや違う理由でエルトシャンは眉を寄せた。
 苦悩、だ。
 息を吸って、吐く。まだ、自分がミストルティンを握り締めたままだったことに気付き、だが、剣を鞘には収めなかった。
 「…ベオウルフ。なぜ、ラケシスをここに連れて来た?」
 責めているのではなかった。純粋な、問い。
 ベオウルフは肩をすくめた。やや、申し訳なさそうに。
 「これは俺の手を離れた問題だ。この姫さんが戦を見て、考えて、ここに来ることを決めた。俺にできるのは、せめて死なないように守ることだけだ」
 守ってやってくれ。
 エルトシャンともうひとり、かつてベオウルフにそう頼んだ。それが根底にあったのか、それとも別の何かか。エルトシャンたちには分からなかった。
 だがラケシスは今ここにいて、ベオウルフがそれを認めている。
 親友同士の命と国をかけた戦いに、割って入った。
 「…お兄さま、わたくしはずっとシグルド公子の保護下におりました。シグルドさまは心の底からこのアグストリアを案じております」
 「……ああ、知っている」
 だが、それがなんになるというのだ。たとえエルトシャンが知っていても、それはシャガール王には伝わらない。
 「わたくしも陛下のもとに参ります。わたくし自身が証拠となって、シャガール陛下をお止めします」
 発端は、シャガール王だった。それがずっとラケシスの中にある。
 「どうか、お兄さま」
 「もう何も言うな」
 エルトシャンは首を振った。
 「もういい。分かっている、分かっていた。あるべきではない事ぐらい」
 静かな目で、ラケシスを見つめた。
 「俺がもう一度、シャガール王をお止めしよう」
 「……エルトシャン…」
 「お兄さま、わたくしも…」
 シグルドとキュアンが名を呟く。ラケシスの申し出に、エルトシャンはもう一度、首を振った。
 「いや、お前はこなくてもいい。ここでシグルドたちの元にいろ」
 ふと、妹以外に顔をめぐらせる。親友、部下、友人、そして、また妹に。
 かすかに、息を吐いた。
 「これを」
 手にしていたミストルティンを腰の鞘に収める。そして、馬にくくり付けてあった一振りの剣を、ラケシスに差し出した。
 「…お兄さま?」
 ベオウルフは馬をゆっくり進める。差し出された剣を手にとって、ラケシスは目を瞬かせた。
 「これを、お前に託す」
 きっとお前を守ってくれる。エルトシャンの表情には、笑みが浮かんでいた。
 「エルトシャン!」
 思わず声を荒げたシグルドに、エルトシャンは笑いかけた。キュアン、シグルドが馬を寄せてくるのをやんわりと拒絶する。
 「俺は、…俺も、騎士なんだ」
 達者で。
 告げた言葉は親友と、そしてたったひとりの妹に向けられていた。ベオウルフは何も言わなかった。ただ、視線を交わしただけだ。
 ひらりと、馬首をめぐらせたエルトシャンは高らかに叫ぶ。
 「クロスナイツ、剣を収めろ!これよりシルベールに帰還する!」
 命令に、近くにいた兵士がラッパを吹き鳴らす。とたん、クロスナイツは一斉に馬首をひるがえした。
 「ラケシス、生きろ」
 幸せに。
 呟きはかすかにラケシスの耳に届く。そのまま馬の腹を蹴り、駆け出した。それに続くようにクロスナイツも馬を走らせる。
 渡された剣が、見覚えのある刻印を刻んでいることに気付いた時、ラケシスは息をのんだ。
 これは、この剣は。
 「お兄さま……!!」
 叫ぶ声は、しかし無数の馬蹄音と砂煙に消され、兄に届くことはなかった。
 永遠に。



   *



 沈黙が戦場であった場所に降りた。
 もはやこの場にクロスナイツはいない。あるのはただ、シグルド軍下の兵士のみ。突然去っていった敵軍にただ呆然と剣を握り締めていた兵士たちが、顔を見合わせる。
 森の外れの街道で、自分達の指揮官がいるという声が聞こえてきて、彼らはそこに向かって馬を進め、あるいは歩き出した。
 「…どういう、ことだ」
 森林の中、剣を振るっていたアイラが眉をひそめる。
 高らかなラッパの音が鳴り響いたかと思えば、今まで剣を合わしていた敵兵が何の躊躇もなく退却して行った。明らかに優勢は向こうであったにもかかわらず、だ。
 「アイラさん」
 デューが走り寄ってくる。なぜか戦いの後の少年は、怪我が少ない。
 「行こう、向こうでシグルド公子たちが合流していたみたい。ホリンの部隊も、そっちに向かってるよ」
 「…ああ、分かった」
 そこでようやく、アイラは見通しのきかない森の中で、自分の部隊の者たちが集まってきているのを知った。数は、大幅に減っていた。


 「…シグルド」
 かけるキュアンの声は重たく、静か。「ああ」と小さく頷いて、シグルドは苦悩に唇を噛んだ。
 「…シグルド様、遅くなりましたが」
 ミデェールが進み出る。今までの光景をずっと見ていたミデェールは、彼らが何を思っているのか、これから起こるであろうことを想像できた。だがあえて、冷静な声で現実を語る。
 「……ああ、マッキリー城での働きは、聞いている。ご苦労だった、ありがとう」
 無事で良かった。
 努力して笑みを浮かべたようなシグルドだったが、その言葉は本心のものだ。
 周囲を見回して、兵士たちが集まってきたのを知る。
 「…皆、ご苦労だった。戦はとりあえず、終わったようだ」
 何が起こったのか、シグルドは告げなかった。
 ただ、クロスナイツの脅威が去ったことだけが伝わる。歓声よりも、安堵の息が漏れた。
 「一度、アグスティに戻るか」
 キュアンの言葉に、シグルドが頷いた、その時だった。
 「シグルド公子!北西の海上からドラゴンナイトの騎影が!」
 ばさりと、上空から叫ぶ声に全員が顔を上げた。
 フュリーの蒼白な顔に、キュアンの目つきが変わる。
 「ドラゴンナイト……まさか、トラキアの部隊か…!」



 アグスティの見張り台から、クロスナイツが撤退したとの報告が入る。
 とりあえずの窮地は去った。そのことは城内の人間にも分かり、やはりずっと詰めていた息を漏らす。
 オイフェはそれも同様で、地図が広げられた机に、片手を付いた。
 「…オイフェ」
 とんとん、と、小さく扉が叩かれる。かすかに開いていた扉から顔をのぞかせた少女に、オイフェはほほ笑んだ。
 「ウィル」
 どうしたんだい。自ら扉の方まで歩いていく。年下の少女はヴェルダンとの戦の際に、保護下に入った存在だ。戦争に関わりのない生活を送る幼いウィルシェルーンを、会議室に入れるのは気が引けた。
 「シャナンを知らないか?」
 出入り口を挟んで中と外。見上げる少女の問いに、わずかにオイフェは表情を固くする。だがすぐに、首を振った。
 「ごめん、知らない。どうかしたのかい?」
 「もうずっと姿を見ていないんだ。ディアドラさまも祈りの間にこもりきりだし、エーディンの所にはあんまり行ったらだめだし、誰も遊んでくれない」
 不満げに言う少女に、オイフェは内心で唇を噛む。告げるわけには、いかなかった。
 「今は戦争中だしね……」
 仕方ないのかもしれない、そんなことを言おうとした時だった。
 「オイフェ、アーダン!」
 レヴィンの声が廊下に響いた。
 鋭い声に顔を上げる。会議室の中にいたアーダンも、とっさにオイフェのそばに並んだ。
 「レヴィン王子!?」
 少女のことは少し脇においておく。ウィルもまた、一瞬で変わった場の空気に、緊張した視線を向けた。
 「ドラゴンナイツが現れた、俺も今から出撃するぞ!」
 早足で歩いてくるレヴィンの剣幕と、新たな敵の出現に、オイフェは目を見開き、そして頷いた。



   *



 帰還したエルトシャンを迎える主君の目は冷ややかだった。
 それは、彼も覚悟していたことだ。叱責も何もかもすべて、身に受ける覚悟だった。
 シルベールに戻る際に、ドラゴンナイツの騎影を見た。なぜここにいるのか、詳しくはエルトシャンには分からなかったが、しかしこの大陸に存在するドラゴンナイトの部隊はトラキア王国が有するもののみであり、また、トラキア王国といえば傭兵を生業とする国でもある。
 すぐに、シャガール王がトラキア軍を雇ったのであろうことが想像できた。
 「……言い訳でも言いに来たか」
 怒りというよりは侮蔑を込めた言葉を投げかける。
 片膝を付いたエルトシャンは、かけられた言葉に顔を上げる。
 「ご無礼を承知で再度申し上げます。この戦いは無意味です、陛下、どうぞお考え直しを」
 「まだ言うか!」
 一瞬で表情を変え、忌々しそうに叫んだシャガールは、手元にあったグラスを地面に投げ付けた。パリン、という音にエルトシャンの思考が冷える。
 主君を見上げる青年の静かな視線に、シャガールの不快感が積もった。
 「ここで我々がアグスティを奪還したとしても、グランベルの施政下にあったこの国はまだしばらく混乱するでしょう」
 エルトシャンは口を開く。
 「それにたとえ国内のグランベル軍を掃討したとしても、グランベル本国が黙ってそれを見ているわけはありません。この連合内のほとんどの王国が倒れた今、国力、戦力は明らかにこちらが不利。勝てる見込みはありません」
 淡々とした言葉に、シャガール王の頬が引きつり、震えた。
 「陛下、どうかこの国のことを真にお考えならば」
 「黙れ!エルトシャン!」
 ダン!
 こぶしを椅子に打ちつける。部屋の中が静まり返り、中にいる騎士や女たちがわずかに青ざめた。シャガール王の唇は、強く噛みすぎて紫色を帯びていた。
 握り締められた腕ががたがたと震えている。腹の底から出てくるような声が、暗い憎悪を帯びていた。
 「お前はいつもそうだ。偉そうに、さかしいことばかりを言い続ける。ヘズルの血か何か知らんが……小国の若造風情が…」
 「…お言葉ですが陛下」
 「うるさい!貴様はただ私の命令を聞いて軍を動かしさえすればいいのだ!」
 「陛下!」
 「黙れ!こいつを黙らせろ!」
 まっすぐなエルトシャンの視線はシャガール王からそれることがない。それを振り払うように、逃れるようにシャガールは顔を振り、声を荒げた。瞬間、そばに控えていた兵士たちがエルトシャンを後ろから押さえ込む。
 床に顔を押し付けられて、それでもエルトシャンは首をひねり、主君を見上げ続けた。
 「へい……」
 「まだ言うか貴様!」
 「どうかお考え直しを…」
 腕をひねり上げられ、頭を強く押さえ込まれ次ぐ言葉もかすれる。だが、エルトシャンは訴え続けた。それしかできないかのように。ただ、主君を見上げ続ける。
 「陛下」
 「うるさい!もういい、貴様などいらん!殺せ!今すぐこの男を殺せ!反逆罪だ!」
 のどの奥が引きつるまでにシャガールは叫ぶ。
 一瞬のためらいを見せた兵士達に、顔を真っ赤にして椅子を殴った。
 「殺せというのが聞こえないのか!」
 声が裏返った。
 そのぐらいの叫び。まるで鞭打たれたかのように、エルトシャンの片側を押さえていた兵士がびくりと震えて、腰の剣を抜き放った。女たちが叫び声を上げとっさに目を覆う。
 「陛下!」
 身体をよじりもせず、逃げる動作ひとつなく、エルトシャンは叫んだ。
 真摯な視線を、曲げもしなかった。
 長剣が、上から下へ、振り下ろされた。
 沈黙に、誰も動くことができなかった。


 ……ノディオンのエルトシャン王の処刑後すぐに、エルトシャンの指揮下にあったクロスナイツも捕らえられ、あるいは処刑された。それは、シャガール王の軍下にクロスナイツを編入させる決定を、彼らが誰一人として受け入れなかったからである。



[185 楼] | Posted:2004-05-24 09:55| 顶端
雪之丞

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【 第十三話 】




 いまだ血に濡れる部屋の中を片付けるものは誰もいなかった。
 この顛末の中心となった人物は、原因となった男が望みどおり死んだ後でも怒りをおさめることができなかったようだ。
 ブーツの先で動かない肩を蹴って、絨毯の上で足音も聞こえないまま、大またで部屋を出て行った。慌てて付いて行く兵士達と、侍女達。幾人かの女は、衝撃に耐え切れずに部屋の中で突っ伏して、泣いた。
 トラバントはすべてを見ていた。
 元々は、クロスナイツ出撃後のトラキア兵の行動について、話し合うためにこの謁見室にいたのだ。軍を退き、シルベールに戻ってきたエルトシャンの入室に、部屋の脇にどいただけで。
 影になる場所にいたトラキアの王に、ノディオンの獅子王が気付いた様子はなかった。それどころではなかったからなのかも、しれない。
 (愚かだ)
 トラバントは思う。
 胴体から頭を切り離され、無残に横たわる青年を一瞥し、彼はそれだけを思う。愚かだ、と。
 主君に訴えるエルトシャンの声は真剣だった。床に押さえ付けられようとも、その視線は曲がらなかった。その最後すらも、堂々とした、そう、何にも臆することのない堂々たる最後だった。
 だが、愚かだと、トラバントは思う。
 エルトシャンが真にアグストリアを思うのならば。エルトシャンが真に統治国ノディオンを思うのならば。
 彼はシャガールを止めるべきではなかったと。
 一国の王が、自らの命を賭けて、意思を貫きとおすなど。すべきではなかった行為だ。王として。
 たった一人しかいないノディオン王が死ぬということが何をもたらすのか。考え付かなかったわけではなかろうに。なのにエルトシャン王はここに来て、死んだ。
 これから何が起こるのか。トラバントにも予想はつく。
 グランベルの軍がこのシルベールまで攻め上ってくるだろう。最初に休戦協定を破ったのはシャガールの方だ。精鋭クロスナイツを失ったシャガールに勝機はない。シャガール王は捕縛されるだろう。運\が悪ければ処刑すらありえる。
 そしてこのアグストリアという広大な国はグランベルの支配下に置かれる。その時、王を失った国々はどうなるのか。国民はどうなるのか。
 分からないはずはないであろうに。
 国民を守る盾となり、どのような苦境をも耐えねばならない、生き続け守り続けなくてはいけない王が死に、苦しみの矢面に立たされる国民の姿を、想像できぬわけがないであろうに。
 ノディオンのエルトシャン王は死んだ。
 堂々たる、最後だった。立派な、最後であろう。
 主君を諌め、己が正義を貫きとおす。だがそれは、騎士の姿だ。個人の正義と忠誠\を固く胸に抱く騎士の姿だ。
 高潔な。
 だかそれは、王ではない。高潔な王では国民を守れない。
 エルトシャンは、国王としてではない、騎士として死んだのだ。
 考え、トラバントは目を閉じた。彼もまた王だ。そして、王でしかない者だ。
 貧しい地で生きるしかない民を、守るために苦渋を耐える。誇りも捨てる。国王自らが傭兵となり、他国に仕える。
 自分は騎士ではない。
 こうはならない、決して。

 「陛下」

 シャガール王が退出の際に開け放していた扉から、部下が姿を現す。他国の城中を遠慮なしに歩き、入室する青年はトラバントのそばでうずくまる死体や、泣き伏す女達が視界に入らないわけはないだろうに、あえて無視して主君に礼をする。
 「ドラゴンナイト部隊、揃いました。いつでも出撃は可能です」
 トラキアよりともに兵を率いてきた、このパピヨンという男は騎士だ。トラバントは報告に頷く。
 「出撃だ。上ってくるだろうグランベル軍を討て」
 指示に、パピヨンは頷いた。



   *



 出現したドラゴンナイトの騎影に息を呑んだ者は決して少なくなかった。いや、その場にいたすべての者が驚愕に言葉を失ったと言ってもよい。
 まだ遠い空に一列になって飛ぶ姿は、まるでひとつの大きな飛竜のようにも見える。
 明らかにその針路はこちらに向かっており、過酷な戦いを何とか途中で回避したシグルド軍は休む暇もなく、ただちに陣を整えるしかなかった。
 一度、シルベールの城空あたりで飛竜の部隊が旋回する。そこに一騎の飛竜が合流して、ドラゴンナイト部隊はすぐに翼を動かした。
 「あまり固まりすぎるな!狙い撃ちにされるぞ!」
 シグルドの声よりも早く、キュアンの鋭い声が飛んだ。
 「弓兵を主力にしろ、他の者達は弓兵を守れ!」
 続く指示に全員が動き出す。
 フュリーがわずかに高度を下げて、シグルド軍の後方に回った。ドラゴンナイトが向かってくる場所で、ただひとり空にいるのは危険すぎた。
 「ラケシス王女、ここはどうか……」
 馬を駆ってくるフィンが、ベオウルフの操る馬の隣に並ぶ。レンスターに生まれ、トラキアと戦い続けていた祖国の歴史を身を持って知る青年の言葉に、ラケシスは顔を上げなかった。
 まるで気付いていないかのように、ただ手の中の剣を見つめている。
 その剣の名を、ラケシスは知っていた。
 大地の剣。
 魔力を秘めた、希少な剣。かつて時のノディオン国王がが、アグスティの国王から下賜された、剣。忠誠\の証。
 「大地の剣……」
 「ラケシス王女!」
 呟きに、フィンの言葉が重なった。それでようやく、ラケシスは顔を上げる。
 あたりを見回して、騒然とした、そして緊張を孕んだ周囲の空気に眉を寄せた。
 「ドラゴンナイト部隊が接近しています。どうか、安全な場所までお下がりを」
 「フィン?…ドラゴンナイト?」
 「他国に出張に来る傭兵部隊だ、トラキアの主力じゃあないだろうが、厄介な相手だ。お前は少し下がってろ」
 「ベオウルフ?」
 二人に言われ、ラケシスはきょとんとする。だが、分からない頭でも彼女がまた戦から遠ざけられようとしているのはぼんやりと感じられた。なかば条件反射のように、ラケシスは眉を吊り上げた。
 「またあなたはそんなことを……!」
 「フュリー!」
 声を荒げたラケシスの声に、今度はベオウルフの声が重なる。ペガサスナイトの女性を呼ぶとともに馬を動かしたベオウルフに、ラケシスはわずかによろめく。
 近づいてくるフュリーに、自ら馬を寄せて、ベオウルフはラケシスの肩を押さえた。
 「こいつを連れて安全な所まで下がっていてくれ。ついでに援軍を呼んでくれると助かる」
 押さえた肩を、今度はぐい、と前に押す。強い力にラケシスは眉を寄せる。
 「ベオウルフ?」
 突然の要請に、フュリーもわずかに驚き、しかし彼が示す少女がノディオンの王族であることに意識が及んだのだろう。すぐに頷いてラケシスに手を差し出した。
 この場で彼女が戦うことは、賢明とはいえない。敵軍の集中攻撃にあうくらいならば、もっと他の道があるはずだ。
 祖国シレジアでは天馬騎士団を率いる身であるフュリーは、冷静だ。
 あまり状況を分かっていなかったラケシスは、流されるようにベオウルフの馬から移った。


 そこが第二の戦場となるのに時間はさほどかからなかった。
 接近し下降をはじめたドラゴンナイト部隊と地上のシグルド軍が激突する。ジャムカやミデェールが率いる部隊の第一矢に、幾騎かのドラゴンが地上に落ちたが、決定打にはなるわけがない。
 空と地上、苦戦が予想される戦いが、また始まった。
 それを遠くから眺めているラケシスは、フュリーとともに一路アグスティに向かっていた。援軍を請うため、そしてラケシスたちを安全な場所に移すため。
 だが、アグスティの物見の塔からはすでに援軍が出発したという合図が送られている。フュリーは城に向かう道の上空で、その援軍を合流する時を待っているようにも見えた。
 「…フュリーさんは、」
 ぽつりと、口を開く。
 下方に意識を集中させていたフュリーは、背後の少女を振り返った。
 「ラケシス様?」
 「フュリーさんは、なぜ戦うの?」
 女性でありながら、彼女は武器を持ち、そしてシグルド軍に属するただひとりのペガサスナイトである彼女は、周囲に請われて戦う。彼女自身それを当然としていた。
 こうやって戦場から離れているのに、フュリーは当たり前のように槍をそばにくくり付けている。
 同じく武器を持つラケシスだが、戦場から離れるのと、離されるのでは大きく意味が異なった。
 「私が騎士だからです」
 至極真面目な返答だった。簡潔。迷いのかけらもない。
 かえってラケシスの方が拍子抜けてしまうくらいに。
 一瞬、ラケシスは手の中の大地の剣のことすら、意識からそれた。…だが。
 騎士。という言葉が胸に刺さる。
 確かにラケシスは騎士ではない。わずかばかりの剣を振るう力があっても、彼女は王女であり騎士ではない、戦士ではない。
 では、兄はどうなのだろう。
 ラケシスが王女であるようにエルトシャンは王であり、それは、騎士ではないのではないか。
 騎士では、ないのではないか。
 「…フュ…」
 「ラケシス様!」
 呼んで、フュリーは下方を指差した。街道を走る騎影が現れたのだ。数十騎の馬。その先頭を駆るのは緑の髪の青年。
 「レヴィン様…!」
 喜びと戸惑いと、二つを浮かべたフュリーの声と地面にかかるペガサスの影に、レヴィンは空に向かって片手を上げた。



   *



 決して楽な戦いではなかった。
 魔法を武器とするレヴィンや、アゼルたちの援軍は確かに戦況を変えたが、トラキアの指揮官が早々に戦いに見切りをつけなければ、おそらく双方の犠牲者はもっと増えていたはずだ。
 パピヨン自身が後詰めとなって、残る兵士たちの退却を促した。
 そして彼自身は、因縁の相手でもある、レンスターのキュアン王子に討たれた。
 竜の死骸が、地面に積まれていた。
 アグスティの真西にある林の一角に小さな村があり、そしてそこからさほど距離のない場所に、敵兵が陣を張っていた跡地があった。
 偵察隊からの報告で、アグスティではなくそちらに速やか軍の移動をシグルドが指示したのは、彼なりに何か思う所があったからなのかもしれない。
 沈黙し、思案するように目を伏せるシグルドの様子に気付ける者は少なかった。皆、度重なる戦いに疲弊しきっていた。
 フュリーのペガサスに乗\り、後から合流したラケシスは、簡易テントが建てられた林の中にベオウルフの存在を見つけて、息を吐くのを止められなかった。
 ほぼ無自覚に行われていることだが、このときようやく気付いたのだ。
 自分はベオウルフが無事で喜んでいる。ベオウルフが戦っている間は心配している。と。
 不思議と、気付いても不快感は湧かなかった。驚きもなかった。
 ただ、するりとその事実が脳裏にしみこみ、(そう、わたくしはベオウルフを心配していたのね)と納得しただけだ。
 他者よりもまずベオウルフを気にした自分の姿に違和感はなかった。確かに彼は友人ではないし、いまいち関係のはっきりしない間柄ではあったが、それでもともにいる人々の中では格段に親しいと思える、そんな相手なのだった。
 親しい者から順に心配をしていく心理を、ラケシスはどうしても罪だとは思えなかった。それが王女としてふさわしいかどうかは別にして。
 「ベオウルフ!」
 呼んで、小走りで近付く。
 顔を上げた青年がシニカルに笑む姿に、ラケシスもほほ笑んだ。もし何か嫌味を言われたら、すぐに言い返そう。そんなことを思ったりもした。ベオウルフがラケシスの手の中にある剣を見ていたことに、気付かなかった。
 「無事で良かったわ」
 「なんとかな」
 怪我がないわけではないが、命に関わるようなものはどこにもない。これならば自分の回復魔法でも十分だと、ふとそんなことを考える。
 「しばらくここで陣を敷くらしい。シルベールの動向を見るんだろうな」
 ふと視線をそらして、ベオウルフは言う。その先には、シグルドたちが軍議を続けている天幕がある。
 「…そうなの」
 城に戻るか、とはベオウルフは言わなかった。それがラケシスには不思議だった。
 しばらくの沈黙、遠くの方でエスリンがラケシスを呼ぶ声が聞こえた。治療を手伝って、その台詞にラケシスは慌てて頷く。
 「ベオウルフ、あなたも」
 「俺は後でかまわんさ」
 「…相変わらずね」
 肩をすくめる青年にラケシスは苦笑して、ひらりと身をひるがえしてエスリンの元へ駆け出した。


 その夜、シグルド軍の天幕に近くの村から数名の男たちと、そして幾重にも包帯を巻いた騎士たちが訪ねて来た。
 村人に支えられるようにして、シグルドの前に膝を付いた騎士たちは、ゆっくりと、淡々と、自らの怒りと悲しみを押し込めるように言葉をついだ。
 彼らは、いまや瓦解したクロスナイツの生き残りであった。
 そして彼らが伝えたのは、主君の怒りに触れて処刑された、彼らの指揮官エルトシャンの、死であった。

 ……その次の日の早朝、シルベールの城門にひとつの首が、吊るされる。
 反逆者エルトシャン。シャガール王はそう記させた。


第十四話 ---- シャガール王憤死。



[186 楼] | Posted:2004-05-24 09:56| 顶端
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【 陽光 】


 その女性は大変不機嫌そうな顔をして、林の中で立っていた。…いや、その剣呑な光を宿した漆黒\の瞳と固く結ばれた唇は明らかに怒りを表している。
 「全く…、このような事になるはずではなかったのに…」
 忌々しそうに、言葉を漏らす。
 事実、その通りであった。
 彼女の名はアイラ。イザーク国王の娘であり、国王の右腕である兄とともに国を支え、イザークを守ってきた女性である。しかし、彼女が今立っているのはイザークの林ではない。
 蛮族国家と罵られる、ヴェルダン統治下の、ジェノア城から少し離れた林の中に、彼女は立っていた。
 事の発端は、リボー族がダーナの街に侵入したこと。
 友好都市であるダーナの救援に大国グランベルが遠征軍を編成する時間は、さほどかからなかった。だが、イザークの国王マナナンは戦などを望むはずがなく。
 今回の事件の元凶ともいえるリボー族の族長を処刑し、その首を持って自らグランベルの陣へと弁明に向かった。……しかし、それから二度とマナナン王は戻ることはなく、グランベル遠征軍はイザークへ宣戦布告をした。
 国王を失い、イザークの民は蜂起した。王太子マリクルもまた民衆\の勢いを止めることをあきらめ、そしてグランベル王国のと全面戦争を決意したのだ。
 大国グランベルに勝てる見込みなど、ほとんどないというのに。
 『息子シャナンを連れて逃げてくれ。イザークの正統な血を絶つわけにはいかないのだ。アイラ、息子を、頼む』
 逆らえるはずが無かった。
 たとえ兄が死を覚悟していたとしてもだ。
 兄はアイラにもっとも過酷な命令を残したのだ。愛する肉親アイラとシャナンに生きていて欲しいがために。
 『アイラ、シャナンをお願いね』
 夫とともに王都イザークに残った義姉のやさしくて悲しい微笑みが、目に焼きついて離れなかった。
 なんとしても、シャナンを守り、イザークを建て直す。
 新たな使命を胸に刻み込んで、単身でまだ幼いシャナンを守りながら、ここヴェルダンに来たのだ。
 (なのに、この様はなんだ!?)
 ギリ、とアイラは唇を噛む。
 同盟国といえど国力の低いヴェルダンならばグランベルの手も伸びないだろう。そう考えてこの国に身を寄せたというのに、他でもないヴェルダン国王が盟約を破りグランベルに侵攻したのだ。 しかも、対イザークのためにグランベルの主要な軍隊が居なくなったのを狙いすまして。
 アイラとシャナンにとって、これほど皮肉なことが起ころうとは…!!
 しかも、国境付近のユングウィ公国の公女を第一王子のガンドルフが拉致してきたのだ。 公女を奪還するためのシアルフィ公国の軍が、もうそこまで近付いてきている。
 『シャナン王子は私がしっかりとお守りしよう、だからと言っては何だが、シアルフィ軍討伐に手を貸してもらえんだろうか?』
 最前線ジェノア城の城主でありヴェルダン第二王子キンボイスは、抜け抜けとそんなことを言ってきた。
 要するに、
  シャナン王子は幽閉する。助けて欲しければこの国のために戦え。
ということだ。
 自分と、そしてシャナンの巡り合わせの悪さにはため息しか出てこない。唯一の救いはシャナンより2つ年上のあの幼い少女の存在だろう。
 キンボイスの娘である少女ウィルシェルーンは眼に涙をいっぱいためて、出撃前のアイラに謝り続けたのだ。「ごめんなさい」と。
 あの子の存在は、自分とシャナンに随分と安らぎを与えてくれるものだった。
 (シャナンを人質に捕られた上での戦いだが、あの娘を守る戦いでもあるのだ)
 アイラは自分に言い聞かせる。
 二人の幼い子供たちのためだ、
 アイラは鉄の大剣を握り締めた。


