» 您尚未 登录   注册 | 社区银行 | 社区婚姻 | 社区成就 | 帮助 | 社区 | 无图版


火花天龙剑 -> 火炎之纹章 -> 小说
 XML   RSS 2.0   WAP 

<<  3   4   5   6   7   8   9   10  >>  Pages: ( 12 total )
本页主题: 小说 加为IE收藏 | 收藏主题 | 上一主题 | 下一主题
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


秋 桜


--------------------------------------------------------------------------------



-1-




 統一が進みつつあるアグストリアの王都アグスティ。
 その王宮内にある一室では、まだ早朝といってもいい時間であるにも関わらず、すでにその日の執務が始まっていた。

 目の前の兄に向かって、ジャンヌはいつものように今日予定されている公務を読み上げた。そして、前もって開封し目を通しておいた書状の中から、優先度の高いものを順に報告していく。

「補給部隊が、無事オーガヒルに到着したとの報告が入っています」
 その報を聞いた時、終始表情を変えることのなかったトリスタンの目に、ほっとしたような色が浮かんだ。その理由はジャンヌにもわかっている。兄にとっては主にあたるデルムッドが、内乱の平定のためにオーガヒルに駐留しているのだ。




「でも、こんなに早く補給が必要になるなんて、よほど苦戦を強いられているのでしょうか」
「そうではない。今回の補給物資は、食糧及び医薬品がほとんどだ。捕虜の数が予想より多くなっているらしい。それに、今回の戦闘で土地を荒らされた近隣の村へも援助を行うとのことだ」
「まあ、デルムッド様らしいですね」
 普段から他者への配慮を忘れない彼らしいと、ジャンヌは思った。ふと、口元がほころびそうになる。だが次の瞬間、それは、兄の一言によってかき消された。

「ああ。周辺の住民の感情を味方に付けるのは、基本的なことだからな」

 デルムッドが戦略的な意味合いで補給を行ったと、トリスタンは言っている。それを理解し、ジャンヌはほんの少し寂しい気持ちになった。
 兄にとっては、デルムッドが優しい心の持ち主であるよりも、優秀な指揮官であることのほうが大事なのだろうか……。

 だが、それを率直に聞けるほど、まだジャンヌは兄と心を通い合わせてはいなかった。二人の関係は、今でも兄と妹というよりも、直属の上官と部下の関係に近い。言葉遣いひとつをとっても、血の繋がりから来る親密さはあまり感じられない。
 だが、血縁や肉親という存在に慣れていないジャンヌには、ことさら兄妹の絆を強調されるよりも、こうして一定の距離を保って接してくれたほうがむしろありがたかった。もし、「妹」として振舞うことを無理に要求されたら、自分はどうしていいかわからなくなってしまうだろう。だから、兄との間にある、この適度な距離感が、かえってジャンヌには心地よい。
 おそらく兄もそう思っているのではないだろうか。その点、自分達はとてもよく似た兄妹だと思う。

 報告が一段落した時、ジャンヌに向けてトリスタンがふいにあることを告げた。それを聞いたジャンヌの口元が、驚きの形に小さく開かれる。淡々と報告するように告げられた兄の一言は、ジャンヌを驚かせるに充分だった。

「わ、わたしがデルムッド様と…?」
 そう言ったきり言葉が続かない妹に、もう一度言い聞かせるようにトリスタンは繰り返した。

「そうだ。陛下からのお達しがあった。デルムッド様が、おまえを妻に迎えたいとお望みだそうだ」
 同じ事を二度聞いても、やはりジャンヌは言葉を発することができなかった。立ち尽くす妹に向かって、トリスタンは感情を交えない声で、静かに言葉を続ける。

「畏れ多いことではあるが、陛下から直々のお声掛りとあっては、辞退するのはかえって失礼になる。喜んでお受けするがいい」
「は……い…」
 ジャンヌはようやくそれだけを口にする。

「ジャンヌ?」
 ほとんど茫然自失の状態にある妹に、トリスタンは少々訝しげな目を向けた。

「わかっていると思うが、断ることはできないぞ?」
 非情にも聞こえかねない言葉だったが、トリスタンなりに妹のことを考えての一言だった。何事にも控えめなジャンヌが、不必要に遠慮して自らの幸福を逃すことがないようにとの兄心と言ってもいい。
 兄のその言葉に、ようやくジャンヌも自分を取り戻した。

「あ、はい。もちろんです。身に余る光栄と思います。ただ、わたし…驚いてしまって……」
「心配する必要はない。デルムッド様は思いやり深い優しいお方だ。きっと、おまえのことも大切にして下さるだろう」
「はい…」
「ここはもういいから、少し部屋で休んでくるといい」
「……すみません」

 普段なら、よほどのことがないかぎり、仕事を途中で放り出して引き上げるようなジャンヌではない。だが、この時ばかりは、兄の気遣いが嬉しかった。このままここにいても、おそらく何も手につかないに違いない。

 自室に戻り、寝台の端に腰を下ろすと、ジャンヌは大きく息を吐いた。頭の中はまだ混乱したままで、全く整理がついていない。
 目を閉じてデルムッドの姿を思い出そうとすると、思わず頬が熱くなる。彼に対する自分の気持ちは、もうずっと以前から自覚していた。

 彼女が初めてデルムッドの姿を目にしたのは、レンスターの西方にある教会だった。ブルーム王の軍に追われたリーフ王子の供をして、ジャンヌもその教会に身を寄せていた。その彼女達の元に、解放軍が近くまで進軍しているとの報告を運\んでくれたのがデルムッドだったのだ。たまたま偵察に出ていたナンナと遭遇し、彼女の案内でやって来たという。
 絶望と不安に押しつぶされそうだったジャンヌにとって、朗報をもたらしたデルムッドは、その時、文字通り輝いて見えた。

 その後、トルバドールであるジャンヌは、再会した兄のトリスタンの部隊に組み込まれることとなる。兄が主と敬うデルムッドに接する機会も、自然と多くなっていった。
 初めて彼を見た時に受けた印象は、それからも変わることはなかった。むしろ、ますます強くなっていったといってもいい。
 いつも朗らかな笑顔で部下に声をかけるデルムッドは、その人柄を誰からも慕われていた。ひとたび戦いの場に身を投じると、的確な判断で自軍を勝利に導いている。また、敗色の濃い場面では、浮き足立つ兵をまとめ士気を鼓舞する、一種独特の力も持っていた。
 彼の妹のナンナをずっと身近で見てきたジャンヌには、特にそのことがよくわかる。ナンナにもまた、弱気になった兵の勇気を奮い立たせる不思議な力が備わっていたから。

 ―――ナンナ様と同じ輝きを持つ方だ

 デルムッドの姿を目にするたび、密かな憧れと共にジャンヌはそんな思いを抱いていた。そのデルムッドが、自分を妻に望んでいると兄は言う。

 ―――そんな夢のようなことがあっていいのだろうか…

 長い回想からふと我に返り、ジャンヌはそっと息をついた。正直言って、喜びよりも、戸惑いのほうが遥かに大きく胸の中に渦巻いている。
 彼の隣に並び立つ自分の姿を想像したことなど、今まで一度もなかった。そこは、自分の場所ではない。ずっとそう思ってきた…。

 それに、一抹の不安が胸をよぎる。兄はデルムッドが自分を望んでいると言ったが、果たしてそれは真実なのだろうか。
 解放戦争の間中も、このアグストリアに来てからも、自分がデルムッドの側にいた時間は、すでにかなりの長さになっている。だが、その間、彼から特別な言葉をかけられたことや、そのようなそぶりを見せられたことは一度としてない。

 また、王のお声掛かりというのも少々ひっかかる。
 アレス王は、あまり表には出さないが、公私に渡ってデルムッドを非常に頼りにしていた。そして、その分とても彼のことを気にかけている。未だ身を固めようとしない従弟を案じて、王が本人の知らぬ間に話を進めたということは充分考えられることだった。

 ―――もし、そうだとしたら、デルムッド様にとっては迷惑な話に違いないわ…

 そう思うと、ジャンヌの表情もこころもち暗くなる。

 だが、そこまで考えて、ジャンヌはそれ以上の思案を止めた。いずれにせよ、内乱を平定してデルムッドが帰城すればはっきりすることだ。それまでは、ここで自分が気をもんでいても、何の解決にもならない。

 ただ、最悪の場合の心の準備だけはしておこう…。そう思った。
 いつかは覚める夢だと最初から覚悟していれば、傷つくことも悲しむこともない。せめてその短い間だけ、ささやかな夢に浸ることくらいは許されるだろう。

 そう考えを切り替えると、少しだけ心が落ち着いた。この問題を、一旦心の隅にしまっておくことを決めたとたん、普段通りの静かな気持ちが戻ってきたような気がする。
 やがてジャンヌは立ち上がり、再び兄の執務室へと歩き出した。




 物見の塔の屋上から、デルムッドは前方にある城に視線を向けた。この砦に陣を構え、オーガヒル城を包囲してからそろそろ一月近く経つ。

 目の前の城の中には、アレス王によるアグストリア統治を不服とし、反旗を翻した元マディノ領主が篭\っている。
 マディノの領主とは言ってもその出自は定かではなく、戦乱に乗\じて領地を占有していたに過ぎない。彼は、二月ほど前に、自分こそが正当なアグストリアの王であると宣言し、王都アグスティに進撃を開始したのだった。
 未だ混乱から抜け切らない現在のアグストリアで、自ら王を名乗\る者はそう珍しくない。断絶した旧アグストリア王家最後の王シャガールの血縁やご落胤などと称し、自らの王位の正当性を主張する者は後をたたなかった。
 すぐに討伐軍が組織され、マディノは制圧されたが、肝心の領主と側近達がオーガヒル方面へ逃走した。彼らは不当に貯め込んだ財で傭兵を雇いオーガヒル城に立て篭\もり、未だ抵抗を続けている。

 掃討を命じられたデルムッドだったが、すぐに城を攻めることはしなかった。堅牢な要塞としての機能を持つオーガヒル城を正面から攻めるとなると、味方の損害もそれなりのものになることを覚悟しなければならなかったし、何よりも城に立て篭\もる下級兵の中には、近隣の村から無理やり集められた者も多かったからだ。
 城内に細作を紛れ込ませ敵に不利な情報を流させる一方、投降した者を手厚く保護することで、内部からの崩壊を待つ方法に出た。事実、夜陰に紛れて城を逃げ出す兵が続出し、敵が降伏するのも時間の問題と思われた。

 ―――アグスティに帰れる日も近いだろう

 そう思いながら、デルムッドは懐から取り出したものをじっと見つめた。
 それは、小さな水晶を銀の飾り紐で編み込んだ護符だった。道中の安全を祈願するお守りだという。この討伐に出る前に、ジャンヌが自ら編んでくれたものだ。幼い頃を旅の商人に育てられた彼女は、自然とそういうものの作り方を覚えてしまったらしい。

「ご無事を祈っております」
 短い言葉と共に、真剣な表情でジャンヌはこれを手渡してくれた。「武運\を」ではなく「無事を」と祈ってくれたことが嬉しかった。

 彼女の姿を見つけると、ほっとするような気持ちになる自分に気付いたのはいつだったろう。ただ静かにそこに佇んでいるその姿に、心が安らぐのを感じたのは。

 最初は、その存在にも気づかないくらい、地味な印象の少女だった。いつもナンナの後ろに控えるように立っているその姿が記憶に残るようになったのは、彼女が解放軍に参加してからずいぶん経った頃だったように思う。
 ナンナのように、その場にいるだけで人の目を引きつける華やかさも、輝く笑顔も持ってはいない。そもそも、ジャンヌの笑顔を見たこと自体、数えるほどしかなかった。

 だが、どんな時も変わることのないその確かな存在が、いつしか深い安心感を与えてくれるようになっていった。戦場で危機に陥った時、彼女の落ち着いた声が何度自分を救ってくれたことだろう。

 ―――大丈夫ですか、デルムッド様

 戦いのさなかに傷を負った時、自分が気付くより早く、いつもジャンヌが側で回復の魔法をかけてくれていた。決して取り乱すことのない彼女の姿が、デルムッドにも冷静さを取り戻してくれる。
 それは、アグストリアに来てからも変わることはなかった。今ではパラディンに昇格した彼女は、当然行軍にも同行する。だから、これまで戦場では、必ず彼女の姿がデルムッドの側近くにあったのだ。

 普段は気付かなかった。その存在が側にあるのが当たり前になりすぎていたから。
 だが、こうして離れている時間が長くなるにつれ、デルムッドは嫌でも心の中の空白を意識せざるを得ない。

 ―――彼女に逢いたい…

 日々強くなっていくその思いを、だんだんと抑えられなくなっている自分に気付いていた。
 この乱を平定しアグスティに帰ったら、自分の気持ちをジャンヌに伝えよう。デルムッドは、そう決意していた。


 その時、あわただしく階段を登ってくる足音が聞こえてきた。デルムッドの顔に緊張が走る。だが、それは、彼が予想していたような戦況の変化を知らせるものではなかった。
 姿を現した兵は、デルムッドに一通の書状を手渡した。

「たった今、王宮から届きました。将軍からの書状です」
「トリスタンから?」

 定期の報告書は昨日受け取ったばかりだった。訝しく思いながらも、封を切り書面に目を通す。几帳面な文字が、今王宮で起こっているデルムッドに関する事柄についての報告を述べ、確認を求めていた。

「……アレスのやつ…」

 敬称も付けずに王の名を呟いたデルムッドに、側に控えていた兵がぎょっとしたような視線を向ける。デルムッドは苦々しい表情のまま、再び書状を読み返した。やがて、手にしたそれを、音を立てて握りつぶす。
 心配そうに見上げる兵が、その理由を教えてもらえることはついになかった。



秋 桜


--------------------------------------------------------------------------------



-2-




 これまで顔も知らなかったような貴族達が、自分に向かって丁寧に頭を下げる。そんな光景を、ジャンヌは少し冷めた思いで受け止めていた。
 王族であるデルムッドとの婚約の噂が流れるにつれ、自分の周囲が次第に騒がしくなっていくのを肌で感じている。
 だが、周囲の盛り上がりとは裏腹に、未だジャンヌはこの状況を受け入れきれずにいた。周りが熱を帯びるにつれ、どんどん自分は冷静になっていくような気がする。




 今はアグストリア王妃の立場にあるナンナからも祝福を受けた。
「ジャンヌがお義姉さまになってくれるなんて嬉しい」
 そう言って抱きついてきたナンナの笑顔を見た時は、それが本当だったらどんなにいいかと、少しだけ胸が痛くなった。

 だが、その夢がもうじき終わることをジャンヌは知っている。
 昨日、乱を平定したデルムッドは、首謀\者の身柄と共に王都に凱旋を果たした。やがて、ジャンヌとの婚約のことも耳にすることになるだろう。その時、彼がどういう反応を見せるのか…。
 彼女の性格は、楽観的な未来を描くことができなかった。

 ジャンヌは今、王の私室に向かって歩いている。急な呼び出しを受けたのだった。王が個人的に用事があるとすれば、デルムッドとのこと以外に思いつかない。あるいは、デルムッドが王に依頼したのかもしれない…。
 そんなふうに考えると、足取りは重かった。

 ようやくの思いで部屋に辿り着く。人払いでもしたのか、扉の前には衛兵も取次ぎの者もいない。しかたなく、入室の許可を得るため声をあげようとした瞬間、中から言い争うような声が聞こえてきた。その一方は、デルムッドの声だったような気がする。
 しばしためらった後、ジャンヌは扉をわずかに開けて、隙間から室内の様子をうかがった。


「申し訳ございませんが、陛下。私は自分が生涯を共にする相手は自分で決めます。この話はなかったことにしていただきたい」

 静かではあるが、断固とした口調でデルムッドは告げた。
 普段は対等な口をきく忠臣の、不自然なまでに丁寧な言葉遣いに、王は不機嫌そうな視線を送る。

「何を言ってるんだ、デルムッド。俺がお前の気持ちをわからないとでも思っているのか? おまえがいつまでたっても煮え切らないから、代わりにお膳立てしてやったんだろうが」
「ご自分が同じ事をされたら、陛下はどう思われます?」

 そう返されて、アレスは一瞬言葉に詰まった。人に強制されることが何よりも嫌いなアレスが、何を思ったかは想像に難くない。だが、彼は決して自分の非を認めなかった。それが従弟に対する甘えであることを、本人が自覚していたかどうかはわからなかったが。

「ならば、一生独り身でいろ! 後悔しても知らんからな」

 半ば八つ当たりのように言葉を投げつけた王に、デルムッドは深々と礼を返した。
 そんな彼の後ろ姿を遠目に見て、ジャンヌはなぜかほっとするような思いを感じていた。

 ―――ああ、やはりそうだったのだ…

 落胆よりも、安堵の気持ちのほうがずっと大きかった。

 ―――短かったけど、楽しい夢だった。自分には、これでもう充分

 王の命令だからと、デルムッドが不本意ながら自分を妻にするような事態にならなかったことを、よかったと思える心の余裕さえあった。
 また明日からは以前と同じ静かな日々に戻る。しばらくの間、王宮では少々気まずい思いをするかもしれないけれど、いずれ時間が解決してくれることだろう。
 ジャンヌは深く息を吸った。

「失礼致します、陛下。ジャンヌです。お召しにより参上致しました」
 声をかけ扉を開けると、中の二人が同時に視線を向けた。
 一瞬の静寂の後、意を決したように、デルムッドがまっすぐジャンヌのほうへ歩いて来た。その表情は硬く、怒っているようにも見える。ジャンヌの前に立つと、彼は硬い表情のままで低く囁いた。

「ジャンヌ、君に話がある。一緒に来てくれ」
「あ…でも、わたし陛下に呼ばれて…」
「それはもういいんだ」
 ジャンヌの手首を掴むなり、有無を言わさずデルムッドは部屋を後にした。退室の礼さえとらない彼の全身からは、目に見えない苛立ちのようなものが感じられる。その対象が自分なのだろうかと思うと、声をかけることすらできなかった。

 すれ違う人々が、好奇に満ちた視線を送ってきたが、デルムッドは意に介さなかった。ジャンヌの手を引いたまま、無言で廊下を歩いて行く。次第に彼の表情からは怒りの色が消えていった。それに代わって、少しずつ別の感情が浮かび上がってくる。足早に前を行くその横顔は苦悩に満ちていた。

 ―――デルムッド様はお優しい方だから、きっとわたしの気持ちを考えて辛い思いをなさっているのだわ

 そう思い、ジャンヌは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 その間にも、デルムッドはどんどん歩を進めていく。いつしか屋内から中庭に、さらにはその奥にある庭園へと向かうが、彼の足は止まる様子がない。

「あの…どちらまで行かれるのですか? デルムッド様」

 控えめに問い掛けたジャンヌの声に、はっとしたように彼が立ち止まる。まるで、我に返ったような表情であたりを見渡しているところから察するに、特に目的地があったわけでもないらしい。
 周囲では、背の高い淡い黄色の秋桜が風に揺れている。デルムッドは、わずかに視線をそらし、どう言葉を切り出すか思案しているように見えた。

 ―――わたしが気にしていないことを伝えなくては…

 彼に負担をかけたくはない。そう思い、ジャンヌは微笑んだ。
 あまり笑うことに慣れていないから、もしかしたら不自然だったかもしれない。でも、精一杯の気持ちを込めて、ジャンヌはデルムッドに微笑みかけた。
 そんな彼女を見て、なぜかデルムッドはせつなそうな表情をする。

「今回の件、陛下が独断で話を進めてしまったらしい。君にも迷惑をかけたね」
「いいえ、迷惑なんて少しも…」
「本当にすまなかった。砦でその知らせを聞いた時に、すぐ取って返そうかとさえ思った。でも、たぶん君は断ってくれるだろうと思ったんだ」
「えっ…」

 すうっと血の気が引くのが、ジャンヌにはわかった。
 デルムッドに、自分の気持ちを見透かされたような気がする。
 降ってわいた幸運\に有頂天になり、すっかりその気になった身のほど知らずな女だと、おそらく彼にそう思われてしまったのだろう。
 いたたまれない気持ちで、ジャンヌはうつむいた。

「わかってるよ。どうせ、トリスタンに言われたんだろう。陛下の命に逆らうわけにはいかないとか何とか」
 だが、思いも寄らない柔らかな声が降ってきた。思わず顔を上げると、自分を気遣うかのように優しげな瞳が見つめている。

「どうしてそれを…」
「やっぱり、図星だったのか」
「あ…」
「ごめん……。本当に辛い思いをさせたんだね」
「いいえ! そのようなことはございません」
 思わずジャンヌは声をあげていた。
「わたしは自分の意志で、そのお話をお受けしたのです。デルムッド様に謝っていただくことなど、何もありません」
 いつになく強い口調で語るジャンヌに、デルムッドは少しだけ驚いたような目を向ける。それには構わずに、ジャンヌは自分の思いを伝えるために言葉を続けた。

「本当はわたし…嬉しかったんです。兄から、デルムッド様がわたしをお望みだと聞いて、夢ではないかと思いました。そして…幸せでした。たとえそれが一瞬の幻だとしても…」

 その言葉に、デルムッドが不思議そうな表情を浮かべる。

「一瞬の幻だなんて、どうしてそんなふうに思うんだい」
「わたしは、デルムッド様にふさわしい女ではないからです」

 ジャンヌにとってそれは謙遜でも何でもなく、純然たる「事実」だった。デルムッドには、彼と同じように光の中にいる女性が似合っている。それは、断じて自分ではない。
 表情も変えずに淡々と述べるジャンヌに、デルムッドが軽いため息をつく。

「俺がこの話を断ったのはね、陛下の命令で君を娶ったと…君にそう思われるのが嫌だったからだ」
「え?」
「ちゃんと俺の口から自分の言葉で君に伝えたかった」

 間近で自分を見つめる鳶色の瞳を、ジャンヌは一瞬だけ夢心地で見つめた。この後、どんな言葉を投げかけられようとも、覚悟はできているつもりでいた。
 だが、彼の口から発せられたのは、予想とはまるで違う言葉だった。

「俺が今までどんなふうに君を見ていたか、どんなふうに思っていたか。そして離れている間中、どんなに君に逢いたいと思っていたか…」
「デルムッド様…?」

 戸惑いを浮かべた瞳で、ジャンヌは目の前の生真面目な顔を見上げた。
 この期に及んでも、彼女にはデルムッドの意図するところが全く伝わってはいなかった。それほどに、彼がこれから告げようとしていることは、ジャンヌにとって思いもよらないことだったのだ。

 デルムッドは身をかがめ、ジャンヌの耳元に何か囁いた。
 その言葉がジャンヌの中で意味を成した瞬間、彼女の瞳は驚きに見開かれる。呆然とした表情で、ただデルムッドを見つめることしかできない。
 もう一度、今度は彼女の目の前で、まっすぐその瞳を見つめながら、同じ言葉をデルムッドは繰り返した。
 ジャンヌの首が、ゆっくりと左右に振られる。何度も、何度も、まるでその言葉が信じられないとでもいうように…。
 否定されるたび、何度でもデルムッドは同じ言葉を繰り返した。それはやがて、根負けしたジャンヌが両手で顔を覆って泣き出してしまうまで続けられることとなる。

 密やかな秋の風が、周囲を舞いながら通り過ぎて行く。まるで二人を祝福するかのように、秋桜の花がいつまでも揺れていた。




<END>



[100 楼] | Posted:2004-05-22 17:08| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


木洩れ日の庭


--------------------------------------------------------------------------------




 王宮の東端へと続く長い廊下を、ユングヴィ公爵ファバルが走っていた。
 向かう先には、公妃の住まう一廓がある。食事は必ず妻と共にとると決めている彼は、長引いた会議のために遅れた時間を取り戻そうと少々必死になっていた。女官長あたりに見つかったら、小言のひとつも覚悟しなくてはならないだろう。
 しかし、運\良く一人の侍女とすれ違っただけで、彼は愛する妻の待つ部屋へと無事にたどり着くことができた。



「イシュタル」

 静かに扉を開けながら小さく呼びかけたが返事がない。部屋を横切って奥へ進むと、ガラスの扉の向こう側にあるテラスで、椅子に腰掛けていたイシュタルが顔を上げた。その腕の中には、一人の赤ん坊が抱かれている。