 しかし、敵は予想だにしていなかった方角から現れた。
 「何だよ、先回りされていたなんて、信じられない!!」
 心底悔しそうな声をあげて剣を構えたのは、驚くべきことにまだ幼さを残した少年であったのだ。
 「子供…!? シアルフィ軍ではないのか…!?」
 驚愕に刮目する。金色の髪を揺らして走ってきた少年の他には人影は見えず、しかし戦場であるこの地で剣を構える姿は明らかに戦いに係わる者の証明だ。
 「シアルフィ!お姉さん、シアルフィって言った?良かった、もうそんな所まで来ていたんだ!」
 安堵の声を漏らした少年は、わずかに緩んだ表情を途端に引き締めた。
 「じゃあ、もう一頑張りだね。お姉さん、できるだけ派手においらと戦ってね。ヴェルダン軍がいっぱい集まるようにさ!!」
 さらっととんでもないことを言ってのけて、少年は自分に向かってくるではないか。
 その動きは素早く、不意を突かれたアイラは刃の切っ先を軽く肩当てに受けた。
 そして、気付く。
 「お前、シーフか…!」
 「そう、ごめんね」
 にんまりと笑う少年の手には、今までアイラが所持していたはずの財布がある。
 それならば少年のこのスピードにも得心がいくと言うもの。しかし、少年が先ほど口にした言葉が、どうしても理解できなかった。
 「なぜお前はわざとヴェルダン兵を集めるようなことをするのだ、死にたいのか!?」
 そう、いくら素早さと運\のよさに定評があるシーフでも、戦って勝つことは違うのだ。しかもまだ経験の薄いことが容易に見て取れるこの少年では、兵一人でも持て余すだろう。
 「死にたくはないけどさ」
 アイラが無意識に手加減していることに、少年は気付いているのだろうか。
 攻撃と防御を繰り返しながら、少年は言った。
 「おいらはまだ大人じゃないけど剣を持って戦う力がある。だったら、やっぱり守るでしょ、普通」
 どうも決定的な説明が含まれていない返答が返ってきた。
 しかし、「守る」の言葉に、アイラは反応する。
 「しかも、あの人は国にとって重要な人だしさー、偉そうで乱暴な王子様に絶対にシアルフィ軍までお連れしろー、なんて、言われたらさ、やっぱりやり遂げないとって、思うでしょ」
 独り言のように言って、勝手に納得している少年の言葉に、アイラはある可能性に気付いて思わず剣を振るう手を止めた。
 「まさか、ユングウィのエーディン公女を守っているのか!?」
 「あれ、バレちゃった」
 あっさりと肯定してくる。
 知られたことに対する焦りなどは皆無。どこか掴み所のない、真意のわからない態度だった。
 しかし、アイラは呆然と少年を見つめることしかできなかった。
 つまり、この少年は単身でエーディン公女を守り、シアルフィ軍の元へ逃がすために自ら囮を買って出たのだ。
 …自身の死すらも覚悟して。
 なんという、事であろうか。
 かたや自分は守るべき甥を幽閉され、自分を気遣う少女を泣かせてまで望まぬ戦いに身を投じているというのに。
 なんという、不甲斐なさだ……。
 内心で自責するアイラに、戸惑ったように少年が声をかけた。
 「…お姉さん?どうしたの、突然止まっちゃってさ」
 「私は、なんとも情けない女だ」
 ぽつりと、アイラは呟く。少年は首をかしげた。
 「どうしたの?」
 だかその回答は突然第三者の介入によって阻まれる。
 マーファ城のエーディン奪還部隊が追いついてきたのだ。
 「うわっ!これはちょっとマズイかも。お姉さんとおっさん達の挟み撃ちだ、あとどれだけ時間を稼いだらエーディンさん着くんだろう!?」
 そんなことを大声で言う。これでは自分が囮であると言っている様なものではないか。 「ああ、まあいいや。とにかく出来るだけ頑張ったらいいんだもんね」
 そう言って剣を構えると、今度は向かってきたアクスファイターの部隊に突入していく。
 (無茶だ、いくらお前が素早くとももあいつらとはレベルが違うんだ。しかも向こうは十人はいるじゃないか…!!)
 はっとして、アイラは少年の後ろ姿を見た。
 しかし、同時に彼の言葉が蘇る。

 ――「あとどれだけ時間を稼いだら…」
 ――「出来るだけ頑張ったらいい」

 少年は、無茶を承知しているのだ。
 知ったうえで、戦うのだ。
 そこまで考え到ったとき、自然と身体が動いた。
 剣を握る腕に力がこもる。
 新緑の光が、剣を包んだ。
 「流星剣!」
 光を帯びた剣筋が男たちを襲う。
 数分も経たないうちに、マーファの追撃軍は地に沈んだのだ。


 「助けてもらって嬉しいんだけどさ、お姉さんヴェルダン軍でしょ?良かったの?」
 少年は妙なところを心配してくる。
 そんな言葉に、アイラは肩をすくめた。
 「私はイザークの民だ。今は人質をとられてやむなくヴェルダンに協力していただけのこと。しかし、やはり私は間違っていたようだ」
 「間違う?」
 「守るというのは相手に従うことではない。私は戦う相手を取り違えていた。倒すべきはキンボイスだ」
 そうしてアイラは少年に笑いかけた。
 「お前のおかげでそのことに気がついた、心から感謝する。私の名はアイラだ。もう会うことはないだろうが、達者で生きろ」
 そう言って、アイラは駆け出した。
 シャナンの囚われている、ジェノア城に。



 しかし、たどり着いたときにはジェノアは陥落しており、蒼白になってシャナンを探すアイラが見たものは、開放されたシャナンと、彼と談笑している青い髪の青年だった。
 シアルフィ公国、公子シグルド。
 誠\実で、真摯な光を眼に宿した青年は、アイラにこう言った。
 「シャナン王子は私が責任を持ってお守りします」
 と。
 言葉通りの真意しか持ち合わせていないだろう青年は、自分がそのことで不利な立場に置かれることを充分承知していた。
 それなのに、誠\実に、笑う。
 「私はシャナンを守ると兄に誓った身だ。それにシャナンを救っていただいた恩義もある、私も貴方を手伝おう」
 私はグランベルに組するのではない。貴方に協力するのだ。
 アイラの言葉に、シグルドは心底嬉しそうに笑った。
 「ありがとう、とても心強い」
 器の違いというものを、アイラは実感した。この青年ほど大きな人物は見た事がなかった。上に立つべき者のの器、そんな言葉が浮かんだ。
 そして、ふいにもうひとりの子供の存在も脳裏をよぎる。
 「シグルド殿、この城にはシャナンくらいの少女が居たはずです、あの子はどこに…」
 ジェノアが陥ちたということは、キンボイスが死んだということだ。では、娘であるあの子はどうなったのだ…!
 そこまで考至ったアイラの袖を、シャナンが引っ張った。
 「大丈夫だよ、アイラ。ウィルは僕とずっといたんだ、一緒に助けてもらったんだよ」
 「けれど、今は居ないじゃないか」
 「アイラ殿、彼女は私の妹が見ています。よければご案内しますが」
 シグルドの申し出にアイラが頷いたとき、
 「シグルド様、おいらが案内するよ!」
 元気の良い声が飛んできた。
 これは、この声は…!
 「デューか。そうだな、頼むよ」
 金髪の少年の肩を、シグルドは叩いた。
 「へへっ」と笑って、少年はアイラを見上げる。
 「また会えたね、お姉さん。仲間になってくれるなんて驚いたけど、嬉しいや。俺はデューって言うんだ、よろしくね」
 驚いて言葉が次げないでいるアイラを見かねたように、シャナンが口を開いた。
 「アイラ、はやくウィルのところに行こう?ウィルも僕たちと一緒に行くんだよ、シグルドがいいって言ってくれたんだ!」
 「ウィルも一緒に!?」
 そんなことをすれば益々自分の立場が悪くなるということを、この公子は分かっているのだろうか。
 それを感じ取ったのであろう。
 シグルドはアイラに対して、穏やかに微笑んだ。
 (ああ、全て、分かっておられるのだ……)
 シグルドという人物の片鱗を、アイラは垣間見た気がした。
 (守ると誓ったのは、シャナンだ。けれど、この方のために剣を振るうのも、悪くないかもしれない…)
 考えて、微笑んだ。
 心なしか不甲斐ない自分の答えが見つかったような気がしたのだ。
 「さ、行こう、お姉さん」
 デューが、穏やかに笑った。



--------------------------------------------------------------------------------

だいぶ前に書いたデューとアイラ、出会い篇です。
この二人の話には、オリキャラ、ウィルがたくさん出てきます(汗)。



[187 楼] | Posted:2004-05-24 09:56| 顶端
雪之丞

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【 新緑 】


 ハリア公爵家のグラーニェ嬢と言えば、レンスター王国内では、
 「ああ、あの病弱な」
 と、たいていの者が呟くような評判を持つ公爵令嬢だった。
 その容姿は整っているし、たおやかにほほ笑む姿はゆったりとしていて美しいが、けっして人目を惹くような華やかさを持っているわけではなく、その病弱さもあって社交界にもほとんど出席することがないために、周囲の人間の意識からはややはずされている観がある存在だったのだ。
 むしろ、まだ幼い彼女の弟の方が、その大人びた賢さに定評があるくらいだ。
 しかし、その家柄は決して軽くはなく、遠い昔からレンスター王家とともに歩んできた家系は古く、また近年では彼女の母の姉がレンスター王家に嫁ぎ、嫡子を産んだという歴史がこのハリア家を更に有力な地位につけていた。
 つまり、現在のレンスター王子であるキュアンのいとこであるグラーニェは、歴史ある公爵家の一人娘としてはいささか周囲の認識の薄い存在であるといえた。


   *

 「結婚?」
 突然の言葉にグラーニェは首をかしげる。
 その言葉は、どうも自分とは遠い気がしたのだ。それが有力貴族の娘という身分であったとしてもだ。
 「いえ、ただの噂話なんですけれども……」
 その話題を持ってきた侍女が、慌てて首を振る。
 まだ若い侍女は、それでもグラーニェよりも年上ではあったのだが、平生から穏やかなグラーニェと比べて若干感情の波が激しかった。
 きっと、今回も噂を耳にして驚いたままここまで駆けて来たのだろう。
 さほど暑くもないこの陽気に、頬を上気させていた。
 結婚という噂話を本気にしていないのか、それとも冷静なのか、ただ穏やかに椅子に腰掛けているグラーニェに、かえってのまれたように侍女はまた、首を振った。
 「ただ、あまりに急なことだったので……」
 「本当、少し驚いたわ」
 柔らかに笑むグラーニェの言葉はわずかな気遣いが含まれている。
 それを感じ取って侍女はほっと息を吐いた。
 「まったく、こんな噂、どこから出てきたのでしょうね」
 驚いて駆けて来た自分を棚に上げて、侍女は憤慨してみせる。感情をすぐに表に出す年上の侍女に、グラーニェは小さく笑った。



 しかし、その噂話は公爵家の中だけのものではなかったようだ。
 そのことを数日後、グラーニェは知ることになる。
 「結婚をするというのは、本当のことなのか!?」
 事前の知らせもなくハリア公爵家の邸宅に馬を走らせたのは、あろうことかレンスター王国ただ一人の王子だ。
 主人であるハリア公は宮廷に出ているために不在である。その間屋敷を預かる執事頭は突然の王子の訪問に慌てて入り口に立った。
 「これはキュアン王子……このたびは急なご訪問で……」
 それまでもたびたびキュアンはハリア家に足を運\んでいたが、このような事態は初めてである。いささか面食らったような執事頭の言葉を、キュアンは手で制した。
 「突然すまない。だが、グラーニェに聞きたいことがある。彼女はどこだ?」
 グラーニェは生まれつき身体が弱い。
 一週間ほどの外出で高熱を出して以来、彼女はほとんどこの屋敷から出ることはなくなった。出たとしても、一日もたたないうちに帰宅させられる。
 それを知るキュアンは、この時もグラーニェがここにいるであることを半ば予想して、ここまで馬を走らせたのだ。
 勝手知ったる屋敷の中を早足で歩く。
 周囲には王子を止めようとする数人の使用人たちが群がった。
 「王子、お嬢さまは現在中庭に……」
 「中庭だな」
 執事頭の声を途中で遮るようにキュアンは繰り返して、進路を変える。向きを変えたキュアンの前に群がっていた使用人たちが、慌てて道を開けた。
 怒ったりしているのでは決してないが、このような剣幕のレンスター王子を目にするのもまた、初めてなのである。ハリア家の使用人たちは気圧されるような形で王子の後姿を見送った。
 その内の何人かは、少し遅れてキュアンを追いかける。
 あの穏やかで、しかし病弱なグラーニェにもしものことがあってはいけないと、瞬時に心配したからだ。
 キュアン王子がいとこであるグラーニェに危害を加えるなどとは誰も考えない。ただ、王子の剣幕にグラーニェが気を遣い、気疲れから熱を出したら、そんなことを考えたのだ。
 ハリア家の令嬢は、若干心配性が集まったこの屋敷の使用人たちに、それほど身体が弱いと考えられていた。

 「グラーニェ!」
 中庭で草木の世話をしているいとこの姿を見つけ出して、キュアンはわずかに声を大きくした。
 突然呼ばれたグラーニェは、思わぬ姿を見出して少し目を大きくする。
 「まあ、キュアンさま」
 どうしてここに?
 問う前に、キュアンがそばまで来ていた。グラーニェのそばにいた侍女たちも、驚きを隠せない。
 「結婚するというのは、本当なのか」
 真顔で見下ろすキュアンに、グラーニェは首をかしげた。
 その言葉は、数日前に侍女から聞いたのだ。
 「いいえ、いたしませんが?」
 あっさりと、答えるグラーニェは穏やかにほほ笑んですらいる。
 キュアンはとっさに二の句が告げなかった。
 「……しないのか?」
 「はい」
 やっとのことで絞り出した声に、グラーニェは頷く。
 その表情や声音には嘘偽りなどまったくなく、キュアンはいささかよろめきそうになった。
 無意識の内に額に手を置いて、まじまじとグラーニェを見下ろす。
 「…そうか、しないのか。……そうか」
 「よく、その噂をご存知でしたね」
 さすがに気になるのだろう。言うグラーニェに、キュアンは声はなく頷いた。
 「ああ、宮廷内でその噂を聞いた。あんまり多くの者たちが言うもので、驚いて真偽を確かめに来たんだが……」
 杞憂だったか。
 続けるキュアンは心のそこから安堵したらしい。長く息を吐いた。
 だが、グラーニェはといえばハリア家以外の、しかもレンスターの王宮内にまでこの噂が広がっていたことに驚きを隠せない。
 周囲で二人の様子を見守る使用人たちも同じようで、小さなさざめきが広がった。
 「実は、私も同じ噂を数日前に侍女から聞いたのです。…一体、どこからそんな……」
 お父さまはご存知なのだろうか。
 仕事のためにずっと家に帰っていないハリア公爵の姿を思い出す。
 父がいるはずの宮廷にまで、その噂が広がっているとは。
 「…いや、突然押しかけてすまない。どうもお前が嫁ぐと聞いて慌てたようだ」
 やっと落ち着いたらしい、キュアンが謝罪するのをグラーニェはほほ笑んで受け容れた。
 「いえ、心配してくださったのでしょう?ありがとうございます」
 「どうも、お前が結婚するということが想像できなくて」
 「私もです」
 下手をすれば失礼になるような言葉をキュアンは口にする。しかしグラーニェは気分を害した風もない。二人顔を見合わせて、ほほ笑む。
 「せっかくいらっしゃったのですから、お茶でもいかがですか?」
 「ああ、いただこう」
 慣れた様子で誘うハリア家令嬢に、レンスター王子は笑った。





--------------------------------------------------------------------------------

趣味に走ったグラーニェさんのお話です。ハリア家、と適当につけてしまいました(汗。
とりあえず、キュアンとグラーニェさんは恋愛感情の一切ない親戚同士ということでお願いいたします。



【 新緑・2 】


 エルトシャンは不機嫌だった。
 朝食を食べる時も、アグスティにいる父王に代わって政務をする時も始終無言で、眉宇を寄せる秀麗な造りの顔は周りの者が話しかける事すらはばかってしまうくらいだ。
 しかし、たとえ周囲すべてに伝わってしまうくらいの機嫌の悪さでも、周りに当り散らすということをしないのはやはり一国の王子だからであろうか、それとも彼特有の性質なのであろうか。
 だが、たとえ彼が周囲に不満をぶつけなくとも、このノディオン王子が機嫌が悪いことはもはや周知の事実で、だからこそ部下や使用人たちが気を遣い、半ば恐れてエルトシャンに近付かないのもまた、事実だった。

 「お兄さまはなぜ怒っていらっしゃるの?」
 きょとんとした表情で侍女たちを見回す幼いラケシスの言葉に、答えられる者は残念ながらいない。誰も、その理由を知らないからだ。
 いや、エルトシャンが朝突然不機嫌になったことを考えると、原因といった方が良いのかもしれないが。
 困ったように視線を交わす大人たちに、ラケシスは首をかしげて、そうして執務室で書類を睨んでいるであろう兄のもとへと向かおうとする。
 侍女たちは慌ててそれを止めなければいけなかった。
 「姫さま……!」
 まさか、今行っては危険です、とは言えない。
 対するラケシスも、エルトシャンの多忙さと原因不明の機嫌の悪さに、今日はまだ一度も兄に会っていないのだ。
 止める侍女たちに頬を膨らませる。
 エルトシャンの機嫌が悪いということですら、城の者たちの伝聞でしか聞いていないのだ。兄の状態など、分かるわけもない。
 侍女たちも複雑な心境を抱えていた。
 普段なら秀麗な姿の主君のもとに、我先にと行きたがる侍女たちもこの日ばかりは勝手が違う。
 ラケシスが兄を訪れたことでエルトシャンの機嫌が少しでも直れば臣下たちには御の字だ。だが、ラケシスですらエルトシャンの機嫌が改善されなかった場合を考えるのもまた、怖いのだ。
 「もう、一体どうしたの?」
 ラケシスも少しばかり機嫌を損ねたように不満の声を漏らした。



 さてエルトシャンといえば、早朝からずっと執務室で書類整理に明け暮れており、まさか自分の機嫌の悪さが部屋の外で問題になっているなどとは露とも考えていなかった。
 エルトシャンの隣には文官の一人が、扉のそばにはクロスナイツの一人イーヴが立っているが、彼らは淡々と己の仕事をこなしているのでエルトシャンも通常通りの仕事ができる。
 ただ、普段よりもこの部屋に入室をする人間の数が少ないことはあるのだが、しかしエルトシャンはそのことを気にしていなかった。
 朝から手渡された書類の数はだいぶ減ってきている。
 処理済の書類は文官が随時回収していくので、未処理の束は目に見えて減ってきているのだ。
 だが、そのことでエルトシャンの機嫌が回復するわけではない。
 発端は早朝一番に届けられた手紙だ。
 会談のために先日からずっとアグスティにいる父王からの手紙、しかも朝一番に届けられたということからやや緊張した心情で封を開けた。なにか、問題でも起こったのだろうかと。
 しかしその内容たるやエルトシャンの想像を遥かに越えたもので。
 そのあまりの内容にエルトシャンはしばし絶句したのだ。
 あからさまな言葉こそなかったが、その文面が意味しているものはノディオン王でもある父がエルトシャンの結婚を考えていること、また、その相手を探すということ。
 確かに次期ノディオン国王となるべきエルトシャンなのだから、妻帯することは必須だ。由緒あるヘズルの血を継承させるという義務もある。現在聖器ミストルティンは彼の手にあるのだから。

 だが。

 エルトシャンは思わずにはいられない。
 なぜ今なのか、と。
 アグストリアの諸公国間の和平協定もいつ破られるか分からない不安定な政局と、マディノの海賊\が猛威を振るうこの時期に、何をのんきな。
 そもそも父王がアグスティにいるのも、新たな条約締結のためではなかったのか。
 その報告でもなく、早朝に届けられたのは結婚という話。
 エルトシャンの眉間の皺は深くなる一方だ。
 現実的な話として、ノディオンと他の公国とのつながりをより濃くするためにエルトシャンが他王家から妻を迎えるというのなら、まあこの時期でも納得がいく。
 だが、アグストリアの諸公国の中で、果たして自分と年齢のつりあう姫がいただろうかと、エルトシャンは同時に思うのだ。
 自分の記憶の中に、上下十歳差以内の姫や貴族の娘は、数人しかいない。
 彼女たちの誰かなのだろうか。
 考えるのだが、その可能性は低いように思えた。
 誇るわけではないが、ノディオンは黒\騎士ヘズルの末裔という由緒ある血筋。他王家の王女たちならいざ知らず、歴史の浅い、または一介の貴族の姫などではつりあわないだろうと、そう思うのだ。それこそ、アグストリアという国の内情を左右するほどには。
 冷静な部分ではエルトシャンはそう考える。
 だが、心情としてはただ単に、まだ結婚をする気がない、などといったものが主流を占めている。
 楽しかった士官学校時代からまだ数年しか経っていないエルトシャンの年齢はまだ若く、シグルドやキュアンといった他国の親友たちもそういったことにはまだ無関心だ。
 それに近年の若い貴族たちは一部を除くとほとんどが独身であり、彼らと同じように自分もまだ結婚は先の話だと、そう考えていたこともあった。
 不意を突かれた、といってもいいのかもしれない。


 それに、エルトシャンは正直なところ女性をそばに置きたがらなかった。
 父王が正妃であるエルトシャンの母以外にラケシスの母となった女性を身ごもらせたことが、原因の一端だ。
 ラケシスの母を愛したのならば、なぜそばに置かなかったのか。
 正妃であるエルトシャンの母に配慮したというわけでもない。
 エルトシャンの母が病死した後も、父王はラケシスの母を無視し続けた。
 それを止めたのは、ラケシスの母が亡くなった時だ。
 そこでようやく、ノディオン王はラケシスを引き取るといった。ノディオン王女として、自分の娘として。
 不可解だった。
 ではノディオン王女を産んだ母親の墓はどうなったのかといえば、遠い地からこのノディオンに棺こそ移されたが、しかしノディオン王家の墓には並べられなかった。
 父は一体何を考えていたのか。
 優秀なノディオン王の行動で唯一理解できなかったのが、このことだ。
 自分が例えば父のようなことをするとは思わない。だが、妻になる女性ならばできることなら誠\意を込めて愛したいと思うのは、父のことがあるからだとも理解できる。
 複雑な心境を、エルトシャンは抱えていた。





--------------------------------------------------------------------------------

捏造はなはだしい(今更ですか?)エルトシャンです。
す、すみません………。



[188 楼] | Posted:2004-05-24 09:58| 顶端
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【 新緑・3 】


 ハリア家のグラーニェ嬢が結婚するらしい。
 という噂がなくなるどころか、彼女らとは縁の薄いような者たちにまで広がったことを知った時、キュアンはさすがに眉を寄せた。
 貴族たちの中には名家であるハリア家に嫉妬をする者たちもおり、そうして彼らは決まってハリア家の病弱な一人娘を嘲笑するのだ。
 社交界にもろくに出ることのできない、地味な令嬢として。
 特に、今年18になろうとするグラーニェの婚姻が遅れていることもその原因だった。彼女の病弱さ、そして彼女自身が表に出ないためにその印象は誇張され、彼女を妻にと希望する者がいなくなったのだ。
 ハリア家を快く思わない貴族たちは、グラーニェを見下すことで自らの溜飲を下げている節が往々にしてある。
 だからこそ、キュアンは彼女の結婚という噂が広がることに不快感を覚えた。
 彼女自身が否定した根も葉もない噂に、面白がる輩が必ず出てくるだろうと。




 「困りましたね」
 頬に手を当てるのは、噂の渦中にあるグラーニェだ。
 穏やかに告げる心中は確かに本音であるのだが、その声音と表情に負の感情がないためにまるで気にしていないように聞こえてしまう。
 数週間前に噂を聞きつけたレンスター王子がこの屋敷に乗\り込んだことで、それまで噂を知らなかった弟まで、話がおよんでしまった時にはグラーニェも表情を曇らせたものだが、今はすっかり平生の通りである。
 柔和な笑みをたやさない。
 一番迷惑を訴えてよいはずのグラーニェがこうなのだから、周囲の人々は気が気ではない。
 本当ならば、ひとよりも遅れているハリア家令嬢の婚姻の噂に喜ぶべきなのだろうが、この公爵家の使用人たちは彼女が結婚を望んでいないことを知っていた。
 病弱な彼女自身が、結婚というものに対し諦めのような感情を持っていることも。
 国境の向こうには長年対立するトラキアが。不安定な情勢に、健康な子が望まれるこの時代、身体の弱い自分が元気な子を生めるわけがないと。
 声には出さなくとも、グラーニェは内心でそう考えているのだ。
 同じような女性は探せばたくさんいるだろうが、彼女は貴族の娘だ。政治の表に、または騎士として、母国を背負わなくてはいけない子を産まなくてはいけない義務を持つ。それはよほどの理由がない限り、貴族社会では当たり前のことだった。
 だから、それができない可能性を持つグラーニェは、他人から軽視され、彼女も甘んじてそれを受け入れた。どうしようもないことだからだ。


   *


 転機を生んだのは、彼女の弟であった。
 七歳も年下のまだ幼い少年は、しかし年齢に似合わない賢さを持っていた。周囲を見る目を持っていた。
 「姉上が結婚するという噂は本当ですか?」
 病弱な姉よりもよく外に出る少年は、レンスターの王宮にいる父のもとに行った時に、尋ねたのだ。
 それは、わずかな確信を込めた問いだった。
 そして、返ってきた答えはほぼ肯定。
 ハリア家現当主である彼らの父は、息子に頷いたのだ。
 「いずれそうなるだろう、あれもいい加減よい歳だ。今、嫁ぎ先を探しているところだ」
 隠すこともなく教えてくれた父親に、少年はわずかに拍子抜けたものを感じながらも、これで噂が出回った理由が分かったと、頭の端で考えていた。
 ハリア公爵自らが誰かに婚姻の話を持ちかけ、それがゆっくりと周囲に伝わっていったのだ。わずかながらの誇張を経て。


 しかし、このハリア家の長男が屋敷に戻り姉に事実を伝える前に、更なる騒動が起こったのだ。
 いつかの午後を彷彿とさせるような勢いで馬を駆ってきたのは、やはりというかレンスター王子、キュアンだった。
 常日頃はグラーニェほどではないにしろ、明朗で、だが穏やかなこの青年は、どうもいとこのことになると心中穏やかではいられぬようで。
 恋人では決してなく親友とも違う。
 いとこだから、としか言えぬ関係をずっと良好なままに保ってきたグラーニェを、キュアンなりに気遣ってのことなのだろうが、今回は常軌を逸していた。
 「グラーニェ、俺と一緒に来て欲しい。馬車も用意してきた」
 馬方に馬を預けてすぐに、前回の来訪のような勢いでグラーニェの元まで来たキュアンは、わずかに息を切らして、それでも真剣な目で椅子に腰掛けているグラーニェを見下ろした。
 例によって執事たちを後ろに引き連れた格好になっているレンスター王子に、侍女たちが戸惑いを隠せない。
 グラーニェもまた、キュアンの真意が分からずに反応が後れた。
 「キュアンさま?」
 「ハリア公爵が……お前の父君が、お前の嫁ぎ先を探していると父上から聞いた。あの噂は、あながち間違ってもいなかったんだ」
 「……まあ」
 キュアンから伝えられたことにグラーニェは口を押さえる。
 侍女たちが息を飲んだ。
 さわさわと、女たちの動揺の声が部屋の中に伝わっていく。
 「国王陛下がおっしゃるのです、本当のことなのですね」
 ずっと屋敷に戻っていない父は、レンスター国王の右腕でもある。
 戦う力こそたいしたものではないが、文官として、常に政治という舞台で国王を補佐してきた。
 そんなハリア公爵の動向に、レンスター国王は自然と詳しくなる。彼の妻がハリア家の出身であるというのも、大きかった。
 ハリア家と王家の結びつきは、大きい。
 侍女たちの動揺を落ち着けるように、静かにグラーニェは頷いた。
 彼女自身、驚かないでもなかったが、しかし過去にあの噂を耳にした時から、それなりの心構えは抱いてきたのだ。
 まさか、という考えよりも、やはり、というものの方が強かった。
 意外であったのは、王宮に出向いている弟ではなく、キュアンからその事実を聞かされたということくらいだ。
 レンスター城に向かう前の弟は、姉の結婚の噂について何も口にしなかったが、内心ではそれなりに気にしていることがグラーニェには分かった。
 聡いだけなく、人並みの好奇心も探究心も持ち合わせている弟は、きっと父にこのことを尋ねるだろう。そうして、帰って来たときにさらりと、自分に結果を伝えるのだろう。
 そう考えていたグラーニェは、予想が外れたことと、やはり突然のキュアンの来訪にこそ、驚きを覚える。
 しかも、キュアンはただ結婚の真相を伝えに来たわけではない。
 一緒に王宮に来いと、言うのだ。
 「キュアンさま?」
 グラーニェはもう一度尋ねた。
 どうも、真意を掴みきれない。まさか王宮にいるハリア公爵に一緒に抗議をしようとでも言われているのだろうか。
 自分が誰かとの結婚をあまり望んでいないことを知るキュアンに対して、グラーニェなりに憶測をする。
 しかし、それも突飛な話だ。
 見上げるグラーニェの目に映るキュアンの表情は真剣なまま、どこか剣呑なものすら浮かんでいるように感じ取れる。
 キュアンは周囲に人がいるにもかかわらず、一度大きく息を吸って、吐く。そのまま、一息で告げた。
 「唐突なのは分かっているが、黙って見ていることはできない。グラーニェ、結婚しよう」

 それは彼の言葉以上に、唐突な申し出だった。



<続く>



--------------------------------------------------------------------------------

……グラーニェさんの弟は、完全にオリジナルキャラクターです。すみません;



【 新緑・4 】


 「グラーニェ、結婚しよう」

 突然の申し出は、その場にいた誰もが想像し得なかったもので、さすがのグラーニェも咄嗟の返事ができなかった。
 それこそ、結婚の噂話を最初に聞いたときよりも、だ。
 言葉が出なかったばかりか、思考が止まるほどの。
 「……キュアンさま?」
 やっとのことで搾り出した言葉は、しかしさしたる主張も混ぜることはできずに、
 「それが、一番良い方法だと思う」
 力強く言うキュアンに目を丸くするばかり。
 そのまま半ば引っ張られるように馬車に乗\せられて、向かうは王宮、レンスター城。
 馬車に揺られながら、窓の外を見ればそれなりに見慣れた王宮への風景。
 何の用意もなく馬車に乗\ったグラーニェに慌てて、数刻遅れで侍女たちも王宮に向かっているはずだ。グラーニェの手を引いて館の外に待たせていた馬車を見て、執事や侍女たちはそれはもう慌てたのだから。

 一人で馬車に揺られている間、グラーニェはただひたすら首をかしげることしかできなかった。
 結婚を望んだことは確かになかったが、それでもハリア家の娘として、いずれは誰かのもとに嫁がなくてはいけないだろうと、――もし自分を娶るという奇特な人物が現れた場合、という前提が付くにしても――彼女なりの理解は持っていたのだ。
 その時には、何の反論も不満もなく、その人のもとに嫁ごう、と。
 しかし、これはどうしたことだろう。
 貴族の子弟でも、有力商人でも、一般的に貴族の娘が嫁ぎそうな相手先のパターンは想定していたグラーニェだが、なぜかいとこでありこのレンスターの王子であるキュアンのもとにゆくという事態を、まったく想定していなかった。
 心の底から、考えもしなかったのだ。
 そしてそれは、キュアンにしても同じことなのだと、そんな確信にも似た考えを持っていたのだが。
 困惑すら浮かぶグラーニェに、だがその場に原因の一端を担うキュアンはいない。
 レンスターの王子は、前回とは違い王宮から連れて来た数人の騎士と共に馬車の周囲を守るように馬で駆けている。
 その騎士たちが、レンスターが誇るランスリッターであることをグラーニェは幸いにも知らなかったが、もしそれを知れば今度こそめまいを感じたことであろう。
 キュアンさまは、本当になにをなさっているのですか。
 と。
 馬上のキュアンを見ようとしても、馬車の窓からは見えない場所にいるらしく、グラーニェの視線が届くのは両側を走る騎士の姿のみ。
 もしかしたら、キュアンは先頭を走っているのかもしれない。
 かなりありえそうなその考えに、グラーニェはため息をついた。
 これでは、城に着くまで本当に何も話すことができない。


   *


 「なりません」


 レンスター城に着いた早々、父王のもとにグラーニェを連れて行ったキュアンの申し出に否を唱えたのは、レンスター国王ではなく側に控えていたグラーニェの父親、ハリア公爵だった。
 キュアンの口上を遮ってまで告げた言葉に、勢いをそがれてキュアンは息をのむ。
 「公爵、私がご息女の相手では不満ですか」
 冷静でいようと数秒の沈黙の後、キュアンはハリア公爵に向き直った。
 互いに相手を見据えるように向かい合う父親といとこに、連れて来られたグラーニェは成り行きを見守るしかできない。
 レンスター国王すらも、沈黙を守った。それどころか半ば興味深そうに、息子と自分の腹心を眺めている気さえする。
 「不満などはございません。キュアン様はご立派になられた」
 「では」
 「不満はありませんが、グラーニェを嫁がせるわけにはまいりません」
 きっぱりと言い放つハリア公爵の態度は毅然としており、長年レンスター王の側で政治を行ってきた者の片鱗すらも垣間見せた。
 その姿は、娘を案じる父親の姿というには、硬質すぎた。
 「……お父さま?」
 宮廷での父の姿をグラーニェはほとんど知らなかった。ハリア公爵の威圧感は、王子に対してでも変わらないらしい。
 「お前はハリア家の長女だ。この家の血を最も濃く受け継いでいる」
 「はい」
 ふいに話を振られて、グラーニェは反射的に頷いた。
 グラーニェを振り返って、キュアンが眉をひそめる。公爵の言葉の真意が、掴めなかった。
 「キュアン王子の母君は不肖私めの妻の姉。ハリアの血を引いております。キュアン王子もまた尊きノヴァの血と、そしてハリアの血を引いておられますな」
 「……ああ。その通りだ」
 グラーニェとはいとこ同士なのだ。
 同じ血を引いていて当然。それが、なんだというのだ。
 キュアンの表情からはそんな感情が読み取れて、ハリア公爵は苦笑してレンスター国王を見た。
 「お前の言いたいことが、わかったぞ」
 肩をすくめる父王に、キュアンは怪訝な顔をする。
 「キュアンとグラーニェの子には、ハリア家の血が更に濃く受け継がれるだろう」
 「はい。レンスター王家はノヴァの血こそ、濃くあらねばなりません」
 「お父さまは、ノヴァの血を守れと、そうおっしゃるのですね?」
 「その通りだ。グラーニェ」
 理解を示した娘に、ハリア公爵は目元を緩めた。
 「しかし父上、公爵!」
 「キュアンさま」
 詰め寄ろうとするいとこを、グラーニェはやんわりと遮った。
 「もともと無理な話なのです。分かっていらっしゃるでしょう?」
 「無理なはずがない。私はお前と……」
 声を荒げるキュアンに、ほほ笑みかける。
 「だって、キュアンさまは私をお好きではないでしょう?」
 「…グラーニェ!?」
 「私とキュアンさまはいとこ同士です。確かに一緒にいて楽しいし、幸せにも思いますが、それはあくまでいとこ同士だからでしょう?キュアンさまは私を女性として愛してはいない。違いますか?」
 にこにこと、あくまで穏やかなグラーニェの声音は、キュアンを落ち着かせる。
 興奮していた思考の中に、涼しい風が吹き込んだ。
 「………確かに、その通りだ」
 長い長い息を吸って、吐く。
 眉を寄せて、額を押さえた。
 「それは、グラーニェも同じだろう?」
 「その通りです」
 さらりと、あまりにもあっけなく肯定するいとこに、キュアンはようやく肩の力を抜いた。
 笑みすら、浮かぶ。
 「だが、好意も寄せていない相手と一緒になるよりは、共にいて楽しいと思える相手と結婚した方が互いのために良いと思っていたのは本当だ」
 生真面目な言葉に、グラーニェは小さく笑った。
 「いとこですもの」
 「そうだな」
 笑みを浮かべ合って、そうして互いの父親に身体を向けた。
 「……お騒がせして、申し訳ない」
 「いえ、こちらも無礼をいたしました」
 幼い頃から変わらない、常にからりとした王子と娘の姿に、ハリア公爵はおかしさすら覚える。
 グラーニェとは違い、キュアンは公爵の考えに理解を示したとは言いがたいが、それでも結婚という発想は思いとどまったようだった。
 「なんにせよ、お前とグラーニェ殿は結婚はできなかったな。つい今しがた、グラーニェ殿の婚姻が決まったところだ」
 「……父上……!?」
 レンスター国王の愉快気な発言に、キュアンは顔を上げる。
 「……お父さま、そのお相手を尋ねてもよろしいですか?」
 「かまわん。お前のことだ」
 ハリア公爵はグラーニェと、そしてレンスター王を見た。互いに頷き合って、また娘を見る。

 「アグストリア諸公連合ノディオン王国、エルトシャン王子。キュアン、お前もよく存じておろう」

 レンスター国王の声が、室内に響いた。









--------------------------------------------------------------------------------

ハリア公爵(グラーニェさんのお父さん)は婿養子さん設定……だったり、します(汗。



[189 楼] | Posted:2004-05-24 09:59| 顶端
雪之丞

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【 新緑・5 】


 レンスターから遠く離れたノディオンで、王子の婚約の話を早いうちから耳にしていたのは、先日ノディオン王からの手紙を受け取ったエルトシャンを含んだとしてもわずかな人数しかいなかった。
 王国の主たる政務官などにもいまだ内密になっていたのは、一体どんな理由があったからなのか、エルトシャンにも分からなかった。
 ノディオン王たる父王が、息子の婚約者を探す、つまりエルトシャンを結婚させる意向であることを知ってから十数日。
 早くも具体的な話が文書として自分のもとに舞い込んできた朝、エルトシャンは以前と同じような不機嫌さで紙面を見つめたのだった。
 幸いというべきか、この一件を知るものはごく少数で、彼らはいずれも忠誠\心と分別のある者たちであったから、エルトシャンの口止めに否やを唱える者はいなかった。ただ、すぐれた政治家でもある彼らの表情には、隠す気のない苦笑が浮かんでいただけで。

 隠したところで婚約者は決まるし、結婚から逃れることはできない。
 それは重々承知しているエルトシャンだが、それでも城の者たちにこのことを知られるのにはためらいがあった。腹違いの妹の反応も気がかりであったし、侍女や部下たちに何事かと視線を向けられるのも遠慮をしたい。
 それになにより、エルトシャン自身の心の準備がまだできていないということの方が大きかった。



 レンスター王国ハリア公爵令嬢。
 婚約ということが決定事項となってから数日後、アグストリア諸公連合の首長国であるアグスティより、久しぶりに帰国を果たした父王から早速告げられたその家名に、エルトシャンは軽い既視感を覚える。
 だが、それを考えるよりもまず先に口を付いて出たのは、別のことに対してであった。
 「レンスター?あのような遠い国から?」
 レンスター王国のあるマンスター地方と、ここアグストリアの距離は遠いとしか言いようがない。
 グランベル王国で公的に用いられているユグドラル大陸地図を見た場合では、大陸の端と端に位置するような関係にある。ここアグストリア諸公連合からマンスター地方に向かうには、広大なグランベル領を横断するしかなく、たとえワープという魔法があったとしても、その飛距離は限られており、目的地に着くまでにはゆうに数週間はかかるだろう。
 漠然と、自分の婚約者はアグストリア国内から選ばれるのだろうと考えていたエルトシャンは、あまりにも異なる実情に、めまいすら覚えた。
 「確かにレンスターは遠い」
 分かりきったことだと言わんばかりの父王の台詞。否定する気は毛頭なく、エルトシャンも黙って頷いた。
 「だが、遠いからこそ価値がある」
 「遠交近攻、ですか」
 父の言おうとしていることを、自分なりに検討付ける。
 一言で表したエルトシャンに、ノディオン王は何も言わなかった。
 そこで、ようやくエルトシャンは当初の既視感を思い出した。
 レンスター王国ハリア公爵家。
 その家は、キュアンの母親の生家ではなかったか。
 (そうか)
 エルトシャンは何事かが腑に落ちたのを感じた。いや、正確には思い出したというべきか。
 かつて、バーハラの士官学校時代。キュアンから聞いたことがあった。
 ハリア公爵家の長女、グラーニェ。
 キュアンが自分の幼い頃を語るとき、学校の休暇の間の出来事を話す時、時折その名が出てきたことを。
 キュアンの、いとこの名だ。

 十二聖戦士の一人、槍騎士ノヴァの血を持つレンスター王家に、最も近いと思われる公爵家。その地位は高く、政治的実力は計り知れない。
 なるほど、このノディオン国王たる父親は、大陸随一の大国グランベルを、今回の婚約の念頭においているらしい。
 このアグストリアと、レンスターのあるマンスター地方の間に存在する大国。もし、この国とノディオンに何事かが起これば。父王はそのことを考えているに違いない。
 たとえグランベルを支える六公国のひとつ、シアルフィ家の次期公主が息子の親友であるとしても、現ノディオン王には関係ないのであろう。
 エルトシャンとキュアン、シグルドがすでに、和平のための協定を結んでいるということなど。
 エルトシャンの父親は、そういう人間であった。
 「……わかりました。父上に、従いましょう」
 「そうか」
 承諾を示した息子に、しかし父王は淡々としていた。
 もとより、そのつもりであったからなのかもしれない。
 「それで、婚約はいつ?そのハリア公爵家のご息女はこちらに来られるのか、それともわが国から迎えを?」
 エルトシャンの問いに、ノディオン王は机から一通の書状を取り出した。


   *


 次期ノディオン王であり、聖器ミストルティンの継承者でもあるエルトシャンが公的に婚姻を承諾したことで、彼の日々の政務の中にひとつ、仕事が増えることになった。
 婚約者となるハリア家令嬢を、迎える準備だ。
 それとともに、婚約の準備も。
 当たり前のことだが、顔も見たことのない女性との政略結婚の場を、自分で準備する次期国王という立場に、エルトシャン自身が首をかしげる始末。だが、父王からノディオンでの政務の大半を任せられている手前、疑問の言葉を口にするわけにもいかない。
 エルトシャンは黙々と、自分の婚約者を迎える日取りや、レンスターへの使者を決めていった。
 ただレンスターに赴くのであれば、自分自身が出向きたいところだが、今回のような場合はそうはいかない。目的はただの外交ではない、婚約者を迎えに行くことなのだから。
 親友であるキュアンに、手紙でも書いた方が良いのかも知れない。
 仲の良いいとこと、このエルトシャンの婚約に、キュアンはどのような感想を抱いたのか、少しばかり興味もあった。

 「エルトシャン様、ラケシス様がおいでです」
 扉の側に控えていたイーヴが、静かにそう告げる。
 エルトシャンは紙面には知らせるペンを止め、顔を上げた。
 兄が政務を行っている間は、ラケシスはほとんどこの部屋には来ない。珍しいことに、エルトシャンは歓迎する反面、不可思議な危惧を感じた。
 自分が婚約をするということを、幼い妹に、エルトシャンはまだ伝えていなかったのだ。
 会ったことすらない女性のことをラケシスに説明する言葉を、エルトシャンは持っていなかったし、婚約ということに対してラケシスがどういった感想を抱くのか、わずかばかりの不安も持っていたからだ。
 たとえ反対されようがとも、婚約の話が流れてしまうわけではないのだが、しかしだからこそ、ということもある。
 すでにある程度の人間には伝わっているこの婚約の一件、いつ何時ラケシスの耳に入るのか、それはもう時間の問題なのだから、兄である自分から告げた方が良いことを、エルトシャンも理解しているのだが。

 「お兄さま、お仕事中にごめんなさい」
 開かれた扉をくぐって、きちんと会釈をして見せた妹にエルトシャンはほほ笑んだ。
 「かまわんさ。どうかしたのか?」
 内心の思案を微塵も表に出さずに、妹に視線を向ける。
 穏やかな兄の表情に、幼いラケシスは明らかにほっとしたようだった。
 「料理長がおいしそうなお菓子を作ってくれましたの、後で、一緒にお茶でもしませんか?」
 あどけなく笑うラケシスの誘いに、執務室の空気も温かくなる。
 「ああ、いただこうか」
 返事をしながらエルトシャンは、
 (ラケシスに婚約の話をする良い機会かもしれんな)
 そんなことを考えた。


【 新緑・6 】


 グラーニェがノディオンに到着したのは、当初の予定よりも数日遅れてからだった。
 あらかじめ送られていた使者によって、予定が遅れたことを知っていたとはいえ、迎える側であるノディオンの面々は過ぎていく時間に汗をかいたものだ。
 こういったことは、滞りなく行われるのが良いに決まっているのだから。
 レンスターからノディオンまでの遠い距離。
 途中の距離を大規模なワープの魔法で縮めての行程とはいえ、それが重なれば疲労も蓄積されていく。
 道半ばにしてワープによる転位に体調を崩したグラーニェを気遣い、レンスターの一行が数日間の休養をとったことが、この遅刻の原因であった。
 ノディオン城城門に到着した馬車と数騎の騎兵。レンスターの貴族にしては少なく、また馬車の作りも目立たない、地味な装丁だった。たとえその彫刻や丁度がどれほどの名工が作ったものであったとしても。
 どちらかといえば豪奢な装丁を好むノディオンにはいささか拍子抜けしてしまう質素な一行は、しかし己の装いに何の不満もないように、出迎える大勢の重臣たちに敬礼をした。
 途中までレンスター王国ハリア公爵家の一行を出迎えに行っていた騎士団の団長が、前に進み出て帰還を告げる。
 それとともに、城門から執務官が、城内に入っていった。
 応接室で待つ、ノディオン王子のもとに。



 ノディオン王女ラケシスはといえば、待っているように言われた自分の部屋から抜け出して、窓の側でふくれていた。
 部屋に連れ戻すこともできない侍女たちがおろおろと顔を見合わせる。
 そんなことなどお構いなしに、ラケシスはまだまだ愛らしさの最中にある頬を膨らませ続けていた。
 不機嫌の原因は、城門に到着したレンスターの一行。
 馬車からゆっくりと降りてくる、女性の存在だった。城の上階の窓からでは、小さすぎてその容姿までは分からないのだけれども、控えめな色づかいの衣装を身にまとう、こげ茶色の髪の女性の姿は、お世辞でも華やかとはいえなかった。
 普段から自分や、兄の金の髪や青の目に見慣れているラケシスにとっては、あのような地味な女性がエルトシャンの隣に並ぶことの想像すらできない。
 先日突然兄から告げられた「結婚をすることになった。お前に姉ができるぞ」という言葉にすぐさま顔を真っ赤にして激昂した少女は、その日以来ずっと兄と会話をしていなかった。
 あれだけ兄を慕っているラケシスが無視を決め込んだ決意は相当なもので、どれだけエルトシャンや侍女たちが宥めようとも小さいながら勝気な王女は首を縦には振らなかった。 それきり仲の良かった兄妹間の関係は解決の兆しも見せずに、今日のこの日を迎えてしまったわけである。
 よって、本来ならば兄と共に婚約者である女性を迎えても良かったはずのラケシスは、親友のいとこでもある婚約者との対面が、居た堪れない状態になることを恐れたノディオン王子本人によって、自室での待機を命じられたのである。
 ……実際にラケシスがいるのは、自室ではなかったわけだが。



 応接室で婚約者となる女性を待つエルトシャンはといえば、いまだに苦渋の表情で眉を寄せていた。
 さすがにため息などはつかなかったが、側に控えている騎士たちも主君が頭を抱えたいと思っていることは薄々ながら気付いている。
 イーヴなどは、そんなエルトシャンと部下たちの様子に肩をすくめるしかなかった。
 本来の予定ならば、この場に王女ラケシスもともにおり、兄と共に新たに王家に加わる女性を迎えるはずであったのだ。
 その目論見が外れた原因が、今この場で眉を寄せ続けているノディオン王子にあるのだから、周囲は何も言えない。
 十数日前、やっとのことでラケシスに婚約のことを告げたエルトシャンと、そのすぐ後に猛烈に怒り出した妹王女に何があったのか、渦中の人であるエルトシャン本人から伝え聞いた側近たちは、口を揃えていったものだ。
 「恐れながら殿下、それは殿下が悪いかと」
 恐れながらと口にしながらも決して恐れずに、あっさりと指摘する部下たちにエルトシャンは怒るどころかうな垂れた。このくらいの発言の自由は、日常茶飯事だ。
 確かに、説明不足はなはだしく、また何のフォローもなかったことは、後にこの時のことを反芻したエルトシャン自身痛感している。
 しかし、ラケシスの怒りがこれほどまでに尾を引くことは、予想の域を超えていた。
 本来ならば今この部屋にはラケシスもいるはずだったのだが、グラーニェ嬢がノディオンに来て初めて目にする光景が、ノディオン王族の兄妹喧嘩であるというのはエルトシャンとしても遠慮をしたい。
 とりあえずラケシスの自室待機を命じたエルトシャンだが、この後ラケシスにグラーニェ嬢を紹介しなくてはいけないことを考えると、めまいがするのも事実であった。

 「失礼いたします。レンスター王国ハリア家、グラーニェ様をお連れいたしました」
 先導して来たエヴァの声に、エルトシャンは姿勢を正す。
 開けられた扉に、婚約者となる女性が静かに姿を現した。


   *


 ひとしきりの形式的な礼と政務官と外交官の問答のような挨拶。
 その間ずっと穏やかな笑顔を口元にたたえていたグラーニェは、周囲の者たちが退室した後、エルトシャンと二人だけになっても変わらなかった。
 テーブルを挟んで向かい合う形で座る女性に、エルトシャンはひとつ、咳をした。
 「長旅の間、不自由はありませんでしたか」
 「ええ。ノディオンからの使者殿にも、良くしていただきました。こちらの方こそ、私の不注意でそちらにご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ありません」
 謝罪の言葉にエルトシャンはわずかに腰を浮かせる。
 出会って早々にこの女性に頭を下げさせてしまった自分の失言に、慌てた。
 「いえ、どうぞお気にせずに。…お身体の具合はもう?」
 「はい。ご心配ありがとうございます」
 互いに気を遣いあう他人行儀は、仕方のないことなのだろう。
 後に夫婦になる相手とはいえ、今はまだあったばかりなのだから。
 よそよそしい言葉に、エルトシャンはゆっくりと息を吐いた。
 「昔、キュアンに貴女のことを聞きましたよ」
 「まあ」
 話題を変えるために、親友の名を持ち出すことはできればしたくなかったが、しかしこれもまた仕方のないこと。
 少しでも場を盛り上げるためには、共通の話をした方が良いに決まっている。
 「私も、キュアンさまにエルトシャン殿下のお話をお聞きしていましたよ」
 「……あなたもですか」
 「はい」
 素直に驚くと、グラーニェはくすりと笑った。
 「シグルド公子と三人で、どんな無茶をしたのかや、どんな失敗をなさったのかを」
 「…何もそんな話をしなくても良いだろうに」
 「でも、とても楽しそうなお話でした」
 グラーニェも、エルトシャンに気を遣っているのだろう。自らが進んで話題を提供してくれる。話しやすいように、話しやすい話題を口にしてくれる機微に、安堵が浮かぶ。
 「今だからこそ笑い話ですが、当時はそれこそ命を縮めるかと思いましたよ。…それに私はどちらかというと、キュアンやシグルドの悪巧みに巻き込まれていた方ですから」
 「あら?私がお聞きしたのでは、エルトシャン殿下やシグルド公子が事の発端だとか……」
 「あいつめ」
 隠し切れずに小さく舌打ちすると、グラーニェがまた笑った。
 そのおかしそうな笑顔も、笑う声音も本当に穏やかで、控えめだ。
 ふと、エルトシャンはキュアンが彼のいとこのことを話すときに、穏やかだという表現を良く使っていたことを思い出した。
 「そういえば、キュアンさまからエルトシャン殿下にお手紙を預かって来ておりますの」
 「キュアンから?」
 小さな飾り袋を開けるグラーニェに、エルトシャンは視線を向ける。
 グラーニェに預けた、政務官を通さない手紙は、おそらくエルトシャン宛の私的な手紙なのだろうと予想が付く。
 案の定、グラーニェがテーブルに置いた手紙には、署名のみで封に蝋すら使っていなかった。