「なかなか眠ってくれなくて」

 側までやって来た夫を見上げ、イシュタルは微笑んだ。すぐに視線を腕の中に戻すと、優しいまなざしが再び赤ん坊へと注がれる。
 雷神と呼ばれた頃の、張り詰めたような雰囲気はすっかり陰を潜めている。代わって、穏やかで清涼な空気が彼女を包んでいた。案外、これがイシュタルの本来の姿なのかもしれないと、ファバルは時折思うことがある。

 彼女は今、ユングヴィ城の奥深くで、子供と共に暮らしている。
 ユングヴィ公妃であるイシュタルが、政治の表舞台に顔を出すことはない。それは、現在の大陸における公妃の在り方としては、珍しいケースと言えた。復興に向けて進みつつある王家、公家のほとんどは、夫妻による共同統治体制を敷いている。必然的に、公妃は国主が不在の場合はそれに代わる存在として国を動かす権限を持ち、それに値する能力を要求されるのだ。
 しかし、ここユングヴィだけは、公妃が宮殿の奥から姿を現すことはめったにない。聖戦と呼ばれる先の戦いで深く心に傷を負ったイシュタルを、わずらわしい一切のことから守ってやりたいと願ったファバルが、彼女を政争の場から遠ざけたのだった。
 イシュタル自身も、時折ファバルとともに城下の様子を見に出かける以外は、あまり人と顔を会わせることなく、ひっそりと過ごすことを望んでいた。
 公妃としての務めを放棄したかのようなその行いに、異議を唱える重臣も少なくはなかったが、ファバルは決して譲らなかった。

 とはいっても、イシュタルがユングヴィの政治から切り離されているわけではない。むしろ、国政における重要事項決定の場が、王宮から後宮へ移動したと言ってもいい。ファバルは妻の元を訪れるたび、世間話でもするように会議の内容を語り、領内で起きている問題を語り、それに対しイシュタルがやはり世間話のように何らかの助言を与えた。
 国の基本的な方針が、全て公爵夫妻の相談の元に決めらていたことを知る者は少なかったが。

 二人が正式に結婚してから半年後。イシュタルが子を身篭\ったことは、そういう意味では都合がよかったと言える。子を生み育てることに専念するためという、誰も文句をつけることの出来ない理由の元に、イシュタルは宮殿の奥で静かな生活を送ることが可能となった。
 やがて、ファバルとイシュタルの間には、双子の姉妹が誕生した。黄金の髪とウルの聖痕を持つ姉姫と、銀の髪とトードの聖痕を持つ妹姫。
 まだほんの赤ん坊に過ぎないが、それでも多少は性格の違いのようなものが現れてくるらしい。少しくらい周囲が騒がしくても平気で眠り続ける姉に比べ、妹のほうがやや神経質で、母親を求めて泣くことも多かった。自然とイシュタルは下の娘のほうにかかりきりになり、その分を埋めるように、ファバルは長女の世話を焼くことになる。

 これも、分業と言えば言えるのだろうか?
 そんなことを思いながらファバルは、芝生に置かれた揺りかごの中でぐっすりと眠っている金の髪の娘を見つめた。柔らかな頬も、少し開いた桜色の唇も、握り締めた小さな両手も、全てが愛しく感じられる。それを見ているうちに、ファバルの口元にふと笑みが浮かんだ。

「何がおかしいの?」
 それに気づいたイシュタルが問い掛ける。
「いや、ちょっと昔のことを思い出して」

 まだ、子供が生まれて間もないある日のこと、ファバルは今日と同じように昼食をともにするため公妃の部屋を訪れた。
 一刻も早く妻と娘達に会いたくて、勢いよく扉を開けたファバルの目に飛び込んできたのは、イシュタルの腕の中で真っ青な顔をしてのけぞっている姉姫だった。頭が重力に耐えられないかのように、がっくりと後ろに落ち込んでいる。

「イシュタル! 何やってるんだ!!」
 思わず大声をあげていた。その声に反応して、寝台で横になっていた下の娘が泣き声をあげる。

「何って…。この子をあやしているのだけど?」
「首もすわってない赤ん坊を、そんな抱き方しちゃだめだーーー」

 突進するような勢いで駆け寄り、怪訝そうなイシュタルの腕からすばやく赤ん坊を抱きとった。

「いいか。ここに手を回して、こうやってちゃんと頭を支えてやらないと」

 ずっと孤児たちの面倒を見て、子供達と共に暮らしてきたファバルにとって、赤ん坊の世話は生活の一部にもなっている。
 目を開きっぱなしだった赤ん坊は、その慣れた手つきに安心したかのようにゆっくりとまぶたを閉じ、いつしかファバルの腕の中で安らかな寝息をたてていた。

「まあ…。あなたは、本当に子供の扱いが上手なのね」

 感心したような目で見上げられても、この時ばかりはあまり嬉しくなかったような気がする。

 自分の手で育てると言っていたイシュタルだったが、こういう事情で結局乳母が付けられた。つまり、子供の面倒を見るためではなく、イシュタルに育児の基本を教えるための乳母が。

 料理上手な妹を見て育ったファバルは、女というものは生まれながらに家事や育児が得意なものだと思い込んでいたふしがある。イシュタルと共に暮らすようになって、必ずしもそうとは限らないことを身をもって知ったわけだが、だからといって彼女への愛情にいささかも変わりはなかった。
 かつてマンスターの領主として一国を治めていたイシュタルは、政治的な面で充分にこの国に貢献している。それぞれ向き不向きがあるのだから、得意な分野で力を発揮すればいいと、リベラルな考え方をするユングヴィ公爵だった。

 元々、聡明で呑み込みの早いイシュタルは、多少の試行錯誤は繰り返しながらも、人の手を借りずとも子供達の世話をこなせるようになっていった。
 今では娘を抱く姿もすっかり板に付いて、どこから見ても一人前の母親だった。


「すっかり慣れたよな。最初はどうなることかと思ったけど」
「半年も経てば、なんとかなるわ」

 ようやく寝付いた娘を、イシュタルはそっと揺りかごの中に下ろした。髪の色以外はよく似た二つの顔が並んでいる。日よけ代わりの大きな梢を風が揺らし、数葉の新緑を周囲に散らした。
 テラスに用意されたテーブルの上には、すでに食事の仕度が整っている。イシュタルがカップにお茶を注ぎわけると、ファバルもようやく椅子に腰をおろし、遅い昼食が始まった。


「そういえば、フリージの女はね、遺伝的に家事が苦手なのですって」
 イシュタルがそんなことを口にしたのは、あらかた食事も終わったころだった。

「え?」
「わたしが子供の頃、ティルテュ叔母様がそうおっしゃったことがあったの。『だから、あなたも優しくてまめな男の人を探しなさいね』って、叔母様は笑っていらしたわ」
「へえ。『あなたも』ってことは、おまえの叔母さんはそういう相手を見つけたのかな?」
「どうかしら、叔母様は叔父様のことは話してくださらなかったから…」

 今日のイシュタルはいつになく饒舌だった。

「父上も、そんな一族の女達を見て育ったから、家庭的な女性に憧れていたらしいわ。母上に求婚したのも、そういうところを好きになったからだって、子供の頃、話してくれたことがあったもの」
「家庭的って……あのヒルダが…?」

 聞き間違いではないかと思った。それとも、自分は何か意味を取り違えているのだろうか。
 混乱するファバルには気づかずに、イシュタルは言葉を続けていく。

「そうよ。母上は努力家の上に完璧主義だったから、自分にできないことがあるのが許せないらしかったの。政務のことも家庭のことも手を抜かずに積極的にやり遂げていたわ」

 一瞬、眩暈がしそうな気がした。あの魔女のような女が、厨房で小麦粉をこねている姿など、正直言ってあまり想像したくない。
 しかし、愛する妻が淡々と語る美しい過去の思い出を自分の手で壊すつもりは毛頭なかったので、あえてファバルは何も言わなかった。

「父と母はとても仲の良い夫婦だったのよ…」

 イシュタルは遠くを見つめるような目でつぶやいた。彼女の胸の中に、かつての両親の姿が浮かび上がる。
 政治にはあまり関心のないブルームは、全ての面においてヒルダを非常に頼りにしていた。そして、そんなブルームの力になれることが、ヒルダにとっては喜びであり誇りでもあったのだ。
 ヒルダがあれほどに権力を求めたのも、すべてはフリージ家のため、ひいてはブルームのためであったことを、イシュタルはよく知っている。

 自分とユリウス皇子との婚約の噂が具体的になってきた時、イシュタルは、ふと母に尋ねてみたことがあった。

 ―――お母様は、お父様と結婚して幸せでした?

 突然の問いかけに少しだけ目を見張り、

 ―――当たり前のことを、聞くものじゃないわよ

 そう答えた母の表情が忘れられない。
 傍目にはどう映っていようと、あの二人は確かにお互いを必要としていたのだ。イシュタルにはそう確信できる。

「それを知っている人は、少ないけど……」

 それきり、イシュタルは口を閉ざした。

 ファバルは、黙ってそんな妻の横顔を見つめていた。
 元々おおらかで、過ぎ去ったことにはこだわらない性格のファバルは、すでにブルーム夫妻に対する個人的な嫌悪の念は消えている。それに、あの二人の血がイシュタルを通じて娘達にも流れているのだと思うと、彼らを憎むことはもはやできないような気がした。
 ファバルは立ち上がり、娘達が眠っている揺りかごの側に来た。

「おまえの両親にも、この子達を見せてやりたかったよな」

 気が付いた時には、そんな言葉が口をついていた。意識せずに自然とこぼれたその言葉。それは今の自分の偽らざる本心のように、ファバルには思えた。
 その言葉を耳にしたとたん、イシュタルがはっとしたように顔を上げる。そして、何かを訴えるかのように、じっとファバルの目を見つめてくる。やがて彼女の瞳が潤んだかと思った次の瞬間、透明な雫が耐え切れないように頬に滑り落ちた。

「ど、どうしたんだ、イシュタル」
 自分は何か彼女を傷つけるようなことを口走ってしまったのだろうか。
 内心、激しく動揺するファバルに、イシュタルはそっと目許を抑え微笑みかけた。

「嬉しくて……。そんなふうに言ってもらえるなんて思っていなかったから…」

 一瞬、言葉の意味がわからなかった。
 やがて、彼女が悲しんでいるのではないと理解した瞬間、ファバルの中に湧き上がってくる言いようのない感情があった。

 ああ、そうか―――

 なんとなくわかったような気がする。

 ―――俺の前だから、両親のことを話せたんだ…

 そのことに、今になってようやく気づいた。

 子供狩りにも積極的に加担していたヒルダを、魔女と呼ぶ者は多い。そう呼ばれても仕方がないだけのことをヒルダはしてきた。それは、イシュタルも認めざるを得ない。そんな彼女にとって、家族の思い出を語れる相手などいるはずがない。
 それでもヒルダは、彼女にとってはたった一人の母親なのだ。そのことを、本当の意味で自分は理解していなかったのかもしれない…。
 イシュタルが、まるで独り言のように話していたのは、所詮同意を得られるとは思っていなかったからなのだろう。
 そう思うと、ファバルの胸に苦い痛みが走る。

 揺りかごの中で、安心しきったように目を閉じている小さな二つの命を見ているうちに、ふと思った。ブルームとヒルダも、こんな思いで幼いイシュタルを見つめた日々がきっとあったはずなのだと。

「いつか、一緒にフリージへ行こう。子供達も連れて。そして、おまえの両親のことを、この子達に話してやろう」
 まどろむ娘達に話し掛けるかのように、ファバルが言う。
「ええ」
 イシュタルもファバルの横に並び、同じまなざしで娘達を見つめた。

 木洩れ日が降り注ぎ、やわらかな光が辺りを包んでゆく。
 そんなユングヴィの庭で――。



<END>



[101 楼] | Posted:2004-05-22 17:09| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


夏 の 嵐


--------------------------------------------------------------------------------


 西からの強い風が、黒\獅子の軍旗を激しく翻していた。
 風に押されるように、速度を上げて雲が流れていく。

 ―――嵐になりそうだ

 広がりつつある天の暗雲を見上げながら、アレスは思った。
 じきに雨になるだろう。その前に決着がつけば良いが、長引けば野外に陣を張るこちらが不利になる――。
 遠く前方には、丘陵の上に白亜の城が威風を誇っていた。それは、アグストリア統一を目指す者にとっての象徴とも言うべきアグスティ城だった。軍を率いてこの城を包囲したアレスは、目標まであと一歩のところまで迫っている。


 20年前にグランベルの侵入を受けて以来、アグストリアの大地は絶えず揺れ動いていた。
 アルヴィス皇帝の施政当初は帝国から遣わされた官吏による支配を受け、やがていつのまにかその任はロプト教団の司祭へと取って代わられるようになる。
 月日が流れ、セリス皇子率いる解放軍が徐々に中央へと進軍し、帝国の世に翳りが見え始めるようになると、アグストリアの各地でロプト教団に対する反乱が起こった。これ迄、その圧倒的な勢力の前に雌伏を余儀なくされていた者達が、一斉に蜂起したのだった。
 だが、ロプト教団の追放がある程度成功すると、それらの勢力はそれぞれに自軍の正義と権利を主張し、あるいは己の利を追求して争いを繰り返すようになる。土地や城を占領し、勝手に税を徴収する幾人もの小領主が誕生した。子供狩りの恐怖からは解放されたものの、人々が真に困窮から救済される日はこなかったのである。
 聖戦と呼ばれる戦いが終わり、アレス達がこの地に足を踏み入れた時、アグストリアはまさしく群雄割拠の時代を迎えていた。
 ノディオンを基盤に戦力を固めたアレスは、まずは王都の奪還に照準を定める。現在のアグスティ城主を名乗\る勢力を退け、王宮で戴冠式を行い、アグストリア全土に君臨する王としての宣言をすること。それが統一への第一段階だった。


 アレスは、視線を上空から自分の左隣へと移した。そこには、白銀の鎧に身を固めた一人の女騎士が、毅然とした表情で前を見つめて立っている。出会ってから、どんな時も離れず側にあった、彼にとっての半身ともいうべき少女ナンナ。アグストリアに来てからもそれは変わることなく、戦場でも彼女の姿は常にアレスと共にある。
 アグスティの奪還が達成された暁には、アレスは戴冠式と同時にナンナとの婚礼の式も執り行うつもりでいた。
 王に次ぐ地位にナンナを立たせること。それは、自分に万が一の事があった時、残された全ての責務を彼女に負わせるということを意味している。自分が戦場に倒れることなど露ほども考えたことのないアレスだったが、ナンナのことを思う時、ほんの少しだけ死を恐ろしく感じた。

「交渉は上手くいっているのかしら…」
 ふいにナンナが呟くように言った。視線は、前方の王城に注がれたままだ。彼女が何を思っているのか、アレスにはよくわかる。降伏を勧告する使者として立った、兄のデルムッドの身を案じているのだろう。
「あいつのことだ、心配ない」
「ええ…そうね……」
 言葉とは裏腹に、ナンナの表情からは憂いは消えない。
 今ごろデルムッドは、城門前で交渉を続けているはずである。話し合いが決裂すれば、真っ先に矢を射掛けられかねない危険な役目だった。その結果を、アレスはこうしてただ待つ以外すべはない。
 戦場ではいつも先陣を切って駈けるアレスだが、今回は城攻めということもあり、後方待機を厳命されている。最高指揮官である彼が命じられるというのもおかしな話だが、隙を見て前線に立ちたがるアレスの身を案じる側近達の監視は厳しかった。さしずめナンナは、格好の見張り役というところだろうか。

 ―――だが、もう時間の問題だ

 無血開城するにせよ、武力により制圧するにせよ、この城が落ちるのはほぼ確実だった。補給路を絶たれ、完全に孤立した城内の兵からは、士気というものが全く感じられない。
 すでにアレスの頭の中には、制圧後に起こりうるであろうさまざまな問題への対策が渦巻いている。

 だが、こうして玉座が目前に迫った今になって、アレスは一抹の不安を感じていた。不安というよりも、むしろ焦燥と言ったほうが近いだろうか。
 彼は、誰にも打ち明けることのない胸の奥底で、密かに思っていた。自分はこのまま王への道を進んでも、本当に後悔しないのだろうか…と。

 元々アレス自身は、アグストリアの統一を特に望んでいたわけではない。ノディオンで過ごした日々は、すでに記憶の底に沈んでいる。かの地に対する郷愁の思いはもはやなかった。
 その日を生き延びることで精一杯だった傭兵としての暮らしは、アレスから未来への希望も誇りも何もかも奪っていった。そんな日々に慣れ、現状を受け入れずには生きてはいけなかった。
 だから、解放軍に参加し、生前の父を知る者達から当然のごとくアグストリアの未来を託された時は、むしろ強い反発を感じたものだった。

 そんなアレスをこうしてアグストリアの大地に導いたのが、戦いのさなかにめぐり合った従弟妹、ナンナとデルムッドの存在である。
 全てをあきらめていたアレスの目に、誇りと希望を失わずに持ち続けていた彼らはまぶしく映った。
 ミストルティンの継承者としての自分をではなく、同じ血を受け継ぐ肉親として、こうして巡り合えた運\命を喜んでくれた二人。その存在を失いたくなかった。彼らの期待を裏切りたくはないと思うようになった。そんなふうに、誰かのために何かをしたいと思ったのは、それが初めてだったのだ。
 従弟妹達に、故郷と呼べる場所を取り戻してやることができたら、そして、そこが自分にとっても故郷と思えるようになったら、その時こそ自分も彼らの本当の家族になれるような気がした。
 たぶん、そんな極めて私的な感情が、自分がアグストリア統一を決意した本当の理由なのだ。それを知ったら、自分を信じて付いてきてくれる幾多の兵は、そして統一を待ち望むアグストリアの民はどう思うのだろう。

 傭兵として生きてきた時間は、王子として育てられた年月よりもすでに長くなっている。一旦受け入れてしまえば、その気ままな暮らしも悪くはなかった。ただ一心に剣を振るっている時は、何もかも忘れることができた。このまま一生を傭兵として、戦いに明け暮れるのもいいかもしれないと思ったこともある。

 砂漠を渡る風を、容赦なく照りつける日差しを、ただ、生きるためだけに駆け続けていたあの日々を、自分は忘れ去ることができるのだろうか。
 いつか、王としての責務の重さに疲れ、あの時の自分が懐かしくてたまらなくなる日がくるのではないだろうか。
 こんなことを思う自分は、本当に王として相応しいのだろうか。

 いくら考えても、答は出なかった。自分に答を与えることができるただ一人の存在を、アレスは知っている。
 ただ、それを問うのが怖かった。問い掛けて、そして、失ってしまうのが怖かった。
 だが、この迷いを抱えたままで王座へと進むこともまた、彼にはできない。アレスは視線を上げ、もう一度ナンナの横顔を見つめた。

「ナンナ。もし、俺が……」
 そこまで言って、言葉が途切れる。そんなアレスに、ナンナは不思議そうな顔を見せた。
「アレス?」
「もし俺が……アグストリアの王にはならないと言ったら、どうする?」

 決意を固め、ひと息にそれだけを口にした。そして、神々の審判を待つような思いでナンナの言葉を待った。
 彼女の瞳に浮かぶのは、落胆か不信か、それとも軽蔑の色か…。
 ほんの瞬きほどのその間が、恐ろしいまでに長く感じられる。
 やがて、途方もなく長い――だが実際には一瞬の――沈黙の後、ナンナは穏やかな笑みをその口元に浮かべた。

「どうもしないわ。今までと同じよ。わたしはどこまでもあなたと一緒にいくと決めているもの」
「ナンナ…」
 安堵と戸惑いが、一気にアレスの胸に押し寄せてくる。ナンナがこんな答を返してくれることなど、想像すらしていなかった。

「だが…おまえは、俺がアグストリアを統一することを望んでいただろう?」
「ええ、そうね。それはもちろんよ。きっとあなたのお父様もわたしの母も、それを望んでいるんじゃないかと思う。それに何より、この国が統一され平和が戻ることを、国民が切望しているのがわかるから。そしてあなたには、それを成し遂げるだけの力があるから。だから、あなたにはこの国の王として、人々を導いていってほしい…」

 ――でも…。そう言ってナンナは言葉を続ける。

「あなたが何を思ってそんなことを言い出したのかはわからないけれど、それがあなたにとって一番正しいことなら、わたしはそれ以上の反対をするつもりはないわ」
 言葉もなく見つめるだけのアレスにナンナは微笑を返し、やがて、ふと遠くを見るような目をした。
「子供の頃にね、お母様がおっしゃったことがあるの。もし、大切な人ができたなら、どんなことがあっても側を離れてはだめ…って」
 あの時、幼かったナンナは、母がエルトシャン王のことを言っているのだと思っていた。今では、母が本当は誰を思っていたのか、彼女も知っている。
「お父様のいない世界に生き続けなければならなかったお母様の苦しみが、今のわたしにはよくわかるの。だからわたしは、あなたが王になろうとなるまいと、決して側を離れないわ」
 そして、茶水晶の瞳をまっすぐにアレスへと向けた。
「国の未来よりも、それがわたしにとっては真実だから」

 その言葉を聞いた時、アレスは一瞬にして目の前の霧が晴れていくような気がした。
 ナンナはいつも、自分が一番ほしい言葉をくれる。そして、進むべき道を指し示してくれる。
 欲しかったのは、最愛の人の揺るぎない信頼。それさえあれば、どんな状況にあろうとも自分を信じて進んでいくことができる。そうアレスには思えた。

 感情のままに、アレスは恋人の身体を抱き寄せた。そしてそのまま、驚きの形に小さく開かれたナンナの唇にくちづける。
 突然の行動に焦ったナンナは、必死でアレスの腕から逃れようともがいた。今、二人の周囲には、王子を警護する中隊が整列しているのだ。しかし、アレスの腕は彼女の身体をきつく抱いたまま、少しも緩む様子はない。
 結局、長い抱擁の後、アレスが唇を離すまで、その状態は続いたのだった。

「アレス!」
 怒りと羞恥に頬を上気させアレスを睨みつけた後、ナンナは思わず周りを見渡した。だが、礼儀正しいノディオンの騎士達は、見て見ぬふりを決め込んでいる。愛情表現に時と場所を選ばない主君に、彼らはすでに慣れているのだ。
 強気になったアレスは、ナンナの白い顔を両手で包み込むようにして、自分の目の前に引き寄せた。

「安心しろ、ナンナ。俺はアグストリアの王になる。おまえに言われたからじゃない。俺がそう決めたからだ」

 もし、王座から逃げ出したところで、結局自分は後悔するのだろう。それならば、自分に課せられた運\命を受け止めたほうがはるかにましだ。そう素直に思うことができる。
 アグストリアを統一し、この国の民に平穏な日々が戻ったら、その時改めて、玉座に座り続けるかどうかを考えればいい。この国に居続けるにせよ離れるにせよ、ナンナが自分の隣にいることだけは変わらない。そして、自分にとって本当に大切なのは、そのことだけなのだから。
 迷いを振り切ったようなアレスの表情に、やがて彼を見つめるナンナのまなざしも穏やかなものに変わっていく。

 その時、こちらに向かって近づいてくる、ひづめの音が聞こえてきた。馬から転げ落ちるようにして走り寄った伝令の兵が、アレスの前に跪く。

「アレス王子! たった今、王宮に降伏の旗が揚がりました」

 瞬時にアレスは、頂に立つ軍神の表情に戻った。ナンナを振り返ると、目を合わせて頷きを返す。

「いくぞ、ナンナ」
「ええ」

 声と共に愛馬に飛び乗\ったアレスに遅れることなく、すぐにナンナも後に続いた。両側に並ぶ兵で作られた道の中央を、待ち受ける運\命へと向かって二人は進んで行く。 

 獅子王の再来と謳われた黒\衣の騎士が頭上に王冠を戴くのは、それから間もなくのことであった。


<END> 



[102 楼] | Posted:2004-05-22 17:10| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


 
裸足の王妃


--------------------------------------------------------------------------------


 

-1-




 馬車は、バーハラの小離宮を目指して進んでいた。イザーク王シャナンは、先ほどから窓の外に視線を向け、何やら物思いにふけっている。外に広がる風光明媚な景観も、その目を素通りしているかのようだった。