<続く>


--------------------------------------------------------------------------------

やっと、出会いました。…遅いですね、申し訳ありません……。



[190 楼] | Posted:2004-05-24 09:59| 顶端
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【 新緑・7 】


 グラーニェから直接渡されたキュアンの手紙は、やはりというか、内々の外交文書でも親友への近況報告でもなかった。
 その内容のほとんどは、レンスターから遠いノディオンへ渡った、グラーニェに関することだった。
 応接室で手紙を受け取った時に、エルトシャンはなんとなくだが、その内容の予想をつけることができた。
 後に、部屋でひとりになった時に開けた手紙の文面にあったのは、キュアンのいとこであるグラーニェのこと。
 グラーニェがどのような人柄なのか。また彼女の身体が弱いこと、なぜ彼女が今まで誰とも結婚をしなかったのか、できなかったのか。
 そして、グラーニェの婚約の噂がたった時に、他でもないキュアン自身が彼女を妻にしようとしたこと。このことは、さすがにエルトシャンもわずかに目を見開いた。
 そのすぐ後に、キュアンとグラーニェ、二人の間に恋愛感情は全くないことが注記してあったとしても、浮かび上がった複雑な気持ちは抑えられない。自分は、親友の結婚相手を奪ってしまったのではないのか。と。
 思い返せば、士官学校時代のキュアンには浮いた話は一切なかった。
 まあ、それは当時の自分たちが異性のことよりも、ただひたすらに国から離れたわずかな時間を満喫するのに忙しかったからだとは思うのだが。自分がそうであったように。
 だが、故郷を思い出すときの表情と、たくさんいるはずの親類縁者の中で、ただ一人グラーニェのことを話すキュアンの表情は違ったと、それだけは言える。
 だからこそ、エルトシャンも彼女の名を覚えていたのだから。
 「お前はただ気付いていないだけじゃないのか?」
 手紙にかける言葉は、遠き地の差出人に向けたものだ。
 しかし、この言葉がレンスターのキュアンに届くわけはないし、届ける気もない。
 今更どうしろというのだ。
 どうしようもないではないか。
 ただ、今強く思うのは、このキュアンの信頼に応えようという決意。
 大切ないとこを、エルトシャンになら任せられるとそう記した、親友に対するものだった。
 エルトシャンは一度息を吐いて、テーブルにインクと紙を引き寄せた。
 宛先はレンスターの親友。
 書く言葉はたった一言、近況報告でもなんでもない。
 『了解した、彼女は俺が幸せにする。』
 ただそれだけだった。



   *



 さて、レンスターから後のノディオン王の妻となるべき女性が到着してから数日、グラーニェを迎える場に同席を許されなかったラケシスはといえば、いまだに思い返しては頬を膨らまし、現実を見回しては釈然としない表情を繰り返していた。
 婚約者となる女性と、穏やかな歓談を終えた兄エルトシャンと違って、ラケシスはいまだにグラーニェと会ってはいなかったのだ。
 グラーニェが着た当日こそ、未来の義姉に色々といってやろうと息巻いていたのだが、それは時間がたてば経つほど萎んでいってしまう。
 その大きな理由が、ノディオンに到着した夕方に、熱を出してしまったグラーニェの容態にあった。
 深窓の令嬢は、慣れない長旅と繰り返されたワープの魔法が、よほど身体にこたえたらしい。とは、ノディオンの侍女たちの言葉だ。
 気遣うよりもむしろ、苦笑をたたえたその会話を遠くから聞いて、幼いながらにラケシスは、グラーニェがノディオンに歓迎されているわけではないことを知った。
 確かに見ず知らずの異国人が、今日から私があなたたちの仕える者です、といきなり現れても、すぐになじめるわけがない。たとえそれが義務であったとしてもだ。
 聞く限り、グラーニェ嬢はそのような高慢な態度を一切取らずに、迎えたノディオンの者たちに律儀に礼まで笑顔で繰り返して、慎ましやかに入城したということだから、余程のことがない限りノディオンに受け入れられないことはないだろう。
 かつて母を失い、ノディオンに迎えられたラケシスがそうであったように。
 思い出して、ラケシスは顔をしかめた。
 共にノディオンで暮らすことすら許されなかった妾腹の娘に対する風当たりは、良いものではなかった。とくに、正妻付きの侍女たちに。
 それを救ってくれたのが兄であるエルトシャンであり、彼の側近の者たちだった。彼らの気遣いが、全く知らぬ地で萎縮してしまったラケシスを、元の利発な少女に戻してくれたのだ。
 (今回も、きっとお兄さまが、なんとかなさるんだわ)
 考えて、少しばかり悔しいと思う。
 兄の優しさが自分以外の人間に向けられるのだから。幼いながらにラケシスは、自分の独占欲を理解していた。

 そんなラケシスは、兄の優しさを奪うことになる女性に対してノディオンの一部が良くない感情を持っていることに、胸が空くどころかかえって不快感をためていた。
 もしかしたら、自分もああなのだろうか。そう思うと寒気すらする。
 グラーニェに冷ややかな視線を向けるのは、ほとんどが侍女だ。それを間近に見て、ラケシスは何度グラーニェの肩を持とうとしたか分からない。
 ……それも、決して言葉には出さなかったが。
 ノディオンについて早々に寝所に臥し、夜の宴も何もかも、出席ができなかったグラーニェは、数日経った今も部屋から出ていない。
 レンスターからやってきた、たった五人のグラーニェ付きの侍女たちの話では、まだ熱が下がらずに眠っているのだという。
 彼女自身が外に出ないことは、グラーニェ嬢に対する余計な推測や、良くない噂を広がらせることにしかならなかった。

 未来の夫であるエルトシャンも、どうやらグラーニェには会っていないようだった。
 実際のところ、見舞いには行きたいらしいのだが、出会ってすぐの、しかもわずかな会話しかしていない男が、女性の寝所に入ってよいか分からずに二の足を踏んでいることを、側近のイーヴたちから聞いているラケシスは、いまだにエルトシャンを無視していた。
 いっそ、自分をだしにでも何でもして、ラケシスを連れてグラーニェの休む部屋まで行けばいいのに。
 やはり子供特有のわがままを持つラケシスは、そんなことを考えた。



 結局その日もグラーニェ嬢は部屋から出ることはなく、夕餉の席も、エルトシャンとラケシス、二人だけでとることとなった。
 アグスティにいる二人の父はいまだ帰らず、どうも息子の婚約者のことは大して重要視していないようだった。
 それとも、すべて次期国王であるエルトシャンに任せているということであろうか。

 だいぶ夜も更け、ラケシスは床に入った。
 侍女たちも皆退室し、部屋にただひとりとなったラケシスは、しかし眠る気になれなかった。
 こういう夜は、下手に眠くなるのを待つよりも、何か別のことをした方が良いと知っている。
 おもむろに寝台から起き上がると、ラケシスは長衣をまとって部屋を出た。
 夜に一人で部屋を出ることは禁じられているが、だからといってラケシスがそれを守っているわけではない。時折こうして外に出て、夜の城を探検していたのだ。
 人の気配がすれば隠れて、またあたりを伺いながら進んでいく緊張感が、ラケシスは大好きだった。
 夜の空に浮かぶ月はさして太くはなく、わずかな光しか放っていない。雲がない代わりに、星も今夜は多くない。静かな夜だった。
 ぺたぺたと、小さな足音と一緒に歩くラケシスは、わずかな風が乗\せてくる庭園の花の香りに鼻をくんくんとさせた。目で見るのと、こうやって遠くで感じるのとでは全く違う。この花の香りが果たしてどの花なのか、ラケシスには全く分からなかった。
 ふと、廊下の先から人の足音がした。硬い音は、巡回兵のものだ。
 ぱっと周囲を確認して、手近な扉をそっと開ける。どの部屋が使われていて、どの部屋が無人なのか。ラケシスはちゃんと知っていた。
 はずだったのだが。

 「…どなたかしら?」
 すべり込んだ部屋でかけられた声に、ラケシスは危うく悲鳴を上げそうになった。
 慌てて口を押さえて、身体を低くしてしまう。まるで、隠れるように。
 ゆっくりと、声の主が近付いてくるのが分かる。
 記憶にない人の影に、光が灯った。
 テーブルの上の燭台に、あかりが灯ったのだ。
 「あら」
 わずかな驚きの声を上げる。聞いたことのない女性の声に、ラケシスは顔を上げた。そうしてようやく思い出す。
 この部屋はもう無人ではなかったのだ。
 数日前から、この部屋の主は彼女になったのだ。
 次期ノディオン王妃、レンスターのグラーニェ嬢。
 その人が、ここにいた。



【 新緑・8 】


 会いたかったのか、会いたくなかったのか。とりあえず、良い意味でも悪い意味でも毎日意識し続けてきた相手が目の前にいて、ラケシスは声もなく口をぱくぱくさせた。
 それくらい驚いたのだが、あいにくと思考まで止まってしまうわけではなかった。
 今まで言いたかったことと、感じていたことと、たとえば最初に感じた不快感や未来の義姉の第一印象、自分に対する兄の態度や、彼女に対する侍女たちの反応。それを見た、同じく良い印象を持っていなかったはずの相手を弁護してしまいうそになった時のこと。
 多くのことが脳裏をよぎって、しかしその内のただの一語も、ラケシスの口から出てこなかった。
 灯りを手にしたこの部屋の主、グラーニェ嬢はまだラケシスの姿をきちんと目にできないらしい。
 確かに光はグラーニェの側にあったので、ラケシスよりはむしろ彼女を照らす状態にある。だから、ラケシスにはグラーニェの姿ははっきり見えるが、グラーニェは暗い場所にいる小さなラケシスの姿は見えないのだ。
 それでも、突然入ってきた人物が小さい子供であることは、たたずむ影の形からかわかったらしい。
 「いらっしゃい。どうかしたの?」
 わずかにかがんで、優しく問う声音は明らかに小さい子供に対するものだった。
 警戒されていないことに、不法侵入をしたことに、怒っていない部屋の主の様子にまず安堵し、けれど事態があまり良いわけではないことに、ラケシスは緊張した。
 いつかは自分をグラーニェ嬢に紹介する日が来るだろう。それは必然だし、ラケシスも分かっている。
 だが、今この状態は、もしかしたら最悪の事態に陥っているのではないのか。
 幼いラケシスは、子供なりにこれからのノディオンや兄たちのあり方を考え、そして背中を汗が伝ったような気がした。
 「……あの……」
 やっとのことで出した声が震えていて、それに驚いてラケシスは言葉が続かなかった。
 最初の一言が見つからないのだ。何を口に出せばいいのかも。
 「こんな夜に、どうかしたの?眠れなかったのかしら、それとも、道に迷ったの?」
 静かな声。
 いくつかの言葉は、ラケシスが容易に返事をしやすいように、選んでくれているものだとに感じる。頷くか、首を振るかで良いのだ。
 なのに、ラケシスはといえば眠れないから散歩をしていたとか、いきなり部屋に入ったことへの謝罪とか、そういった答えを返せる状況になりながらも、とっさに口から出たのは全く違うものだった。
 「グラーニェさまこそ、こんな夜遅くに起きていて、お体は大丈夫なのですか?」
 言ってから、ラケシスは口を押さえた。
 なんと失礼なことを言ってしまったのだろう。相手のせっかくの気遣いを、無視してしまうような言動。
 しかし、グラーニェの「こんな夜に」という言葉に反応した事実はあって、けれどそれを相手にきちんと告げることはできなかった。
 熱を出して何日も臥せっているレンスターのグラーニェ嬢。
 今は何時なのだろうか、眠らなくて良いのだろうか、それとも、自分がそれを邪魔してしまったのだろうか。
 不安が募るが。
 「心配してくれてありがとう。だいぶ、楽になったの、明日には熱も下がるのじゃないかしら」
 ずっと寝ていたから、体が痛くなってしまって、起きていたのよ。
 怒りもせずにきちんと丁寧に応対してくれる。 くすりと、いたずらを告白するみたいに笑ってすらくれたので、ラケシスはすとんと肩の力が抜けた。 途方もない安堵感と、嬉しくなる気持ちがお腹の辺りからこみ上げてくるような感じ。肩が熱くなった。
 「夜分遅くにいきなりお邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでした」
 不安が取れた体と口は、つかえていた言葉をすらすらと吐き出させた。
 「わたくしの名前はラケシス、ノディオン王女です。はじめまして、グラーニェさま」
 正式の場でも何もない。
 起きている者が少ないこんな夜中に、暗い部屋で、無断で入ってきた王女が兄の婚約者となる遠国の貴賓に礼をした。
 まとう夜着では裾を引くこともできない。
 名乗\ったとたん、女性が動いた。
 すっと、燭台を机に戻して、やはり引くだけの余裕のない夜着を、少しだけ持ち上げて、やんわりとほほ笑んだ。
 「はじめまして、ラケシスさま。私はレンスター王国ハリア家から参りました、グラーニェと申します。王女自らの訪問、とても嬉しく思います」
 そう言って、膝を付いた。
 片膝を付く礼ではない。両膝を床に付けて、ラケシスと視線を合わせてほほ笑んだのだ。
 その行為と、「嬉しい」という言葉に、顔を押さえたくなった。
 ラケシスも、嬉しかったのだ。
 「…怒って、いらっしゃらない?」
 「なぜ怒らなくてはいけないのですか?やっとラケシスさまにお会いできて、こんなに嬉しいのに」
 また、言ってくれた。
 こんなに非常識な、一国の王女らしからぬことをしでかした自分に。
 「嬉しい?」
 「ええ」
 また笑顔。
 この人は、一体どれだけ優しい笑顔を深めることができるのだろう。こんな風に笑む人を、ラケシスは見たことがなかった。
 「わたくしも、嬉しいです、とても」
 どきどきする胸を押さえて口にすれば、目の前の女性の暖かさがより大きくなった。
 「ありがとうございます、ラケシスさま」



   *



 ずっと臥せっていたグラーニェ嬢が元気になられた。
 侍女たちがそばで囁き合うのを聞きながら、ラケシスは朝食を終えた。
 「レンスターからいらっしゃったグラーニェ様が、お元気になられたようですよ」
 ようやく、仕える王女に報告した侍女に、ラケシスは笑った。
 「そう」
 答える笑顔の後ろで、
 (知っていたわ)
 ラケシスは胸を張っていた。


 エルトシャンが咳払いをひとつして、ラケシスを尋ねたのは朝にしては遅く、昼にしては早い時間だった。
 「グラーニェ殿の熱も下がったことだし、お前を紹介しようと思うのだが」
 控えめに尋ねてくる次期ノディオン王は、先日から続く妹の無視をかなり心配している様子だった。
 後ろに控えるイーヴたちの表情も同じようなもので、もう不思議なくらい苛立ちの消えたラケシスは、吹き出してしまいそうになった。
 「ええ、そうしますわっ」
 ごまかすために返事をしたら、不自然なくらいに元気な声が出て、ラケシスはまたごまかすように笑顔になった。
 どうやらそれは、兄妹喧嘩の終わりを周囲の者に知らせたように、解釈されたらしい。
 わずかにほっとしたように息を吐いたエルトシャンは、元の秀麗な顔に軽い笑みを乗\せてラケシスに手を差し伸べた。
 その手をとって、二人で廊下を歩き出す。
 案内されたグラーニェ嬢の私室の前で、レンスターから共に来たグラーニェ嬢の侍女たちが頭を下げて扉を開ける。
 色味を抑えた衣装を身にまとったグラーニェは、数日振りに見る未来の夫と、昨夜会った小さな王女の姿にほほ笑んで、立ち上がった。
 「何日もご迷惑とご心配をおかけしてしまいました」
 「いや、元気になられたようでこちらも安心した。もう、起きても大丈夫なのですよね」
 「はい、おかげさまで」
 頭上の会話はまだまだぎこちなくて、ラケシスはおかしくなった。
 きっと、自分の方がグラーニェさまと仲が良いわ、と。
 「お兄さま」
 急かすように見上げると、エルトシャンが気付いたようにラケシスの背を押した。
 「遅くなりましたが、貴女に妹を紹介しようと思いまして」
 前に出て、今度こそ長いドレスの裾を手で上げたラケシスに、グラーニェは目を細める。
 「はじめましてグラーニェさま。ラケシスと申します。お会いできて嬉しいですわ」
 満面の笑顔にいたずらっぽく目をきょろりとさせて、ラケシスは女性を見上げた。
 「はじめまして、ラケシスさま。グラーニェと申します。私も、お会いできてとても嬉しいですわ」
 応えてくれたグラーニェの笑顔に、内緒話を共有しているような楽しさが、ラケシスの胸に溢れた。





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これがエルグラというよりはラケ+グラでしょうか……(汗。



[191 楼] | Posted:2004-05-24 10:00| 顶端
雪之丞

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【 新緑・9 】



 「グラーニェさま、グラーニェさまっ」
 遥か遠いレンスターより一人の貴賓を迎えたノディオンでは、最近、嬉しげにその女性の名を呼ぶ小さな姫君の声がよく聞こえる。
 時間が空けば後の義姉となる女性を探して城内を走るラケシスの姿は、周囲の者を苦笑させ、また微笑させる。
 古参の臣下などは自分の心情をあからさまに表に出すラケシスに渋い顔をするものだが、たいていの者はレンスターから迎えた客人に、先立って好意を示す幼い王女を好ましいものとして考えていた。
 せっかく迎えた未来のノディオン王妃を不快にさせるわけにはいかないし、失礼があってはいけない。それはレンスターへの体面でもあったからだ。 しかし当のグラーニェ嬢はといえば、当初のノディオンの侍女たちの冷めた視線にも、また初めて過ごす他国での生活にも眉をひそめることはなく、ただ穏やかに、静かに日々を過ごしていた。
 新たに仕えるようになった周囲の者たちにも、また外部の者にも口を出したり、あれこれと口にしたりしなかったので、城内の者たちがある程度は覚悟していた日常の変化もさほど、起こらなかったのだ。
 ただ、顕著に現れた変化といえば、ノディオン王女ラケシス姫が、あまり兄に甘えなくなったことだろうか。
 いまでも兄エルトシャンに会いたがったし、話したがったが、それでも以前ほどべったりと兄とともに居ようとすることはなくなったのだ。
 その変化が、ラケシスがエルトシャンによりグラーニェ嬢に紹介された日から起こったことと、また兄の名を呼ぶのと同じくらいにグラーニェ嬢の名を呼ぶようになったことからも、原因は明白だった。


 グラーニェを迎えてから十日あまり。執務の忙しさもあって中々会話の機会を持てないエルトシャンは、更にさほどグラーニェ嬢と打ち解けていないために、彼女のもとを訪れる時は大抵ラケシスを伴っていた。
 二人だけでも会話は弾むし、なによりグラーニェ自身が穏やかながら会話に長けた女性なので、沈黙が降りることはまずない。聞き上手でもある彼女に、エルトシャンが珍しく多弁になることだってある。
 だがやはり単身で彼女のもとを訪れることを妙に意識してまっているエルトシャンは、例えば妹であったり、部下であったりといった同伴を求めた。
 結果、予想以上にグラーニェになついたラケシスと、グラーニェの会話を聞く形になり、いくらグラーニェが気を遣って会話を向けてくれたとしても、どうしても主体はラケシスになる。
 そしてラケシスとグラーニェの仲がどんどん良くなっていくのだ。
 幼い妹が、エルトシャンがいない時もグラーニェを訪ねているとイーヴから聞いた時は、さすがに一人取り残されたような心持がしたものだ。



   *



 ゆっくりと静かに、一月余りが経過する。
 穏やかの午後の日差しが開いた窓から差し込んで、部屋を照らす。
 かつての客室はすっかりグラーニェ嬢の部屋として定着し、その調度などのほとんどは元から用意されていた物であるにもかかわらず、全体の雰囲気が他の部屋と違っていた。
 静かで暖かい、そんな空気を感じる。
 いつの間にか、日に一度このくらいの時間にこの部屋で時間を過ごすことが、三人の日課になっていた。最初はそう、グラーニェのもとを訪ねていたラケシスの様子を、仕事を一段落させたエルトシャンが見に来たことから始まったのだ。
 三十分ほどの時間は、ラケシスが王女としての勉学が始まる少し前に終わる。大抵専属の教師がラケシスを迎えに来た所で会話が止まり、まだここに居たいと渋るラケシスをグラーニェが宥めて送り出すのだ。そうして、エルトシャンの休憩も終わり、彼も執務室へと戻っていく。
 それは、この日もそうだった。
 「ラケシス様」
 呆れ顔に眉を寄せる教師の台詞もまた、日課になってしまったものだ。
 毎日毎日まだここに居たいと主張するラケシスに、決まって厳しい声を出して仁王立つ。壮年の女性と妹に、エルトシャンは肩をすくめた。
 「ラケシス、いい加減に聞き分けるんだ。勉強が終わればまた好きにしても良いから」
 「ラケシスさま、もし良かったらまた後で遊びに来てくださいね。いつでもかまいませんから」
 兄の言葉よりもグラーニェの言葉に、ラケシスは押し黙る。
 「本当に、後でまた来てもいいですか?」
 伺う期待に満ちたまなざしにグラーニェはほほ笑んで頷く。
 お前はグラーニェ殿の迷惑を少しは考えろ――、口をついて出そうになった言葉を、エルトシャンは慌てて飲み込んだ。
 確かに妹はグラーニェに甘えきっているきらいはあるが、それがグラーニェ嬢にとって迷惑であるかどうかなど、エルトシャンが決めることではないのだから。
 しかし、
 「ラケシス、少しはグラーニェ殿も休ませてやれ」
 暗に、お前の相手ばかりでは疲れさせるぞ、と含めてしまったのが見事に通じたらしい。
 「お兄さまのいじわる」
 と舌を出されて思わず目を見開いた。そんなことをされたのは、かつてなかったのではあるまいか。
 「ラケシスさま」
 宥めるようにラケシスの小さな肩に手を置いて、グラーニェは兄妹の間に立った。
 「どうぞまた来てくださいね」
 「はい!ありがとうございますおねえさま!」
 元気よく言って、ラケシスは、あっ、と口を両手で塞いだ。
 一瞬で降りた沈黙は、部屋の中の大人たちの驚く表情のままわずかに続き、ラケシスの小さな「ごめんなさい、つい……」という呟きにようやく解きほぐされた。
 口を滑らせたことにしゅんとしたラケシスに、エルトシャンは声をかけようとするのだが、言葉が出てこない。
 グラーニェすらもしばらく言葉を失って、それでもようやくほほ笑んだ。
 「…ありがとうございます、ラケシスさま」
 ゆっくりと届く声に、顔を上げる。見上げる二人の表情は決して怒ってはいなかった。
 「…別に、謝ることはあるまい。いずれは、グラーニェ殿はお前の義姉になるのだからな」
 ごほ、と咳払いをひとつしてからの兄の言葉に、ラケシスは頬を染めた。
 めいいっぱいの喜びの表情に目をきらきらさせて、「はい!」と大きく返事をする。そのまま教師に連れられてグラーニェの部屋から退出し、残った二人には妙な沈黙が降りた。

 「……どうも…」
 長い沈黙の後、扉を眺めていた何とはなしにエルトシャンがぽつりと、呟いた。
 「ラケシスに先を越されたようだ」
 「…え?」
 意味を掴みかねたグラーニェの不思議そうな顔に、呟いた声を自覚したエルトシャンが慌ててまた咳払いをした。
 「いや、どうもラケシスの方がずっと貴女と親しくなってしまっているようだから……」
 だから、どうなのだろう。
 言いながら妙に気恥ずかしくなってくるエルトシャンは、無意識に口を覆うように手を当てる。
 見れば、わずかにきょとんとしていたグラーニェはすぐにおかしそうにほほ笑んで、見間違いでなければその頬はうっすらと赤かった。
 くすくすと口元を押さえて笑うグラーニェに徐々に落ち着きを取り戻し、エルトシャンは目元を緩めた。
 「もし良かったら、少し散歩でもしませんか」
 唐突かもしれない誘いは、実は初めてのことで、誘われたグラーニェはまた少し驚いた表情をして、それからすぐに笑顔になった。
 「はい、喜んで」


【 新緑・10 】


 風の穏やかな午後に緑の茂る中庭で、若い二人の男女の姿が見られるようになったのは最近のことだ。
 女性に合わせた歩幅でゆっくりと歩く二人に気付くと、園丁たちが頭を下げる。しかし、彼らの主君の息子であるこの国の王子を目にしても、さほどの緊張はなかった。
 きっと、それは二人の表情が、雰囲気がとても穏やかで、暖かかったからだろう。
 ノディオン王子エルトシャンと、レンスターから迎えられたグラーニェ嬢の婚約は、十数日後に迫っていた。

 「では、あなたもレンスターの槍術を?」
 心底から驚いたような表情で、しかしさほど大きな声は出さずにエルトシャンは訊ねた。
 「はい」
 対するグラーニェは、わずかに恥ずかしそうにほほ笑んで、肯定した。
 「でも、それほど長い間学んでいたわけではないのですよ?」
 そう言って、謙遜するように頬を手で押さえた。
 アグストリア諸公連合、ノディオン王国が黒\騎士ヘズルの魔剣、ミストルティンを継承しているように、レンスター王国も十二聖戦士のひとり、槍騎士ノヴァの地槍ゲイボルグを代々受け継いでいる。
 自然、その国で重視される武器は継承される武器となり、その国の主格となる部隊は王家が持つ伝統ある武器になぞられる。つまり、ノディオンでは剣術が重視されるのに対し、レンスターでは槍術が特出する。
 エルトシャンの親友であるキュアンも、後にゲイボルグを受け継ぐことになっており、彼の槍術に敵う者は士官学校時代にはいなかった。同様に、同じく聖剣ティルファングを継承するシグルドは、エルトシャンと肩を並べるほどの腕前だった。
 レンスター出身者が槍を得意とすることは不思議ではなかったが、他でもないグラーニェが槍術を学んでいたことにはさすがにエルトシャンも意表を突かれた。
 この時代、各国の魔道師か、またはすべて女性で構成されるシレジアの天馬騎士団以外で武器を手にする女性は、やはり少なかったのだ。
 「武はあまり得意ではない父が教えてくれたのですが、他の方が見られる限りでは、私は父よりも筋が良かったようです」
 それを告げられた時の父親の顔でも思い出しているのだろうか。くすりと、グラーニェは小さく笑う。
 「それに、どうしても私は女ですし、体力にも限界がありますから」
 さして残念でもないような表情で言うグラーニェは、やはりさほど槍術に傾倒していたわけではないのだろう。そういえば以前、一番幸せなのは土いじりをしていることだと、エルトシャンは聞いたことがある。
 それでは、中庭に花でも植えられたらいかがでしょう。
 そう言おうとして、なんとなく思いとどまった時があった。
 「確か、グラーニェ殿には弟がいらっしゃったのでは」
 ふと、思い出すように尋ねると、グラーニェは顔をほころばせた。
 「はい。ちょうどラケシスさまと同じくらいの年齢なのですよ。あの子も去年、ためしに槍を持たされていましたけれど……」
 言って、グラーニェはまたくすりと、笑った。
 「あの子はどうやらお父さまに似たみたいで」
 「あまり武芸は好まなかった?」
 「はい」
 控えめに言うと、グラーニェはおかしげに頷いた。
 このような控えめで、穏やかな女性の方が自分より武芸に秀でていた。それを知った時の彼女の弟は何を思ったのだろう。
 無意識の内に自分とラケシスを照らし合わせて、エルトシャンは微妙な思いにとらわれる。
 「けれど、あの子はとても賢い子ですから。武よりも文で、キュアンさまたちを助けてくれると思います」
 告げる声音は暖かな姉のものだ。
 さぞ、大切なのだろう。そう思わせるほどの。
 「いずれ、弟君にもお会いしたいな」
 「ええ。ぜひ」
 笑顔に、エルトシャンも目元を緩めた。


   *


 婚約式の日が少しずつ近くなってくる頃、ようやくノディオン王がアグスティから帰還した。
 それまで一度たりとも息子の妻になる女性に会いに来なかった父の非礼に、心の内で不満を溜めていたエルトシャンはほっとしたものだ。
 それでも、父王の自国滞在はたった数日のことで、何の用だったのか忙しなく日々を過ごした後は、あっという間にアグスティ城に向かって行ってしまった。
 「これでは、どちらが本城かわからんな」
 すっかり後を任されてしまい、例によって執務室で書類と向き合っているエルトシャンは、身辺の者にそう漏らした。
 これについてはイーヴたちも何も言えない。
 確かにエルトシャンの感想には同感だが、主君であるノディオン王に対してそのような言動をとるわけには行かなかったからだ。
 絶対的なまでの主君への敬意と忠誠\心。意図せずして成り立つこの精神は、ノディオンが誇るクロスナイツの特徴でもあった。
 近年では特に、エルトシャンへの譲位の噂すら流れており、敬意の対象がノディオン王からエルトシャン王子に移りはじめているのも、事実ではあるのだが……。
 「そういえば、クロスナイツの一人が婚約の許可を求めてまいりました」
 話をきれいに変えてしまったイーヴの言葉は、それでも前々から部下に頼まれていたことでもあった。
 イーヴがそれを聞いた時は、エルトシャン王子がまだ婚約を済ましていないというのに、主君に先んじるとはどういうことだと、憤慨すらしたが、婚約は王子の式を終えてからのつもりだと言葉を重ねられて、ようやく息をついたのだ。
 ノディオン王が再び不在となったこの国で、すべての政務の責任者がエルトシャンとなっている今、部下の婚姻の許可はエルトシャンに求めなければいけない。
 しかも、その相手の女性があろうことか、レンスターより迎えられたグラーニェ嬢の侍女であったのだから、少し話は複雑になる。
 許可は、エルトシャンと、そして侍女の主君であるグラーニェ嬢にも求めなくてはいけないだろう。
 それは自分ではない、エルトシャンの役目なのだ。
 「何……グラーニェ嬢の侍女と……」
 告げられて、さすがにエルトシャンも驚きを隠せない。
 後から就けられたノディオン出身の侍女ではない、グラーニェと共にはるばるレンスターより来た若い侍女。その女性と恋仲になった自分の部下が結婚を決意する。
 自分の気付かぬところで、色々なことがあるものだ。
 そう思う反面。
 「今度は部下に先を越されたか……」
 小さな呟きに苦い呆れが含まれていたことに、エルトシャンは気付かなかった。



 その日の午後、いつの間にかこれも日課となってしまった、ラケシスが勉強に行ってしまってからの二人の散歩の時に、エルトシャンはグラーニェに部下と侍女のことを教えると、グラーニェはすでに知っていたのだろう、嬉しそうに笑った。
 「ええ。とても良いことだと思いますわ」
 「では、許可を与えましょうか」
 「はい、お願いします」
 その表情は自らの侍女の幸せを願う、ただそれだけの思いが込められており、エルトシャンもほほ笑んだ。
 だが、そのすぐ後、見上げてきたグラーニェの思いのほか真剣な瞳に、笑んだ口元を結ぶ。
 「エルトシャンさま、どうか、あの子をよろしくお願いしますね」
 笑む口元とは裏腹に、声音は硬かった。
 はじめて見る、表情だった。




 それから数日後。
 会議のために隣国ハイラインまで出向いていたエルトシャンが、三日の滞在の後にノディオンに帰還した際に出迎えた部下たちの表情は、戸惑いに満ちていた。侍女や、そして大臣たちの表情も晴れてはいない。
 何か起こったのか。しかし、何事か起こったはずならばたとえ会議の最中であったとしても、報告が自分のもとに来るはずだった。
 「どうした」
 訝しげに眉をひそめるエルトシャンに、部下たちは何も言えず、それを告げたのは生まれて初めて、心の底からの憤りを身の内に抱えることになったラケシスの、怒りをぶつけるような一言だった。
 「お兄さま、どういうことです!?」
 「何があった」
 妹の怒りの原因など、エルトシャンに分かるわけがない。
 そういえばグラーニェはどこにいるのだろう。彼女がいて、ラケシスがこれほど怒るまで放っておくのはおかしい。
 「お姉さまがレンスターに帰ってしまわれました!婚約は、破談になったと、そうおっしゃっていました!」
 叫ぶ幼い妹の声は、それでも周囲に痛いほど響き渡り、エルトシャンはこのと時ただ、呆然と、妹を見つめることしかできなかったのである。



[192 楼] | Posted:2004-05-24 10:02| 顶端
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【 新緑・11 】


 「一体どういうことですか!」
 詰め寄るエルトシャンの声音はかつてないほどに強い。
 鋭い眼光はまるで相手を射殺さんばかりのもので、青い炎をも宿していた。
 年若くしてすでに、アグストリアに並ぶ者なしとまで言われるミストルティンの継承者の凄まじい怒気に、側に控えた者たちが息を呑み足をすくませる中、息子の気迫を一身に受けるノディオン王は、しかしまるで息子の剣幕を予想していたかのように平然と、腰掛けていた。
 そう、すべては彼自身が決め、執り行って招いたこの事態だ。
 その結果まだ若いエルトシャンがどんな反応を示すのか、分からないはずはなかったのだろう。



 順調に日が進めば、ただ平穏に迎えられるはずだったエルトシャンとグラーニェの婚約の式。
 しかし、その道を閉じたのは、他でもないノディオン王その人だった。
 ハイラインから帰国したエルトシャンを、怒りに怒ったラケシスが迎えた日。呆然と、もはや無人となったグラーニェの私室に赴いたエルトシャンを迎えたのは、穏やかに笑んだグラーニェではなく、散々泣いた後なのだろう、目の周りを真っ赤に腫らした、侍女であった。
 レンスターからグラーニェと共にノディオンに向かい、そしてエルトシャン配下のクロスナイツのひとりと、恋に落ちた少女だった。
 「お嬢さまは……」
 グラーニェ殿はどこだ、エルトシャンが問う前に、悲しみに震える声で侍女は告げた。
 「レンスターに、お帰りになられました」
 言いながら、固く唇を噛みしめる。
 そんなことは分かっている。なぜ、彼女はいなくなったのだ。
 ともすればふつふつと沸き起こる憤りに怒鳴りそうになる感情を抑え、突然起こった理不尽な現実を、押し込むように息を吸った。
 「…なにが、あった。教えてくれ」
 目の前の少女は明らかにこの現実に悲しみ、そして憤りを抑え込もうとするエルトシャンの気配に、怯えていた。
 冷静な思考を、声音を記憶の底からすくい取るようにエルトシャンは言葉を継ぐ。
 小さな足で、今やっと兄に追いついたラケシスが、侍女の名を呼んだ。
 「先日国王陛下がノディオンに帰城された際に………」
 侍女は何度も息継ぎをしながら告げる。
 自分の動揺と、悲しみを押し込むような呼吸は、エルトシャンの行為と似通っていた。
 「お嬢さまに、おっしゃったのです。王子のお相手として……ふさわしくないと」
 「なぜだ!」
 瞬時に怒りが弾けた。
 だんっ、と、侍女に詰め寄る足音にびくりと周囲の者が肩を震わせる。今にも侍女に掴みかかろうとしているように見えたのかもしれない。
 「エルトシャン様!」
 アルヴァが声を上げた。
 「そんなこと、初めて聞いたわ。おねえさまは何も教えてくださらなかったものっ…!」
 ぎゅ、と手のひらを握りしめるラケシスの声に、エルトシャンの思考が冷える。
 「……では、父上が俺とグラーニェ殿との婚約を、取り止めさせたのだな」
 開いた口から出たのは、やけに静かな声だった。
 ではなぜグラーニェ付きの侍女がここに居るのか。その理由は明白だった。
 ノディオンの青年と恋に落ちたこの侍女を思い、グラーニェ自身がここに残したのだ。おそらく、ノディオン国王と掛け合って。
 数日前のグラーニェの表情が、声音が蘇ってくる。
 自分の侍女を、よろしくお願いしますと、そう告げたときの彼女の姿が。
 脳裏にあの午後が浮かび上がったとたん、エルトシャンは無言で駆け出していた。
 驚く周囲の部下たちの制止の声も聞かない。預けたばかりの馬を馬方から奪い取って、自ら鞍を付けるとそのままひらりと飛び乗\った。
 「お兄さま!?」
 「エルトシャン様!」
 ラケシスとイーヴの声が背後から聞こえる。
 「アグスティに向かう!」
 声を張り上げると共に、エルトシャンは馬の腹を蹴っていた。



 「…理由を聞かせてください」
 翌日の夜には父の居るアグスティ城までたどり着き、夜も更けたというのに面会を半ば強制的に求めた息子に、しかしノディオン王は不快を見せなかった。
 ただ、呆れのような息を吐いたのみ。
 「簡単なことだ。グラーニェ嬢は生まれながらに病弱であったらしい。レンスターからノディオンに参った際に、倒れたそうだな」
 「……だからなんだと言うのです」
 「ヘズルの血を病ませるつもりか」
 由緒正しき聖戦士の血。力あるはずのお前の子を、弱くするつもりか。父の考えが理解できる自分に腹が立つ。たとえ理屈は分かっても、納得など決してできないと感じた。
 「レンスターにどう釈明するつもりです。婚約を、破棄など。あちらの顔に泥を塗ったも同然だ」
 言ったエルトシャン自身が口内で唇を噛んだ。
 最も泥をかぶることになったのはレンスターではない、ハリア家でもない、グラーニェだ。彼女自身に、最悪の汚名を着せたのだ。自分は、父親は。
 「確かにそれなりの賠償は免れんな。だが、聞くところによるとグラーニェ嬢はかつて何度も病弱を理由に、婚姻を断られたらしい」
 「だからと言ってこちらがそれを繰り返すことはないでしょう!」
 叫んだ非礼も詫びず、頭も下げず、エルトシャンは自分の父親を睨んだ。
 「婚約の破棄は決して認めません。私は彼女を連れ戻します」
 「馬鹿なことを。お前の役目は何だ」
 次期、ノディオン王ともあろう者が!
 そこでようやく父王の目に不快が現れた。
 大きくなる声に、しかしエルトシャンは平然と立っていた。
 「私は彼女以外を妻にする気はありません。もし、父上がそれをお認めにならないのなら」
 「エルトシャン!」
 「次期ノディオン王は永久に嫡子を迎えずに、ミストルティンの継承者は長い間不在となるでしょう」
 次に継承者の証を宿して生まれてくるのは、ラケシスの子か、孫か、はたまた証は消滅するのか、私には分かりかねますが。
 さらりと言って、エルトシャンはくるりと後ろを向いた。
 そのまま、扉へと歩き始める。
 「エルトシャン!血迷ったか!」
 父の怒声にも、全く耳を貸さなかった。



    *


 深夜、アグスティを出たまま馬を駆けるエルトシャンの進路は、ノディオンには向かっていなかった。
 「エルトシャン様!どうなさるおつもりですか」
 ノディオンを出た際に慌てて付いて来たイーヴが馬をわずか後方に並べる。しかしその声音は、予想できる主君の考えに困り果てているといった風だった。
 「レンスターへ行く」
 「お待ちください。何もご自身で行かずとも他に方法が……」
 謝罪の使者を送っても良いはずだ。もし必要ならば、自分が行ってもよい。そのくらいのイーヴの言葉を、
 「俺自身が行かなくては意味がない」
 あっさりと否定したエルトシャンの声音は、真剣そのものだった。
 キュアンに幸せにすると約束した。だがそれだけではなかった。何も言わずに去って行ったグラーニェの、その姿が脳裏から離れない。
 「俺ひとりで行く。イーヴ、お前はノディオンに帰り国を守れ。俺がいなくなったことを他国に覚らせるな」
 アグストリア最強のクロスナイツの指揮者の不在は、常に緊張下にある周辺国に侵入の機会すら与えかねない。わざわざ指摘するまでもなく、イーヴはそれを理解するが。だからといってエルトシャンがレンスターへ行くことに納得はしない。
 だが、
 「主命だ」
 一言で忠義心あふれるイーヴの口を封じてしまうエルトシャンは、その後ただ一言、「すまん」と呟いたまま、ノディオンとは別の道を進んで行ってしまった。


   *


 ノディオンから東、今はグランベル領となっているエバンス地方に入ったのは、その翌々日だった。
 すでに日も傾きかけ、その日の宿すら決まっていないエルトシャンは、単身道を歩いていた。自らの愛馬は先の村に預けてある。数日間に渡り走らせすぎたせいで、馬は疲れきっていたからだ。
 一刻も早くレンスターに向かいたい気持ちはあるが、そのためには馬ではなく、ワープという魔法が必要になる。エルトシャンはこの国から、ワープを始めるつもりだった。
 だが、できうる限り身分を隠したままレンスターまで向かうには、王室御用達の司祭を訪ねるわけには行かない。民間の使い手を、捜さなくてはいけなかった。
 進みたい気持ちに方法が追いつかない。エルトシャンはひとつ舌打ちをして、眉を寄せた。
 その時だ。
 ふと、気配を感じて意識を向ける。
 大通りから脇に入った暗い細道に、よからぬ気配がたむろしている。殺気、だった。
 面倒ごとには係わらぬ方が良い、しかし、正義感の強い彼にそれが見過ごせるわけもなく。そっと気配を殺して近付けば、数人の男たちが一人の男を取り囲んでいるところだった。
 明らかに風体のよろしくない男たちは皆一様に武器を持ち、憎々しげに男を見ている。
 飛び掛る寸前にこちらも剣を抜く。
 エルトシャンがそう考えた時、渦中の男は動じもせずに、ただ口の端を上げただけだった。


【 新緑・12 】


 手助けの必要はなかった。
 それは目の前の情景を見れば明らかで。
 エルトシャンは剣の柄に触れていた手を下ろして、細い道の先で繰り広げられる一方的な喧騒を眺めるに徹した。
 一方は、叫び悪態を吐きながら武器を振り回す男たち。一方は、それを苦笑交じりにあしらう一人の男。
 エルトシャンより少し年長そうな容姿の青年は、身を守る鎧も敵を打つ武器も持たず、素手で相手の攻撃をかわしていた。
 右より振り下ろされる刃物を軽く避け、左のわき腹を狙って突き出された短剣を、片手でひょいと取り上げて向こうに放り投げてしまう。向かってくる相手の一撃を避けて、さほど力も込めていないような表情で腹を蹴り上げ、あっという間に沈めてしまう。
 人間の視野には限界がある。
 一対多数での戦闘にはどうしても死角が付きまとい、それが自分の身を危うくさせる。だが、この青年はまるで背後が見えているかのように、一度も後ろを振り返らずに、あたりを見回さずに向かってくる男たちをいなしていた。
 慣れた動作は、周りで次々に打ち倒されていくごろつきたちとは明らかに違い、彼がただの町人でないことは、エルトシャンにも容易に見て取れた。


 「…で。」
 それが自分に向けられた言葉なのだと気付いたのは、青年がエルトシャンの方を呆れたように見ていたからだった。
 二人の足元のには男たちがうずくまっていて、皆意識を失っているというのに、目に見えての大きな怪我は誰も負っていなかった。骨すら砕けていなさそうだ。それであの短時間にこの人数を倒すのだ。相当、手慣れている。
 「別に加勢しろとは言わねぇが、そうやって突っ立って見学ってのもどうかと思うぞ」
 特に不快さを表しているわけではない。
 ただ単に呆れている、そんな声音にエルトシャンも肩をすくめた。
 確かに、見ず知らずの男が助けるでもなく、ただ観戦しているというのは、さぞ奇妙だろうと。
 「いや」
 弁解なのか、ごまかしなのか。言葉を次ごうとしたら妙におかしみを覚えた。
 「最初は助けに入るつもりだったんだがな」
 必要がなかったのと、だからといってくるりと、喧騒を背後に聞きながらまた来た道を帰っていくのも変な話なのでな。
 どうするか、行動に迷ったのだ。
 あっさりと告げると、青年は一瞬眉を動かして、そうして口の端を上げた。
 「そりゃあ、律儀なことで」
 言葉の意味が良くつかめず、あいまいな表情を向ける。
 それでも、互いに気分を害したということはなかった。


   *


 男の名はベオウルフといった。
 特に理由があったわけではないが、あの後何とはなしに大通りの方に戻る過程で、彼が町人でも旅人でもなく、傭兵であることをエルトシャンは知った。
 アグストリア最強の名を冠するクロスナイツを有するノディオンは、戦争のほとんどを自国の兵士でまかなう。だからというか、エルトシャン自身国籍など関係なく、賃金で戦争に参加する傭兵という職業の者に会うことはめったになく、話すことも実は初めてであった。
 「では、これからもどこかの戦地へ?」
 半ば興味本位で尋ねてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
 自分よりもやや背の高い青年を見れば、ベオウルフは苦笑をたたえた。
 「あいにく今は職探し中だ。ま、仕事はなくても稼ぐあてはあるがな」
 闘技場のことだろうと、エルトシャンがとっさに判断できたのは特に知識があったからではない。先程のごろつきたちが、闘技場での戦いでベオウルフに負けた者たちだと、聞いていたからである。
 飄々とした体のベオウルフは、自分のことすら客観的に話す。
 どこか冷めたような言動は、今まで出会った誰とも違い、不可思議な感覚をエルトシャンの思考の中に生んだ。
 それは決して、不快なものではなかった。



 「俺に雇われる気はないか?」
 切り出したのはあれから数時間後。
 成り行きで共に夕食をとっていた場でのことだ。
 二階以上が宿になっている、大衆\酒場。バーハラの士官学校時代に何度かシグルド、キュアンたちと足を運\んではいたが、ノディオンに戻ってからは一度もこのような場所に赴いたことはなかった。
 酒気を帯びた店内の空気と、各々が好きに話し合う声が交じり合って、独特の音が広がる。
 だが自然と、会話をする互いの声は聞こえるもので、エルトシャンはさほど声を大きくもせずに、言葉を伝えることができた。
 「ああ?」
 ベオウルフが片眉を上げる。
 聞こえなかったのではない。伺うような表情だ。
 「事情があって、レンスターに行かなければいけない。レンスターまでの最短の道を、知っていないか?」
 世情に通じた傭兵ならば、民間のワープの使い手も知っているかもしれない。
 また、その方法を知っているかもしれない。
 つい先程であったばかりの相手にこの話をしてもよいのか、それほどの信用の置ける相手か、そんなことはあまり気にならなかった。
 直感で分かる。
 この男は、信頼に足る男だ。と。
 「やけに切羽詰ってやがるな。……なんだ、逃げた女でも追いかけに行くのか?」
 口の片方を持ち上げて、ベオウルフは麦酒の入った木の器を机に置いた。
 驚いたのはエルトシャンだ。
 目を大きく開いて、身体を動かす。
 図星だと、態度で示してしまったエルトシャンに、ベオウルフも目を見張って、そうして思い切り吹き出した。
 「……ベオウルフ…」
 笑われる方はあまり良い気はしない。
 それでも、事実を指摘されたのはこちらなので、さしたる反論も自己弁護もできずにエルトシャンは麦酒をあおった。
 「いや、すまん。……まさか、なぁ」
 片手を上げて謝罪か、少し待ての意思表示なのか、を示すベオウルフは、くっくっという笑いをのどの奥に押し込んで口を麦酒の器で押さえている。
 たっぷり数分は経過して、ごほ、と気を取り直すように咳をひとつしたベオウルフは、しかし愉快そうな表情を変えもせずに憮然としたエルトシャンを見すえた。
 「ま、金額次第だな。要はレンスターに行くためのワープが欲しいんだろ」
 さすがに、話は早い。
 「金額はそちらの言い値でいい。俺もゆっくりとはしていられないんだ」
 「そりゃそうだろうなぁ」
 からかいの響きに、また言葉に詰まる。
 しかしベオウルフはそれをきっかけにエルトシャンを笑おうとしていたわけではないようで、すぐに表情を戻して空になった麦酒を注いだ。
 「前金で二千。向こうに着いたら残り五千でどうだ?」
 もちろん、その間の必要経費はお前持ちだ。
 具体的な申し出に、エルトシャンは首を振る気はない。
 言い値で良いと言ったのはこちらだし、持ちかけられた金額は常識の範囲内だ。
 「ああ。よろしく頼む」
 生真面目に頷くエルトシャンに、ベオウルフが軽く笑った。



[193 楼] | Posted:2004-05-24 10:03| 顶端
雪之丞

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海蓝之钻(II)
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【 新緑・13 】


 すぐに着くと思っていたのは、自分だけだったことに気付かされたのは、ベオウルフに出会ってから数日後。
 ノディオンいや、アグスティを出て、一週間を過ぎたあたりだった。
 気ばかりが急いて、しかし進路は思うようには進まない。
 それでも、「これでも良い方だぞ」と真顔で告げてくるベオウルフの言葉を疑う気もおきず、エルトシャンはため息を吐いた。

 二人の進路は、グランベルの東、エッダ領にさしかかっていた。
 ここから再びワープで、マンスター地方に入る。
 このあたりで手間取るだろうな。呟くベオウルフにエルトシャンも眉をひそめる。指摘されて、気付いたのだ。エルトシャンには、身分証明書がない。
 もちろん、彼はれっきとしたノディオン王子だが、今回彼は周囲に隠れて行動している。ノディオン王家の紋章の刻まれた銀の剣は、彼の身分を保証する有力な証拠だが、しかしマンスター地方へ入国する際にそんなものを提示すれば、大騒ぎになるに決まっている。
 それだけは避けたいエルトシャンは、グランベル王国の各公国領を通過する際に違法ぎりぎりの行為を行ってきたのだ。
 妙に手馴れている、ベオウルフに教えられて。
 「もとはといえば、お前の用心の足りなさが悪い」
 言ってのけるのはベオウルフだ。
 正体を名乗\らず、身分を隠していたエルトシャンだが、その名前を変えることはなかった。衣服だって、上質のもので。名を教えただけでノディオンの王太子だと言い当てたベオウルフに驚いたエルトシャンだが、「そんなことは名前聞けば、がきだって分かるさ」とあっさりと言ったベオウルフに言葉を失ったものだ。
 自分の知名度の高さを、彼は知らなかった。
 そのまま、一度ベオウルフのなじみの斡旋所に寄り、傭兵として――もちろん偽名を使って――登録をした。その斡旋所から発行された書類が、今のエルトシャンの身分証明書だ。それも、かなり信用度の低いつくりになっていたが。なにせ、過去の仕事の履歴が真っ白なのだから。

 「気ばかりが急く」
 レンスターまであと何キロ。
 地図に穴が開くのではないかと思われるほど見つめながら、エルトシャンは苦々しげに呟く。
 経過する日数が、ノディオンからレンスターまでの無常な距離を語った。
 「そんなに慌てることか」
 簡素なつくりの安宿。すっかり日も暮れた夜に、進むこともできない。
 明日朝一番に、マンスター地方までのワープを行う予定だった。
 椅子の背にもたれながら、ベオウルフは肩をすくめる。馬鹿にはされていない、だが、呆れられているのかもしれない。エルトシャンはそう感じた。
 だが、それもそうなのかもしれない。数日間行動を共にして分かった、飄々とした生き方のこの男は、きっと何にもとらわれようとしないのだろう。つかみ所のない、淡白な言動は、きっとその表われなのだろうと。
 そんな彼には、国に、社会に、身分に、とらわれている自分はさぞ異様なものに映るに違いない。そして今自分は、レンスターへの距離にとらわれている。
 自らの考えに卑屈めいたものが混じっていると気付いて、エルトシャンは口の端を上げた。 「一日経てば、それだけ彼女が離れていくような気がする」
 いや、その距離はもっと開いているのかもしれない。自分が考える以上に。
 呟いて、ぶどう酒をあおった。
 「執心だな」
 歯の浮いたようなことを言わないのが、この青年らしい。 エルトシャンは苦笑した。 「そうだな。……いや、気付いたのはつい最近だ……」
 「ほお」
 余計なことは何も言わない。簡潔な返事はまるでろくに聞いていないかのようだが、しかしベオウルフの意識はきちんとこちらに向かっていた。
 「グラーニェが、俺のことをどう思ってくれていたのか、そんなことも分からないままだ」
 自嘲気味に呟く。
 「もしかすると、俺の行動は彼女にとって迷惑でしかないのかもしれんな」
 ベオウルフが肩をすくめる。
 そんなことはないと、言われていたら自分はどう思っただろうか。
 何も言わない彼の行動が、ありがたい。
 「だが、俺の気がすまないんだ」
 「部下たちは苦労するぜ」
 ふ、とエルトシャンは笑う。否定はできなかった。
 自分の単独行動の後始末を、すべてイーヴたちに押し付けてきてしまったのだから。
 後悔は、しないが。
 「いいんじゃねぇか?」
 片方の口の端を上げたベオウルフに、エルトシャンは笑った。
 「そう思ってくれるか」
 なんとも気弱な台詞だ。
 だが、軽く笑う振動に肩を振るわせたベオウルフは、エルトシャンに不快も自嘲も与えなかった。
 「マンスターに入ったら、レンスターに向かうのか?」
 問われたのはまったく別のことだ。
 これからの道程を、彼なりに考えてくれているのか、それとも道案内という役目をただ事務的にまっとうしようとしているだけなのか。
 それでも、冷静な思考は自分にも感染する。ありがたいような心持で、エルトシャンは首を振った。
 「いや、王都ではなく、もう少し北の地方に。グラーニェが住んでいたハリア領は、王都から少し離れているんだ」
 「ハリア領か。だがどちらにせよ一度レンスターに向かわないとな。ワープの中継は、そこが一番近い」
 軽く顎に手を添えて、ベオウルフは言う。
 っていうことはあと四日もあれば着くだろうな。
 呟くベオウルフの言葉に、鳥肌が立った。
 明確な、日数だ。グラーニェに再び会うまでの。
 四日、四日待てば、良いのだと。四日の努力でたどり着くのだと。
 「……そうか……」
 腹の底から浮き上がってくるような高揚感と緊張を、吐き出すようにゆっくりと言う。
 目を閉じたエルトシャンに、ベオウルフは目を細めた。
 「着いてからが、勝負だろうが」
 今からそんなでどうするんだ?
 からかうような声音に、エルトシャンははっとする。
 そうだ、望んでいた瞬間が近付き、そのために決して避けては通れない現実が脳裏に浮かぶ。
 自分の父が一方的に押し付けた宣告。
 気付けなかった自分と、守れなかった罪。
 レンスター王家に、ハリア公爵家に着せた泥。
 すべてを謝罪し、そして、それを越えなければ、きっと自分はグラーニェに再び出会えない。
 おそらく最も怒っているであろう、親友のキュアンを思い出し、エルトシャンは眉を寄せる。
 だが。
 「逃げはしないさ」
 そう、今更それらを避けようとは思わない。
 すべてにぶつかるつもりで、エルトシャンは知らず、こぶしを握り締めていた。