「シャナン様、どうかなさいましたの?」
 控えめに問い掛けられた小さな声に、シャナンはようやく我に返る。声のほうに目を向けると、向かい側に座ったユリアが心配そうな面持ちで彼を見つめていた。大きく見開かれた銀の瞳が、じっとシャナンを見上げている。ほんの少し首をかしげた様子が、何とも言えず愛らしく彼の目に映る。



  「いや、なんでもない。ちょっとぼんやりしていただけだ」
 安心させるように、シャナンは笑みを返した。
「お疲れになったのではありませんか。わたしが無理をお願いしたせいで…」
 尚も心配そうに問い掛けるユリアの表情を見ていると、シャナンの胸の中に不思議な愛しさがこみ上げてくる。以前に比べ、ユリアはずいぶんと自然に感情を表に出すようになった。そう、シャナンは思う。

 戦いの中で出会った時は、彼女はまるで表情をどこかに置き忘れてきてしまったかのように見えた。はじめの頃は自分を見ると、かすかな怯えの色さえ浮かべていたユリア。しかし、少しずつ言葉を交わすうちにいつしか心を通わせるようになり、やがて時折微笑みを浮かべてくれるようにもなった。
 そして、自分の妻としてイザークに来てからは、まるで別人のようによく笑い、怒り、時には泣き、今まで知らなかった表情を次々と見せてくれる。

 いまだ幼いと言ってもいい妻の顔を、シャナンはもう一度見つめた。その瞳の輝きは、まるで魔法が解け、彼女が人形から人間に戻ったかのような印象を与える。かつての神秘的な光は影をひそめたが、代りに生命力にあふれた暖かな美しさが、今の彼女を包んでいた。



  「本当に何でもない、気にするな。それより、おまえこそ疲れただろう。離宮まではまだあるから、少し休むといい」
 シャナンに隣を指し示され、ユリアがぱっと表情を輝かせる。そのまま嬉しそうに、ユリアは彼の隣へと席を移動した。シャナンが彼女の華奢な肩を抱き寄せると、素直にその身を預けてくる。腕の中の小さなぬくもりが、何よりも愛おしく思えた。
 夫の胸にもたれていたユリアは、いつしか安らかな寝息をたて始めている。頬にかかる混じりけのない純粋な銀の髪をそっとかきあげてやると、桜色の唇が目に飛び込んできた。色素の薄い肌の中で、それはひときわ鮮やかに見える。長いまつげが頬に柔らかな影を落とし、その寝顔をいっそうあどけなく感じさせる。めったに表情を変えることのないシャナンの目元にも、思わず笑みが浮かんだ。

 ―――この顔が見られただけでも、よしとするか…。

 そんなことを一人思う。
 元々、バーハラへのこの旅は、シャナン自らが望んだものではなかった。そのきっかけになったとも言えるあるものが、彼の視界の端に映っている。馬車の隅に大切に置かれている一本の杖。シャナンの脳裏に、これまでの出来事が次々と浮かび上がってくる。



 ユリアがどこへ行くにも必ず持ち歩いているスリープの杖。それは、人を眠りの淵へといざなう魔杖であった。
 魔法への耐性が高いとは決して言えないシャナンにとって、ある意味、神魔法より恐ろしい武具とも言える。戦場でその杖が発する振動音を耳にした時は、死を覚悟したことすらあった。だから、ユリアの嫁入り道具の中にこれを発見した時は、かつての悪夢を思い出し、さすがのシャナンもほんの少しだけ蒼ざめたものだった。
 そのスリープの杖を、ユリアはいつも大事そうに抱えている。聞けば、ラナからの贈り物だという。どうして結婚祝がスリープの杖なのだ?と一言言いたいシャナンであったが、親友からの贈り物を素直に喜ぶユリアを前にしては、何も言うことなどできはしない。

「シャナン様は、冷静に見えて時折無茶をなさるから、その時はこれでお止めするといいわ。いつもおとなしく言うことを聞いているだけではだめよ。たまには強くでることも必要よ、ユリア」
 ラナが、そんな助言とともにこれを贈ったことなど、シャナンが知る由もない。

 根が真面目なユリアは、親友の言葉を真摯に受け止めた。戦後の復興に向けて、まさしく馬車馬のごとく不眠不休で働く夫の身を案じ、必要に応じて彼に安らかな休眠を与えるよう努力した。…その方法は、いささか強引なものであったかもしれないが。

 その日の朝も、少しは休むようにと薦めるユリアを振り切って、シャナンは部屋を出ようとしていた。

「でも、シャナン様。ここのところお仕事がお忙しくて、ほとんど寝ていらっしゃらないのでしょう。今日だって、お休みになったのは明け方に近かったではありませんか」
「新しいリボーの族長承認手続きの詰めなのだ。休むわけにはいかない」
「正式な承認の式はもう済みました。あとは事務官同士の書類の交換だけです。わざわざ国王が出向くほどのことではありません」
「リボーとの諍いが、先の戦の発端だった。だから、きちんと最後まで見届けたいのだ」
「シャナン様一人のお身体ではないのですよ。どうか、今日くらいはお休みになって下さい。もし、シャナン様がお倒れにでもなったら……」
「すまない、ユリア。行ってくる」
「シャナン様!」

 扉の取っ手に手をかけたとたん、ふいに聞き覚えのある音がシャナンの鼓膜に響いてきた。不快な思い出と共に記憶層に残る金属的な振動音。その正体に気づいて振り返ろうとした時、ふいに意識が遠くなった。取っ手につかまりながらゆっくりと崩れ落ちていくシャナンの身体を、駆け寄ったユリアが支える。その傍らには、使用回数が一回分少なくなったスリープの杖が、静かに転がっていた。


 グランベルとは違い、天蓋付きの寝台に眠る習慣はイザーク王家にはない。だから、シャナンが目を覚ました時、最初に目に入ったのは見慣れた天井の模様だった。

 ―――夢も見ずにぐっすりと眠ったのは、ずいぶんと久しぶりだ…

 目を開いて最初に思ったのはそんなことだった。慢性的になっていた疲労感もだいぶとれ、心なしか身体が軽く感じられる。

「お目覚めになられたのですか、シャナン様」
 いつもの朝のようにユリアの声がする。そちらに目を向けると、椅子に腰掛けたまま顔を覗き込んでくるユリアの姿があった。
「ずっとシャナン様の寝顔を見ていました。なんだか、シャナン様を一人占めしているみたいで、嬉しかった…」
 そう言って頬を染めるユリア。

 ―――私はいつだっておまえ一人のものだ

 愛しい妻に向かって手を伸ばそうとした時、ふいにシャナンの視界を窓の外の景色がかすめた。茜色に染まる空。沈み行く夕日。どう見てもそれは夕刻の光景である。シャナンの脳裏に、眠りにつく前の記憶が電撃のように蘇った。

「承認手続きはどうなったのだ!?」
 掛け布団をはねのけるように飛び起きる。夫の慌てぶりとは対照的に、ユリアは落ち着いた笑みをその顔に浮かべた。
「ご心配なく。ロドルバンとディムナがしっかりと務めを果たしましたわ。もう少し、彼らを信じてあげなくてはかわいそうです」
 ユリアの答に、シャナンは張りつめていた肩の力が一気に抜けるような感じがした。若い臣下たちの力を信じ、もっと責任ある仕事を彼らに与えること。確かにその必要性を、シャナン自身も常々感じてはいたのである。

「それよりシャナン様には休息が必要です。ずっと休む間もなく働きづめなんですもの」
 そう言ってユリアは、シャナンの目の前に一枚の書類を差し出した。下の方には重臣達のサインが並んでいる。

「シャナン様がお休みになっていらっしゃる間に、議会に王の休暇を申請致しました。さきほど大臣達の承認が済んだところです」
「ユリア!?」
「首尾良く十日間のお休みをいただきましたわ。こんな機会はめったにありませんから、バーハラの兄のところへ避暑に参りましょうよ。何度もお誘いを受けていたのに、時間が取れないからと断ってばかりでしたでしょう」
「もしかして…すでに準備はできているのか?」
「はい」
 ユリアがにっこりと微笑んだ。シャナンの肩から、さらに力が抜ける。自分がこの微笑に勝てるとは、もはやシャナンは思っていなかった。

 ふと―――あることが記憶の底から蘇ってくる。

 ―――畏れながら、陛下は……王妃様に騙されていたのではございませんでしょうか…

 いつだったか、ロドルバンが同情をたたえた目でそんなことを言っていた。彼はふとした弾みに、ユリアが杖を振りかざし国王に殴りかかろうとする現場を目撃してしまったのだ。シャナンに言わせれば、たわいもない夫婦喧嘩の一つなのだが、自国の王妃は魔道書より重いものを持ち上げることすらできない、たおやかでしとやかな淑女である、と固く信じ込んでいたロドルバンには、少しばかり衝撃が大きかったらしい。

 ―――騙されているのでもいい

 それでもシャナンは、ユリアを愛しいと思う気持ちを消すことができなかった。むしろ、彼女の新しい一面を発見するたび、その思いはさらに深まっていくような気がする。
 それに、ユリアがそういった強行的な手段に出るのは、いつも自分のためを思ってのことなのだ。彼女が無理にでも止めてくれなかったら、本当に自分は何度か倒れていたかもしれない。そう思えば、ユリアを咎めることなどできるはずもない…。
 そんなふうに考えること自体、すでに彼女に対して盲目的になっていると言えるのだろうか…と、ほんの少しだけシャナンも自覚してはいるのだが。
 我ながら重症だとは思っても、ユリアへの気持ちを止めることはできそうもない――。それがシャナンの現在の素直な心境だったかもしれない。


 そんな経過を経て、イザーク国王夫妻は非公式にグランベルを訪問することとなったのである。
 とはいっても、通常の行程ではとても十日間でバーハラまで往復できるものではない。ワープの魔法を使い、グランベル内にあるイザークの領事府まで移動し、そこからこうして馬車にゆられている。

 シャナンは腕の中の妻の寝顔に、ふと目を細めた。

 ―――少しの間だけ、こうしているのも悪くない…

 そんなシャナンの思いを乗\せて、馬車は目的地に向かって走って行った。


 
裸足の王妃


--------------------------------------------------------------------------------


 

-2-




 窓からふいに涼しい風が流れ込んできた。シャナンが窓の外に目を向けると、白樺の林の間に、水晶のように美しい輝きを放つ湖面が見え隠れしている。ようやく目的地に到着したらしい。彼らが訪ねるグランベル王セリスは、ここ一月程の間、避暑を兼ねて湖のほとりの小離宮で政務を執る予定であるということだった。


「ユリア!」
「セリス兄さま!」

 恋人同士もかくやという熱烈な抱擁に、シャナンは握り締めたこぶしに思わず力が入るのを感じた。
 今、彼の目の前では、兄と妹が久しぶりの再会を手を取り合って……いや、固く抱き合って喜んでいる。シャナンとユリアの来訪を告げられたセリスは到着を待ちきれず、わざわざ賓客の控え室まで自らやって来たのだった。



   ―――いくら久しぶりとはいえ、少しばかり熱が入りすぎてはいやしないか、セリス

 シャナンの胸中を素直に言葉にしたら、こんなところだろう。
 だが一国の王たるもの、それを表情に出すようなことはもちろん出来なかった。

「ようこそグランベルに。イザーク国王夫妻のご来訪を、心より歓迎致します」
 突然、扉のほうから聞こえてきた涼やかな声に振り返ると、そこには思わぬ人物が立っていた。

「イシュタル!」
 セリスの肩越しに、ユリアが驚きの声をあげる。
 そこには、かつては雷神と呼ばれ、帝国の一将軍として解放軍と戦った、フリージ家のイシュタルが立っていた。現在はユングヴィ公爵の妃となった彼女がなぜバーハラにいるのか、シャナンもユリアも知らされてはいない。



  「ユリア様、お元気そうでなによりです」
 イシュタルは、ユリアの正面まで来ると、正式な臣下の礼をとる。彼女は幼い頃から皇家の子供達の遊び相手として、幾度となく宮廷に招かれていた。今は記憶を取り戻しているユリアにも、彼女と共に過ごした子供の頃の思い出が蘇ってくる。

「イシュタルこそ、とっても元気そうよ。それになんだか幸せそう」
 戦場で相対した時は常に黒\衣を身にまとっていたためか、死の女神のようなまがまがしい印象を受けた。だが、こうして白地に銀糸の刺繍を施した衣装を着用している彼女は、凛とした美しさをたたえた貴婦人以外の何者でもない。

「きっと、ファバルが大切にしてくれているのね。よかった…」
 イシュタルを見つめるユリアの瞳はかすかに潤んでいる。
「でも、どうしてここに? ファバルも一緒なの?」
「いえ。公爵はユングヴィにおります。わたしは今、ゆえあってここで陛下の政務のお手伝いをさせて頂いているのです」
「えっ?」
「イシュタルはね、結婚の報告にここに来たんだよ。そのまま、ちょっと帰りを延ばしてもらってるんだ」
 それまで二人の様子を見守っていたセリスが、イシュタルに代わって返事をする。ユリアとシャナンは同時にセリスのほうに顔を向けた。
 彼の説明によると、今から半月ほど前、ユングヴィ公爵夫妻がグランベルの王であるセリスから婚姻の承認を受けるために、バーハラへとやってきた。貴族の結婚には王の承認が必要となる。しかし、セリスが王位を継いでからは、ほとんど形式的なこととなっているため、むしろ報告が目的と言ってもいい。
 その時すでに、連日の暑さ及び煩雑な宮廷祭事から避難するために、離宮への一時的な移動を計画していたセリスはこれ幸いとばかり、一月の期限付きでイシュタルを特別秘書官として任命した。
「せっかく避暑に行くのだから、暑苦しい執務管の顔なんかより、見目麗しい美女を眺めていたほうが楽しいに決まっているだろう?」と、セリスが言ったとか言わないとか…。
 ともかく、この離宮において、セリスへの連絡は全てイシュタルを通して行われている。

「彼女はとても優秀な文官だよ。今ではイシュタルがいなくては、ここでの政務はとても立ち行かない」
「そのようなことはございません」
 控えめに言うイシュタルの姿からは、かつての雷神の面影は感じられない。聖戦と呼ばれる先の戦いで大切な人を失い、心に深い傷を負った彼女が、このように穏やかな表情を見せる時が来るとは、正直シャナンは思っていなかった。

「しかし、愛妻家で有名なユングヴィ公が、よく承知したな」
「ファバルかい? 彼は本当にかわいいね。イシュタルを置いていくように言った時の彼の顔、シャナンにも見せてあげたかったよ」
 無邪気という言葉がこれほど相応しい笑顔もないだろう…と誰もが思ってしまう微笑を浮かべセリスが答える。しかし、その表情と言葉の中身の落差に、シャナンは声を失っていた。そんなことにはおかまいなしに、セリスは説明を続けている。
「私が、イシュタルに目を付けたと思ったらしい。イシュタルが彼をなだめてくれなかったら、グランベルは公家を一つ失っていたかもしれないね」
 どこまでもさわやかな笑顔で、物騒なことを口走る聖王セリス。隣ではイシュタルが困ったように目を伏せる。彼女にも主君の性格がだいぶ把握できてきたらしい。

「それで、ちゃんとユングヴィ公の誤解は解いたんだろうな」
「いや。面白いからそのままにしといたよ」
 あの純粋そうな青年が、どんな思いで日々を送っているのかと思うと、シャナンは深い同情を禁じえなかった。

「ユングヴィが反乱を起こす前に、ちゃんと公妃を国に帰すんだぞ…」
 年下の義理の兄に向かって、イザーク国王は密かにため息をついた。


 その後、イシュタルに案内され、シャナンとユリアは用意された客間へと通された。バルコニーから湖の素晴らしい景観が見下ろせるその部屋は、おそらく最上級の貴賓室なのだろう。備えられた家具や調度品の質の高さからも、それはうかがえる。
 いくつかの説明を終えたイシュタルが退出しようとした時、シャナンは小声で彼女に話し掛けた。

「その…すまなかった。なるべく早く国に帰れるよう、私からもセリスに助言しよう」
「え?」
 イシュタルはその言葉の意味がわからなかったらしく、一瞬怪訝な表情を見せる。が、やがて思い至ったように、ああ…と頷いた。

「あれは、陛下の冗談です」
 そう言って、くすりと口許で笑う。しかしその後に、うって変わって神妙な面持ちを見せた。
「実は……ユリウス様とアルヴィス皇帝の廟がこちらにあるのです」
 思わぬ言葉に、シャナンは息を呑んだ。その言葉を聞きつけたユリアも、彼の隣で同じ表情を見せる。二人に向かって、イシュタルは淡々と言葉を続けていった。
「もちろん公にはされていないことですが…。おそらくセリス陛下は、わたしがユリウス様とお別れする時間を作って下さったのでしょう」
 そして、独り言のように付け加える。
「ファバルも…夫も、それをわかっていたから、わたしに気を遣って先に帰国してくれたのです」

 一瞬の静寂が襲う。言葉無く立ち尽くす二人に向かって、イシュタルは静かに微笑んで見せた。

「申し訳ございません。余計なことを申し上げました。それでは、わたしはこれで失礼致しますが、御用がありましたら、いつでもお呼び下さい」
 退室の礼をとりイシュタルが部屋を後にする。シャナンが思わず隣の妻を振り返ると、ユリアはどこか遠くを見ているかのように視線を漂わせていた。

「兄上と父上のお墓が…」
「おまえは知らなかったのか? ユリア」
「はい…」
 ユリアは再び黙り込んでしまう。彼女の心の中でどんな葛藤が行われているか、シャナンにもわかるような気がした。

「セリスは、おまえが辛いことを思い出したりしないようにと気遣っているのだろう。後で、イシュタル殿に場所を聞いてみよう。そして、二人で一緒に花を手向けに行こう」
「よろしいのですか、シャナン様」
 ユリアは驚いたようにシャナンの顔を見上げた。
 二十年近くに渡り、ユグドラルに暗黒\の時代をもたらした元凶とも言える父と兄。自分には優しかった人々でも、シャナンにとってはどんなに憎んでも足りない存在であるに違いない。それは、あの戦いを通して知ったさまざまなことから推し量ることができる。
 それでも、シャナンは共に花を手向けようと言ってくれた。彼の気持ちを思うと、胸が熱くなるような気がする。おそらく、自分からは決して言い出せなかっただろうから。
「ありがとうございます、シャナン様」
 ほんの少し潤んだ瞳で見上げる妻を、シャナンは愛おしげに見つめていた。



[103 楼] | Posted:2004-05-22 17:10| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


 
裸足の王妃


--------------------------------------------------------------------------------


 

-3-




 次の日から、離宮の賓客となったイザーク国王夫妻は、国元ではとても考えられないような、ゆったりとした時間を手に入れることができた。
 今回の来訪は、シャナン達にとってはもちろん、セリスにとっても思いがけない喜びであった。幼い頃から本当の兄のように慕っているシャナンと、誰よりもその幸せを願う大切な妹。この二人との再会は、重い責務に追われる無味乾燥な日々に涼風をもたらしてくれたような気がする。
 だから、政務は緊急を要する必要最小限なものだけに留め、極力彼らと共に過ごすよう努めていた。



   ユリアと共にいる時のセリスは、とても幸福そうにシャナンの目に映った。まだ兄妹であると知らなかった頃、セリスがユリアを一人の女性として愛していたことをシャナンも知っている。そして、その思いがセリスの中でまだ完全には消えていないことも…。
 自分はイザークに戻れば、いつでもユリアと一緒にいることができる。だが、セリスにとっては、ユリアと共に過ごせる数少ない機会なのだ。そう思うと、無意識のうちに遠慮してしまう。
 だから、今日もセリスから一緒に舟に乗\らないかと誘われたのだが、つい断ってしまったのだ。



   ―――ユリアも…幸せそうだ……

 遠目に妻の姿を見ながら、シャナンは思った。
 今、ユリアはセリスと二人で舟遊びを楽しんでいる。湖に浮かぶ、美しい装丁を施された船の上に、二人の姿が垣間見えた。岸辺の白樺の林を散策しながら、シャナンはふと足を止め、船のほうに視線を送る。
 寄り添ったセリスとユリアは、船べりから湖面を眺め、なにやら楽しそうに話をしている。その仲睦まじい様子を見ているうちに、ふいに懐かしい人たちの面影がシャナンの脳裏に浮かんできた。
 この夏の空のような髪を持った聖騎士と、緩やかに波打つ銀の髪の神秘的な巫女姫。セリスの両親でもある彼らは、まるで前世から結ばれることが定められていたような、そんな恋人同士だった。
 記憶の中の二人の姿が、目の前のセリスとユリアの姿に重なってゆく。そのとたん、なぜか急に胸の中が重くなったような気がした。

 ここ数日のユリアの変化に、シャナンは気づいていた。離宮に来てからのユリアは、まるで以前の彼女に戻ってしまったかのように大人しい。特に、セリスが一緒にいる時の彼女は、楚々とした微笑を口許だけに浮かべ、決して声を荒らげたり無理を言い張ったりしない。穏やかな表情で、控えめな相槌を打ち、絶えずセリスを見つめ微笑んでいる。

 ―――セリスの前では本来の自分に戻るのだろう…

 もし血の繋がった兄妹でなかったら、二人は間違いなく結ばれていたはずだ。セリスをあきらめざるを得なかったユリアの側に、たまたま自分がいただけのこと。おそらくユリアにとっては、それが誰でもたいした違いはなかったのではないだろうか…。
 それは、シャナンが心の奥底で、密かに抱き続けている思いだった。

 それでもよかった。たとえユリアの心がどこにあろうとも、彼女が自分の側で微笑んでいてくれたら。そして、彼女の幸福を自分の手で守ることができたら、それだけで充分だった。だが――

 ―――イザークに来て、ユリアは本当に幸せだったのだろうか

 自分に嫁いでから、ユリアは感情を素直に表現するようになった。以前は、自分の意見を述べることすらめったになかった彼女が、はっきりと考えを主張し、時には怒り、時には泣き、必要とあらば実力行使に訴えさえする。
 そんなユリアをむしろ微笑ましく思っていたのだが、本人の気持ちはどうだったのだろう。兄の元を離れた寂しさに、慣れない環境が拍車をかけて、思うようにならない苛立ちがあのような形となって表れていただけなのではないだろうか。
 セリスに向かって穏やかに微笑むユリアの表情を見ていると、そんな疑問が拭いきれなくなっていく。

 ―――私では、ユリアを幸せにすることはできないのかもしれない…

 日が経つにつれ、そんな思いが次第にシャナンの胸の中に、少しずつ積もっていった。


 離宮での日々は、夢のように過ぎていく。
 やがて二人は、バーハラで過ごす最後の夜を迎えた。ユリアはバルコニーに立ち、湖面に映る星のきらめきを眺めている。

「楽しい時は早く過ぎるものですね。もう、明日にはここを発たなくてはならないなんて…」
 名残惜しそうに、そんなことを口にする。シャナンは、静かにユリアの隣に立つと、彼女の横顔を見つめた。
 これから自分が告げようとしている言葉を考えると、胸が痛む。彼女を失うことに、自分は本当に耐えられるのだろうか。

「シャナン様、どうかなさいました? お顔の色が優れないようですけれど」
 ユリアが、小首をかしげてシャナンの顔を見上げてくる。この愛らしいしぐさも、もう見られなくなるのかもしれない…。そう思うと、つい決心が鈍る。それでも心を決め、シャナンは妻に向かって用意した言葉を伝えようとした。

「ユリア。もし、おまえがそう望むのなら、このままバーハラに残るがいい」
「え…っ?」
「私に遠慮することはない。おまえは自分の幸せを求める権利がある」

 ユリアの顔から表情が消える――。
 ユリアは答えなかった。何も言わず、ただじっとシャナンの顔を見つめていた。
 長い沈黙が続いた。
 もしかして、自分は何かとんでもない間違いをしでかしたのではないだろうか…。シャナンがそんな不安にかられた時、ふいにユリアが表情を崩した。

「やっぱり…やっぱり、シャナン様はこんなわたしはお嫌いなのですね」
 そう言うと、両手で顔を覆って嗚咽をもらし始める。
「ユリア……」
 思いも寄らない彼女の反応にシャナンが手を差し伸べようとするが、一瞬早く身を翻し、ユリアはまっすぐ扉のほうへと走って行く。そして、そのまま部屋を飛び出していった。
「ユリア!」

 ずいぶんと長いこと、シャナンは茫然自失の状態でその場に立ち尽くしていた。彼女の反応は、シャナンが予想もしていなかったものだった。以前ならいざ知らず、今のユリアなら必ず理由を問い掛けてくると思ったのだ。そうしたら自分の正直な気持ちを伝えて、その上でユリアに選択の自由を与えよう。そう思っていた。

 まだ少々の混乱を抱え、やがてシャナンは開いたままの扉から廊下に出た。おそらくユリアはセリスの元へと向かったのだろう。そう思い、執務室へと足を向ける。
 扉の下からはまだ明かりがもれていた。昼間、ユリアと共に過ごす時間を作るため、セリスは毎夜遅くまでここに篭\っているのだ。そんなところからも、ユリアに対するセリスの深い思いがうかがえるような気がした。
 しかし、シャナンの予想に反し、そこにユリアはいなかった。扉を開けたシャナンの目に映ったのは、執務机の前に座るセリスと、書類の束を手にして立つイシュタルの姿だけだったのである。

「シャナン。いったいユリアに何を言ったんだい?」
 室内に足を踏み入れるなり、責めるようなセリスの声がシャナンに向けられた。
「たった今、ユリアがここに来た。もうイザークには帰れないって、泣きながらそう言って、飛び出して行ったよ」
 厳しい表情を崩さずに、セリスは続ける。
 それでは、やはりユリアはここに来たのだ。シャナンは思った。おそらく、イシュタルが側にいたから詳しいことを話すことができず、立ち去ってしまったのだろう。結局ユリアにとって、最後に頼るべき存在は自分ではなくセリスなのだ…。
 そんな、諦めにも似た思いを感じながら、静かにシャナンは口を開いた。

「バーハラに残るよう、ユリアに言ったのだ」
「そんな酷いことを言ったのかい? それじゃあ、ユリアが泣くのも無理はないよ」
 セリスが非難めいた視線を投げる。
「でも、何だってそんなことを? まさか、ユリアを嫌いになったなんて言うんじゃないだろうね」
 青い瞳が剣呑な色を帯びた。シャナンだからこそ、全てを信頼して最愛の妹を託したというのに。

「ユリアは、イザークでずっと無理をしているようだった。私に気を遣って、無理に明るく振る舞っていたのだろう。私はそんなユリアを見るに忍びない」
 シャナンはそれだけを語ると口を閉ざした。その表情を、セリスがじっと見つめている。やがてセリスは、その少ない言葉の中からも、ほぼ事情を察したようだった。
「そういうことか…」
 ひとつ小さくため息をつく。
「シャナンはたぶん、思い違いをしているよ。ユリアはね、元々そういう性格なんだ。イシュタルに聞いてみるといい」
 意外な言葉に、シャナンは顔を上げた。問い掛けるようにセリスを見て、次にイシュタルのほうへと視線を移す。それを受けるようにして、イシュタルがおもむろに語り始めた。


 
裸足の王妃


--------------------------------------------------------------------------------


 

-4-




「幼い頃のユリア皇女は、大変活発な姫君でした」
 イシュタルは口許をほころばせると、ふと昔を懐かしむような表情を見せた。
「魔道書を片手にユリウス様を追いかけるユリア様のお姿は、当時の宮廷では日常的に見うけられる光景でした。ユリウス様は大人しい御子様でしたから、元気な妹君によく泣かされていましたわ。泣きながらわたしのところへ逃げてくるユリウス様は、まるで子犬のように可愛らしくて…」
 話の軌道がずれかけていることに気づき、イシュタルは自主的に修正を図る。
「…つまり、ユリア様は本来、とても明るい方なのです。わたしは、イザークでのユリア様のお姿が本物とお見うけ致します」
 その内容の意外さに、シャナンはすぐには反応することができなかった。そんな彼の様子を見て、セリスがさらに補足を加える。
「わかったかい? 私や他の人達の前で見せるユリアは、無理をして作った姿なんだよ。だけど、シャナンの前では自分を飾る必要がなかったんだ。それだけシャナンには心を許していたんだと思うよ」



   ―――それではユリアは、本当の姿を私だけに見せてくれていたのだろうか…

 ようやくシャナンの胸に、その可能性が少しずつ浮かんでくる。

 ―――シャナン様、シャナン様

 夕日に赤く染まったイザークの平原で、自分に向かって手を振るユリアの姿が胸の中に蘇る。
 乾いた大地の上で、ひっそりと風にゆれる鈴蘭のように儚い姿。厳しい自然から、その白く可憐な花を守りたくて、風に当てないように、夜露に濡れることのないようにと、そんな心配ばかりしていた。

 ―――シャナン様。わたし、この国が、この土地が好きです

 イザークの王妃となるべくかの地にやって来た日。馬車から降りたユリアは、自ら踏を脱ぐと素足で大地に立ってそう言った。そしてひざを折り、足下の赤茶けた土を愛おしげにその手に掬う。白い手が汚れるのも気にせずに、自分に微笑みかけたユリア。
 あの時からユリアは、イザークの風土も環境もそこに生きる人々も全てを受け止め、共にこの国で生きようとしてくれていたのではないだろうか。ずっと側にいて、自分はそんなことにも気づかなかったのか…。

「セリス。ユリアは今どこにいる?」
「さあ……。シャナンのほうが、よくわかってるんじゃないのかい」
 それを聞いたシャナンは、まさに風のごとくその場から姿を消した。その後ろ姿を見送っていたセリスが苦笑する。
「やれやれ。全く手間のかかることだね。シャナンもいい年をして、恋愛沙汰はまるで苦手なんだから」
「そんな言い方をなさっては気の毒です、陛下」
 そうたしなめるイシュタルの口許にも苦笑が浮かんでいたことは、言うまでもない。


 ユリアは一人、夜の闇の中に膝を抱え座り込んでいた。
 執務室を出てさまよっているうちに、気づいたらここに来ていた。目の前には湖から水を引いた広い人工の池が見える。真円を描く池の中央には、大理石で出来た白い建物があった。ユリアの父と兄のなきがらがそこに眠っている。
 シャナンは約束通り、次の日にはユリアをここに連れてきてくれた。そして一緒に花を捧げ、共に彼らの冥福を祈ってくれた。あの時のシャナンの優しさを思い出すと、再び涙が込み上げてくる。
 今は夜のため、中央へと渡る小船は引き上げられていた。ユリアには、こうして岸辺から白い廟を見つめるしか出来ない。

 ―――わたしもお父様のところへ行きたい…

 そんな思いが胸に浮かぶ。シャナンの側にいられないのなら、自分がこの世に存在する意味などないような気がした。

「ユリア?」

 その時、ふいに耳慣れた声が聞こえた気がした。反射的に膝から顔を上げると、木陰から姿を現した長身の影が目に映る。月明かりの中、その人影が誰かわかった時、ユリアは叫んでいた。

「来ないで下さい!」
 その声の鋭さに、思わずシャナンの歩みが止まる。
「ユリア、私は……」
「シャナン様がディアドラお母様のことをお好きなのは知っていました」
 シャナンの声を遮るように、ユリアが語り始めた。
「お母様のようなしとやかな女性をお望みだったのでしょう。だから、記憶を失っていた頃のわたしを好きになって下さったのですよね…」
 ユリアはシャナンを真っ直ぐに見つめたまま、言葉を続けていく。
「記憶が戻って、徐々に本来の自分を取り戻していくにつれて、とても不安になりました。こんなわたしでは、いつかシャナン様に嫌われてしまうかもしれないって。でもシャナン様は、わたしがどんな過去を持っていても愛していると言って下さった。だから、本当の自分を知ってもらおうと思ったんです。一生を共に過ごす方を、騙すようなことは嫌ですもの」
 そこまで淡々と言葉を続けていたユリアの声が、ふいに崩れた。
「でも、こんなことになるなら、ずっと嘘をついて大人しいふりをしていればよかった。そうすれば、シャナン様のお側にいられたのに…」
 再びユリアは膝の上に顔を伏せ、肩を震わせはじめる。
 全てを失ってしまった。もうどうでもいい。そんな自暴自棄な考えが、今のユリアを支配している。
 いっそ、父が眠るこの池に身を投げてしまおうか。この季節でも、夜の水は冷たいのだろうか……。無意識のうちに、身体が水面に向かって傾いていく。その時――

 ふいにユリアは懐かしい温かさを感じた。背中から自分を包み込むように抱きしめる腕。それがシャナンのものだとわかった彼女は、振り解こうと身をよじる。だが、そんな抵抗はたやすく封じられてしまった。
 まだ肩を震わせたままの少女の耳元に、シャナンは静かに語りかけた。

「イザークに来て人が変わったように活発になったおまえを見た時は、正直言って驚いた。だが、少しも嫌いになどなれなかった。むしろ……ずっと愛しく感じられた」
「え……?」
「バーハラに残るように言ったのは、おまえがそれを望んでいるのではないかと思ったからだ」
「そんな! わたし、そんなこと一度だって…!」
「私の思い違いだった。許してほしい」
「シャナン様……」

 ユリアの口調が、戸惑いを含んだものに変化する。逃げ出す様子のないのを確認して、シャナンは腕を緩めた。まだ完全には解かれていない腕の中で、ユリアがゆっくりとシャナンのほうを振り返る。

「それでは……わたしはシャナン様と一緒にイザークに帰ってもよろしいのですか?」
「もちろんだ」
 そして、月明かりの下に浮かぶ、白く小さな顔を両手で包み込んだ。

「今度は、バーハラに帰りたいと言っても絶対に離さない」
 一瞬、泣き出しそうな顔をしたユリアは、しかし何も言わずに、ただ夫の胸に飛び込んだ。



 地平線へと続く広大な草原が周囲に広がっている。その彼方に沈み行く夕日が、世界を朱く染め上げていた。

「ああ、やっと帰って来ましたわね」
 その雄大な光景を眺めながら、ユリアは眩しそうに目を細めた。彼女の少し後を、シャナンはゆっくりと歩いていく。
 ワープの魔法により帰城した後、急にユリアが草原を歩きたいと言い出したのだ。供を付けるよう懇願する臣下達をなだめ、シャナンはユリアと二人きりでこの場所にやって来た。もっとも、バルムンクとナーガを持つこの二人に、いったいどんな危険があるのだろうと内心思っていた臣下も、少なくなかったかもしれないが。

「短い間とはいえ、自分の国を離れるのはやはり寂しいものですね、シャナン様」
 ユリアが振り返り、そんなことを言う。

 自分の国―――

 ごく自然に発せられたユリアのその一言が、シャナンの胸の中に静かに染み渡っていった。

「シャナン様、早くこちらにいらして」

 少し離れた場所から、ユリアがこちらに向かって大きく手を振っている。夕日の中で輝く、屈託のない笑顔。それはまぎれもなく自分だけに向けられたものなのだ。今のシャナンには、そう確信することができる。
 やがて彼は、手を振る妻のほうへと向かって歩き始めた。口許に、自然と笑みが浮かんでくるのがわかる。茜色に染まる空の下、シャナンは今ようやく手に入れた幸福を心の中でかみしめていた――。

<END>



[104 楼] | Posted:2004-05-22 17:11| 顶端
nakosm

头衔:全世界第三懒的人全世界第三懒的人
该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 17582
精华: 0
发帖: 2295
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2314 HHB
注册时间:2004-05-09
最后登陆:2018-08-12
朱红之钻(I)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


有谁可以翻译一下吗,看不懂…


nakosm历20年4月23日,后世将这一天称为“众神的玩笑之日”.
[105 楼] | Posted:2004-05-22 17:11| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


- 窓 -


--------------------------------------------------------------------------------




 ヨハルヴァは二階の窓からその光景を見下ろしていた。
 辺りには夕闇が迫りつつある。それでも見間違えるはずのない、彼にとって唯一の少女ラクチェ。ヨハルヴァの視線の下で、彼女は兄のスカサハとなにやら話をしていた。
 石造りの長椅子に並んで腰を下ろし、会話を交わしている二人。時折ラクチェの手がスカサハの肩を叩いたり、逆にスカサハがラクチェの頭を軽く小突いたり、そして時には耳打ちしたり互いに顔を寄せ合ったり…。
 遠目にもその親密な様子がうかがえる。
 それは、特に珍しい光景ではなかった。生まれた時から一緒だったというこの兄妹は、普段でも共に行動することが多い。兵種が同じ剣士ということもあり、戦場でも常に背中合せに戦っている。その姿は、まるで互いの命を預けあっているかのように、ヨハルヴァの目には映った。



 ラクチェが他のティルナノグの幼なじみ達とどれほど親しげにしていようと、ヨハルヴァは冷静に見ていることが出来た。だが、ただ一人、彼女の双子の兄のスカサハだけが例外だった。
 ラクチェとスカサハの間に存在する、目には見えない特別な絆。ふとした瞬間にそれを感じる時、ヨハルヴァは言いようのない焦燥感にかられる。たとえ一生をかけても、この二人の絆を超えることはできないのではないかと。
 それは、ラクチェの気持ちを確認し、彼女と愛し合うようになった今でも変ることはなかった。

 やがてラクチェは椅子から立ち上がり、スカサハに別れを告げてどこかに立ち去ったようだった。それと同時に、ヨハルヴァも窓から離れた。
 元来さっぱりした性格で、どうにもならないことを思い悩んだりはしないヨハルヴァだったが、さきほど目にした光景は、なかなか頭の中から消えてくれなかった。こういう時は体を動かすに限る。そう思い、斧を手にするため歩き出そうとした時、扉を叩く音が聞こえてきた。




「ヨハルヴァ、入るわよ」
 声と共に現れたのは、たった今彼の頭の中を占領していたラクチェ本人だった。
「あのね、これから外でリーンの踊りが披露されるんですって」
 ラクチェは中に入るなり、ヨハルヴァに向かって声をかける。
「セリス様が計画したらしいの。ここのところ連戦続きで、みんな疲れがたまっているから慰労のためにって」

 解放軍随一の舞姫リーンの踊りには、癒しの効果があるとも言われていた。天賦の舞の才を持つリーンは、状況に応じて様々な踊りを使い分ける。出陣前の戦勝祈願の儀式では、兵の士気を鼓舞するような勇壮な活気溢れる踊りを。そして、戦いが終わった後の夜宴では、疲れた兵達の心を静め癒すような安らぎに満ちた舞を舞うのだった。リーンの踊りの波動を受けると、精神的に疲れが癒されるだけではなく、実際に怪我の治りも早いと評判だった。セリスがこの時期にこういった場を設けるのも当然のことだろう。

「ヨハルヴァも見るでしょ? これから一緒に行かない?」
「ああ、それもいいが……」

 ヨハルヴァは、部屋の入り口に立っているラクチェのところまで歩いていった。そのまま彼女を通り越し扉の前に来ると、少し開いていたそれを閉じ、ついでに錠を下ろした。
 これから出かけようというのになぜ扉を閉めるのかと、不思議そうにラクチェが見上げる。ヨハルヴァは、その彼女の顎に手をかけ上向かせると、軽く口付けを落とした。全く予想していなかったラクチェは、あっさりと唇を奪われてしまう。思わず上目遣いにヨハルヴァを睨みつけるが、後の祭りだった。
 それにしても、キスするためにわざわざ鍵をかけるなんて、いつもは大胆なヨハルヴァらしくもなくずいぶん慎重なことだ…と、この時のラクチェは、まだ呑気に構えていた。だが、すぐに自分のそんな甘い考えを後悔することとなる。

「でも、俺はやっぱりラクチェのほうがいいな」
「え?」
 何事か企むような目つきでヨハルヴァが顔を覗き込んだ……と思った次の瞬間、ラクチェの両足は床から離れていた。そして気づいた時には、ヨハルヴァに軽々と抱き上げられたラクチェの身体は、寝台の上に横たえられていたのだった。








--------------------------------------------------------------------------------







 ひんやりとした風が、火照った身体に心地よく触れて通り過ぎていく。
 閉じていた目をうっすらと開けると、ヨハルヴァが窓を少し開けたところだった。同時に、遠くからかすかな楽の音が、風に乗\って流れ込んで来る。
 窓のほうを向いているヨハルヴァの、逞しい背中が目に入った。鍛えられた筋肉が無駄なく付いたその肩や腕を見ていると、知らず知らず頬が熱くなるのを感じる。ついさっきまで、自分はあの腕の中にいたのだ。

 逃げようと思えばできないことはなかった。というよりも、もし自分が本気で嫌がったら、ヨハルヴァは絶対にそれ以上何かしようとはしない。だから、要するに自分も「共犯」だったということなのだ。そう自覚し、ラクチェは恥ずかしくて消え入りたい気持ちになった。
 それが悔しくて、彼に背を向ける。うつぶせになったまま枕を抱きしめて、ヨハルヴァとは反対方向に視線を逸らした。

「…………きっともう、終わっちゃったわ。リーンの踊り、見たかったのに…」
 悔しさに照れ隠しも重なって、そんなことを呟いてみる。
「まだ間に合うだろ。今から行くか?」
 楽の音はまだ続いている。フィナーレまでにはもう少し間があるだろう。
 振り返ったヨハルヴァは、再び寝台に上がると向こうを向いたままのラクチェの髪をそっと撫でた。
 だが、ラクチェは頬を朱に染めて起き上がると、ヨハルヴァを睨みつけた。

「行けるわけないでしょう。どんな顔してみんなに会えっていうの!?」
「別に普通にしていればいいだろう。俺達がこんなことをしてたなんて、誰も知らないんだから」
 なだめるようにヨハルヴァがラクチェの髪にくちづける。余裕ありげなその態度が、なんとなくラクチェには気に入らない。

「でも、わたしは知ってるの! 恥ずかしいの!」
 こんな状況で出かけたりしたら、隣に並ぶヨハルヴァの顔を見るたびに少し前の自分達を思い出し、赤面すること必死だ。二人揃って遅れただけでもあやしいのに、そんな不自然な態度を、勘のいいパティやフィーが見逃すはずがない。

 頬を染めて憤慨するラクチェを、ヨハルヴァは愛おしげに見つめていた。
 さっき自分の腕の中で、陶然とした表情を見せていた彼女がふと脳裏に浮かぶ。自分だけが、あんなに無防備なラクチェの姿を目にすることを許されているのだ。そしてそれは、ラクチェが全てをさらけ出して委ねてもいいと思うほど、自分を信頼してくれているということ。
 そう思うと、ラクチェに寄り添うスカサハを目にした時に感じた嫉妬も焦燥も、どこかに消えていくような気がした。

 まだ怒りの収まらない様子のラクチェを、ヨハルヴァは頭ごと抱え込むように抱き寄せた。
「じゃあ、このままこうしていようぜ」
「……ヨハルヴァ!」
 抗議するラクチェには構わずに、ヨハルヴァの腕がすっぽりとラクチェを包み込んだ。向かい合わせにぴったりと身体が密着し、触れ合った肌の部分が熱くなる。でも、それは不思議なほどの心地よさと安心感をラクチェにもたらした。

 こういう行為を抵抗なく受け入れている自分というものが、ラクチェはまだなんとなく信じられないでいる。
 子供の頃から、男性全般に対する強い不信感を持っていた。今でも、スカサハ以外の男性に触れられるのは苦手だった。単に握手を求めるだけの手にも、無意識のうちに身構えてしまう。
 だが、ヨハルヴァに触れられるのは少しも嫌ではなかった。優しく温かなその手は、心地よくラクチェの心と身体を癒していく。

 やがて、かすかに聞こえていた音楽が止み、遠くに歓声が聞こえてきた。
 リーンの踊りの波動を受けるよりも、ヨハルヴァの腕の中で眠りにつくほうが、自分にとっては効果的なのかもしれない。
 そんなことを思いながら、ラクチェは自分を抱きしめる腕にそっと頬を寄せた。


<END>



[106 楼] | Posted:2004-05-22 17:12| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


花の指輪


--------------------------------------------------------------------------------



-1-



 その時、自室に向かって廊下を歩くレヴィンの表情は、かなり不機嫌な部類に入るものだった。
 理由は彼自身わかっている。ここに来る途中、女官の一人にかけられた言葉が原因なのだ。

 ―――侯爵家の姫君がお部屋でお待ちですよ

 その言葉を聞いた瞬間、レヴィンの胸の中に浮かんだのは「またか」という、うんざりした気持ちだった。
 シレジアの次代の王となるレヴィン。彼の妃の座を狙って、国中の貴族が伝手を頼り娘を送り込んでくる。それは、もはや珍しくもないことだった。特に、先ごろレヴィンが15歳の誕生日を迎えてからはその攻勢が激しくなり、顔も覚えられないほどの数の令嬢達がレヴィンの元を訪れている。
 最初の頃こそ、面白がって相手をしていたレヴィンだったが、すぐに彼女らの相手に厭いた。
 家の中で刺繍や編物などをしながら、じっと夫の帰りを待っているような女には、レヴィンはあまり興味を感じない。一生を共に過ごす相手なら、いつも自分の隣にあって、同じ空気を吸って、同じ景色を見て、同じ感動を共有して…。そんな相手を漠然と望んでいた。
 しかし、国中の貴族から送り込まれてくる花嫁候補は、そういったレヴィンの理想からは程遠い。彼女達は、美しい絹と宝石に彩られてはいたが、みんな人形のように生気に乏しかった。



 自室にたどり着いたレヴィンは、やや乱暴に扉を開けた。
 部屋の中に、真っ直ぐに背筋を伸ばした、華奢な子供が立っていた。扉の開く大きな音に、驚いたようにこちらを振り返る。その瞬間、肩の上あたりで短く切りそろえた新緑の髪が、さらりと音をたてたような気がした。
 それは、騎士服に身を包んだ、ほっそりとした小柄な少女だった。一見、少年のようにも見えるが、雪のように白く透き通った肌の中で、唯一鮮やかに紅い唇が、彼女が少年ではないと主張している。

 今まで送り込まれた姫君を片っ端から袖にしたから、今度は毛色の変ったのを送り込んできたのだろうか?
 そんなことを思いながら、レヴィンは目の前の少女に声をかけた。

「侯爵の娘というのは、おまえか?」
「はい。フュリーと申します。お目にかかれて光栄に存じます、レヴィン王子」
 少女は跪き、幼いながらも正式な臣下の礼をとった。
「ずいぶん小さく見えるけど、いくつなんだ?」
「先月、12歳になりました」
 それはまたずいぶんと若い花嫁候補だとレヴィンは思った。レヴィンが15歳だから、年齢差としては決しておかしくないが、すぐにでも王家との婚姻を結びたいと望んでいる貴族達は、王子と同い年か少し年上の娘を送り込んでくるのが常だった。

「おまえ一人なのか?」
 続けてレヴィンは問いかけた。今までは、彼女達は女官長に伴われてくることが多かったからだ。
「こちらには侍従長に案内していただきましたが、さきほど王子を探しに部屋を出ていかれました」

 ―――すれ違いになったというわけか

 だが、かえって都合がいいとレヴィンは思った。なぜなら彼は、こうして訪れた花嫁候補達に、いつもある「試験」を行うからだ。

「俺はこれから外へ行くんだけど、おまえも一緒に来ないか、フュリー」
「え? でも、侍従長が戻られるのを、お待ちしなくてもよろしいのですか?」
「いいんだよ。だって、おまえは俺に用があって来たんだろう?」
「それはそうですが……」
「さあ、行こうぜ」

 まだためらいを見せるフュリーの細い手首を掴むと、レヴィンはやや強引に彼女を部屋の外へと引っ張っていった。
 人気の少ない通路を選び、フュリーの手を引きながら、レヴィンは徐々に城の外へと向かって歩いて行く。衛兵の隙をついて城の裏手へと回り、やがて王宮を取り囲む高い城壁の一角へとたどり着いた。そこは、人目につきにくい、死角といってもいいような場所だった。一定の距離を置いて植えてある木々の、とある1本の前でレヴィンは立ち止まる。
 やがて木と城壁の間に座り込み、レヴィンはなにやら壁の一部を押したり引いたりし始めた。フュリーの目の前で、灰色のレンガが壁からいくつか抜き取られ、気が付くと城壁には小さな穴が開いていた。