   *



 同じ大陸に存在するとはいえ、その位置は遥かに遠い。
 大陸全土を記した地図で見ても、その距離は明白で。
 エルトシャンにとってはじめてのマンスター地方は、ノディオンに比べると空気すらも異なるように感じられた。
 マンスター地方レンスター王国。
 内海を背に、高台に建造された王都のレンスター城は数々の戦いの中も燦然とした歴史と伝統を伝え、そびえ立つ。
 隣国トラキアとの戦いを長年に渡り繰り返しているレンスターは、しかし決して戦争の暗さを表さない。それは、レンスター王子キュアンの姿でもあった。


 ベオウルフとの契約はレンスターまで。
 しかし、その目的がグラーニェであることから、契約期間がわずかに伸びる。ハリア公爵領まで同行したベオウルフは、「まあ、頑張りな」と軽い笑顔を残して、残りの契約金を手にして去っていった。
 それを薄情だとは思わない。
 むしろ、ここまで共に来てくれたことに感謝したいくらいだ。
 ハリア公爵の館を中心に広がる街並みの中、去っていくベオウルフの背にエルトシャンは軽く頭を下げた。
 ここに、グラーニェがいるのだ。
 脈打つ心臓を嫌でも感じる。それをそのまま感情の底に押し込めて、エルトシャンは町の中心部へと歩き出す。
 迷っている暇など、なかった。

【 新緑・14 】


 「姉上はここにはいません」

 突然来訪したノディオン王子を迎えたのは、主人であるハリア公爵の息子、リュクスだった。
 正統なるノディオン王家の嫡子であるという、その身の保障をする物は、彼が手にしていた一振りの銀の剣だけであった。そこには王家の紋章が刻まれている。ただそれを以って、屋敷の門をくぐったエルトシャンに、周囲の者たちの動揺が走った。
 執事たちがためらいがちにエルトシャンを押し留める。彼らは知っているのだ、エルトシャンという名の王子のもとへ、この公爵家の一人娘が嫁いだことを。そして、追い返されたことを。
 名を騙る偽者かもしれない。しかし、彼が本当にあのノディオン王子であったとすれば、それはそれで、問題だ。何せその人は、彼らの仕える令嬢に恥をかかせた存在で。
 慌てる使用人たちを軽く抑えて、進み出たのはまだ幼い公爵家の嫡男だった。
 自ら名乗\り、エルトシャンを迎えた少年の表情は冷静。とても、ラケシスと同世代だとは思えなかった。
 「あなたがなぜここに来られたのか、そのお考えはわかりません。しかし、ここに姉上はおりません。どうぞ、お引取りください」
 怒りの感情などない。だが、明らかにその声音は、自分を責めていると、エルトシャンはそう感じる。それが、自らの罪悪感のせいだとは思わなかった。
 「ではグラーニェ殿がどこにおられるか、伺ってもかまわないか」
 尋ねるエルトシャンの焦燥に、少年は気付いているはずだった。
 聡い子だ、落ち着いた、大人びた子だ。グラーニェがそう言っていたのを思い出す。
 「訊いてどうするおつもりですか?」
 「謝罪と、迎えに」
 簡潔な言葉に迷いのかけらも見当たらない。まっすぐな視線にわずかにリュクスはまぶたを動かして、一度閉じる。
 「あなたに何事かを言うのは私ではありません。…姉上はレンスター城にいます」
 「レンスターに?」
 その言葉に、さすがにエルトシャンは声を大きくする。それはつい先日、通過した場所だ。
 「キュアン王子が、姉上を妻にされるそうです」
 事実だけを述べる少年の声に、エルトシャンは目をみひらく。がたりと立ち上がると、リュクスは顔を上げた。
 「どうされるおつもりですか」
 「彼女を迎えに行きます」
 力強い言葉。自ら頭を下げ、退室しようとするノディオン王子に、ハリア公爵家の嫡男もまた、立ち上がった。
 「どうか、姉上を……」
 言いかけた言葉は途中で消え、エルトシャンはもう一度頭を下げると、きびすを返した。


 「エルトシャン!」
 中央通りを走るエルトシャンに声がかかる。聞き覚えのある男の声はエルトシャンのはやる足を止めさせた。ベオウルフが、通りの店の前に立っていたからだ。
 真昼間から麦酒の器を片手にしているベオウルフに片眉が上がる。今はお前の相手をしている暇はない。八つ当たり紛れに怒鳴ろうとして、にやりと笑うベオウルフの言葉に止められる。
 「レンスターへ行くんだろう?馬、用意してあるぜ」
 「……ベオウルフ?」
 なぜそれを。
 尋ねる前に答えがあった。急ぐエルトシャンの気持ちを、汲んでいるのか。
 「お前からせしめた金で呑んでりゃ、町は噂で持ちきりだ。ノディオンから戻ったハリアのお嬢さまにキュアン王子が求婚した、とよ」
 急ぐんだろ?
 口の端を上げるベオウルフにエルトシャンはようやく笑う。
 安堵の笑顔にため息を吐いて、示された方向につながれた二頭の馬に足を向けた。

 なぜか、ベオウルフはエルトシャンの隣でレンスターへの街道を駆けている。
 馬代のことも、何も、言わない。そもそも契約は切れているはずなのに。
 ベオウルフの考えなどエルトシャンにはわからない。それでも、心の底から、ありがたいと思った。
 ベオウルフはエルトシャンに何も尋ねない。エルトシャンもグラーニェのことは、何も言わない。
 代わりに、道の先を見つめた。
 「お前は有能な傭兵だ。腕も立つし、頭も良い。なにより、信頼できる」
 「ほう」
 唐突な言葉に、ベオウルフは笑う。エルトシャンはちらりと、隣を見た。
 「もしお前がこれからもその仕事を続けるのなら、五千や六千ではその腕が勿体ないな」
 旅の途中、彼の腕と機転はかなりの助けとなった。もし真剣に戦えば、エルトシャンも危ういのではないかというほどに、彼は強く、戦い慣れてもいる。
 「ほう、じゃあお前はいくら出すって言うんだ?」
 面白そうにベオウルフは尋ねる。これからのエルトシャンの道行きを、彼なりに図っているように。
 「一万」
 「二倍か」
 目を細めるベオウルフに、エルトシャンは口の端を上げる。
 「前金で、一万だ」
 簡潔な物言いに、さすがにベオウルフは眉をしかめた。意外そうに。
 「高く見てもらえたもんだな」
 「お前はそのくらいの値段があって当然だと思うが」
 「じゃあ、お前は次に俺を雇う時にそれだけ払えよ?」
 切り返すような台詞に、エルトシャンは動じない。
 「いや、俺は値切る」
 「いいやがった」
 さらりと告げる言葉に、ベオウルフは笑った。決して不快そうではない笑い声だった。それがエルトシャンの感謝と、別れの言葉だと気付いてくれているのだろう。
 感謝している、また、会おうと。
 レンスター城は、もう目の前だった。


   *


 ノディオン王国のエルトシャン王子が来ている。
 レンスター城の侍女からそれを聞かされたグラーニェは、わずかなめまいに襲われた。無意識に額に手をあてて、その知らせを持ってきた侍女を見つめる。彼女の顔は真剣で、どことなく青ざめてもいた。
 「エルトシャンさまが……」
 呟いて、グラーニェは立ち上がる。ふらりと揺れて、椅子に手を付いた。ノディオンからレンスターへ。不慣れな復路は、いまだ彼女の体調を悪くさせている。
 だが、座ってはおれなかった。
 「エルトシャンさまとキュアンさまは、どこに」
 気遣う侍女たちに首を振る。
 すぐに思い当たったのだ。レンスターに来たエルトシャンを、キュアンが迎えぬはずがない。そうして、今回のノディオンの仕打ちにこれ以上ないくらいの憤りを見せていたのは、他でもないキュアンで。
 決して穏やかな対面が行われることはない。グラーニェは、そう気付いたのだ。


 謁見室で行われるはずのキュアンとエルトシャンの対面は、あえなくつぶれた。
 レンスターの騎士と、侍女たちに案内されて廊下を進んでいたエルトシャンのその先で、すでにレンスター王子が立っていたからだ。やや後方に控えている青い髪の少年の生真面目な、だがとまどいを浮かべる表情に目をやって、そうしてエルトシャンは親友を見た。
 「…キュアン」
 「今更お前を親友として迎える気はない。いや、親友だからこそ、お前に言いたいことがある」
 目に浮かぶ剣呑な光は側に控える者たちの息を飲ませる。
 明朗な彼らの王子はどこにも居ない。ここにいるのは戦場でも多くの勇をはせる、聖器ゲイボルグの継承者だ。
 「なぜグラーニェを裏切った……!」
 恫喝ではない。静かな声。だからこそ、そこに込められた怒りが、周囲に響く。エルトシャンの心臓の奥底が、揺れる。
 「すまない」
 口をついた声は、思いの外冷静だった。口にするエルトシャン自身、己の中の静謐に驚く。静まり返った自分の思考は、キュアンの怒りにも、この城のどこかに居るはずのグラーニェの存在にも、動揺することがなかった。
 「グラーニェに会わせてくれ」
 「それこそ今更だ!」
 わずかに荒げられた声。中庭に面したその廊下。キュアンの声は外にも容易に届いた。
 「もう、誰にも任せない。グラーニェは俺が守る」
 「悪いが、認められん」
 「エルトシャン!!」
 静かな声に込められる意思に、キュアンが怒鳴った。後方に控える少年を、振り返る。
 「…フィン、俺の槍を持ってきてくれ」
 「……キュアン様!?」
 驚く声は周囲の者たちの代弁だ。顔を上げる少年に、しかしキュアンの表情は厳しかった。常にない、気配。
 「…ただちに」
 すばやく去るフィンに、エルトシャンは己の腰に佩いた剣の重みを感じた。
 この先に待つ必然的な光景に、女性たちがわずかに下がる。レンスターの騎士たちも、わずかな緊張を表情に浮かべた。
 フィンが走ってくる。腕に抱えられるのは、キュアンの持つ槍、勇者の槍。
 差し出される槍を手にとって、キュアンは巻かれた布を取り去った。エルトシャンの銀の剣の鍔が、小さく鳴る。
 「グラーニェに会いたいならば、まず俺を倒せ」
 覚悟していた光景だった。親友と、討ち合うということは。
 「ああ」
 ためらいもなく、エルトシャンは銀の剣を抜きさった。


 廊下の中にまで響いてくる剣戟の音に女たちがざわめく。
 キュアン王子とノディオンのエルトシャン殿下が、戦っておられるそうよ。そんなささやきの中を、グラーニェは走った。病んでいる彼女の足は決して速くない。追いつく侍女たちの制止の声にも、彼女は止まらなかった。
 抑えようとする侍女たちの腕からするりと抜けて、勝手知ったる王宮内を進む。
 中庭は、もうすぐそこだった。

 「キュアンさま!エルトシャンさま!」

 叫ぶ声にその場で立ちすくむものたちの視線が集まる。「グラーニェ様…!」フィンの呟きに、グラーニェは中庭に面した手すりに手を付いた。
 騎士や侍女たちすべてが振り返った彼女の声にも、戦う二人の青年は反応しない。
 決死の攻撃。互いの打ち合いをかわし、刃を繰り出すことに全神経を集中させている。
 殺気立った二人の表情に、グラーニェは自らの血の気が引いていくのを感じた。
 稀に強き武器、勇者の槍が繰り出す軽快な突きを紙一重でかわし、弾き、エルトシャンは銀の剣を薙ぐ。槍の柄で受け止められた刃の横から、キュアンの腹を蹴り上げた。
 衝撃によろめくキュアンは、しかしエルトシャンの足を掴み上げて弾く。もはや、これは正式な作法に則った戦いではなかった。決闘だ、これは。
 誰も、止めることなどできないようにただ呆然と見入っている。
 しかし、グラーニェはもう、何も考えられなくなっていた。
 真っ白の思考の中、ただこの戦いを止めさせなければと、それだけを感じる。
 側に立つフィンの持つものに視線をやって、言葉もかけずに手を出した。
 「……グラーニェ様!?」
 奪い取られたと言った方が良いかもしれない。グラーニェの手の中にある細身の槍に目をみひらいて、しかし止める間もなくグラーニェは中庭への階段を降りて行く。
 衣装の長い裾を気にも留めずに、真白い腕で槍を構える。
 その先にあるのは、大陸屈指の腕を持つ者たちの戦いの場。
 「止めてください!」
 グラーニェの叫び声に、ギィンッ、という刃の音が重なった。


 弾かれた剣と槍。対峙し合うその中心に突然切り込まれた一撃は、二人の王子の武器を弾いて、その意識すらも現実に戻した。
 しかし男たちは自らの武器を取り落とすことはなく、地面に落ちたのはグラーニェの振るった細身の槍のみ。衝撃に、柄を持ち続けることなど女性には不可能だったのだ。
 エルトシャンとキュアン、二人の剣戟を見極め、割って入るという偉業をなしたグラーニェは、しかし突然の激しい動きによる負荷に、耐えることができなかった。
 何も言葉を継ぐことができずに、ぜぇぜぇという呼吸のまま唇を動かすのみ。ぐらりと揺れた身体が地面に崩れ落ちる様子は、なぜか周囲の目にゆっくりと映った。
 「グラ……
 「グラーニェ!」
 手を伸ばそうとしたキュアンの動作そのものが、大声に打ち消される。
 身をひるがえしたエルトシャンは、自らの武器すらうち捨てて、グラーニェを支える。そのまま膝を付いて、グラーニェの衝撃を和らげるように座らせた。
 この城に入って、初めてエルトシャンが声を荒げた瞬間でもあった。
 それを、キュアンはただ眺める。
 「グラーニェ、大丈夫か……!?」
 肩を抱き、支えるエルトシャンの腕の中でグラーニェは咳いた。何度も何度も咳き続けて、口を覆う手と共に、身体がどんどん前屈みになっていく。
 「医者を、早く!」
 エルトシャンの鋭い声に皆が我に返る。侍女たちが慌てて廊下を駆け、数人が中庭に下りた。その頃には、キュアンもまた、グラーニェとエルトシャンの側に居る。
 「グラーニェ……」
 片膝を付き、キュアンは眉を寄せる。
 ただ、心配をかけたくはないのだろう、グラーニェは何度も首を振った。咳き続けながらも、まるで自分は大丈夫だからとでも言うように。
 「……エル、ト…シャン、さま……」
 合間合間に、何とかその名を呼ぼうとして、身体を苦しそうに曲げる。
 「無理をしなくていい」
 言いつのるエルトシャンに、グラーニェは微笑んだ。咳く苦しみと他の何か、目の端にはうっすらと、涙が浮かんでいた。
 「はじめて、名前で呼んで、くださいましたね」
 ゆっくりと、告げる。
 声音にやどる喜びは、エルトシャンに直接届いた。
 「……そういえば、あなたの前で呼ぶのは、はじめてだったか」
 思い返す。自分は彼女をグラーニェ殿と、呼んでいた。ずっと。
 まさかそれを、覚えていてくれたとは。……意識していてくれたとは。
 「呼び続けて、かまわないだろうか」
 ためらいがちに尋ねる声音には、エルトシャンが込められるだけの感情が、こもっていた。
 謝罪。感謝。そして。
 「はい。エルトシャンさま」
 グラーニェはほほ笑む目の端から、涙をひとすじ、流した。
 表情は喜びに、溢れていた。



<最終話>



[194 楼] | Posted:2004-05-24 10:04| 顶端
雪之丞

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【 新緑・最終話 】


 「重くはないですか?」
 「いや、大丈夫だ」

 手にするものに気遣うように視線をやって、グラーニェはエルトシャンを見上げる。笑みながら首を振って、エルトシャンはそれをしっかりと抱えなおした。
 それは、ハリア公爵家の中庭、グラーニェが世話をしていた中庭の植物の、苗木だった。
 「ノディオンの庭に、植えるといい」
 エルトシャンの提案に、破顔したグラーニェを見て、ああ、もっと早くこれを口にしていればよかったと、エルトシャンは思ったものだ。かつて、中庭に花でも植えれば、そう言いかけて、止めたことがあった。
 レンスターへの道のりは、ベオウルフと共に正規ではない道をたどった。ノディオンまでのこの道は、レンスター王家の許可を得たものだ。エルトシャンとグラーニェの後ろには、レンスターの騎士たちが付き従っている。
 ノディオンからレンスターまで、グラーニェのために旅をしたエルトシャン。
 戦う二人の王子を、病の身を知りながら身を挺して止めたグラーニェ。
 キュアンは、許すしかなかったのだ。
 苦い笑みを浮かべながら。

 「……ずいぶんな回り道をしてしまったが」
 口元に手をあてるエルトシャンに、グラーニェはほほ笑む。本当ならば今ごろは、二人は婚約の式を終え、名実共に婚約者として、ノディオンに居るはずだった。
 「けれど、道がなくなっているわけではありませんから」
 「…ああ、そうだな」
 気付いたように、エルトシャンは、目を細めた。


   *


 長い道のりを越え、エルトシャンとグラーニェは婚約を済ませる。
 結婚式は当初の予定よりはよほど遅れるだろう。誰もがそう考えていたが、しかし彼ら二人の式は何事かが起こる前に決められていた通り、春の日差しの中で行われた。
 一国の王子の結婚式にしては、質素な式ではあったが、その場には、喜色満面のラケシスや縁者、各国の列候や代表者が招かれる。その中に、ノディオン国王の姿も、もちろんあった。
 神への誓いを済ませ、幸せそうにほほ笑む二人に拍手が起こる。
 大切ないとこと、親友の姿にいまだ少しの苦さを含んだ拍手を向けるキュアンの肩を叩く者がいた。
 「シグルド」
 もうひとりの親友の姿に、笑みを浮かべる。久しぶりに会う親友の姿は、士官学校時代とは打って変わった、一国の公子らしい堂々たるものだった。
 「久しぶりだな。招待状をエルトシャンからもらって、楽しみにしていたんだ。二人に会えるのを」
 「ああ、後でせいぜいエルトシャンをからかうのを手伝ってくれ」
 するりと出たキュアンの言葉に、彼自身が驚く。それに気付かずに笑うシグルドと一緒に、キュアンもまた、心から笑った。
 「お兄さま?」
 少女の声が近付いてくる。
 気付くキュアンにシグルドは笑いを収めて、しかし笑顔で少女を招いた。
 「シグルド、その方は?」
 「紹介するよ、妹のエスリンだ」




    ---- ---- ----




 翌年。
 主人の結婚の後に、ささやかな式を挙げたエルトシャンの部下とグラーニェの侍女の間には、男の子が誕生する。
 その子の名付け親にと請われたエルトシャンたちは、彼にトリスタンという名を贈る。
 その次の年に生まれたエルトシャンとグラーニェの息子アレスには、父と同じ、ヘズルの聖痕が見られた。



 数年後、回り始めた運\命に大陸中が巻き込まれていく。
 アグストリアに進攻したグランベル王国のシグルドとの戦いの中、エルトシャンは休戦の最中に軍を上げた主君、シャガール王を諌め、その罪によって処刑される。
 長男アレスを出産後、体調を崩していたグラーニェは、休養先の実家で夫の訃報を聞く。
 その二年後、彼女は弟と、まだ幼い息子に見守られる中、ついに癒えることのなかった病により、静かに息を引き取る。

 ユグドラル大陸は暗黒\教団の暗躍によりグランベル帝国に支配され、大陸にふたたび光が戻るまでには十七年の歳月を要することになる。
 だが、長い悲しい時代の中も、戦争の中も、ずっと、エルトシャンが運\び、グラーニェが育てたハリアとノディオンの新緑は、太陽の光を受けて、輝き続けていた。


<終わり>



[195 楼] | Posted:2004-05-24 10:05| 顶端
雪之丞

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【 森泉 】

(ジャムカ×エーディンが前提です)


 「ねえ、ヴェルダンってどんなところ?」
 「さあ」
 興味津々といった風にかけた言葉に、あまりにもあっさりと返事をしてしまったものだから、この感情豊かな少女はあまりにも素直に、頬を膨らませてしまった。
 レスターとしても答えようのなかった問いだとはいえ、確かに恋人に向ける返事としては面白味にかけていたかもしれない。
 気付いたとしてももう遅い。
 「もういい」
 ぷい、とそっぽを向いて歩いて行ってしまう後ろ姿に、慌てて方向転換をした。
 「パティっ」
 声をかけると両方の手を耳に押し当ててしまう。
 曲げたひじを高く、耳の高さにあわせて上げるあたりに、彼女のへその曲げ具合がうかがい知れた。
 聞こえませーん、知りませーん。
 そんな言葉が聞こえてきそうでレスターは額に手をあてた。

 「パティ」
 もう一度呼んでみる。もちろん返事はない。わかっていたことだ、わかってしまえるくらいには、彼らは一緒に過ごす時間を持てていた。
 行軍の途中、イードの厳しい砂漠の中で、別行動をとっていたシャナン王子が連れてきた少女。いや、着いて来た少女。
 それがまさか同じ血を持ついとこだとは思わなかったけれど。
 自分よりも強い、聖戦士の血を持つ少女だとは思わなかったけれど。
 「悪かったって」
 追いかける歩幅の違いはふたりともわかっている。
 大またで歩くレスターから逃げるために、パティはすでに小走りになっている。
 きっと、もう何で怒っているかもあいまいになっているに違いない。何で自分から逃げているかもわからなくなっているに違いない。
 むきになった彼女は、その原因を忘れがちになる。
 わかっているのだ。
 そんなことは。
 「本当に知らないんだ。行ったことないし」
 話に聞いたことはあるけれど。かつてかの国にさらわれた母親から。そして、その国で運\命の男と出会った母、エーディンから。

 「無愛想だったのは謝るよ、悪かった。少し、考え事してたんだ」
 本心から悪いと思っているのはわかるのだが、なにぶん冷静な常からの様子のせいか、すらすらと出てくる謝罪の言葉がうさんくさい。
 もちろん、言葉にうがった意味などあるわけはないのだ。パティにだってそのくらいのことはわかる。いや、自分だからこそわかると思いたい。
 だが。
 今この足を止めてしまうと負けてしまうような気がして、だから止められないのだ。止まらないのだ。
 「パティ」
 すぐ後ろから名前を呼ぶ声。
 パティにとって、最初はどうでもよかった声。
 しだいにどうでもよくなくなってきた声。
 走ったら、すぐに追いつけるくせに。まだ大またで歩いているレスター。小走りのパティ。
 いっそ捕まえなさいよ!
 言いそうになって口をつぐんだ。
 「何で知らない国に行こうとするのよ!」
 代わりに言った言葉は、予想以上に大きかった。
 振り返ったパティに、レスターがわずかに驚く。その勢いと、言葉の中身に。
 見たことのない表情だった。
 レスターの一瞬の沈黙にパティが目をみはる。もしかしたら、それは言ってはいけないことだったのだろうか。
 理由など、パティにだってわかっているのに。
 ヴェルダンは、彼の父親が生まれ育った国なのだ。彼の両親が出会った国で。彼の父親は、かの国の王家の出身で。
 十数年のグランベル帝国の圧制の中、重要視されずにほぼ放って置かれた、壊滅した王家の、指導者の居なくなった地方。
 数年単位で支配者が起ち、そして覆されて滅びさる。蛮族が闊歩し、民衆\はその危機に常に怯え。
 そんな政情はかつてのセリス公子が決起した時からずっと耳にしていたはずだ。そして、ずっと気にしていたのだ。見過ごせなかったのだ。
 父の国。
 深い森と、泉に守られた小国。
 足を踏み入れたことがなくても、ずっと心惹かれていたことを、気にせずにはおれなかったことを知っている。
 荒れ果てた国を立て直すことが、一から始めることがどれだけ危険で大変なことかも、予想は無理でも想像くらいはできる。覚悟だって、とうにしてきた。
 なのになんで今更こんなことを、言ってしまったのか。
 「……悪い」
 謝ったのは、レスターだった。
 「なんで」
 なんで、あなたが謝るのよ。
 真剣な目に、言葉が続かなかった。
 「でも、放っては置けないんだ。ヴェルダンは俺なんか望んでいないだろうけど、でも俺が、行きたいんだ。支えたいんだ、あの国を」
 傲慢なのはわかっている。
 レスターは言う。
 わかってる。そんなことは、パティにだってわかっている。
 レスターがヴェルダンを案じる気持ちも。十分に。
 傲慢といっても、きっとあの国を支える、守ることに、一番の正当性を持っているのは、ヴェルダンの王家の血を持つ、レスターなのだということも。
 「パティに大変な思いをさせると、わかってはいるんだが」
 まるで、嫌なら来なくてもいいと言われているようで。
 「ばか!」
 思わずパティは叫んだ。
 面食らったのはレスターだ。思いもしない言葉にぽかんと口を開ける。
 「いいじゃない理由なんてなんでも!行きたいから行くって言えばいいでしょ。放っておけないから行くって、それでいいじゃない。そんなのわかってるもの、はじめからずっと!」
 強い声音に長い金のみつあみが揺れた。
 年下の少女の剣幕に、レスターはただのまれる。
 「大変なのがなによ、危険だろうがなんだろうが、あたしはレスターが行くから行くの!あたしに遠慮なんかしないで!」
 ほら、むきになると、最初に何を考えていたのかなんてすぐにわからなくなる。
 いつも一生懸命で、まっすぐで、良くも悪くも、素直で。
 顔を真っ赤にして大声を出す恋人の様子に、レスターは思わず吹き出した。
 「なんで笑うのよ!」
 パティが怒るのも無理はない。
 自分の精一杯の訴えを笑われて、平気な人なんていない。少なくとも、パティはそうだ。
 だが、レスターはといえば緩む口元を制御できずに、たまらず片手で口を覆った。
 弓を引く者特有の、無骨な節くれだった長い指だ。
 軽く隠れたレスターの口元が、小さく「違うんだ」と呟いた。

 「安心したんだよ、パティ」
 そう、浮かぶのは安堵の笑み。
 「ずっと気にしてたんだよ、パティを、ヴェルダンに連れて行くことを。来て欲しいとは思ったけど、危険な目に遭わせたくはなかった」
 「そんなこと!」
 平気だもの、訴えるパティに、レスターは笑って頷いた。
 「そう思ってくれていたことを今知った。だから、すごく安心した。考えることが、悩むことがひとつ減った」
 言って、息を吐く。
 安堵の、ため息だ。
 ふと、思いあたる。
 「じゃあ、考えごとしてたって……」
 「ははは」
 最初の返事がないがしろだったのは、それを考えていたせいなのか。ごまかしの笑いには何歩か足りない笑い方で、レスターは肯定の笑み。
 「……なんだ」
 ふと、パティの肩の力が抜けた。
 そうだ、最初に、戻ったのだ。
 半ば駆けるように逃げていた自分が、いつの間にか止まっている。レスターのすぐそばで、立ち止まっていた。
 捕まえられたわけでもないのに。
 パティは笑った。

 「ヴェルダンがどんなところか、もう聞かない」
 「パティ?」
 先程とは打って変わった明るい声。レスターが首をかしげた。
 「レスターと一緒に、この目で確かめるわ」
 笑顔を見せるパティに、レスターはつられるように、笑った。