「ここから外に出るんだ。おまえも付いてこいよ」
 それだけ言うと、レヴィンはさっさと穴をくぐって城の外へと姿を消した。
 「試験」を受ける花嫁候補のほとんどはここで脱落する。服が汚れるとか、そんなはしたないまねはできないとか、言葉に出して主張できるのはましなほうで、大抵は泣き出すか、途方にくれた表情で立ち尽くすかのどちらかだった。
 だが、フュリーはためらう様子も見せずに、その穴をくぐり抜けた。汚れた膝と手のひらを軽く払うと、次の指示を待つようにレヴィンの顔を見上げる。その碧色の瞳は、主人の命令を待つ忠実な子犬のようで、なんだか可愛いなとレヴィンは心の内で思う。

 それからレヴィンは、いつもの散策路を、目的地に向かって歩きはじめた。
 柵を乗\り越え、野原を横切り、小川を飛び越え、木立を抜け、レヴィンの後をフュリーはどこまでもどこまでも付いてくる。やがて、彼の秘密の隠れ家へと向かう、最終関門に差し掛かった。
 目の前の森と、自分達の足元の間に、小さな谷間が口を開いている。レヴィンはいつもあちら側に渡る時、蔦\に捕まって、振り子の要領で向こう岸に飛び移るのだった。その谷間はさほど深くはなく、また木の葉が大量に溜まっているので、万一落ちたとしても大きな怪我はしないだろうと思われた。とはいえ、やはり下を見下ろすと、それなりの恐怖心は込み上げてくる。
 さすがにこれは無理だろうとレヴィンは思った。しかし、フュリーはレヴィンの目の前で、あっさりとその難関を乗\り越えた。その優れた運\動能力には、さすがのレヴィンも舌を巻く思いだった。

「ここまで付いてこれたのは、おまえが初めてだ。だから、俺のとっておきの場所を見せてやるよ」
 レヴィンは再びフュリーの手を引いて、森の中へと入って行く。
 やがて、二人の目の前に開けた場所が見えてきた。周囲を木々に覆われた中に、びろうどの絨毯を敷き詰めたような、緑の空間が広がっている。小動物たちが、突然の訪問者に驚く様子も見せずにくつろぐ様は、まるで別世界が出現したようにも見えた。その幻想的な光景に、フュリーが小さく感嘆の声を上げる。上を見上げると丸く切り取られたような空が顔をのぞかせていた。そこから差し込む光が、森の中であるにも関わらず、周囲を明るく見せている。

「疲れたんじゃないか?」
 草の上に座ったレヴィンは、隣に腰を下ろしたフュリーに声をかけた。
「いいえ、とても楽しかったです」
 そう言って、フュリーが微笑んだ。それは、出会ってから初めて彼女が見せる笑顔だった。
 その顔を見たとたん、ふいにレヴィンの胸が音を立てる。心なしか、頬が熱い。そしてその不思議な胸のざわめきは、その後も収まる様子を見せなかった。
 気持ちを落ち着けようと、レヴィンは懐から愛用の笛を取り出した。唇に当てると、涼やかな音色が森の中に流れていく。フュリーはうっとりとしたような表情で、笛の音に耳を傾けていた。
 演奏が終わる頃には、この少女となら、これから先をずっと一緒に生きていくのも悪くないかもしれないとレヴィンは思うようになっていた。

 その少女フュリーが、花嫁候補などではなく、王子付きの騎士見習として王宮に上がったことをレヴィンが知ったのは、二人が城に戻ってからのことだった。



花の指輪


--------------------------------------------------------------------------------



-2-



 フュリーの一日は、王子を起こすことから始まる。寝起きが良いとはお世辞にもいえないレヴィンに向かって、枕元で辛抱強く声をかけるのだ。ようやく目を覚ました王子の洗顔から着替えまで、こまごまとした身の回りの世話も彼女の仕事の一つだった。
 午前中に行われる王子の勉学の時間には、彼のたっての希望でフュリーも一緒に授業を受けることとなる。そして午後、魔法の講義が終了してから晩餐までのわずかな時間―――それは王子にとって一日のうちで唯一自由に使える貴重な時間であるわけだが―――を、レヴィンは常にフュリーと共に過ごすようになった。

 お目付け役の監視をのがれ、城の外に抜け出すと、二人は初夏のシレジアの草原を思うさま走り回った。王子の行動範囲は広く、確かに館の中で大切に育てられた深窓の姫君では、とてもついて行けなかっただろう。しかし、ごく幼い頃から武術の基礎を教え込まれ、自らも鍛錬を怠らなかったフュリーにとっては、軽い散歩程度のものでしかない。

 フュリーは、今まで知らなかった様々なことをレヴィンから教わった。花の名前、鳥の名前、空の色や雲の形、風の音色の微妙な違いに至るまで、彼は何でも知っていた。花も木々も小鳥達も、王子には特別な言葉で語りかけてくるらしい。目に見えるものだけが全てではないのだと、王子はフュリーに教えてくれた。
 天気の変化にも、王子は非常に敏感だった。風の声が教えてくれるとレヴィンは言う。
「おまえには聞こえないのか? フュリー」
「はい……」
 そう答える時、自分がひどくつまらない人間のように思えて、フュリーはふと悲しくなった。
 でも、王子と一緒にいれば、いつかその声が自分にも聞こえるのではないかとそんな気がしてくる。




 その日の午後も、いつもと同じように二人は草原で一緒に時を過ごしていた。
 周囲には、姫雪草の小さく白い花弁が風に揺れている。その花の群れの中で、レヴィンが竪琴を奏でていた。フュリーはその正面に腰を下ろし、彼が奏でる調べに静かに耳を傾けている。弦の上を滑るしなやかな指の動きは、まるでそれ自体が魔法のように彼女の目には映った。
 武術も学問も同じ年頃の少女達の中では飛びぬけた成績を修めているフュリーだったが、唯一音楽を苦手としている。貴族のたしなみとしての修練は長年積んではいるのだが「正確ではあるが情緒がない」というのが、彼女を教えた教師達の一致した意見だった。
 フュリーは、ずっとその意味がわからなかった。しかし、王子が演奏してくれる笛や竪琴の音を耳にしていると、自分に足りなかったものがだんだんとわかってくるような気がする。王子は音楽を愛していた。そして、自分の心を調べに乗\せて訴えかけてくる。楽しい時は楽しいように、寂しい時は寂しいように。だからこそ、その音色は聞き手の胸にすんなりと染み入ってくるのだろう。

 やがて演奏が終わり、王子が顔を上げる。すっかり音楽に聞き入っていたフュリーは、あわてて真面目な表情を取り繕ったが、一瞬前の夢見るような表情はしっかりとレヴィンの目に焼きついていた。

「おまえは本当にかわいいな」
 じっとフュリーの顔を見つめていた王子が、ふいに表情をほころばせる。言葉の意味を理解したとたん、フュリーの顔が真っ赤に染まった。深い意味はないのだろうと思いながらも、思わず赤面してしまった自分が恥ずかしくて、顔を見られないよう彼女は下を向く。なかなか顔を上げられないでいたそんな時、さらに思いも寄らない言葉がかけられた。

「フュリー。…結婚してくれないかな」

 その瞬間、フュリーは恐ろしい勢いで顔を上げ、まじまじと目の前の王子の顔を見返した。そして、しばしの沈黙の後、ようやく一言だけ言葉を返す。
「…ど、どなたとでしょうか?」
「俺に決まってるだろう。他に誰がいるんだ」
 王子は呆れたように見返してきたが、すぐに気を取り直したように話し始めた。
「最初はおまえが、俺の花嫁候補として王宮に上がったんだと思っていたんだ。思い違いだとわかって、その時はすごくがっかりしたけど…。だけど考えてみれば、騎士が妃になったって何もおかしなことはないだろう? だから…」
 そう言ってから、王子はほんの少し不安そうに問い掛けてくる。
「ひょっとして、フュリーは俺が嫌いか?」
「いいえ! とんでもありません」
 首を激しく左右に振って否定するフュリーに、レヴィンはほっとしたような表情を浮かべる。
「よかった…」
 そして再び真剣な顔つきになると、まっすぐにフュリーの目を見つめた。
「じゃあ、改めて正式に申し込む。俺の妃になってくれないか? フュリー」
「は、はい」
 フュリーは反射的にそう答えてしまった。
 肯定の答が返ってきてほしい――そう祈っているかのようなレヴィンの表情を見ていたら、つい首を縦に振ってしまったのだ。もし、断ったりしたら、王子はどんなに悲しい顔をするだろう…。そう思ったら、とても否定の言葉など口にできなかった。

「本当か! じゃあ、たった今から、俺達は婚約者同士だな」
 全身から溢れる喜びを隠そうともせず、無邪気に王子は笑顔を見せた。フュリーはただ頷くことしかできない。そのうちに、王子は懐からなにやら取り出して、フュリーの前に差し出した。
「お祖母様が存命だった頃に頂いたんだ。いつか、俺の妻になる女性に贈るようにって言われた」
 フュリーの目の前で、皮製の小箱が開かれる。中には翠色に光る大粒の石で作られた指輪が納まっていた。
「おまえにやるよ。受け取ってくれるだろう?」
 その言葉に、フュリーは驚愕に瞳を見開いたまま、しばし硬直してしまった。やがて、ようやく我を取り戻すと、おずおずと口を開く。

「……そ、そのような大切なものを頂くわけには参りません」
「どうしてだ? ちょっと古めかしいかもしれないけど、ものは悪くないぞ」
 それはそうだろう。これだけ大粒の翡翠を、フュリーは今まで目にしたことがなかった。だからこそ、こんな高価な品をおいそれと受取るわけにはいかない。しかし、それを王子にどう伝えればいいのだろうか。彼にとってこの指輪は単なる約束の証であって、どのくらいの価格が付けられるのかといった俗っぽいことは関係ないのだろう。

「あの……わたしの指にはまだ少し大きすぎます。ちょうどよくなった頃、改めて頂きたいと思います」
「そうか。それもそうだな」
 苦し紛れのフュリーの言い訳を、王子は素直に受け入れた。フュリーの胸が小さな痛みを覚える。
「じゃあ、今はこれで我慢してくれるか?」
 レヴィンは、二人の周囲で揺れている姫雪草の群れを見渡した。その中から一輪を摘み取ると、フュリーのほっそりとした薬指に結ぶ。瞬く間に、小さな花の婚約指輪ができあがった。

「レヴィン様……」
 自分の指で可憐に揺れる白い花弁。それは、嘘偽りのない王子の心そのものに思えた。こんなに美しいものを目にしたのは初めてのようにフュリーには思えた。次第に彼女の胸に、熱いものが込み上げてくる。
「ありがとうございます。大切に致します」
 レヴィンの瞳を真っ直ぐに見つめながら、震える声でフュリーは言った。その小さな花の指輪は、彼女にとって世界中のどんな宝玉よりも価値のあるものだった。



[107 楼] | Posted:2004-05-22 17:12| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


花の指輪


--------------------------------------------------------------------------------



-3-



 フュリーの知らぬ間に、王宮では彼女が王子と婚約したという噂が流れていた。噂の発信元は、当の王子だったらしい。彼にとってそれは、隠す必要の全くないものだったからである。

 そんなある日、姉のマーニャがフュリーの私室を訪れた。若干17歳で四天馬騎士の一人に名を連ねている彼女だが、フュリーにとっては、いつも自分を気遣ってくれる優しい姉にすぎない。その彼女が、いつになく厳しい表情でフュリーに問い掛けてきた。

「レヴィン王子から求婚されたというのは本当なの? フュリー」
 やはりその話か――。フュリーはうつむいたまま、小さく頷いた。
「………はい…」
「それでは、そのお話をお受けしたというのも本当なのね」
「はい…。黙っていてすみません……」

 あまりにも悄然とした様子の妹を気の毒に思ったのだろう。とりあえずフュリーを長椅子に座らせると、マーニャは自分も隣に腰を下ろした。そして妹のほっそりした肩を抱きかかえるようにすると、笑みを浮かべてフュリーの顔を覗き込んだ。

「怒っているんじゃないのよ。あなたの本心が知りたいの。フュリーは本当にレヴィン王子のことをお好きなの?」

 ―――わたしごときが王子を好きだなんて畏れ多い…

 そう思ったフュリーは、一瞬返事が遅れた。マーニャはそれを、否定の意味に受け取った。昔から、大人しくて控えめで、自分の本心を隠してしまいがちな妹を、マーニャは人一倍気遣っていたのだ。

「フュリー。王家に仕える身だからといって、何でも言う事を聞かなければいけないということはないのよ。まして、結婚はあなたの一生に関わること。もし気が進まないのだったら、無理をする必要なんてないわ。どんなことをしても、私がお断りしてあげるから」
「で、でも……」

 無理なんてしていない。王子に求婚されて嬉しかった。もしも適うなら、このまま一生レヴィン様のお側にいたい…。
 そんな思いが、フュリーの頭の中でぐるぐると渦巻いていた。だが、それをそのまま言葉にすることが、フュリーにはできなかった。それは、あまりにも大それた、身の程知らずな高望みに思えたのだ。

「でも……王子の命に背いてはいけないと、わたしは教えられてきました」
 そんなことを言いたかったのではなかった。しかし、自分の行動をなんとか正当化したくて、もう少しだけ王子の婚約者でいたくて、ついフュリーはそんなことを口にしてしまった。



 その瞬間、何かがぶつかるような音がフュリーの耳に飛び込んできた。
 思わず顔を上げたフュリーの目に映ったのは、半分開いた扉の向こうで、呆然と立ち尽くす王子の姿だった。彼の足元には、いつも草原でフュリーのために奏でてくれていた竪琴が転がっている。先ほどの音は、これが床に落ちた音だったのだろう。

「命令だから……だから、おまえは俺と婚約したのか?」
 立ち尽くしたまま、王子は搾り出すような声でそう問い掛けてきた。

 ―――今の話を聞かれてしまった

 そう悟った瞬間、フュリーの表情が蒼ざめる。まるで全身に冷水を浴びせられたような思いがした。

「俺はフュリーが好きだった。誰よりも好きだった。だから結婚を申し込んだんだ。フュリーも俺を好きだから受けてくれたんだと思ってた…」

 王子が言葉を続けても、フュリーは硬直したまま身動きすることすらできない。

「……だけど、そうじゃなかったんだな」

 その瞬間、王子の頬を透明な雫が伝って落ちた。それは次々と王子の瞳から溢れ、彼の頬を濡らしていった。
 王子が臣下の前で、感情のままに涙を流すなど、本来ならあってはならないことだった。それどころか、人の上に立つものとしては、不適格者の烙印を押されかねない。
 しかし、フュリーにはそんなふうには思えなかった。いつでも自分の感情を、そのまま真っ直ぐに表現することのできる王子の心を、素直に美しいと思った。そして悲しかった。

 王子はどんな時も、心のままに正直に自分にぶつかってきてくれた。彼の言葉には、打算や駆け引きといったものは存在しない。
 なのに自分は、一度だって王子の気持ちに本心で応えたことがあっただろうか。いつも、立場とか身分とか義務とか責任とかそんなことばかり気にして、心からの声を彼に返したことがなかったように思う。自分のつまらない見栄で、誰よりも繊細で純粋な方の心を傷つけてしまった…。
 王子に応えなければ。そして自分の本当の気持ちを、この方に伝えなくては――。
 そう心は焦っても、唇はまるで凍りついたかのように動かなかい。

 やがて王子は、まだ涙の乾かない瞳でフュリーを見つめた。
「婚約は解消する」
 彼の口から、そう一言だけ告げられた。
 フュリーの胸の中で、小さな花の指輪が引きちぎられる音が聞こえた。


花の指輪


--------------------------------------------------------------------------------



-4-



 あれから、フュリーは王子の午後の外出の際に、同行を求められることがなくなった。他の側付きの騎士達と同じように、公的な立場で王子の身の回りの世話をすることしかできなかった。
 もうずいぶんと王子の笑顔を見ていない。ふとしたはずみに目が合うと、王子はさりげなく視線をそらしてしまう。交わす会話は必要最小限のものだけで、個人的に声をかけてもらうこともなくなった。それがこんなにも寂しく辛いことであると、フュリーは知らなかった。自分が失ったものの大きさを、今自分自身に思い知らされている。どんなに後悔しても、それは取り戻すことができないものだった。

 その夜は、一気に冬に突入してしまったかのような冷え込みだった。フュリーは部屋のバルコニーに面した扉をしっかりと閉め、寝台へと向かう。その時、かすかに戸を叩くような音を聞いて、もう一度バルコニーの方へと引き返した。二重になっている硝子の扉を開けると、外側の鎧戸を叩く音がはっきりと聞こえてくる。不審に思いながら鎧戸の隙間から外をうかがうと、そこには思いも寄らない人物が立っていた。フュリーはあわてて鍵をはずし、扉を開け放つ。

「……レヴィン様」
 目の前でかすかな笑みを浮かべている王子に、フュリーは驚きの目を見開いた。しかし、次に彼が発した言葉は、それ以上の衝撃をフュリーに与えた。



「俺は国を出ることにした」
 あまりにも突然の言葉に、フュリーは返す言葉を見つけられなかった。そんな彼女からふと視線をはずし、王子は淡々と言葉を続けていく。
「前から考えていたんだ。俺は王に向いていない。叔父上のほうが知識も経験も意欲も、ずっと多く持っている。なのに、俺のほうが血が濃いという理由で叔父上が王位に就けないなんて、気の毒だろ?」
「そんな……」
 現国王の弟であるダッカー公が王位に野心を抱いているという噂は、フュリーでさえ知っている事実だった。彼が王を助けて政務に意欲的に取り組んでいるのは確かに一面の真実ではあったが、フュリーにとってこの国の次の王はレヴィン以外に考えられない。王子のように穢れのない美しい心の持ち主にこそ、シレジアを導いていってほしかった。

「いけません、レヴィン様。お世継ぎである王子が国を出られるなんて…。国王陛下も王妃様も、どんなに悲しまれることか…」
 必死の面持ちで訴えるフュリーを、王子は静かな表情で見つめていた。それはすでに決意を定めた者の目だった。

「黙って行こうと思ったんだけど、どうしてもフュリーの顔が見たくなって」
 そう言うと、王子は少しだけ悲しそうな微笑を見せる。
「おまえと一緒にいると、本当に楽しかった…」
 レヴィンはフュリーの肩を軽く引き寄せると、頬にそっとくちづけた。
 すでに過去のことを語るような王子の口調に、フュリーの胸が締め付けられるように痛む。
「じゃあな」
 それだけ言うと、王子はバルコニーの手すりに足をかけ、そのまま下に飛び降りた。
「レヴィン様!」
 フュリーは思わず悲鳴をあげた。ここは2階ではあるが、通常の館でいえば3階に近い高さがある。蒼白になりながら恐る恐る下を見下ろすと、彼女の心配をよそに、王子はふわりと地面に着地していた。風の神に守られている彼にとって、このくらいの高さは何でもないのだ。

 ―――追いかけなければ

 フュリーはとっさに自分も飛び降りようとしたが、彼女にとっては怪我をする恐れのある高さだった。足を傷めては、後を追うことが出来ない。かといって、表から外に回っていたら、王子の姿を見失ってしまう…。
 瞬時にそう判断したフュリーは、バルコニーに枝を伸ばしている庭木に飛び移り、それを伝って下に降りた。夜着しか身にまとっていなかった彼女の手足は、木との摩擦でたちどころに擦り傷で覆われていく。室内履も、木を滑り降りた時に、どこかに飛んでいってしまったらしい。
 しかし、そんなことを今のフュリーは気にしていられなかった。肌を刺す夜気の冷たさも、足を傷つける小石のかけらも、まるで気づかないほど、ただひたすらに王子の後ろ姿だけを追って走り続けた。



「いい加減にしろ! フュリー」

 すでに何度目になるだろう。自分の後を付いてくるフュリーに、王子は大声を張り上げた。それでも彼女の足は止まることはない。
 靴を履いていないフュリーの足は、すでに血と土で赤黒\く染まっていた。それが視界の端に入り、レヴィンの胸が切り裂かれるように痛む。夜着しか纏っていない彼女の身体も、おそらく氷のように冷たくなっていることだろう。

「何度言ったらわかるんだ。付いてくるな。おまえは城へ帰れ!」
 たまりかねたように王子は振り返り、もう一度大きな声を上げた。一瞬だけ、フュリーの歩みが止まる。
「婚約も解消したから、おまえとはもう赤の他人だ。それに俺は王子の身分なんか捨てた。だから、おまえが騎士として俺の身を案じる必要もない。わかったら、さっさと城へ帰れ」
「そんなこと……関係ありません!」
 これまでずっと無言だったフュリーが、突然声を上げた。
 自分の前では常に従順で、決して反論したり声を荒らげたりすることのなかったフュリーの反駁に、レヴィンは驚きの表情を見せる。そんな彼に向かって、フュリーは必死の表情で言葉を続けた。
「レヴィン様が王子であろうとなかろうと、わたしはレヴィン様の騎士です。どんな時もお側にあってお守りすると、自分自身に誓ったのです。だから、絶対に離れません!」
 一息に言い切って、まっすぐに王子の目を見つめる。レヴィンは、それをどこか呆然とした様子で見返していた。
「俺が王子でなくても…? それでもおまえにとっては価値があるのか?」
「当たり前です」
「どうして?」
「それは………」

 ―――レヴィン様が好きだから、大切だから…。だから、お側にいたいのです

 喉元まで出掛かっていた。だが、どうしても言えなかった。
 身分が違うから?畏れ多いから?
 そうではない。自分はまだ、王子に相応しい人間ではない。自分の気持ちを伝えるだけの資格がない。そう思ったら、どうしてもその一言を口にすることが出来なかった。

 答を返せないフュリーをどう解釈したのか、レヴィンは少しだけ寂しそうな顔をした。
 そのままフュリーの元へ歩み寄ると、膝を折って座り込み、そして彼女に背中を向けた。

「乗\れよ。城までおぶっていってやる」
「そんな……とんでもありません」
「いいから乗\れ。命令だ。俺の命令には逆らっちゃいけないんだろう?」

 ――命令…という一言は、フュリーには確かにそれなりの効果はあったらしい。それに、その命に従えば、王子が城に帰ってくれるかもしれないという思いもあった。しばらくためらっていた彼女だったが、やがておずおずと王子の肩に手を延ばし、その背中に身体を預けた。即座に王子は立ち上がり、フュリーを背負ったまま歩いて来た方向へと足を向けた。


「もう大丈夫です、レヴィン様。自分で歩けますから、降ろして下さい」
 しばらく進んでから、フュリーは何度もそう声をかけた。しかし、返ってくる答は同じだった。
「けが人は大人しくしてろ。王子としての命令だ」
 そして、王子は城への道を黙々と歩き続ける。
 「命令」を連呼するのは、決して皮肉っているわけではなく、それがフュリーに言うことを聞かせられる唯一の手段だと、本気で思い込んでいるからなのだろう。そんなところにまで、王子の純粋な心が見えるような気がして、フュリーはなんだか泣きたいような気持ちになった。

「おまえ、軽いな。フュリー」
 歩きながら、王子がぽつりと呟いた。
「俺よりずっと小さいんだよな、おまえ。なのに、勝手に俺の気持ちを押し付けて……今まで無理させて本当に悪かったな」

 こんな自分を思いやってくれる王子の優しさと、人としての大きさと、なのに、こんなにも思いを寄せている王子に対して、本当の心を伝えることすらできない自分の情けなさと…。
 申し訳ない気持ちや切なさや、そんなもろもろの感情が一緒くたになって、とうとうフュリーは込み上げる涙を抑えることができなくなってしまった。必死で声を殺していても、フュリーの頬を伝った涙は、レヴィンの背中へ落ちて服に染み込んでいった。

「フュリー?」
 問い掛けるような王子の声。だが、それ以上は何も聞かず、しっかりとした足取りで城に向かって歩き続けていく。

 いつか王子に相応しい綺麗な心の人間になれたなら、その時こそ自分の本当の気持ちを伝えよう。
 その時まで、王子が自分を好きでいてくれる保証なんてないけれど。それどころか、もうすでに愛想をつかされてしまっているのかもしれないけれど。それでも、いつの日にかきっと――。

 王子の背の上で、彼のぬくもりを感じながら、フュリーは小さな心にそう誓ったのだった。


<END>



[108 楼] | Posted:2004-05-22 17:13| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