--------------------------------------------------------------------------------

聖戦終了後のレスターとパティのつもり、です。



[196 楼] | Posted:2004-05-24 10:05| 顶端
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ファイアーエムブレム聖戦の系譜 短編小説

 

 

フィーの天馬物語

 

 

 

 

ユグドラル大陸の北部に位置する、シレジア王国。

バーハラ戦役から後、この地はアルヴィス皇帝率いるグランベル帝国の支配下に落ちていた。美しいシレジアの大地に押し寄せる、圧倒的な戦力。空を飛び交う激しい矢の雨。かつては争いとは縁のなかったこの国も、過去の幾たびにもわたる“王位継承問題”を境として戦乱の渦に巻き込まれていった。

グランベル帝国の侵攻に激しい抵抗を続けるシレジアの人々。だが、やむことなき帝国の猛進撃を前に、ついにシレジア城を明け渡すこととなる。この瞬間、過去100年以上にも渡り自治を保ってきたシレジア王国は滅亡、他国の旗がひるがえった。そして今では、シレジア全土に駐留する帝国兵たちの厳しい圧政のもと、日々を耐え忍ぶように過ごしていたのである。



王家の人間は、一部の信頼できる部下達と共にシレジア深くの小さな城へ落ちのびていた。帝国の監視も辺境であるこの地までは届かず、厳しいながらも何とか力を合わせ今を生きていた。

シレジアの正当な王位を継いだ、かのレヴィン王が、理由も告げずこの地を離れてから既に数年。城に残された人々は“国王不在“と“帝国支配“という板ばさみの不安にかられ、平和だった国は次第に荒れていくようになっていった。

国民の危機的状況を心の底から憂えていた王子セティは、こんなときに国を離れ今も行方が知れぬ父レヴィンに、強い怒りを覚えた。そしてある日、セティはレヴィンを探し出すことを決意し、諸国を放浪する旅に出たのである。

一人国に残った幼い王女フィーは、母であるフュリーのそばに寄り添っていた。心のどこかで兄を追いかけていきたいと願ってはいるものの、自分がこの地を去れば母がたった一人になってしまう。疲れと寂しさからか次第に身体が弱り、病に侵されていくフュリーを前に、ただ一人シレジアに残っていたのである。







【1】



「いってきまーす」

城の中庭から、今日もフィーの元気な声がこだまする。

兵たちの見守るなか、白い影が一陣の風と共に横切り、颯爽と大空へ飛び出していく。冷たさの残る気持ちのいい風を全身にまとい、目の前に広がる白い雲めがけ一頭の天馬が空へと昇っていった。

シレジアを一望できるほど高みにまで昇ると、天馬は小さく空を蹴り、その透き通るような白い翼をめいいっぱい広げてみせた。

「ふぅっ」

まだ幼さが残る顔立ちのフィーが、いっぱいの笑顔で青く澄みきった大空を仰ぎ、深呼吸をする。小さい頃からいつも一緒である天馬のマーニャが、それに合わせて真っ白な翼をはためかせた。

シレジアの大地は初夏を迎えようとしているが、高い山肌にはまだうっすらと白い幕が敷かれている。地上の草原とのコントラストがなんとも美しく、ときおり通り抜ける冷気を含んだ風が心地良い。

フィーは愛馬のマーニャに乗\っての、こんなシレジア空中散歩が大好きだった。この国は大陸の最も北に位置するため、気候も様々。今はこうしてさわやかな風と緑の草原が広がっているが、冬はあたり一面銀世界にとって代わる。そして、春の訪れと共に再び大地から緑が顔を出す。

そんな多様な色合いを見せるこの国がフィーは大好きで、帝国の支配などというものは、こうして空の風を感じているときには忘れ去ることができた。

「マーニャ、今日はどこへ行こうか」

フィーがマーニャの白くすべらかな首筋を優しくなでる。この城の近辺はもう大抵の場所を見てきた。秘密の場所もいくつかあり、よくそういった場所でのんびりと過ごす。誰にも教えていないので、邪魔されることなく自由に振る舞えるのだ。

しかし、いかに大好きなシレジアであっても、さすがにいつも似たような景色ばかりではつまらない。

「よしっ、今日はおもいきって遠くまで行ってみようか」

フィーはマーニャの首筋をポンと叩くと、遠く北の空の彼方へと飛び立った。思い立ったら行動しないと気がすまない性分が、この後引き起こる事件へと発展していくのだが、この時はフィー自身、軽い冒険気分を味わっていた。



――――――――



「気持ちいい~、やっぱりマーニャと空の散歩って最高!」

風を切って大空を駆ける。城はみるみるうちに遠ざかり、雲の中へと消えていった。眼下には、初夏だというのにまだ溶けきっていない雪の跡が所々にうかがえる。ひんやりと冷たい風がフィーを取り巻き、曇りのない純粋な空気を胸いっぱいに吸い込む。

これ以上ない爽快感に浸っていると、前方の雲の切れ目からある建物が見えてきていた。すぐ向こうには青々とした海も広がっている。

「あ!あれはセイレーン城。いつのまにかこんなところまで来ちゃったんだ…」

自分の城から遠く離れていることに、少しばかり調子に乗\りすぎたかと反省しながらフィーは速度を緩めた。ゆっくり上空を旋回するようにしながら高度を下げていくと、やがてセイレーン城の全貌が見渡せるようになってきた。

シレジアの北西に位置するセイレーン城は、かつてシグルド公子がこの地に滞在していたときに使われた城だ。外見からはそれほど大きな城ではないものの、上品で落ち着きがある。帝国の支配を受けるようになってから、フィー自身この地方にはめったに訪れることはない。いつもあの小さな城でしか生活していないフィーには、こういった古風な城にも興味があった。

「あ~あ、わたしも自由に色んなところを旅してまわれたらな~」

上空から眺めながら、つい本音が口をつく。だが、城にいる母フュリーの悲しげな顔を思い起こすと、軽々しく口にした言葉に対して怒りが込み上げてきた。

「…………」

しばらく城の周りを飛びながら、そろそろ戻ろうかと顔を上げる。と、フィーの目にあるものが映ってきた。

「あれ?あんなところに島が見える…」

それは、セイレーン城から更に北へ、かなり遠くの海にぼんやりと見える島だった。シレジアのなかは大抵の場所を知っているフィーだったが、あんなところに島があるとは知らなかった。

この辺りまで飛んでくることは珍しく、あまり注意深く見渡したことなどない。それというのも、実のところこういった遠出は固く止められていたからだ。日々多数の帝国兵が送り込まれてくる現在において、王家の娘がたった一人で飛び回るなどあるまじき行為だった。

しかし、フィーにはそれが許せずにいた。シレジアは自分が生まれ育ってきたかけがえのない国。それなのに、外からやってきた帝国兵のことを気にして自由に飛ぶことができないなど、フィーにとって耐え難い苦痛だったのだ。シレジア城を追われたあの日のこと、それは忘れようもない出来事だ。目の前に自分の知らない場所が待っている。たとえ引き返しても、結局のところここまで飛んできたという事実は変わらないだろう。ならば、行くも戻るも大差はない。

そう考えが及ぶと同時に、フィーの胸の中で沸々と湧き上がる好奇心。

「もしかして、今まで雲にかかって見えなかったのかな。マーニャ、行ってみない?」

パッといつもの明るい表情に戻ったフィーが、マーニャに問い掛ける。マーニャはつぶらな丸い瞳で見つめ返すだけだった。

「うん、マーニャも賛成なのね!」

都合のいいように解釈したフィーは、一路前方の小さな島へと向かうことに決めた。そこで何か特別なことが待っているとは思ってはいなかったが、好奇心をそのままに城へ戻るというのは自身の気が済まなかった。

「さあ、出発ー!」

掛け声一閃、マーニャの翼が大空にはためいた。





【2】



島の上空には、白く深い雲が漂っていた。海も陸から遠ざかったところのため、波が心なしか白く感じる。塩の匂いを含んだ風が、フィーのそばを優しく通り過ぎていった。

上から見た限り、何のへんてつもない普通の島のように思える。草木が生い茂り、人の手が加えられていない、天然の島。片側は切り立った崖になっており、海水に浸食された跡がある。それに対し、反対側は砂浜のようになっているところもあった。フィーはぐるっと旋回しながら、島の中央付近の草地に降り立った。

「ふー、見えてるっていっても、結構遠かったね。…よっと」

素早くマーニャの背から飛び降りる。フィーは疲れた様子のマーニャをすまなさそうに撫でると、とりあえずひと休みしようと、手頃な草地を探し始めた。

歩いていると、上からは気付かなかった所に鮮やかな草花が咲いていることに気がついた。

「わぁ~、こんなところに珍しい花咲いてるんだ。お母さんに見せたらきっと喜ぶよ」

嬉々とした笑顔で話しかけるフィーに、マーニャはその場で首をかしげながら翼を休めている。

「それにしても、ここって風が気持ちいいね。ちょっと休んでいこっか」

フィーは草で作った小さな冠を、マーニャの白いたてがみの上に乗\せてやった。まん丸な目をしてこちらを見つめているマーニャの姿が滑稽で、一瞬吹き出しそうになる。草の冠が思いのほか出来が良かったことに満足しながら、フィーはその場にゴロンと寝っ転がった。

「う~~ん…!」

草原に仰向けになったまま、思いっきり背伸びする。空では真っ白な雲がゆっくりと東に向かって流れていく。なんて平和な光景なんだろう。フィーは今も行方が知れぬ父と、言葉少なに旅立っていった兄セティの面影を空に浮かべていた。そして、いつも優しく、哀しげな瞳を宿す母フュリーの面影も。

そうしているうち、いつのまにかフィーは眠りに落ちていった。





【3】



‘そのこと’に気付いたのは、頬に当たる一粒の水滴からだった。ポツリと冷たい水がフィーの頬に落ち、首筋に伝う。続いて、2粒、3粒。肌寒さにハッと目が覚めたフィーが見たものは、平穏な先ほどとは正反対の光景だった。

「な、なに?どうしたの!?」

その場から飛び起きたフィーが周囲を見渡す。暗い。まだ日中だというのに、空はどんよりと曇り、日の光が届いていない。轟音だと思っていたのは凄まじい風の音だった。海は荒れ狂ったようにしぶきを上げ、ときおり霧状になってここまで飛んでくる。嵐だ。

「ど、どうしよう…。早く帰らなくちゃ…!」

周りのあまりの変化に焦りながら、フィーは既に立ち上がっているマーニャの背に飛び乗\り、上空へと飛び上がった。

「あっ…!」

途端、マーニャの姿勢ががくっと崩れた。とっさにしがみつかなければ落下していただろう。飛び立とうとするマーニャの翼に暴風が襲い、バランスを保てないのだ。

「が、がんばって、マーニャ」

必死にしがみつくフィーが、弱々しく語りかける。だが、先ほどの水滴は豪雨となって二人に襲い掛かっていた。しかも激しい風によって、雨も痛みを感じるほどの強さになっている。目を開けているのもやっとだ。

「ううっ…!」

今がどういった状態かもわからないまま、フィーはマーニャにしがみついていた。激しい揺れのなか必死に耐えていると、突然マーニャの速度が速くなった。が、どこかおかしい。左に向かって飛んでいる気がする。ようやく微かに目を開けたフィーが見たものは、すぐ間近に迫っていた大地だった。

「きゃあッ!」

――――ドズンッ。

鈍い音と共に、フィーの身体が宙を舞う。この辺りの草がクッションになっていなかったら、今頃立つこともできなかったかもしれない。痛みをこらえながら目を開けるフィーの前方に、マーニャの身体が横たわっていた。

「マーニャ!」

慌てて立ち上がり、足を引きずりながら側に駆け寄る。どうやら風に流され、上空で回転しながら落ちたらしい。フィーは、この激しい風の中で強引に飛ぼうとした自分が情けなくなった。

「マーニャ…ごめんね」

見たところ、それほど深手を負っているわけではないものの、明らかに自分の不注意でマーニャを危険な目に遭わせてしまったことに、深い罪悪感をおぼえていた。そして、いま自分のおかれている状況がこれまでにないほど危険なものだと、このとき初めて知ったのだった。





【4】



シレジア城―――――



つい今しがた、王女フィーの帰りが遅すぎると、侍女の一人が王妃であるフュリーに持ちかけたばかりだった。外はこの嵐。すぐに帰ってくるものと思っていたフィーが一向に姿を現さないことに、侍女が不安を覚えたのだ。

この地方ではこういった天候の変化は珍しいものではなく、フィーもそれを承知しているはずだった。今までも幾度となく、城内の人間の心配をよそに舞い降りてきたものだ。今回もすぐに笑顔を浮かべながら戻ってくるものと思っていた。

しかし、いつになっても帰ってくる気配がない。余裕で構えていた城内の人々も次第に不安に駆られはじめた。

侍女の進言を受けると、フュリーの顔色がさっと変わった。すぐさま城から天馬騎士による大捜索網がひかれることになった。

降りしきる豪雨のなか焚かれるかがり火のもと、城門から一斉に飛び立っていく天馬騎士達。それぞれが明かりと目印の役目であるたいまつを手に、四方へと散っていった。

フュリーは薄暗な自室で小さな窓の側に座っていた。遠く窓越しに外の光景を眺める。殴りつける雨が窓を濡らし、ときおり稲妻の光が部屋の中を白く照らした。

この空のどこかで、フィーは雨に打たれながら泣いているのだろうか。それを考えただけで、張り裂けそうな胸が痛む。どうしてもっと注意していなかったのか、ただ自身を責めながら、祈りを捧げ続けるのだった。



――――――――――



捜索はこの嵐のなか、難航を極めていた。雨で視界が開けず、一歩間違えば天馬騎士自身も風に流され帰れなくなる可能性が高い。この城の近辺はもとより、遠くセイレーン、東のトーヴェ、ザクソンといった城にまで捜索の手はまわった。

しかし、長時間にわたる捜索にもかかわらず、フィーの痕跡はひとつも得られないでいた。城に、ぽつりぽつりと赤く小さな点が舞い降り始める。帰還した天馬騎士達だった。

西の空から最後の天馬が舞い降りたとき、既に日は深く落ち、雨脚は更に強まっていた。

祈るような面持ちのなかで、フュリーは今日の捜索を打ち切った。

  

 

 

【5】

 

乾いた太陽の日差しが、冷たくなった身体を暖めていく。どこからか鳥のさえずりが聞こえ、水分を含んだ土と草の匂いを、静かな風が運\んでくる。微かに聞こえる打ち寄せる波の音は穏やかで、心地良い。草の葉から落ちた一粒の雨露が頬を伝い、それが渇いた唇を潤す。

フィーはぼんやりと目をあけた。

「…………」

ここはどこだろう。朦朧としながら考えを巡らせる。城を出て、マーニャといつものように空を駆けて、そして“島”に辿り着いた。

――――島……。

途端、意識の奥底に引っかかっていた記憶が呼び覚まされた。そう、嵐だ。

ようやく自らの身に振りかかった事態を呼び起こすと、フィーはがばっと勢いよく飛び起きた。

「……あっ!」

立とうとして体を持ち上げたとき、ふいに何かが頭上をさえぎった。その柔らかい感触に一瞬とまどう。

「…え?……わっ…!」

よく見るとそれは頭の上だけではなく、自分の周りを“白い何か”が覆い隠すように広がっていた。太陽の光が透き通っており、まるでシルクのカーテンのような輝きを放っている。

一瞬その美しさに見惚れそうになるフィーだったが、すぐにその正体に気がついた。

「マーニャ!」

地面にかがむようにしながら、急いで外に這い出す。白いカーテンのように見えたのは、マーニャの翼だった。あの凄まじい豪雨のなか、気絶したフィーをかばうかのように柔らかな翼で覆っていたのだ。

「マーニャ!?マーニャ!」

ありったけの声を出して呼びかける。マーニャの白く滑らかだった体にどこからか飛んできた木の破片や草の葉などが付着して、茶色く汚れている。細長い首を自らの翼の上に乗\せているマーニャは、丸く小さな瞳を静かに閉じていた。

「マーニャ…?」

いくら呼んでも、体をさすっても全く動く気配がない。マーニャの体はまるで凍りついてしまったかのように、重かった。

「まさか……うそでしょ?」

もう一度マーニャの体を揺する。視界がだんだん滲んでくることも構わず、必死に呼びかけてみる。だが、やはりマーニャは何の反応も示さなかった。フィーの胸に何か鋭いものが突き刺さるような感覚が走った。

「そんな…、私の…私のせいで…」

それだけ言うと、フィーは体中の力を削がれたかのようにその場に崩れ落ちた。そして、これまで我慢してきた感情を抑えきることができないほど、胸から熱いものがこみ上げてきた。

「わあああああっ!!」

不安や焦り、どうしようもない心細さが一気に押し寄せた。それらを唯一支えてくれたのはまぎれもなくマーニャであり、フィーはそんな家族とも呼べるマーニャを前に、ただ泣きじゃくることしかできなかった。

あまりに穏やかで、あまりに安らぎに満ちた景色のなか、フィーは大声で泣いた。今までにないほどに。マーニャはフィーが幼いころから一緒にいる。どんなときでも、いつも隣にいたマーニャは、フィーにとって真に家族と呼べる存在だった。これまで一緒に感じてきた出来事が、浮かんでは消え、そして消えていく。

と、そんな泣きじゃくるフィーの頬に、何かが触れた。大粒の涙で濡れた頬を拭うかのように、優しい感触のそれは、ふわっとフィーの頬を撫でた。

「………え?」

目を開けるフィーのすぐ傍らに、優しく瞳を閉じて寄り添う白い天馬の姿があった。

「マーニャ!!」

飛び起きたフィーは、がばっとマーニャの首にしがみついた。せっかく拭ったフィーの頬に、また大粒の涙がとめどなく伝っていった。



――――――――――



ようやく落ち着きを取り戻したフィーが、辺りを見渡す。昨日の嵐が嘘のように消え、いつの間にか再びあの穏やかな島の光景がそこにはあった。昨日の全てが、まるで悪夢のように思い起こされる。

そこらじゅうに嵐の残骸、木の枝や風で飛ばされてきた葉などが散乱している。しかし、島を通り抜ける潮風や打ち寄せる波などは、以前と変わらずに穏やかだった。

そんな島の変わりようをしばし見入っていたフィーは、はっとした。城をほぼまる一日留守にしてしまっていることに気がついたのだ。

「きっとお母さん心配してる…。帰らなきゃ」

いつもどこか不安な面持ちをしているフュリーが、いったい今どんな表情をしているのかを考えると胸が締め付けられる思いだった。

「行こう、マーニャ。きっとみんな心配してるよ」

一刻も早く戻りたい。飛び立つのに適した広い場所へ向かうため、フィーは歩き出した。が、ふと後ろを振り返るとマーニャがついてきていない。じっとこちらを見つめたまま、その場を動こうとしないのだ。

「どうしたの?マーニャ、帰ろう?」

フィーの呼びかけにもマーニャは首を重そうに傾げ、応えようとはしない。不思議に思ったフィーは、マーニャの元に戻った。

なんとか立たせようとするが、マーニャは全く動く様子がない。

「………!」

フィーに衝撃が走った。今まで陰になってわからなかったが、フィーとは反対側のマーニャの翼に、じわっと赤い染みが滲んでいるのだ。それはまぎれもなく“血”だった。なんと、マーニャの翼の付け根付近に深々と木の枝が突き刺さっていたのだ。

「マ、マーニャ!」

動かないのではない。動けなかったのだ。天馬にとって、翼を傷つけられることは命とりにもなることだった。恐らく、昨日フィーをかばっているところに風で飛んできた木の枝にやられたのだろう。当然、この怪我では飛び立つことはできない。

「ど、どうしよう…はやく治療しなきゃ…。でも…」

フィーは遠く海の向こうを見やった。うっすらと陸地の影が見える。ちょうどこの方角に城があるはずなのだ。天馬で行けばそれほど遠い距離ではないが、生身の人間にはあまりにも絶望的な距離だ。

「……マーニャ…」

フィーはしばし押し黙り、そして覚悟を決めた。あの嵐のなか身を挺して守ってくれたマーニャに、いま自分ができることといえば一つだけだ。

「待ってて、マーニャ。私、行ってくる!」

そう言うと、フィーは身に付けている重そうなものを取り外し始めた。軽い鎧を手馴れた手つきで外し、その場に放り投げる。穏やかな目でその様子を見つめるマーニャに、やがて身軽になったフィーが一言告げた。

「待っててね、マーニャ。絶対迎えに来るから」

ただ一言、そう言い残すと、フィーはその場を駆け出していった。



草原を抜け、小高い丘を越えると、その先に小さな海岸が目に入ってきた。そこは他の切り立った崖とは異なり、緩やかな浜になっていた場所だ。透明に近い青く透き通った波が、静かにその浜へ打ち寄せている。遠く向こうには、シレジアの陸地が見える。フィーはふうっと深呼吸をすると、遥かな陸地を臨んだ。

――――――たどり着けるだろうか。

ふとそんな当たり前の疑問が生まれる。泳ぎは苦手ではないが、これほどの距離は正直いって自信がない。まして、今回は誰一人として助けてはくれない。力尽きたとき、そこにあるのは確実な“死”そのものだ。

穏やかな海が、今は恐ろしく残酷なもののように感じられる。だが、その恐怖以上にマーニャを助けたいという意思がフィーの心に作用していた。不思議と恐怖が薄れていく。海の向こうを臨むフィーの瞳には、ある強い信念が感じられるようになった。

意を決し、フィーは勢いよく海に飛び込んだ。あとは穏やかに見えるこの海が味方をしてくれることを祈るだけだ。フィーが飛び込むのと同時に、まるでそれを受け入れるかのように高い波が浜へ打ち寄せる。フィーはまっすぐに前を見据えた。その向こうに、これから目指す地がぼんやりと見える。

遥かなシレジアの大地は、まだ果てしなく遠い。





【6】



海原の中を、フィーはひたすらに泳ぎ続けていた。季節はそろそろ夏に移り変わろうというものの、シレジアの海は冷たくフィーを締め付ける。

深い藍色の水面が、いつ底に引きずり込もうか窺っているように思えてくる。

波を掻き分けながら進むフィーの目には、遥か遠くに見えるシレジアの大地だけが映っていた。

―――――マーニャ、待ってて。必ず助けてあげるから。

そのたった一つのことだけが、フィーの気力を奮い起こしていた。

痺れ始める手足。その感覚が、次第に失われてくる。身軽になっているとはいえ、身体がひどく重く感じられていた。必死に水を掻き分け進みながら、ふと後ろを振り返る。あの島は確かに遠くなっている。距離にしてどのくらいか、十分の一くらいは泳いでこれたのだろうか。しかし、前方に見える景色は何一つ変わってはいない。自分がいかに無謀\なことをしているのか、きっと他の誰かが見たら笑うに違いない。

フィーは、再び泳ぎ始めた。もう後ろは振り返らない。ただひたすらに、進んでいるのか戻っているのかすら定かではない海原を掻き分けていくのだった。

凍てつくほどに冷たい海とは対照的に、空は穏やかな雲をなびかせ、透き通るほどに青く染まっていた。





そして――――



ついにフィーの腕が動かなくなった。気力だけを糧にここまで来たが、それももう限界に近い。前方に見えているシレジアの大地は、全く近付いている様子はなかった。いや、それでも多少は陸影が大きくなっているのだろうか。

既に身体は冷え切っており、全身の感覚はほとんどない。かろうじて動かす手足も、もはやあと一掻きすることすらできなかった。

――――マーニャはどうしているだろう。

そんなことを思い、おぼつかない動きで後ろを向く。そこにはもう、あの島の影は全く見えず、ただ高い波が上下しているだけだった。

目が霞む。体力の消耗が激しく、気を緩めると、すぐにでも気を失ってしまいそうだ。

フィーは、ほとんど無意識に前を向くと、小さく水を掻いた。波により、身体がふわふわと浮き沈みする。やがて、それが心地良さに変わるようになると、フィーは波に身を預けた。

薄れゆく意識のなかで、フィーは雲の上を浮かんでいるような錯覚を覚えた。幻のような世界のなか、フィーは空に漂う雲の上にいる。そして、フィーを揺らしているのは、あのマーニャだった。

「マー…… ニャ…」

それが夢か現実かも区別できないまま、視界がだんだんぼんやりとしてくる。意識を失う瞬間、マーニャの横顔が浮かんだ。まるでこちらを見て微笑んでいるかのようにフィーには見えたが、次の瞬間、真っ暗な意識の底へと落ちていった―――――





【7】



数日後――――



城内はくぐもった空気に包まれていた。皆が押し黙ったように口をつぐみ、今までの活気に満ちたこの城の面影はどこにもなかった。ある者は仕事が手につかず、またある者は突然泣き出してしまうほどだった。

“あの”事件以来、城内はまるで太陽が失われてしまったかのように、ぽっかりと穴があいてしまっていた。





目が覚めたのは、それからしばらくの後。

真っ白な光が、窓から差し込んでいる。わずかに開けられている窓の隙間から吹き込む風が、レースのカーテンをなびかせる。朦朧とした意識のなか、それがまるであのとき見た光景と似ていることを感じていた。

痛いくらいの眩しさから逃れるように、ゆっくりと身体を起こす。身体中にズキッと痛みが走る。

「ここ… どこ?」

手元を見ると、真っ白な包帯が丁寧に巻かれていた。そこだけではない、額や足、ほぼ全身に渡って包帯が巻かれ、治療が施されていた。

途端、とても懐かしい感覚が脳裏を駆け巡る。お気に入りのベッド、風になびくカーテン、差し込む日の光。

今まで半ば虚ろだった瞳が、みるみる見開かれていく。帰ってきたのだ。ここは、何よりも変えがたい場所。

自分がどうしてここにいるのか考えるよるも早く、フィーは飛び起きて向かわなければならない衝動に駆られた。

―――――早く、早く“あの場所”へ行かなくちゃ。

と、そのとき奥の扉から「ガチャリ」という金属音が聞こえた。前方に見えるドアのノブがゆっくりと回り、微かなきしみと共に扉が開かれる。そして、一人の女官がしずしずと入ってきた。両手で抱えるようにしながら一つの水差しを持ち、音を立てず慎重にドアを閉じる。女官がこちらを振り向くと、身を起こしてじっとその様子をうかがっていたフィーと目があった。

瞬間、女官の目がこれ以上ないというほどに見開かれ、ピタリと動きを止めた。そして、その形相のままじっとフィーに釘づけとなった。見開かれた目は表現しようもないほどに滑稽で、フィーはそれを見て吹き出しそうになったほどだ。

女官の手から、するりと何かが落ちた。女神をかたどる美しい彫刻が施された水色の水差しが、女官の足元で豪快な音を立てながら砕け散った。

「キャアアア!!!」

次の瞬間、女官が咳を切ったように悲鳴を上げた。そのまま全力疾走でドアへと向かう。入ってきたときとは裏腹に、ガチャリバタンッと轟音を立てて部屋を出て行ってしまった。