闇 の 宴


--------------------------------------------------------------------------------




-1-




 幼い頃から、絶対的な力というものに憧れている自分を自覚していた。
 だから、将来自分が仕えるべき皇子が、ただ善良で優しいだけの少年であると知った時、心のどこかで失望を感じていた。――もちろん、それを認めることなど許されてはいなかったが。
 そんな皇子に変化が訪れたのは、彼の母である皇后が、不幸な事故により世を去った時だった。



「イシュタル。これからは私が母上に代わって父上を支え、やがてはこの世界を導いていく。おまえも私に力を貸してくれるな?」
 自分をまっすぐに見つめ、力強い言葉で語る皇子を目にした時、イシュタルの心は喜びに打ち震えた。射抜くような強い視線も、何者をも恐れぬ堂々とした態度も、今までの彼には見られないものだった。

「もちろんです。ユリウス様」
 だから、イシュタルもまた力強くそう答えた。
 母の死という辛い経験が、皇子の眠っていた可能性を呼び覚ましたのだろう。そうイシュタルは解釈した。そんな彼に仕え、力となれることが、イシュタルにはこの上なく誇らしく思えた。
 思えばこの時が、イシュタルにとって最も幸福な時期だったのかもしれない。



 ユリウス皇子の目指す世界とは、いったいどんなものなのだろう……。
 イシュタルの胸に、かすかな疑問が芽生えたのは、彼が皇太子として立ってから一年もしない頃だった。
 国の宝であるはずの子供達を生贄として神に捧げるという行為は、イシュタルにはどうしても理解することができない。表向き、それを行っているのはロプト教団ということになっているが、皇帝はそれを黙認し、そしてそうさせているのはユリウス皇子だった。誰よりもユリウスに近い位置にいるイシュタルには、そのことがよくわかる。

 ―――本当に彼はあのユリウス皇子なのだろうか

 そんな疑惑が胸に生じるたび、イシュタルは強い意志でそれを抑え続けてきた。
 だが、そんな迷いも疑問も、皇子を前にすれば、春の日の淡雪のごとく消え去ってしまう。あの瞳に見つめられ、あの声を聞いていると、この方に従っていれば間違いはないのだと、そんな確信のようなものが胸の中に芽生えてくる。そして、この方の夢を実現させるため力を尽くそうと、新たな決意が湧きあがってくるのだった。
 その感情を何と呼ぶのか、イシュタルはまだ知らなかった。


「お呼びでしょうか、ユリウス様」
 その日、命を受けたイシュタルはユリウスの私室を訪れた。しかし、中に皇子の姿はない。あたりを見回すと、奥の部屋への扉がわずかに開いているのが見える。近づいて、そっと中をうかがうと、誰かが寝台の上に横たわっている姿が目に入った。

「ユリウス様!」
 その人影が誰かわかった瞬間、イシュタルは走り出していた。
「どうなさったのです! お加減でも…!?」
 寝台の側に駆け寄り、様子をうかがおうと、横たわった皇子の顔を覗き込む。
 その瞬間、強い力で腕を捕まれ引き寄せられた。
 そして気がついた時には、イシュタルはユリウスの身体の下に引き込まれていた。
 決して腕力に秀でているとは思えない彼のどこにこんな力があったのか…。そんなことに驚いているイシュタルに向かって、ユリウスは囁くような声で問い掛けた。

「イシュタルは私が嫌いか?」
 吐息が頬にかかるほどに近い距離で、血の色をした瞳がじっと見下ろしている。

「…いいえ。いいえ…ユリウス様……」
 そう答えるしかできなかった。
 何かが違う…そんな違和感を感じても、それを言葉にはできなかった。

 答に満足したかのように、ユリウスの細い指がイシュタルの胸元に伸びた。服を留めている銀の飾り釦をひとつずつはずしていく。
 この時すでに二人は、皇帝も認めている正式な婚約者同士だった。年齢的に言っても、このようなことがあってもおかしくはない。それに何より、皇子に求められたら臣下であるイシュタルに拒めるわけがない。
 だが、今イシュタルをこの場から動けなくしているのは、そんな「常識」ではなかった。体の底からじわじわと湧きあがってくる、得体の知れない恐怖感。それが彼女の身体を、見えない糸で縛りつけている。ユリウスの手がイシュタルの白い肌の上を滑っていっても、まるで蛇に睨まれた小鳥のように、彼女は指一本動かすことが出来なかった。


 ユリウスの身体が離れると、イシュタルは横になったまま彼に背を向け、両腕で自分の身体を抱きしめた。抑えようとしても、全身の震えを止めることができない。
 今、自分を抱いたものはいったい何なのか。見た目は間違いなくユリウス皇子である。しかし、明らかに違う存在であることを、イシュタルは肌で感じとっていた。それは、理屈では説明できない感覚だった。

「なるほど…多少は器の影響を受けるものらしい」
 歌うような口調でユリウスが言う。ほとんどうつぶせになっていたイシュタルの背中を、彼の指先が静かに辿っていく。

「こいつはずっとこうしたかったのだ。だが、いつも自分を抑え続けていた。おまえに嫌われたくない――ただ、その一心でな。愚かなことだと思わないか?」
 怯える心を抑え、ようやくの思いでイシュタルは振り返った。
「……ユリウス様、いったい何をおっしゃっているのですか?」
 シーツで身体を覆いながら、寝台の上にゆっくりと身を起こす。目の前で、ほぼ同じ高さになった赤い瞳が嘲笑っていた。

「気づかないふりをするつもりか? もうわかっているのだろう。私が以前のユリウスではないことを」
「まさか…そのような……」
「ああ、もっとも認めるわけにはいかないか。気づいていながら私に抱かれたのなら、それは帝国と婚約者に対する裏切りということになるからな」
「ユリウス様……」
 瞳を見開いたままのイシュタルを、面白そうにユリウスは見下ろしていた。しばしの沈黙が続く。イシュタルの瞳が迷いの色に揺れる。

「いいえ、ユリウス様。わたしには、ユリウス様が何をおっしゃっているのかわかりません」
 やがて、顔を上げ、真っ直ぐにユリウスの目を見つめ返してイシュタルは言った。ほんの少しだけ声が震えていたが、その口調にははっきりとした意志が感じられた。
「ユリウス様は、皇帝陛下の正当なる後継者。そして、この国と民とを導く、ただ一人のお方。それ以外の何者でもございません」
 イシュタルはきっぱりと言い切った。それを見て、ユリウスがうっすらと笑みを浮かべる。
「イシュタルは賢いのだな。私は賢い者が好きだ」
 彼の手が、イシュタルの華奢な顎を捉え、上向かせた。
「私はおまえが気に入った。側を離れることは許さない」
 そして、ずっとイシュタルを魅了して止まなかった妖しいまでに美しい微笑を見せた。

 隠れていた悪魔が、とうとう表に顔を出した――。そう、イシュタルは悟った。
 その悪魔に魅入られたように、彼女は視線をそらすことができなかった。


 その日以来、実質上の皇太子妃として扱われることとなったイシュタルは、当然のごとく皇子の寝室に召されるようになった。

「イシュタル……」
 耳元で囁く声に、ふとイシュタルの意識が遠くなる。

 どうして自分は逃げないのだろう…。
 なぜ彼を倒して本物のユリウス皇子を救おうとしないのだろう。

 現在のユリウスの持つ計り知れない魔力の強大さは、同じく優れた魔道士であるイシュタルには手にとるようにわかる。その力の前には、どんなに抗おうと逃れることは出来ない。彼の圧倒的な力は、イシュタルに畏怖の念を抱かせた。強いものに対する恐れと憧れ。それは、彼女の中で同等の重さを持っている。彼女を縛り付けているものは、決して恐怖だけではなかった。

 幼い頃からイシュタルは気づいていた。どんな時にも揺らぐことのない絶対的な力というものに、自分が密かに憧れていることを。それゆえに、その力を持たない以前のユリウスに、心惹かれるものを感じなかったことを。
 絶対的な力に支配され、その存在に己の運\命を委ねることは、陶酔感にも似たある種の喜びをイシュタルにもたらす。その甘い毒が、彼女を捉えて離さない。それを、イシュタル自身も心の奥底で感じとっていた。 
 あの優しく善良な笑顔には、親愛以上の気持ちをついに抱けなかった。なのに今、この赤い瞳の悪魔の囁きに、身も心も奪われている自分がいる。

 ―――自分が惹かれているのは間違いなくこの悪魔だ…。

 イシュタルがそのことを自覚するのに、そう時間はいらなかった。



闇 の 宴


--------------------------------------------------------------------------------




-2-




「愛しています…ユリウス様」
 イシュタルはぽつりと呟いた。
 彼女の視線の下で、ユリウスは無防備な寝顔を見せ横たわっている。強い印象を与える目が閉じられているせいか、その表情は年相応の少年のものにしか見えない。イシュタルは半身を起こしたまま、無心に眠りをむさぼる皇子の顔を静かに見下ろしていた。
 自分がいったいどちらのユリウスに対して今の言葉を囁いたのか、イシュタルははっきりと自覚している。そして同時に、その言葉が彼の心に届くことは決してないということも知っていた。


 彼の持つ強さは、他の何者をも信じず愛さないことからくる強さだ。どうして自分だけが例外になれるだろう。たとえ、自分がどんなに彼を愛しても、同じように愛される日が来ることは決してない。それでも…いや、だからこそ、自分は強く彼に惹かれていく。
 そんな救いのない思いを抱えながら、目を閉じたままのユリウスの顔を見つめた。
 もしもこの内側に、以前のままのユリウスが閉じ込められているのなら、いったいどんな思いで自分を見ていることだろう。彼の魂が見えない獄に囚われていることに気づいていながら救い出そうともせず、ただ悪魔の言いなりになっている自分を…。

「…お許し下さい……」
 涙が零れそうになって、思わず目を閉じた。まぶたの間から、ひとすじの雫が頬を伝って落ちていく。その時、ふいに懐かしい声が聞こえてきた。

「君のせいじゃないよ、イシュタル」
 ずっと昔、子供の頃に聞いた懐かしい声。再び目を見開くと、赤い二つの瞳がじっとイシュタルを見上げていた。


「僕のために悲しまないでくれ。自分を責めたりしないで、イシュタル」
 同じ色なのに、まるで違う印象を与える穏やかな瞳。

「ユリウス様…」
 懐かしさと後悔と罪悪感と…諸々の感情がイシュタルの中で交錯した。今この場で全てを投げ出して赦しを請いたい衝動にかられる。今なら、もう一度やり直すことができるのだろうか…。

 だが次の瞬間、目の前のユリウスの表情は一変した。唇の端が嘲笑の形をとり、瞳が氷のように冷たい光を放つ。

「そう言ってほしかったのか?」
 その一言が、イシュタルを絶望に陥れた。
「あいつは、すでに完全に私に融合した。おまえのユリウスはもういない。おまえに赦しを与える者は、もはやこの世からは完全に失われたのだ」
 声を発することすらできないイシュタルの顔を、起き上がったユリウスが楽しそうに覗き込む。その瞳に見つめられていると、一瞬前に感じた後悔も絶望も、陽炎のように儚く消えていく。
 ――絶望の底から湧きあがってくる密やかな歓喜。それが次第に自分の内側を覆っていくのを、イシュタルは感じていた。

「赦しなど…望んではおりません。わたしは、自分でこの道を選んだのですから」
「それでいい。おまえは、私にすがるしか生きる道はない」
 彼はそのままイシュタルの白い頬に手を伸ばし、そっと指を滑らせた。
「私の側にいろ、イシュタル…」
 ひどく優しげに悪魔は微笑んだ。


 その日から、イシュタルの心から迷いが消えた。
 皇子の内側に囚われているもう一人のユリウスの存在が、彼女を境界線のこちら側に繋ぎとめている唯一の糸だった。それが断ち切られた今、イシュタルの心が闇の力へと傾倒していくのを止めるものは何もない。

 たとえ、世界中が光に満ち溢れていたとしても、そこに彼がいなかったらいったい何の意味があるのだろう。

 ―――暗闇と絶望だけの世界でも、ユリウス様がいればわたしは生きてゆける

 自分が彼を愛するように愛されることはなくても、自分の力と命を彼に捧げることはできる。そして、それこそが自分にとっての本当の喜びなのだ。
 反乱軍が、イシュタルの故郷でもあるフリージを落とし、バーハラに向けて進軍を開始したとの報を受けた時、彼女はすでに心を決めていた。

「ユリウス様、わたしに出陣の命をお与え下さい。必ずや反乱軍の首魁を血祭りに上げてご覧に入れましょう」
 イシュタルは御前に進み出て奏上した。それが、彼女にとってユリウスに示すことのできる唯一の愛と忠誠\の形だった。
 だが、その瞬間、ユリウスの表情から突然笑みが消えた。
 これまで常にユリウスの顔に浮かんでいた、まるでこの世の全ての者の愚かさを嘲笑しているかのような余裕に満ちた表情が、一瞬にして消え去ったのだ。
 仮面のように冷たく表情の無い顔が、目の前に跪いたイシュタルの姿を見下ろしている。

「………私から、逃げたくなったのか」
「いいえ! そのようなことは決して」
 深く頭を垂れたままイシュタルが答える。その姿を、ユリウスは冷めた目で見つめていた。やがてふいにイシュタルから視線を逸らし、彼女に背を向ける。
「……おまえがそうしたいのなら、好きにするがいい」
 その声が、少し寂しげに聞こえたのはおそらく自分の錯覚なのだろう。そう思い、イシュタルが拝命の礼をとろうとした時、ふいにそれは聞こえてきた。

「死ぬな…」
「ユリウス様?」
「セリスの首を取ったら真っ直ぐに私のところに戻って来い。反逆者どもの屍の上で祝杯をあげよう。新しい世界は私とおまえの二人だけのものだ」
 はっとしたようにイシュタルの顔が上げられた。その瞳が、せつない色を帯びてユリウスを見つめる。しかし、背を向けたままの彼がそれに気づくことはなかった。
「……仰せのままに」
 それだけを口にすると、イシュタルは深々と頭を下げる。やがて立ち上がり身を翻すと、そのまま部屋を後にした。
 そして、二度とその場所に戻ることはなかった――。



「イシュタルが死んだか…」
 報告を携えた側近を下がらせると、ユリウスは淡々とした口調でつぶやいた。疲れた身体を投げ出すかのように玉座にもたれると、そのまま視線を宙に泳がせる。

 少しばかり気に入ったから側に置いておいただけの存在。イシュタルは数ある手駒の一つに過ぎないはずだった。
 なのに、まるで胸の中にぽっかりと穴が開いたような、この虚ろな気持ちは何なのだろう。
 銀の髪に縁取られた透き通るように白い頬。思いつめたようなまなざしで、いつも自分を見つめていた紫紺の瞳。触れたら壊れてしまいそうに儚げな彼女の表情が脳裏に浮かぶ。
 あの、しなやかな白い腕が自分を抱いてくれることはもうないのだ。しっとりとやわらかなあの声も、二度と聞くことはできない…。

「何だ、これは…」
 自分の目から零れた何かが頬を伝う違和感に、思わず手で目許を拭った。指に付いた透明な雫…。何か不思議なものでも見るように、ユリウスはぼんやりとそれを眺めていた。それが「涙」と呼ばれるものであることを知識としては知っていたが、なぜ自分の身にこのようなことが起こるのか、それはどうしてもわからなかった。
 いつしか、この世界を支配することも反乱軍の討伐も、もはやどうでもいいと感じている自分に気づいた。

「殿下。反乱軍が城下に迫っています」
 感情のない声で、黒\いローブを纏った司祭の一人が報告に現れる。それを一瞥すると、興味がなさそうにユリウスは再び視線を遠くに飛ばした。
「殿下?」
 反応しないユリウスを、少しだけ訝しそうに司祭が見上げる。それでも彼は、立ち上がろうとはしなかった。

 この戦いで、自分が敗れることはありえない。しかし、もしもいつの日か自分の身に死というものが訪れることがあったなら、もう一度彼女に逢うことができるのだろうか…。
 その時、彼の胸をよぎったのは、そんな理解しがたい感情だった。

 その不可解な思いを断ち切るように、ユリウスは目を閉じて軽く頭を振る。
 やがて彼は顔を上げ、そして、ゆっくりと玉座から立ち上がった――。



<END>



[109 楼] | Posted:2004-05-22 17:14| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
--------------------------------------------------------------------------------

「ティルナノグの子供達」の注意書き


--------------------------------------------------------------------------------




・このお話はコメディです。

・登場人物は、セリス、ラクチェ、デルムッド、スカサハ、ラナ、ユリア、レスターです。

・カップリングは、セリス&ユリア、デルムッド&ラクチェ、スカサハ&ラナ、レスター&フィーです。

・上記のカップルの内、セリス&ユリア以外は肉体関係ありの設定です。(描写はありません)

・セリスの性格が悪いです。

・「妊娠」「避妊」等の単語が登場します。

・中学生以下の方には、相応しくないと思われる内容が含まれます。



以上をご了承の上で、読んでもいいと判断された方はお入り下さいませm(_ _)m






戻 る


読んでみる




ティルナノグの子供達


--------------------------------------------------------------------------------




 それは、戦いの合間のひと時の休息だった。
 現在本拠地としている城の中庭に、数人の若い男女の姿が見える。最初は二、三人ずつに分かれていた彼らは、しだいに一箇所に集るようになり、やがて自然と奥のあずまやへ場所を移していった。
 それが、解放軍の若き盟主であるセリスと、その幼なじみ達であることは、この軍にいる者なら誰でも知っている。光の皇子と呼ばれ、反帝国の象徴として半ば神格化されているセリスにとって、旗揚げ以前から共に過ごした幼なじみ達は唯一心を許せる特別な存在であった。だから、彼らが共にいる時は、なるべく邪魔をしないように配慮するのが、解放軍の中では暗黙の了解となっている。

 あずまやに集った彼らは、思い思いの場所に腰を下ろしていた。とは言っても、誰がどこに座るかは、だいたいいつも決まっている。セリスを中心に、スカサハ、レスター、デルムッドが守るように両脇を固め、その合間にラクチェとラナが入り込むのが常だった。以前は、ラナかスカサハの隣がラクチェの指定席だったが、最近はごく自然にデルムッドと並んで座るラクチェの姿が見られるようになった。そして、今日はユリアも一緒だったので、セリスの右隣の席は当然のように彼女のために空けられている。

 以前の城主が贅を尽くして整えたのだろう。豪奢な薔薇が咲き乱れる美しい庭園を眺めながら、しばしとりとめもない会話が続く。この時だけは、誰もが全てを忘れてティルナノグにいた昔に戻っていた。
 それまで、にこやかに微笑みながら聞き役に回っていたセリスがふいに話題を振ったのは、会話がとぎれ一瞬の沈黙が場を覆った時だった。



「ところで、デルムッド、ラクチェ。君たち、ちゃんとしてるのかい?」
「は?」
 名前を呼ばれた二人は同時に振り向いた。声をかけられたのも唐突なら、話の内容も唐突である。そもそも目的語が抜けているので、セリスが何を聞きたいのかわからない。
「あの…何をですか? セリス様」
 やや警戒しながらデルムッドが問い掛けた。今までの経験から、彼の頭の中にはすでに危険信号が点滅している。

「何って、決まってるだろう。避妊だよ」
「「セ、セリス様っ!!」」
 涼しい顔でさらりと言ってのける盟主に、ラクチェとデルムッドは音声多重で叫んだ。首まで真っ赤になったラクチェとは対照的に、デルムッドの顔は少々蒼ざめている。
 そんな二人に向かって、セリスは神妙な面持ちで語りだした。

「解放軍にとって、ラクチェが欠かせない戦力だということは今や誰もが認める事実だろう? その彼女が、もし万が一妊娠なんてことになって戦列を離れるようになったら、我が軍にとっては大変な痛手だ」
 もっともらしく真面目な表情で語るセリスだが、本気でそんなことを心配しているかどうかあやしいものだった。むしろ、それをネタに二人をからかうのが目的であるのは、彼をよく知る者たちには容易に推察することができる。
 彫像のように固まってしまったデルムッドに対し、セリスはにっこりと微笑みかけた。
「愛し合うのは大いに結構だけど、そのへんはちゃんと気をつけているんだろうね? デルムッド」
 まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、身体がすくむのをデルムッドは感じていた。この場合、どう対応するのが一番無難だろうか。はいと答えてもいいえと答えても、ろくな結果にならない予感がする。冷たい汗がひとすじ、こめかみを伝って落ちた。
 そこに割り込んだのはラクチェだった。
「そういうことは、デルムッドよりもスカサハに言って下さい!セリス様」
 恋人の危機を野生の勘で察知した彼女は、自分の兄を避雷針に立てることを瞬時に決意した。こういう時、兄妹の絆はもろくも崩れ去る。

「スカサハってばこんな人畜無害の顔をして、手が早いったらないんですから。はっきり言って妊娠の確率なら、わたしよりもラナのほうが数倍も高いです!」
 あまりにもあけすけな物言いに、スカサハは反論も忘れ、ただ呆然と成り行きを見守ることしかできない。というよりも、セリスが絡んでいる場合、下手に口を出せば泥沼にはまるだけということを身をもって知っているのだ。
 案の定、余裕の笑みを浮かべたセリスは、面白そうな表情でラクチェを見下ろした。

「そうだねえ。ラナももちろん貴重な存在であるのは確かだけど、彼女の場合は直接戦場に出なくても、後方で負傷した兵の治療にあたることで充分役にたつことができる。だから、最悪の事態になっても、ラクチェよりはダメージが少ないんだよ」
 本来めでたいことであるはずの懐妊を「最悪の事態」と評され、スカサハが複雑な顔をする。ラナが自分の子を身篭\る可能性について、彼も考えたことがないわけではない。しかし、もしそうなったら戦争中だろうとなんだろうと、自分は手放しで喜ぶような気がするのだ。
 同じく当事者であるはずのラナは、彼の隣で相変わらずおっとりとした表情を見せている。その微笑は、ある意味セリスよりも怖いかもしれない…。

 一方、戦場でしか役に立たないと言われたも同然のラクチェは、燃え上がる内心の怒りをとりあえず抑えた。兄を避雷針にする作戦が失敗した以上、新しい生贄を探さなければならない。その切り換えの速さは、さすがに場数を踏んだ歴戦の剣士ならではと言えるだろう。

「そんなことおっしゃいますけど、セリス様。ご自身はどうなんですか。ユリアは後方支援だけじゃなく、攻撃においても重要な存在になりつつあるんですよ。一番気をつけなくてはいけないのは、セリス様ではないんですか」
 記憶を失ったまま解放軍に身を寄せた銀の髪の少女ユリア。彼女とセリスは出会ったその時からお互いに惹かれあい、以来片時も離れず一緒にいる姿が常に目撃されている。ユリアに対するセリスの熱愛ぶりを知らない者は、この軍に存在しないと言っていい。だから、ユリアに近づこうという命知らずな男は一人もいなかった。
 まして、万事においてぬかりのないセリスのことである。二人の関係がキス止まり…なんてことは、まさかありえないだろうとラクチェは踏んでいた。自分に矛先を向けられれば、この沈着冷静な指揮官殿も多少は焦るに違いない。
 だが、ラクチェの思惑は、あっさりと打ち砕かれることとなる。

「ああ、それなら心配はいらないよ。僕達は、まだ手も握らない清らかな関係だから」
 顔色ひとつ変えずにそう言って、セリスは傍らのユリアを振り返った。
「僕はユリアを大切にしたいんだ。だから、ユリアの心の準備ができるまで、いつまでも待つつもりだよ。ね? ユリア」
「セリス様ったら…」
 桜色に頬を染め、恥ずかしそうに目を伏せるユリア。そんな彼女を、愛しくて仕方がないというまなざしで見つめるセリス。突如そこに出現した異空間――その名を「二人だけの世界」と言う――に、その場にいた全員が思わず圧倒されそうになる。…ただ一人を除いて。

「わたしだって大切にされてますっ!」
 涙目になってラクチェが抗議する。自分とデルムッドの関係を、心を伴わない身体だけのものと断定されたような気がして、彼女はやや逆上ぎみだった。セリスの襟首を掴みかねないラクチェを、必死になってデルムッドが取り押さえる。
「やめろ、ラクチェ。相手が悪い」
 羽交い絞めにしたラクチェの耳に小声で囁くと、まるで糸が切れたようにがっくりと彼女の身体から力が抜けた。
 逆らっても無駄だということはわかっているのに、ラクチェだけは相変わらずセリスの挑発に乗\って、真っ正直に向かっていく。だから、いつも真っ先にターゲットにされるのだ。学習能力のない幼なじみ兼恋人の頭を、デルムッドはよしよしと撫でてやった。

 そして、唯一この騒ぎに巻き込まれずにすんだレスターは、終始冷静な表情を保ちながらも、この場に恋人のフィーがいなかった幸運\に、ほっと胸をなでおろすのだった。




「なんだかわからないけど、和やかな雰囲気だなあ。セリス様が、あんなに楽しそうに笑ってる」
 あずまやを遠くに眺め、解放軍の兵の一人が呟いた。彼は、セリス皇子と幼なじみ達があずまやに向かうのに気づいた時から、中庭の入り口で見張り番をしていたのだ。彼らの平和なひと時を、他の誰かに邪魔されることのないように。
 同じように番をしていたもう一人が、彼の言葉に答える。
「本当だな。きっと、気の置けない幼なじみ同士、昔話でもしているのだろう」
「せめて、このひと時くらい、心行くまで楽しんでいただきたいものだ」
「全くだ」
 二人の兵は顔を見合わせて頷いた。
 あずまやでどんな会話が交わされていたのか、彼らが知る日はこないだろう。




-END-





--------------------------------------------------------------------------------



<あとがき>
女性が貴重な戦力であるFE聖戦の世界においては、誰もが一度は考えるお話ではないかと。
解放戦争が1年で終わるという保証があれば、それまで我慢(笑)するかもしれませんが、いつ終わるともわからない戦い、そして明日をも知れぬ命。となれば、軍の中で事実婚が流行するのも当然かもしれません。実際、親世代はそうでしたものね。
セリスがラクチェを苛めているわけではなく、こういう形のコミュニケーションもあるよねというふうに受け止めていただければ(^^;)
なんのかんの言って、セリスが背負っているものの重さを一番よく知っているのは、ティルナノグで幼い頃から共に育った彼らなので、セリスのストレス発散になるのなら喜んで付き合おうと覚悟はしているのでした。結構愛されてます、セリス(どこが?^^;)



[110 楼] | Posted:2004-05-22 17:15| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


月 影


--------------------------------------------------------------------------------




 城壁へと続く階段をラクチェはゆっくりと上っていた。雲間から見え隠れする月の光だけが、かすかに足元を照らしている。
 やがて視界に入ってきた目的の場所に、見覚えのある後ろ姿を見つけて、ふとラクチェの足が止まった。夜の闇の中に、そこだけ鮮やかな金の髪が見える。

「デルムッド……」
 思わずその名を口にした。ラクチェの声が聞こえたのか、その人影が振り返る。一瞬だけ驚いたような表情を見せて、デルムッドは口許に笑みを浮かべた。

「おまえも眠れないのか? ラクチェ」
「うん、ちょっと…」
 ラクチェは再び足を進め、デルムッドの隣に立った。地上から吹き上げてくる風は、思ったよりも強くラクチェの髪を乱す。城壁の縁に手をかけて、デルムッドが見ていたのと同じ方角に視線を向けた。闇の中に輪郭だけ浮かび上がる険しい岩山。荒涼としたトラキアの大地が目の前に広がっている。



 今日の軍議で、トラキアに向けて進軍することが決定された。いつもと変らぬ冷静な声でそのことを告げたセリスだったが、その胸の内が穏やかではないことは、ラクチェにも察することができる。それは、彼女にとっても同じことだったからだ。

「この戦いは、今までとは違う…」
 ラクチェはぽつりと口にした。
 まるで独り言のようなその言葉を、デルムッドは前を見つめたまま黙って聞いている。
「たとえそのつもりがなくても、自分達は帝国と同じ立場になるかもしれない。それが、わたしはやっぱり怖い。トラキアの国民に侵略者とののしられて、憎しみの目を向けられて、それでも誇りを持って立っていられるのか…。正直言って自信がないの」
「そうだな…」
 デルムッドの瞳にも、一瞬暗い影がよぎる。だが、彼はすぐに静かな表情を取り戻した。おそらく彼も、同じ苦しみの果てに、すでに一つの答を導き出しているのだろう。
「だが、そのことで一番苦しんでいるのはセリス様だ。俺達が迷っていたら、セリス様をもっと苦しませることになる」
「うん…わかってる…」
 そう自分に言い聞かせるしかないのだと、ラクチェ自身も理解はしていた。だから、デルムッドの答が間違っているとは思わない。でも、自分はもっと違う言葉がほしかったのではないだろうか。心のどこかでそんな声がする。
 ふと、ラクチェは北の方角に目を向けた。そのずっと先には、半年前に自分達が後にした故郷がある。

「ずいぶん遠くまで来ちゃったわね。ティルナノグを発ったのは、昨日のことみたいに思えるのに」
「ああ。だけど、まだ終わりじゃない。これからも戦いはずっと続くんだ」
「そうね。むしろ、これからが本当に大変な戦いになるのね」

 会話を交わしながら、ラクチェの心が違和感を訴えている。こんなことを言いたいのではない。もっと違う言葉を語りたかった。そして語ってほしかった。だが、その言葉が見つからない。そして無言の時だけが流れていく。

「いつまでもここにいると身体を冷やすぞ。そろそろ部屋に戻ろう」
 やがて、デルムッドが沈黙を破った。
「え?」
 ラクチェは思わず顔を上げる。そんなことを言われるとは思ってもいなかった。まだ少しも言いたいことを伝えていない。もっとここで、デルムッドと話をしていたい。
 だが、デルムッドの言うことはもっともなことだと、頭の冷静な部分は判断している。さっきよりもだいぶ強くなった風が、二人の体温を奪っていく。

「……そうね」
 名残惜しそうな顔を見られないように、ラクチェはそっと横を向いた。でも、声に混じった寂しさは、隠すことができなかっただろう。
 本当はもう少しだけ、いや、このままいつまでもデルムッドの側にいたかった。胸の内に巣食うどうしようもない不安を、彼のぬくもりで消してほしかった。そして、その気持ちは彼も同じだと思っていたのに…。

 一度階段のほうに向かいかけて、デルムッドは振り返った。言葉とは裏腹に、その場を動く様子を見せないラクチェ。彼女の後ろ姿を、静かなまなざしで見つめる。
 ラクチェの視線は、いつも真っ直ぐに前だけを向いていた。自分の信じるものに向かって迷わず突き進むラクチェの姿は、デルムッドだけではなく、解放軍の多くの兵士達にとっても希望の光だった。
 だが、今目の前にあるラクチェの肩は、ひどく頼りなく震えている。こんなラクチェの姿を見るのは、初めてのような気がした。このままこの場所に彼女を置き去りにすることは、とてもデルムッドにはできなかった。

 再びラクチェの元に歩み寄り、気配を感じて振り向きかけた彼女の腰に腕を回して抱き寄せた。
 ふいに抱きすくめられて、ラクチェは思わず息を呑む。ずっと以前にお互いの気持ちは確かめ合っていたから、抱きしめられたこと自体に驚いたわけではない。何よりも彼の腕の暖かさが欲しいと思っていた時に、当然のようにそれが与えられたことが、なんだか信じられない思いがしたのだ。

「俺の部屋に来るか?」
 耳元で低く囁かれ、ラクチェは、はっとしたように顔を上げる。その瞳が、頭一つ高いところで自分を見つめる鳶色の瞳とぶつかった瞬間、彼女は自然と頷いていた。
「…うん」

 言葉はなくてもいいのかもしれない。そんなことをラクチェは思った。こうして寄り添っているだけで、伝わる思いというものもあるのだろう。
 並んで階段を下りながら、隣にある彼の横顔を見上げた。そっと差し出された手に指を絡めるだけで、胸の中が熱くなっていく。そして、いつの間にか満たされていた心に気づくのだった。




-END-



[111 楼] | Posted:2004-05-22 17:16| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


お茶の時間に


--------------------------------------------------------------------------------




 無意識のうちに、手が隣にあるはずのぬくもりを求めてさまよっていた。
 しかし、どうしても目的のものを探り当てられず、その違和感に気付いて目を覚ます。アグストリア王アレスの今朝の起床光景はこんなふうだった。

 起きてすぐに、いつもと少しばかり様子が違うことに気付く。寝台の周囲を覆う布地の隙間から差し込む朝日が、普段よりも明るく感じられた。部屋の温度も幾分高いような気がする。それらから推察するに、いつもより起床時間が遅かったらしい。
 だが、そんなことよりも、もっと決定的に違っていることがあった。それは、自分が目覚めた時に、愛する妻のナンナが側にいないことだった。



 アレスの従妹であり、最愛の妻であり、アグストリア王妃でもあるナンナ。彼女はどんなに夜が遅くても、朝は必ず同じ時間に目を覚ます。そして朝に弱い夫を起こさないようにそっと身支度を整え、彼が政務に間に合うように時間を見計らって起しにくるのだ。
 だから、結婚して5年以上経つというのに、アレスは自分の腕の中でまどろむ妻の顔を見たのは数えるほどしかなかった。

 そのナンナがこんな時間まで自分を起こしにこない理由は、アレスにも察しがついていた。昨夜は会議が紛糾したため、ようやく結論がまとまった後、いくつかの雑事を済ませてアレスが床についたのは、夜明け近かったのだ。その分、今日の昼までの政務は急遽臨時休業となった。おそらく疲れている自分をゆっくり休ませようと、ナンナは気遣ってくれているのだろう。



 このままナンナが起しに来るまで寝床の中で待っていようか……。一瞬そう思ったが、待つことが苦手な彼は数分も経たぬうちに、じっとしているのが苦痛になってしまった。この時間ならおそらくナンナは、幼い娘の相手をしているか、あるいは陳情に来た地方貴族への謁見を王に代わって行っているかのどちらかだろう。アレスは手早く身支度を整えると、迷わず妻の私室へと向かった。

 だが、ナンナの部屋には、思いも寄らぬ先客がいた。いつも通り、ノックもなしにいきなり扉を開けたアレスの耳に、二人の男女の声が飛び込んでくる。

「だめよ、お兄さま。ちゃんと感想を言ってくれなくちゃ、試食してもらった意味がないわ」
「ナンナの作るものはみんなおいしいよ。決ってるだろ」
「まあ、嬉しい。でも、もっと具体的に言ってもらえると参考になるんだけど」

 続いて聞こえてくる笑い声。はっきり言って、自分とナンナのそれより、よほど夫婦らしい微笑ましげな会話である。そんなことを思いながら中に足を踏み入れると、奥のテーブルで向かい合いながら談笑するナンナとデルムッドの姿が見えた。
 アレスの妻でありアグストリア王妃でもあるナンナと、彼女の兄であり、王の最も忠実な臣下でもあるデルムッド。この兄妹は、もはや彼にとって欠くことのできない宝だった。そして、アレスに子供じみた嫉妬心を抱かせるほど、いつも二人は仲むつまじい。
 幼い頃を別々の境遇で過ごさざるを得なかったナンナとデルムッドだが、出会ったその時から何の抵抗もなくお互いを兄妹として受け入れ、そしてそのままこれといった諍いもなく現在に至っている。違う環境で育った兄妹が十年以上の時を経て再会し、すぐに心を通わせるのはそう簡単なことではない。思い描いていた理想像を無意識のうちに相手に求め、その夢と現実との差に落胆したり、違和感を感じたりすることも多いはずだ。しかし、この二人はそういったことをほとんど経験せずにここまできている。非常にまれであり、幸せなケースと言えるだろう。
 それは、生まれ持った二人の性質の良さによるものか、それとも育った環境によるものか…。そんなことをふとアレスは思う。全てをそのまま受け止めることのできる真っ直ぐな心。それは自分にはどうしても持ち得ないものであり、だからこそ惹かれてやまないものだった。

「あいかわらず、仲のいいことだな」
 会話を続けている兄妹の背中に、アレスは声をかけた。振り返ったナンナとデルムッドは、突然の訪問者に驚く様子もなく笑顔を向ける。
「ようやくお目覚めですか? 陛下」
 おどけた口調でデルムッドが返す。彼もまた、アレスと同じく夕べは遅かったはずだが、すっかり身支度を整えてこの時間にこの場にいるということは、早起きはこの兄妹の血筋なのかもしれない。

「もっとゆっくり寝ていればよかったのに。今日はお昼まで政務はお休みでしょう? そう思って起こさなかったのよ」
「何もせずにじっとしているなど時間の無駄だ」
 妻の言葉にそっけない返事を返しながら、アレスは空いている椅子を引き、腰を下ろした。改めてテーブルの上を見ると、何種類もの焼き菓子の乗\った皿が、所狭しと並べられている。先ほど聞こえた会話から推察すると、これはナンナの手作りらしい。それではデルムッドのために、わざわざ早朝からこれだけのものを用意したということなのか?
 そう思ったら、なんとなく面白くないものを感じた。

「デルムッド。おまえの奥方は、妹のところに入り浸りの夫に、まだ愛想を尽かしていないのか?」
「入り浸りはひどいな。それにジャンヌは、そんなことを気にするような狭量な女性じゃないよ」
「ジャンヌはね、今、トリスタンのところにいるのよ」
 ナンナが、さりげなく兄に助け舟を出す。だが、アレスの返答は容赦なかった。
「ほう。とうとう奥方は三行半を突き付けて、実家に帰ったか」
 そんな言葉の追撃に、さすがのデルムッドも苦笑を浮かべる。代わって補足するのは、話題を振ってしまったナンナだ。
「違うわよ。もうじき、レイリアに赤ちゃんが生まれるでしょう。女手が足りないので、ジャンヌも手伝いに行っているの。初めての子供だから、館中が大騒ぎらしいわ。落ち着いているのは父親だけなんですって」
 それはアレスへの返答だったが、反応したのはデルムッドのほうだった。
「あの二人が結婚するって聞いた時は、とても信じられなかったけどな。顔を合わせれば、喧嘩ばかりしていたのに。でも、上手くいっているみたいでよかったよ」
「あら、あれは喧嘩なんかじゃないわよ。だってレイリアは、ずっと前からトリスタンに想いを寄せていたんだから。トリスタンは、あの通りだからまるで気づいていなかったみたいだけど」
「へえ、それは知らなかったな」

 ―――まるで女官同士のくだらない噂話だ。

 兄妹の息のあった会話を聞きながら、アレスは次第に理由のわからない苛立ちを覚えた。
 ナンナはいいのだ。王妃という立場にあっても女であることに変わりはないのだから。しかし、一国の宰相という地位にあり、王の右腕として政務の半分を担っているデルムッドが、朝っぱらからくだらない噂話に興じるとは何たるざまだ。
 そんな苛立ちを感じながら、思わず目の前の従弟にきつい視線を投げかける。
 その感情が、多分に仲のよい兄妹に対する嫉妬から生まれていることに、アレス自身はまるで気づいていなかったが。

「妬くなよ、アレス。そもそも俺は実験台なんだから」
 そんなアレスの視線に気付いたのか、デルムッドが笑いながらも牽制するように言う。身内だけの時、彼は家臣の仮面をはずし、年の近い従弟の顔に戻るのだ。



「実験台?」
「そう。これは、今度の王女の誕生日に焼くお菓子の試食会なんだよ。別にナンナが俺のためにわざわざ作ったわけじゃない」
 デルムッドはテーブルの上の菓子を指し示しながら、アレスの疑念を晴らすように説明した。
 そういえば、もうじき娘の3才の誕生日だった。デルムッドに言われて、アレスはようやくそのことを思い出した。
 本人には、当日までの秘密というわけだ。それであいつはここにいないのか…。いつも母親と一緒にいる娘のことを改めて思い浮かべた。
 ナンナは、めったなことでは王女を乳母に預けない。まだ幼い時に母と別れざるを得なかった彼女は、自分が受けることのできなかった愛情を、代わりに娘に注ぐかのように、多忙な公務の合間をぬって王女との時間を持つよう努めている。
 そんなナンナの気持ちはわかった。だが、やはりアレスには納得できない。
「それなら、何で俺に頼まないんだ、ナンナ」
 正直言ってアレスは、ほんの少しだけ傷ついていたのだ。もちろん彼のプライドは、そんなことを決して認めはしなかったが。
「え? だって、あなた甘いものだめじゃない」
 あっさりと一言で却下され、アレスは気持ちの持って行き場をなくし、ますます不機嫌な表情を見せる。

「じゃあ、おまえは菓子を作るたびにデルムッドに試食させてるのか」
「そんなことないわよ。これは特別なの」
 にっこりと微笑むと、ナンナは夫の顔を見つめて話し出した。
「子供の健康と成長を祈って、5歳までの誕生日に少なくとも一回は母親が自分の手で焼いたお菓子を食べさせる…。身分の上下を問わず、それがアグストリアでは伝統的な習慣なのですって。わたしも侍女達に聞いて知ったのだけど」
 それは、アレスにとっても初耳だった。彼にしても、ノディオンで過ごしたのは子供の頃のわずかな時期だけだったから、無理もないことではあったが。

「その時に思い出したの。レンスターでラケシスお母様が、わたしやリーフ様の誕生日にお菓子を作ってくれた時のこと」
「叔母上が?」
「そうよ。普段はお母様はあまりそういったことはなさらなくて、むしろお菓子作りはフィンのほうが得意だったみたいだけど。でも、誕生日だけは特別だからって、お母様が自ら作って下さったの。すごく嬉しかったから、よく覚えているわ」
 ナンナは懐かしそうな瞳で遠くを見るようなしぐさをする。幼かったナンナが大好きだったチョコレートを、ふんだんに使ったかわいらしいケーキ。本当の本音を言えば、いつもフィンが焼いてくれるお菓子のほうが、見た目はずっと綺麗に整っていたような気がする。でも、母が自分だけのために心を込めて作ってくれたそれは、今まで食べたどんなお菓子よりも美味しかったとナンナは思う。
「それからね、また別の時にお母様がお菓子を焼いて下さったことがあったの。わたしとお母様とリーフ様とフィン。テーブルに着いているのは四人なのに、お皿は五つ」
 ナンナは一旦言葉を切り、デルムッドのほうに視線を向けた。
「これは誰の分? って聞いたら、お母様は『イザークにいるナンナの兄様の分よ』…って」
「母上がそんなことを…」
「きっと、その日がお兄様の誕生日だったのね」

 しばしの沈黙が訪れた。三人とも、それぞれの思いに沈んでいる。
 やがてそれを破ったのはナンナだった。

「あ、ごめんなさい、アレス。今お茶を淹れるわね。それから食事を運\ばせましょう」
「いや、いらん」
「え?」
「俺もそれをもらう」
 あっけにとられているナンナとデルムッドをよそに、アレスは小皿を手元に引き寄せた。
 何種類も並んでいる菓子類の中から、比較的甘さの少なそうな胡桃入りのシフォンケーキを選ぶ。とはいっても、子供向けに作ったものだから、アレスの口には相当甘く感じられることだろう。
 だが、彼は黙々とそれを口に運\んでいる。

「アレス? 無理しなくていいのよ」
 彼の口から賛辞の言葉が出ることなど、最初からナンナは期待していない。それよりも、アレスが意地になっているのだとしたら、そちらのほうがよほど心配だ。
「無理などしていない」
 そっけなく答えて、無言でフォークを動かし続けるアレス。
 デルムッドだけが苦笑を浮かべてその光景を見守っていた。

 ―――あいかわらず素直じゃないな…

 彼の胸中を表すとしたら、こんなところだろうか。

 ナンナの手製の菓子を口にしているうちに、ある記憶がアレスの中に蘇りつつあった。
 アグストリアの動乱のおり、まだ幼かったアレスは戦禍を避け、母と共にレンスターに逃れていた。母の実家でもあるその館で、母と共に迎えた誕生日。
 ほとんど床に臥せっていることの多かった母が、その日は早朝から厨房に篭\り、何やら忙しそうに働いていた。やがて、差し出された小皿の上の一切れの菓子。あれも確か、胡桃入りのケーキだった。
 その時は、そんな意味があるとは知らなかったから、いつもは厳しい母が自分のためにわざわざ菓子を作ってくれたことが単純に嬉しくて、何度もおかわりをねだったような気がする。

 レンスター出身の母だったが、実家に戻ってからも嫁ぎ先の習慣を大切に守っていたのか…。
 エルトシャン王の妻として、身も心もアグストリア人になりきろうとした母の気持ちが伝わってくるような気がした。

 ―――アレス…いつか必ずノディオンをその手に取り戻して……

 死の直前まで、ノディオンの王妃であり続けようとした母。彼女が最期の瞬間まで、亡国の再興を幼い自分に託したのは、失った栄光を取り戻すためではなく、愛する夫との思い出の場所にもう一度帰りたかっただけなのではないだろうか。今ならアレスも素直にそう思うことができる。

 ずいぶんと久しぶりに思い出した母の笑顔。アレスがぼんやりとその思い出をたどっていた時、ふいに扉の付近が騒がしくなった。やがて、やや乱暴な音を立てて、こちら側に扉が開く。三人が振り返ると、そこには困ったような表情の女官と共に、金色の髪の小さな女の子が立っていた。
 その少女を見て、ナンナが小さく口を開く。それは、この部屋から遠ざけてあるはずの娘の姿だったのだ。

「申し訳ございません。王女殿下がどうしても、陛下のところへ行きたいと申されまして…」
 女官が言い終える間もなく、彼女の手を振り切って幼い王女が駆け出した。
「ちちうえ!」
 父譲りの豪奢な金の髪をなびかせながら、一直線にアレスの元へ走ってくる。顔を合わせることも少なく、ろくに構ってもくれない父親に、王女はなぜか一番よく懐いていた。
 足元にたどり着き、椅子をよじ登ろうとしている娘の服を、アレスは無造作に片手で掴んで自分のひざの上に引っ張り上げる。まるで子猫の首でも摘むようなぞんざいな扱いを、女官がはらはらしながら見守っていた。しかし、ナンナとデルムッドは、そんなアレスのやり方を見慣れているのか、はたまた諦めているのか、特に何も言う様子はない。

「おまえも食べるか?」
 アレスは、皿の上に残っているケーキを、ひとかけちぎって王女の口許に運\ぶ。
「アレス、だめよ」
 ナンナが止めるまもなく、そのかけらは王女の口の中に納まっていた。味をしめた王女に要求されるまま、アレスは次々と他の菓子もつまみ食いさせている。
「もう…。誕生日まで秘密にしておいて驚かせようと思っていたのに……」
 苦労を一瞬にして台無しにされたナンナがぼやく。それを軽く受け流して、アレスは娘のために新しい菓子の皿に手を伸ばした。
「また違うものを考えるんだな」
 あっさりと片付けられて、ナンナは大きなため息をついた。自分に製作可能なお菓子は、このテーブルの上にほとんど提出済みなのだ。今更違うものをと言われても、そう簡単にはいかないだろう。
 だが、そんなナンナの憂い顔は、次の瞬間には消え去っていた。
「ははうえ、おかわり」
 小さな両手に空の皿を握り締め、期待に満ちた瞳で王女が見上げている。小首を傾げたその表情を見ているだけで、愛しさがあふれてくる。

 母ラケシスも、こんな思いで自分を見つめていてくれたのだろうか。そんなふうに考えると、なんとなく胸の中に温かい気持ちが満ちていくような気がした。

 ―――ラケシスお母様のお菓子を思い出して作ってみようかしら

 そんなことを思いながら、娘のために新しい菓子を切り分ける。
 アグストリアの、平和なお茶のひと時だった。



-END-



[112 楼] | Posted:2004-05-22 17:17| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


宵に見る夢


--------------------------------------------------------------------------------




 その日の公務を早めに切り上げ、ヨハルヴァが私室に戻った時のことだった。扉の取っ手に手をかけようとしたとたん、部屋の中から何かが倒れるような音が聞こえてくる。あわてて中に飛び込んだヨハルヴァの目に映ったのは、床に倒れたまま身動きしない妻の姿だった。

「ラクチェ! 大丈夫か!?」
 瞬時に駆け寄り、うつ伏せに横たわっている彼女を抱き起こす。一見したところ外傷はないようだったが、苦しげに寄せられた眉、きつく閉じられたまぶた。そして、蒼白な顔の色。楽観できる状態でないのは明らかである。