―――――な、なんだったんだろう。

突然のことに唖然としていたフィーが、ふと女官の立っていた場所に目をやる。そこには辺り一面水浸しとなった床に、粉々になった水差しの破片が散乱していた。





城内が再び騒然とし始めた。フィーの意識が戻ったとの報告は、たちまちのうちに城中を駆け巡り、人々の間に安堵の溜息や笑い声がこだましていった。

フュリーのもとには真っ先に伝えられ、知らせを受けたフュリーの顔が、驚きから優しさに満ちた笑顔へと取って変わられた。

フィーの寝室に飛び込むように入ってきたフュリーと数人の女官が、面食らった表情のフィーを取り囲む。

そして、振るえる手でフィーの身体を抱きしめるフュリーの姿を、皆優しく見守っていた。



城内も落ち着きを取り戻し、再び人々がそれぞれの仕事に従事し始めたとき、フィーの部屋だけは凄まじい雷が落ちていた。たった一人でこの城から遠く離れ、しかも嵐に遭い、行方知れずとなったこと。一歩間違えば死の危険もあったということに、いかに温厚なフュリーといえども今回ばかりは真っ赤になって怒った。

ベッドの周りには女官達が眉を吊り上げながら囲んでいるし、逃げ場のないフィーはただ黙って耐え忍ぶほかなかった。心の底から、反省した一瞬だった。

話が終わり、フィーが力なくうつむいているのをしばらく見ていたフュリーは、静かに口を開き始めた。マーニャのことだ。

そもそも、何故フィーが助かったのか。フィー自身全く記憶になく、覚えているのはシレジアの大地を目指して大海原を泳ぎ、やがて力尽きたこと、それだけだ。そこまでは覚えているが、次に目覚めたとき、このベッドで横になっていたのだ。

フュリーの話は、フィーにとって衝撃的な事実だった。

まず、フィーが助けられたのはシレジアから遠く離れた海域。フィー達の見つけた島から、丁度半分ほどの距離になる。

発見したのは、引続きフィーの捜索をしていた一人の天馬騎士だった。その天馬騎士は、あるものに導かれその海域に辿り着いたという。そして、天馬騎士を先導したのは、他でもないあのマーニャだったというのだ。

フィーはそれを聞いたとき、信じられなかった。マーニャは翼を痛め、とても飛べる様子ではなかった。たとえ飛べたとしても、あの広大な海を渡り、しかもその中からフィーを見つけ出すことなど不可能に思えた。

しかし、マーニャは飛んでいった。この城へと辿り着いたマーニャは、城に控えていた兵により発見され、傷を応急処置してもらうと、一人の天馬騎士とすぐさま飛び立った。

マーニャの向かう先を追いかける天馬騎士の視界に、波により見え隠れするフィーの姿を捉えたのはそれから数刻の後だった。すぐにフィーの元へ降りる天馬騎士だったが、既にフィーの体力は限界に近かったらしく、いくら呼びかけても反応がない。フィーは目の前で滞空しているマーニャを眺めながら、何かつぶやいているようだったという。そしてついに力尽きたのか、海中へと沈んでいきそうになったところを危うく掴んだということだ。

帰途の最中も、フィーはぐったりと身動き一つしなかった。助けるのにもう少し遅かったら、今ごろは暗い海底の中で誰にも知られぬまま命を落としていたことだろう。



話を終えたフュリーは、今すぐにでもマーニャのところへ飛び出していきそうな勢いのフィーを押し留め、今日は休むように伝えた。フィーはこくりとうなずくと、小さく一言フュリーに告げた。

「ごめんなさい…」

その言葉に、フュリーは優しい笑顔をもって応えた。そして、部屋を出ていくフュリーの姿を見送ると、フィーは再びベッドに身を沈めた。全ては明日。フィーはベッドの中で、以前のようにマーニャが元気よくはばたいている姿を想像しながら眠りについた。





翌日――――



朝も早くから飛び起きたフィーは、急いで支度をすると勢いよくドアを開け放った。そして、そのままマーニャのいる天馬の馬舎へと駆け出す。城の中ではあるが、今のフィーにはそんなことは関係なかった。まだ身体が思うように動かず、足を踏み出す度にひどい痛みを伴うが、それでもマーニャのことを思うと、そんなことは大した問題ではなかった。

やがて、城の天馬達が集まっている兵舎までやってきた。

「マーニャ!」

息を切らせながら奥へと走る。いつもの場所に、きっといる。その希望がフィーの足を力強く前へ押し出した。

「マーニャ…」

その場所に、一頭の天馬が静かにたたずんでいた。透き通るような白い翼、優しさが宿った小さな瞳、すらりとした品格のある前足。間違いない、まぎれもなく「マーニャ」だ。

フィーの気配を感じたのかマーニャは立ち上がり、つぶらな瞳をこちらに向けた。微かに鼻を鳴らすと、その翼を一度だけはためかせた。翼と同化していて気付かなかったが、そこには白い包帯が丁寧に巻かれており、既に治療を終えていることを物語っている。フィーを見つめる真っ直ぐで純粋な瞳が、抑えていたフィーの感情を解き放った。

「マーニャ!!」

飛びついて抱きしめるフィーの身体を、マーニャは静かに受け止めるのだった―――――









――――そして、それから数週間ほどが過ぎたある日の朝――――







「いってきまーす!」

城内から、元気のいい少女の声が響き渡る。中庭へ続く通路を、少女の影が駆けていく。途中、一人の女官に「走ってはいけません」と注意されるも、その少女の耳には届かなかった。

今日はフィーが心待ちにしていた朝。マーニャの怪我が完治するまでじっと城の中で看病を続けていたフィーが、数日前にようやく飛ぶことを許されたのだ。それまでは外へ一歩たりとも出ず、看病を続けた。

一説によると、それはフィーの行動に対するフュリーの与えた罰なのではないかと噂になっていたが、真意の程は定かではなかった。何にせよ、献身的な看病を続けていたフィーに、フュリーからようやく空へ飛び立つ許可がおりたのだった。

「マーニャ!」

フィーが呼びかけると、既に中庭へ降りていたマーニャが側へやってきた。翼の傷はもう完治と言えるほどに癒え、包帯も取り除かれている。翼には微かな傷のなごりがあるのだが、それはフィーしか知らず、その真っ白な羽根に隠されて見えなかった。フィーはマーニャのすべらかな首筋に優しく触れると、さっと身を乗\せた。

「これからもよろしくね、マーニャ」

にっこりと笑顔で語りかけるフィーに、マーニャはつぶらな瞳を投げかける。

「よ~し!行くよ、マーニャ!!」

中庭いっぱいに広がるような声と同時に、フィー達の身体が空に舞う。マーニャの広げた翼が力強くはばたき、颯爽と空へ飛び出した。

外に配された兵士達が見上げるなかで、中庭の上空を何度も何度も駆け回る。ここ何週間も見ることがなかった、フィーの心の底から出た笑顔が、そこにはあった。

自由いっぱいに飛び回っているフィーの姿を、フュリーは自室の窓から優しく見守る。



フィーとマーニャは遥か空の彼方へと、今日も元気に飛び立っていくのだった―――――



フィー短編小説 ~フィーの天馬物語~ 完



[197 楼] | Posted:2004-05-24 10:14| 顶端
雪之丞

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――――全ての生き物がまるで深い眠りに落ち、静寂と闇が支配する世界。

昼間の賑わいは嘘のように、城内はただ深まりゆく夜のしもべ達から逃れるように息を潜めている。

耳を澄ませて聞こえてくるのは、風にのって運\ばれてくる闇の底からの呼び声だけだ――――

 

 

ファイアーエムブレム聖戦の系譜 ~アゼル短編小説~

 

揺れ動く時の狭間で

 

 

 

――――――――――――

 

薄闇のなか、手元のランプと窓から差し込む月の光だけがほのかな暖かみを放っている。

僕のすぐ目の前に置かれたランプから、ジジッと燻りの音が立つ。

窓の外の月明かりは優しく世界を包み、僕らをその漆黒\の恐怖から守ってくれているかのようだ。

部屋の中に差し込む淡い光のヴェールが、まるで心の内に潜む弱さを打ち消してくれるように思えた。

――――僕は今、一通の手紙を書いている。

気配を殺し、机の上に置かれた一枚の羊皮紙だけを、ただじっと見据えていた。どれほどの時間が経ったのか、もう随分と長いことそうしている。

普段なら書きなれているはずの手紙が、今はすぐ目の前で転がったままになっている筆を動かすことすら恐ろしい。さっきから思うように指が動かず、小刻みに震えてしまう。

この手紙を書いたら、もう後戻りはできない―――――

その厳然とした事実が、僕に筆を握ることすらためらわせていた。



――――――――――――





【1】


遠く東の空から日がのぼると、ヴェルトマー城に朝がやってきた。

窓から差し込む朝の日差しが、世界の無事を告げているかのように輝いている。

ベッドから起き上がり、カーテンを開け、静かにそよぐ風を感じる。心地良い。

目を開けていられないほどの眩しさに目を細めたまま、真っ青な空を仰ぐ。僕にとって、唯一心が休まると感じる瞬間だ。

いつものように手早く身支度をし、ドアノブに手をかける。

―――今日は良い一日になるといいな。

自室から外に出る瞬間、ふとそんなことを思う。僕はドアを開けると、辺りに目をやった。朝も早く、どうやらまだ周りに人はいないようだ。



ヴェルトマー城はその外観と同じように、城の内側に至っても荘厳な雰囲気を常に守り続けている。

強く、厳しく、麗しい。そして、その中でも決して損なわれることのない気品。まさに厳粛な雰囲気がこの城の本来の姿だ。訪れた人々は皆その内に広がる世界に圧倒され、口々に感嘆の吐息を漏らす。

王都バーハラに勝るとも劣らない独特の威厳に満ちたこの城には、ただ一つ、それに紛れてどこか恐ろしい、そんな感覚を覚える“何か”があった。それは、僕をこの城で常に息の詰まる思いにさせる要因のひとつ。城そのものがまるで意思を持っているかのように、僕を圧迫するように感じられるのだ。常に四方から見張られているような感覚に陥り、心から安心できる時などそうはない。

そう、まるでこの城が兄上の存在そのものであるかのように……。

ヴェルトマー家のシンボルである炎の紋章は、そんな僕の苛立ちなど知る由もなく、今日も静かに、そして激しくその姿をたたえていた。



深呼吸をし、気分を落ち着けると、僕は食事をとるため階下へと足を運\んでいった。この区画一帯は、いわゆる高貴な者と呼ばれる人間しか立ち入ることが許されない。多数の人々が働く下階とは違い、人の気配は極端に少なく、温かみが感じられない。意識せずも憂鬱なことを考えてしまう、冷たさに満ちたこの場所は、僕の嫌いな場所の一つだった。

階段を降りると、長い回廊が東に向かって続いている。僕は迷わずそちらへと足を向けた。

王族の食事はいたって寂しいものだ。広い部屋の中央にその半分を占めるほどのテーブルが置かれ、来客用の椅子が所狭しと並んでいる。食事を取る時間はそれぞれに違い、大抵は一人で食べることになる。真っ白なテーブルクロスの上に、一人分の食事が並ぶのだ。料理はまさに一級品と呼べるものだったが、今までそれを美味しいと感じたことはない。城下に住んでいる人々の自由な暮らしが、そのときほど羨ましく思う時間はなかった。



沈んだ面持ちのまま歩を進めていると、前から人影が近づいてくることに気付いた。この時間帯にはほとんど人の姿を見かけないため、多少意識しながら歩く。と、その人もこちらに気付いたらしく、その場に立ち止まった。どうやら僕の来るのを待っているようだ。

「おはようございます、アゼル王子」

その女性は、軽く頭を下げると、微かな笑みを浮かべた。真紅の瞳と髪が印象的な女性。兄上の側近として仕えている、アイーダ将軍だった。

「おはよう、アイーダ将軍。今日も早いんだね」

僕はアイーダ将軍に笑顔をもって応えた。

アイーダ将軍は、兄上の信頼を受ける数少ない人間。この城内においても、彼女の持てる能力は素晴らしいものがあり、常に兄と行動を共にする。まさにエリート的な風格を備えていた。

彼女は戦いにおいてもその能力を遺憾なく発揮していた。僕はアイーダ将軍が戦っている姿をまだ一度も見たことはないが、彼女自身から放たれる独特の“気配”を感じるたび、そのことを納得させられる。

国王を守護する近衛部隊を指揮するという兄上には、よほど心強い人物なのだろう。僕はアイーダ将軍の兄上にも似た眼差しを見て、そう感じていた。

「アゼル様、アルヴィス様がお探しになっておられましたよ」

アイーダ将軍が僕の思考を止めるかのように口を開いた。はっと我に返った僕は、それを表情には出さずうなずく。

「兄上が…?わかった、すぐに向かうよ」

そう答えると、アイーダ将軍は笑みを絶やさぬまま、もう一度頭を下げる。そして僕と一瞬目を合わせると、そのまま歩き去っていった。

「………」

彼女の後ろ姿を眺めながら、内心ほっとしている自分に気付く。そう、僕は彼女のことが苦手だった。無意識のうちに、いつの間にかそう感じるようになっていた。特に、僕を見つめるあの目が…。

僕は複雑な心境が交錯するなか、誰もいなくなった通路の向こうを、しばらくの間眺めていた。

 
 

 

【2】

 

 

城内は、ただ一つの話題でもちきりだった。

つい先日、遠く東の国イザークが、このグランベルの友好都市であるダーナを攻撃したのだ。ダーナは東のイード砂漠にある都市で、聖戦士の伝説にもうたわれるダーナ砦もそこにある。グランベルにも関わり深い土地なのだ。幾たびもの会議の結果、我がグランベル王国は、クルト王子が主力部隊を率いイザークへと遠征することになった。一時は騒然としたものだが、出撃してから後、この城も再び落ち着きを取り戻しつつある。

兄上は国王を守るという立場から、この城に留まっていた。アズムール王は戦いをするには既に歳を召されすぎている。ほとんどの取り決めはクルト王子が中心となって行い、今回の遠征についても王子が率先して諸侯らを率いていったのだ。

アズムール王は近ごろ身体の具合が悪く、今も床に伏せることがしばしばある。誰しもがそのことを不安に思ってはいたが、そのことだけは口に出すことはなかった。



しばらく歩くうち、前方に兄上の部屋が目に入ってきた。近づくにつれ、何か胸を圧迫されるような感覚に陥る。できればここには近づきたくはなかったが、今は仕方がない。

赤と金の装飾が施されているドアを前に、しばらく立ち止まる。ふぅっと深呼吸をし、心を落ち着けようと努める。意を決し、ドアをノックしようと手を伸ばすと、

「アゼルか」

中から兄上の声が聞こえてきた。

「はい、兄上」

「開いている、入れ」

声は一言だけそう告げた。

「…………」

僕は静かにノブを掴む。重々しい外見とは異なり、それは意外にも軽く開いていった。

「失礼します、兄上…」

そこは、兄上の好んで使う書庫のような部屋だった。落ち着きがあり、加えて荘厳なゴシック調の小物が置かれ、至るところに書物が積み上げてある。もともと書庫ではなかった部屋が、いつのまにか兄上専用の書庫と化していたようだ。これらの書物も、一見乱雑に積み上げているように見えて、実は整然と分類されているのだろう。

「久しぶりだな、アゼル」

僕の思いとは別に、兄上が口を開いた。

「ここのところ顔を見ていなかったのでな」

兄上は無言で席を勧める。僕は兄上の向かい側にある椅子に腰掛けた。

「すみません、兄上。ここのところ何かと忙しく、あまりお会いすることができなくて」

「いや……。私とてしなければならないことは山ほどある。こと今のような状況ならばな。だが、我が弟に会う時間くらいは作れるつもりだ。私はそれほど冷たい人間ではない」

兄上はうっすらと笑みを浮かべる。

「はい…」

僕は少しうつむき加減で答えた。

「兄上…、アズムール王の容態はいかがですか?」

「うむ…。良い、とは言えない状態だ。今も床に伏せっておられる」

「そう、ですか…」

アズムール国王は既にかなりの高齢だ。国の治安など、実質的な役割はクルト王子が行うことになっており、各国の諸侯たちの助けによってそれが成り立っている。イザークのダーナ襲撃という事件は、国王に少なからずショックを与える結果となり、今も床に伏せる日々が続いているのだ。

「そう心配するな。イザークへ出撃したクルト王子が、吉報を手に戻ってこられるはずだ。それでアズムール王の容態も回復するだろう」

兄上はそう言うと、ふっと笑みを浮かべ、持っていた書物をパタンと閉じた。

「さて、私はそろそろ行かねばならぬ。客人を待たせてあるのでな」

「はい。僕もこれで失礼します…」

「…久しぶりにお前の顔が見られて安心した。…それではな」

兄上はそう言い残し、部屋を出ていった。僕も後に続くと、兄上とは反対の方角へと歩き始める。そして、ふぅっと再び大きなため息をつく。

「…だめだ、どうしてもあの人の前では安心して話ができない」

僕は自分自身の心の底に潜む、兄に対する複雑な思いを呪っていた。

 

 



[198 楼] | Posted:2004-05-24 10:16| 顶端
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【3】

 

 

グランベルのイザーク遠征から数週間が経過したある日のこと、その知らせは舞い込んできた。

なんと、この国の主力部隊が留守の間に密かに動きを見せていたヴェルダン国によって、国境を突破され、ユングヴィ城が襲撃されたというのだ。

ヴェルダンといえば、グランベルの西隣にあり、同盟関係にあった。我が軍がイザークへその大半を送り込んだのも、西にあるヴェルダン、アグストリアの同盟があったからこそなのだ。

ユングヴィ襲撃の知らせは国中にもたらされ、王都バーハラはもちろんのこと、ここヴェルトマーでも半ば混乱状態に陥っていた。

そして、僕のもとにも知らせがもたらされていた。



「なんだって!?もう一度言ってくれ!」

僕の自室で、女官が火急の報告を告げる。にわかには信じ難い、衝撃的な内容だった。

「ヴェルダン…ヴェルダンと言ったのか」

「はい、我が軍の防備が手薄になっている西の国境を突破、ユングヴィを包囲したとの情報が入っております。橋も落とされました」

「なんてことだ…。ユングヴィ……よりによって、あの城に…。エーディンは、彼女は無事なのか」

僕の問いかけに、女官はしばし沈黙すると、落ち着いた口調で答えた。

「わかりません。ただ、ユングヴィのリング卿が不在の今、戦力と呼べるものはほぼ皆無に等しいはず。ヴェルダンの蛮族はかなりの数を引き連れてきているそうです」

「くっ…ヴェルダンめ……」

僕はエーディンの助けを求める姿を思い浮かべ、手を差し伸べても届くことのないもどかしさに拳を握り締めた。

「兄上は何と?このヴェルトマーの軍隊はまだ残っている。全軍を率いて蛮族を追い払えば間に合うはずだ」

「アルヴィス様は我が軍の出撃は控えるとのご意志のようです」

女官の言葉に、僕は衝撃を隠しきれなかった。

「なんだって?!ユングヴィは今襲われているんだぞ。いったいどうして…」

「申しわけありません。私にはアルヴィス様のお考えについては何も…」

女官は深々と頭を下げると、失礼しますと一言残し、部屋を後にしていった。

「兄上に直接聞きに行こう!」

僕はとるものもとりあえず、兄上に会うため城の玉座へと向かった。兄上はきっとそこにいるはずだ。

「失礼します、兄上」

力強く玉座の間へと足を踏み入れる。思った通り、兄上は玉座に腰を降ろし、数人の部下と会議をしていた。

「…待て」

僕の姿を視界に捉えると、何やら報告をしているらしき部下に、兄上が静かにそう命じる。

「アゼルか、何の用だ」

「どうしてユングヴィに軍を出撃させないのです」

僕は少なからず怒りに似た感情を抱きながら、兄上の元へと歩み寄った。

「…知らせを受けたようだな。今、この国の現状は知っていよう」

「はい…」

「現在、この国には軍と呼べるものが我が近衛軍のほかない。主な戦力は皆、イザーク遠征で出撃してしまったのだ」

「そうです、だからこの城の軍を出撃させ、今まさに襲撃を受けているユングヴィを―――」

「国王は誰が守るというのだ?」

僕の言葉を遮るように、兄上が言った。そう、この軍がこの地から離れるということはすなわち、バーハラを守護する者がいなくなってしまう。兄上はそれを理解し、軽率にこの地を離れることを良しとしなかったのだ。

でも、そんなことは充分すぎるほど承知していた。ここに来たのは、ユングヴィが襲われているこの時に、何もせず待っていることなどできないと思ったからだ。

「兄上、無理は承知しています。ですが、ユングヴィにはこの国の留守をあずかる人々が、わずかでも確実にいるのです。その人たちを見捨てるなんて、ぼくにはできない…」

兄上はしばらく黙って、僕の瞳の奥を探るようにじっと見据えた。

「安心しろ、先ほどシアルフィのシグルド公子から報告が入った。ユングヴィには、シグルドとその部下数名が向かっているそうだ。…戦力としてはわずかだが、あのシグルドはバイロン卿の子息。彼もまた、聖戦士の血脈を受け継ぎし者。必ず良い結果をもたらしてくれるはずだ。我々はバーハラを守ることだけを考えればよい」

兄上は落ち着きのある口調で、僕に語りかける。

「シグルド公子が…」

僕はあのシアルフィのシグルド公子についての噂を思い出していた。公子はクルト王子の信頼を受けるバイロン卿の子息。卿と同じく、彼もまた義に厚い人柄だということだ。グランベルの中で、彼ほど部下達に信頼されている人物はいないだろう。一度目にしたことはあったものの、声をかけたことは一度もない。

あの人の目は、優しく、強く、そして穏やかだった。兄上とはまるで異なった強さを秘めているように思えた。

「兄上、ぼくもユングヴィへ行きます。シグルド公子のお役に立ちたいのです!」

僕は決意を固めた。シグルド公子とエーディン公女は幼なじみだった。ヴェルダンのユングヴィ侵攻の知らせを受け、公子はじっとしてはいられなかったのだろう。わずかな兵士だけでも、恐怖にさらされている人々を助けに行く。その強い信念が、今の僕を惹きつけていた。

「その必要はない」

だが、兄上の答えは実に冷たいものだった。一言そう告げただけで、口を開くことはなかった。

「兄上!」

必死の呼びかけも、虚しくあたりに響くだけ。

「下がれ、話は終わりだ」

兄上の目は鋭く、瞳の奥は燃えさかるような赤に染まっていた。僕が一番恐ろしいと思う目だ。

「…………」

僕は悔しさに身を震わせながら、その場を立ち去ることしかできなかった。

今思うと、あの時どうして食い下がらなかったのだろうと不思議に思う。でも、兄上の瞳の奥に見え隠れする恐ろしさにも似た感情が、僕の意思をまるで麻痺させるかのように奪ってしまう。

その日、僕は一人自室でじっとある考えに思いを巡らせていた。

僕にとって、それは全てを反転させるほどの重み。これまであった生活、価値観、信じるもの。それらを変えてしまうほどの事だった。

夜のとばりも深く染み入り、城内にも人の気配が消えていく。全てが寝静まった夜。静寂のなかで、僕はおもむろに筆を取り出すと、一通の手紙を書くことにした。

 

 

 

【4】

 

 

――――全ての生き物がまるで深い眠りに落ち、静寂と闇が支配する世界。

昼間の賑わいは嘘のように、城内はただ深まりゆく夜のしもべ達から逃れるように息を潜めている。

耳を澄ませて聞こえてくるのは、風にのって運\ばれてくる闇の底からの呼び声だけだ――――

 



薄闇のなかで、手元のランプと窓から差し込む月の光だけがほのかな暖かみを放っている。

僕のすぐ目の前に置かれたランプから、ジジッと燻りの音が立つ。

窓の外の月明かりは優しく世界を包み、僕らをその漆黒\の恐怖から守ってくれているかのようだ。

部屋の中に差し込む淡い光のヴェールが、まるで心の内に潜む弱さを打ち消してくれるように思えた。

――――僕は今、一通の手紙を書いている。

気配を殺し、机の上に置かれた一枚の羊皮紙だけを、ただじっと見据えていた。どれほどの時間が経ったのか、もう随分と長いことそうしている。

普段なら書きなれているはずの手紙が、今はすぐ目の前で転がったままになっている筆を動かすことすら恐ろしい。さっきから思うように指が動かず、小刻みに震えてしまう。

この手紙を書いたら、もう後戻りはできない―――――

その厳然とした事実が、僕に筆を握ることすらためらわせていた。



手紙はある男にあてたもの。僕の親友、ドズル家のレックス公子だ。

僕とレックスはよくこうして多忙な日々のなか、手紙をやりとりすることが多い。

レックスは面倒臭がるが、僕ら王族に生まれた者にとっては、こういった方法以外、顔を合わせる機会など滅多にないのだ。

「レックスは賛同してくれるだろうか…」

手紙の内容はこうだ。ヴェルダンの蛮族に襲われたユングヴィを救うため、シアルフィのシグルド公子に加勢したい。場所と日を決め、そこで落ち合おう。僕はこの城を抜け出してでもシグルド公子に合流するつもりだ。レックスの助けが借りたい――――

僕はあの多少いい加減な性格のレックスに、不安を覚えていた。恐らく、彼はこの国の行く末だとか、今戦っているであろう、シグルド公子を助けに行くこと、そして、ユングヴィで安否がわからないエーディンを助けることなどには、それほど興味がないのではないだろうか。かといって、一人蛮族の闊歩する地を進み、戦場の真っ只中にいるシグルド公子に合流するには危険が大きすぎる。

――――レックスの力を借りればなんとかなるかもしれない。

それほどに彼の力は信頼できるものだったのだ。そう、彼もまた、聖戦士の血脈を少なからず受け継いでいる。

僕はしばし考えていたが、決意を固め、ついに筆をとった。そして手紙に自分の考えを記すと、口を厳重に封じ、真っ赤な封蝋(ふうろう)の上からヴェルトマー家の紋章を刻印した。

「…よし、これをレックスに届ければ……」

僕はその日、興奮のためか目が冴え、眠りにつけずにいた。窓からみえる夜空の月明かりを、しばしの間眺めていた。



翌日―――――

密かにレックスへ向けて使いを出した。これで早ければ今日のうちに返信が届く。あとはレックスを信じ、待つだけだ。

僕は外の人間に感づかれないよう細心の注意を払いながら、身支度を整えていった。手元にある武器と言えば、このファイアーの魔道書だけだ。これだけで、どこまで力になれるだろうか。

決意と不安の錯綜する複雑な心境のなか、出発の準備は整った。

レックスからの手紙を待つ時間が、異常に長く感じられた。ただ一人、じっと気配を殺しながら様々なことに思いを巡らせていた。兄上はいったい何を考えているのか。あの、人の思考を射抜くような眼差しは何より恐ろしい。連日、各地からの客人として会っている者達はいるが、僕の見たところあれは貴族の類いではない。もっと根深い、得体の知れない者達だ。兄上は、僕の知らないところで何かを始めようとしているのだろうか。

日も次第に傾き、宵闇の空に染まったころ、返事が届いた。レックスからだ。

手早く封を解き、手紙に目を通す。そこには、僕の願いを聞き届けてくれる旨が記されてあった。そして、ある場所で落ち合おうということも。

僕はその手紙を読んだ瞬間、立ち上がった。ぐずぐずしてはいられない。こうしている間にもユングヴィがヴェルダンに襲われている。エーディンの身が危ないのだ。そして、シグルド公子にも間にあわなければならない。

既に備えてあった荷物を抱え、僕は勢いよく部屋から飛び出した。

 



[199 楼] | Posted:2004-05-24 10:17| 顶端
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