 ラクチェは、二日前から体調を崩して臥せっていた。病気知らずの彼女が体の不調を訴えた時、最初にヨハルヴァの胸に浮かんだのは、毒を盛られたのではないかという疑念だった。
 このドズルの宮廷にいるのは、必ずしも現公爵夫妻を歓迎する者ばかりではない。その事実を、ヨハルヴァはよく承知している。ソファラの領主だった頃からヨハルヴァに付き従っている腹心の部下たちの働きで、未然に防がれた陰謀\も少なくないのだ。

 そんな背景もあって、ラクチェの不調を初めて聞いた時はヨハルヴァの不安も高まったが、信頼できる侍医の診\断によると、疲れからくる体力と抵抗力の低下ということだった。環境の変化による肉体と精神の疲労が蓄積した結果だろうと言う。
 それは、ヨハルヴァにも想像がつくことだった。一年を通して空気が乾いているイザークに比べれば、ドズルの夏は湿度が高い。慣れない土地での公妃としての責務が重圧となって、強靭なラクチェの神経にも影響を与えたらしい。同じ傅かれる立場でも、周囲が身内ばかりのようなイザークと、この間まで敵対していたドズルとでは、気の張りようも全く違ってくる。
 だから、静養中の妻の周囲には、ヨハルヴァも常に気を配っていた。それだけに、床に倒れ付すラクチェの姿を目にした時は、賊\徒の襲撃でもあったのかと全身に緊張が走ったのだ。



 そんなことが、ヨハルヴァの頭の中を瞬時に駆け巡る。心配そうに見下ろす彼の腕の中で、やがて最愛の妻はゆっくりと瞳を開けた。状況がよくわかっていないのか、まだはっきりとしない視線が宙をさまよう。

「怪我はないか? いったい何があったんだ」
 驚かせないように、なるべく静かな声で問い掛ける。ラクチェはまだぼうっとした目でヨハルヴァを見上げていたが、ふいにその唇から思いも寄らない言葉がもれた。

「お風呂に入る…」
「は?」
「汗をかいて気持ち悪いの」
「なんだって?」
「だから、身体を洗いたい…」
「…………おまえな…」
 安堵の気持ちが湧き上がると同時に、体からどっと力が抜ける。
 ようやくヨハルヴァにも事情が呑み込めてきた。要するに、入浴しようとして寝台から降りようとしたものの、病み上がりの体がついていかず、倒れてしまったということらしい。どうやら謀\略の類ではないと悟り、とりあえずは胸を撫で下ろす。と、同時に、この状態でそんなことを言い出すラクチェに、少しばかり呆れた視線を向けた。

「何言ってるんだ、まだ体が本調子じゃないんだろ。一人で起き上がれもしないのに、無理してよけい悪くなったらどうする」
「だって暑いし…」
「入浴は体力使うんだぜ。わかってんだろう」
「このままじゃ気持ち悪くて眠れないもの…」
「一晩くらいがまんしろ」
「いや! 行くったら行くの!」
 突如、ラクチェが身体を起こす。すぐにヨハルヴァの腕に阻まれたが、ラクチェはそれを振り払おうともがき始めた。体力の衰えている今のラクチェが、腕力では解放軍でも一、二を争っていたヨハルヴァに敵うわけがない。それでも、己の意志を通すべく、自分を拘束する腕を押し返そうと果敢に向かってくる。

「ああ、もう、わかった!」
 一度言い出したらきかないラクチェである。それはヨハルヴァもよく承知していた。何よりも、彼女の要求に結局自分は逆らえないのだということは身をもって知っている。ヨハルヴァはラクチェを抱き上げると、寝台の上にそっと横たえた。
「今、湯浴みの用意をさせるから、ここを動くんじゃないぞ。いいな?」
 城内には公家の人間専用の浴室があるが、そこまで往復していたら体力が奪われて、よけいに具合が悪くなるのは目に見えている。ヨハルヴァは続きになっている隣の部屋に、湯浴み用の風呂桶を運\び込ませた。指示を受けた侍女達の手によって、熱湯と水が交互に注ぎ込まれる。
 こういう人手と手間の掛かる贅沢をラクチェは好まなかったが、この際目を瞑ってもらうことにした。

 準備が整うと侍女達は下がらされ、部屋には再びヨハルヴァとラクチェの二人きりになった。入浴中という無防備な状態になるため、念には念を入れたということだが、たとえ侍女達とはいえ、自分以外の人間がラクチェの裸身を目にするのは気に入らないと心のどこかで思っているあたり、自分の独占欲も相当なものかもしれないとヨハルヴァも多少は自覚している。
 大人しく寝台の上で待っていたラクチェの夜着を脱がせると、静かに抱き上げて隣の部屋まで運\んだ。ちょうど一人が横たわれる大きさの風呂桶に、ラクチェの体がゆっくりと沈んでいく。

「熱くないか?」
「うん、ちょうどいい。ありがとう、ヨハルヴァ」
 ようやく見る事のできたラクチェの笑顔に、ヨハルヴァの心も軽くなる。
「じゃあ俺はそこにいるから、湯浴みが済んだら声かけろよ」
 そう言って、ついたての向こうに姿を消す。さっき倒れたこともあり、ラクチェを一人にするのは心配だったのだ。だからといって側に付きっきりで見られては、彼女もあまりいい気持ちがしないだろう。何かあったらすぐに駆けつけることのできる位置で待っているつもりだった。
 しかし、いくらもしないうちに、ヨハルヴァはすでに不安を感じ始めていた。さっきから少しも水音がしないのだ。しばらく耳を澄まして様子を窺っていたヨハルヴァだったが、あまりの静けさに気になって仕方がない。

「おい、ラクチェ、大丈夫か? 何かあったのか?」
 声をかけてみるが返事はない。ヨハルヴァの不安がますます高まっていく。
「ラクチェ!」
 ついたてを倒さんばかりに飛び出したヨハルヴァが見たのは、目を閉じたまま、風呂桶の縁にもたれかかっているラクチェの姿だった。陶器の風呂桶を背中が滑り、彼女の上半身は徐々に湯の中に沈みつつある。俯いた顔は、水に浸かる寸前だった。

「うわっ、ラクチェ、寝るな! 溺れるだろうがっ!!」
 大声に驚いたようにラクチェは顔を上げ、ぼんやりとした瞳で見上げてくる。
「だって…眠いんだもの…」
 それだけ言うと、彼女の頭は再び重力に引っ張られ下に傾いていく。
「風呂ん中で寝るんじゃねえっ!」
 必死で走り寄ったヨハルヴァは、ラクチェの腕を掴んで彼女の上半身を引きずり上げた。湯の上まで肩が出て、公妃が風呂で溺死という不名誉な事態はどうにか免れることができたらしい。
 だが、そのままにしておくと、彼女の身体は再び湯の中に沈んでしまうだろう。仕方なくヨハルヴァはラクチェの両腕の間に手を差し入れ、彼女が湯に沈まないように支えることにした。



 ―――まったく…

 ヨハルヴァの口許に苦笑が浮かぶ。こうして面倒をかけられるのが嬉しいような、少し複雑な気持ちだ。こんなことでもなければ、自分がラクチェの世話をやく機会などなかなか見つけられないだろう。
 ラクチェは、基本的に自分の世話を他人任せにしない。ティルナノグにいた頃も周囲からは王家の姫として扱われていた彼女だが、自分のことは自分でするという習慣は徹底して身についていた。どうやらそれは、オイフェの教育方針だったらしいと、以前聞いたことがある。

 ―――高貴な御方が身の回りのことをご自身でなさるなどもっての外です

 女官長が口をすっぱくしてそう言っても、聞く耳を持たない公妃だった。どちらかと言わずともヨハルヴァも同じような性格だったため、女官長の頭痛の種は増える一方である。そんなことを思い出しながらラクチェの様子を窺うと、支えてくれるヨハルヴァの腕に安心したのか、再び目を閉じてまどろむような表情を見せていた。
 室内の淡い灯りを映して揺らめく水の中に、ラクチェの白い肌が見え隠れする。

 ―――綺麗だ…

 思わず状況も忘れて、幻想的とも言えるその光景に見とれていた。形の良い胸も、細い腰も、すらりと伸びたしなやかな脚も、初めて見るものではないのに、どうしようもなく目が惹きつけられてしまう。

 女性兵士達の中にいても、ラクチェは決して大柄なほうではない。まして男性の中に混じると、時に痛ましいと思えるほど小柄で華奢な印象を受けた。

 ―――こんな細い腕で、小さな手で、剣を取り戦い続けてきたのか…

 どんな戦況にも恐れることなく常に先陣を切り開いていった戦乙女。だが、生身の彼女がこんなにも普通の一人の少女に過ぎないことを、いったいどれだけの人間が知っていることだろう。
 そんなふうに思ったら、腕の中の柔らかなぬくもりが愛しくてたまらなくなった。

 ラクチェは相変わらず半分眠ったような状態で、時折思い出したように手を動かして肩にお湯をかけている。だが、それもほとんど止まりがちだった。このままでは、いつになったら終わるのかわからない。そうしている間にも、少しずつ湯は冷めていってしまう。

「洗ってやろうか?」
 気が付いたらそんなことを口にしていた。
「え?」
「おまえが嫌じゃなければだけど。本当は手を動かすのも億劫なんだろう?」
「うん」
 見抜かれていたことに照れたような表情で、ラクチェが笑みを返す。
 ヨハルヴァは手のひらに掬った湯をラクチェの首すじから肩にかけ、沐浴用の布で丁寧に拭った。
 ゆったりと肌の上を滑っていく手に、ラクチェは時折くすぐったそうに身体を捩る。それでも大人しく身をゆだねていた。ヨハルヴァの手が触れるたびに目を細め、喉を撫でられた仔猫のように、幸せで蕩けそうな表情を見せる。

「ヨハルヴァの手は気持ち良い。優しくてあったかくて好き……」
「ラクチェ……」

 なんだか父親…いや、母親の気分になる。こんなふうに信頼を寄せられてしまっては、邪なことなど何もできなくなってしまう。このまま彼女を寝台に運\んで思いっきり抱きしめてくちづけしたい己の欲求をとりあえず抑え、ヨハルヴァは当面の仕事に専念する。
 やがて、乾いた布でラクチェの身体を包るんで寝台に横たえた頃には、彼女はすでに深い眠りに落ちていた。惜しい気持ちはあったが、再び夜着を着せて夏用の上掛けをかける。
 暑くて嫌がるかも…と思いながら、そうっとラクチェの身体を抱き寄せると、意外なことに自分から頬を寄せてきた。その口許には、見ているほうが幸せになってしまうような笑みが浮かんでいる。

 どんな夢を見ているのだろう。案外、子供に戻って父親の胸で眠っている夢かもしれない。時折ラクチェは、自分の腕の中で「父さま…」と呟くことがあるから。ラクチェが幸せならそれでいいんだが。
 愛しい妻の寝顔を見ながら、ヨハルヴァはそんなことを思う。

 ―――いい夢を見ろよ

 額にそっとくちづけを落とし、ヨハルヴァもやがて静かに目を閉じた。



- END -



[113 楼] | Posted:2004-05-22 17:17| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


楽園の向こう


--------------------------------------------------------------------------------



-1-




 城主ブルームのコノート撤退により、アルスターが解放されて十日余りが過ぎた。
 当初は、城の制圧に関わる諸々の作業に追われ、解放軍の兵士達は満足に休む時間も取れない者が多かった。街の治安維持に始まり、本陣の設営、物資の調達や補給、兵士達の宿舎の手配、捕虜の処遇取り決め、志願兵の受け入れと取り纏め、それに伴う部隊の再編成等々。そして、その間も警戒態勢は続けられ、偵察や情報収集が行なわれる。
 ここのところようやくそれらも一段落し、兵士達も少しは自分の時間を持てるようになってきたところだった。



 城内に設けられた食堂で、デルムッドはレスターと共に朝食をとっていた。いつもと同じ時間帯なのに、人の数はずいぶんと少ない。兵士達の大部分が、午前と午後に分けて自由時間を与えられたため、早めに朝食を済ませて街へ繰り出した者が多かったからだ。
 二人にしても、緊急にやらなければならない仕事はとりあえずは無い。この後の時間の使い方を、スープを口に運\びながらデルムッドはあれこれと考えていた。ここのところ忙しさにかまけて怠りがちだった鍛錬を行なうか、逆に今後に備えゆっくりと身体を休めるか、それとも一度街の様子を直接見ておいたほうがいいだろうか…。
 どちらにしろ、出かけるならレスターと行動を共にするつもりだったデルムッドは、目の前でパンをちぎっている親友に声をかけてみた。

「この後、偵察も兼ねて遠乗\りにでも行かないか。気晴らしにもなるし。ここのところ、ずっと城内に閉じこもりっぱなしだっただろう」
 だが、いつもならすぐに乗\ってくるレスターが、今日は少し困ったような笑みを浮かべる。
「ああ、悪い。今日はパティと先約があるんだ」
「パティ?」
 あまり聞きなれない名前に、デルムッドは自分の記憶を総動員する。その結果、イード砂漠を越える途中で合流した小柄な少女の姿を思い出した。後ろで編んだ柔らかな長い金の髪と、大きな空色の瞳が印象的だった。あんな女の子が一人でイード神殿に潜入したと聞いた時は、驚いたものだったが、そのパティとレスターを繋ぐ接点がとっさには思いつかない。



「レスター…、おまえ、ああいうのが好みだったのか?」
「え?」
「確かに、明るくて元気で感じのいい娘だとは思う。それに、よく見ると綺麗な顔立ちをしているし」
 デルムッドが何を言いたいのか薄々察したレスターが口を開こうとしたが、それより早くデルムッドは言葉を続けた。
「でも、おまえにはもっと大人しい女の子が似合うと、俺は思ってたんだけどな」
「何言ってるんだよ、デルムッド。パティと俺は従兄妹同士だ。おまえが考えてるような、そんなんじゃないよ」
「従兄妹? …ああ、そういえばそうだったな」
 行方を気にかけていた従兄妹の一人が見つかったと、確かに以前レスターから聞いていた。その時は、自分も一緒に喜んだはずなのに、なぜ忘れていたんだろう。

「アルスター城の財宝の一部を換金する必要があって、街に下見に行くようパティに指示があったんだ。彼女はそういった方面に明るいらしい。目も確かだしね。だから、俺も護衛として行くことにしたんだよ。まだ、街の治安は完全じゃないだろう」

 淡々と事実を述べるようにレスターは言う。だが、ただそれだけのことではないようにデルムッドには感じられた。
 いつだったか、ふと気づいたことがある。パティを見つめるレスターの慈しむような限りなく優しい瞳。それは、妹のラナに対する視線とも違う。レスターは、今まで誰にもそんな目を向けたことがなかった。
 ただの従妹だとレスターは言うが、彼女がレスターにとって他の誰とも違う特別な存在になりつつあるということは、デルムッドにもなんとなく察することができる。

「なんなら、おまえも一緒に行くか? デルムッド」
 黙りこんでしまったデルムッドを気遣ったのか、レスターが声をかけた。だが、デルムッドはそれをすんなりと受けることができなかった。

「いや、遠慮しておく」
 レスターが気にしないよう、笑みを浮かべながらそう答える。
 彼の言葉を額面通りに受け取らなかったわけではないが、二人の邪魔をするようで気が引けた。もっと正直に言ってしまえば、血の繋がりを持つレスターとパティが、二人だけに通じる言葉で話を始めたら、なんとなくいたたまれなくなるのではないか…そんな不安がかすかに胸をよぎったのも事実だった。
 自分はそんなつまらないことを気にする人間だったろうか? 自問自答しても答は得られない。
 その後は普段通りに会話を続け、結局レスターとは食堂の出口で別れた。

 パティを迎えに行くレスターを見送った時になんとなく感じたのは…あれは寂しさだったのだろうか。そんなことをデルムッドは思う。考えてみれば、自分がレスターの誘いを断ることはあっても、レスターが自分の誘いを断ったことはなかったような気がする。

 デルムッドにとってレスターは、幼なじみ達の中でも、最も心を開き、何でも打ち明けることのできる親友だった。
 彼らが育ったティルナノグには、戦争で親と離れ、自身もまた現勢力によって命を狙われるという、同じような境遇の子供が何人かいた。しかし、他の子供達には血を分けた兄や妹が側にいたし、兄弟のいないセリス皇子には、彼のことを命よりも大切に思うオイフェや、実の兄のように接するシャナン王子がいた。その中で、デルムッドだけが一人だった。

 表には出さなかったが、子供の頃はそのことでずいぶんと寂しい思いをしたことがある。そんな彼の胸の奥に隠された思いに、レスターだけは気づいてくれた。そして、自分が親友になると言ってくれた。
 血を分けた兄弟にはなれないけれど、親友としていつも一緒にいるから、何かあった時一番におまえのことを考えるから、だからおまえは一人じゃない。そう言ってくれた。そして彼はその言葉通りに、ずっとデルムッドの支えとなってくれたのだ。
 そのレスターが、パティとの約束を優先させたことが、たぶんちょっとだけ面白くないのだ。心の中のわだかまりに、デルムッドはそう結論づけた。

 ―――先約だってレスターは言っていたし、仕方がないじゃないか…

 そう言い聞かせても、どこか納得していない自分がいる。
 先約の相手が、セリス皇子や、あるいは他の幼なじみ達だったら、たぶん何とも思わなかったような気がする。だが、いわば『部外者』であるパティが自分達の間に割り込んだようで、それが少しだけショックだったのかもしれない。もしかしたら、無意識の内に彼女の存在を頭の中から追い出していたから、さっきはすぐに思い出すことができなかったんだろうか。

 親友に従兄妹が現れても、好きな少女ができても、喜びこそすれ不満に思うことなどあるはずがないと思っていた。そんなに狭量で閉鎖的な人間のつもりはなかったのに…。

 なんとなく遠乗\りに出る気分も薄れていった。とりあえず、一度部屋に戻ろう…そう思い直し、兵舎として使用している城内の一棟に向かって足を進める。



 その途中、デルムッドはもう一人の幼なじみを見かけた。
 今日は人影もまばらな訓練場の一角に、練習用の剣を手にしたスカサハの姿がある。そして、彼の隣に並ぶようにして剣を構える銀の髪の少女が見えた。スカサハは、この少女に剣を教えているらしい。黒\髪に黒\っぽい服装のスカサハと、銀の髪に紅いリボンと白い服の少女は対照的だったが、かえって似合いの一対のようにも見える。

 最近、この少女の姿をスカサハの周囲でよく目にするようになった。アルスター攻略の戦いの際、生き別れの兄であるアーサーに説得されて解放軍に加わったティニーという名の少女。彼女はその後、スカサハの部隊に配属になったから、彼の近くで見かけるのは当然といえば当然である。
 しかし、スカサハがラクチェ以外の女性と一緒にいること自体、非常に珍しいことだった。まして、女性に彼自ら剣を教えることなど皆無と言ってよい。
 スカサハは女性の扱いが苦手なため、女性兵士から師事を請われても、いつもその役目をラクチェに譲ってしまう。対戦相手として模擬訓練で剣を合わせたりはするが、型を教えたりなどの基礎的なことを手取り足取り教えることはまずなかった。

 スカサハに倣って剣を振り下ろす少女が遠目に見える。彼女の姿勢を、細かく根気よく修正するスカサハ。彼がそんなに真剣に指導するほど、才能のある少女なのだろうか。デルムッドの胸にふと小さな疑問が浮かぶ。
 しかし、あのティニーという少女は魔道士だったはずだ。剣の才能が並外れて優れているということは考えにくい。そのティニーになぜ…。

 そう思った時、以前ラクチェが口にしていたことをふいに思い出した。
 ラクチェの父…つまりはスカサハの父親とティニーの父親は、浅からぬ縁があったらしい。確か親友同士だったと聞いた。父親同士が親友だったという思いが、連帯感や親密感を生み出すのかもしれない。

 そんなふうに自分を納得させながら、訓練場の横を通り過ぎる。やがて中庭に差し掛かった時、背の高い木の陰に、見慣れた黒\髪の少女の姿を見つけた。幼なじみの一人ラクチェが、何をするでもなく手持ち無沙汰そうに木に寄りかかっている。
 彼女が一人でいることは、普段あまりなかった。というより、周囲が彼女を一人にしないと言ったほうが正しいかも知れない。特に、兄のスカサハや親友のラナは、ラクチェの側にいることが多い。

「一人か? 珍しいな」
 近づいて声をかけると、驚いたようにラクチェが振り返った。彼女とはケンカ友達のような間柄だったから、笑顔を向けられるより、睨みつけられるほうが圧倒的に多い。

「スカサハなら、ティニーに剣の稽古をつけてるわよ」
 案の定、ラクチェはあまり嬉しくなさそうな顔で訓練場のほうを指差した。スカサハに用ならさっさとそっちへ行けということらしい。

「スカサハじゃなくて、ヨハルヴァはどうしたんだ? いつもおまえを追いかけ回してるのに」
「追いかけ回すって……変な言い方しないで…」
 ラクチェが露骨に嫌そうな顔をする。
「だって事実だろう? おまえの背後に張り付いてる姿をよく見かけるぞ」
 笑いながらデルムッドは言葉を続けた。その言い方に、ラクチェはますます嫌そうな顔をする。だがそれが、ヨハルヴァに対してなのか、それを揶揄する自分に対してなのかは、デルムッドにも判断がつかなかった。

「ラクチェ」
 その時、少し離れた場所から声が聞こえてきた。呼びかけに反応して、彼女が顔を上げる。声の主を確認して、ラクチェの表情がぱっと輝いた。
「あ、今行く!」
 そう答える彼女の視線の先には、今話題に上っていたヨハルヴァが立っていた。ラクチェとデルムッドの話が終わるのを待つつもりなのか、それ以上はこちらへ来ようとはしない。

「何だ、待ち合わせしてたのか」
 デルムッドが問い掛けると、きまり悪そうにラクチェは視線を逸らす。
「別に…そういうわけじゃ…」
 そう言いながらも、その頬がうっすらと赤くなっているのが、なんとも珍しく可愛らしい。まるで女の子みたいじゃないかと、ラクチェに聞かれたら張り倒されそうなことをデルムッドは心の奥で思う。そしてこういう時は、ついからかってしまいたくなるのが常だった。

「おまえみたいなはねっ返りのどこがいいんだろうな。でも、貰い手が見つかって一安心ってところか? ドズルの王子が物好きでよかったな、ラクチェ」
「貰われるつもりなんてないわよ。勝手に決めないで!」
 上目遣いで睨みつけるようにラクチェが言う。だが、真っ赤になった顔では、説得力がまるでない。非常にわかりやすい幼なじみの態度に苦笑を浮かべた時、目の前のラクチェはふいに真剣な表情になった。

「それにね、ヨハルヴァはドズルの王子なんかじゃないわ。れっきとした解放軍の一員なの。だから、そんな言い方はやめて、デルムッド」
 その言葉とまなざしに、デルムッドははっと胸をつかれる思いがした。イザークで暮らしていた人間にとって「ドズルの王子」という名称がどんな意味をもっているか、それは彼自身が何よりもよく知っている。深い意味もなく、つい口にした言葉だったが、ラクチェにとっては聞き逃すことのできない一言だったに違いない。

「…ああ、そうだな。悪かった、気をつける」
 すぐに自分のうかつな言葉を反省する。
 と同時に、一種の寂寞感のようなものが胸に去来した。それは、男勝りの妹に好きな相手ができてほっとする反面、どこか寂しい気もする兄のような心境とでも言えばいいのだろうか。
 今、ラクチェは心情的に、兄妹同然に育ってきた自分よりも、この間まで敵だったヨハルヴァの側に立っていた。そのことに、おそらく彼女自身気づいてもいないだろう。以前ならそんなことはありえなかったのに、こうして目に見えないくらい少しずつ、でも確実に心の距離は遠くなってしまうものなのだろうか。

 そんな思いが顔に出ていたのかもしれない。睨むように見つめていたラクチェの目に、少しずつ戸惑いの色が混じる。彼女が何か言いかけるより早く、デルムッドは口を開いた。

「ほら、ヨハルヴァが待ってるぞ。早く行ってやれよ」
「あ、うん…」

 まだ、少し気遣わしげな表情を残しながらも、ラクチェはヨハルヴァのほうに向かって走っていった。その瞳は、もはや目の前の恋人しか映してはいないだろう。
 親しげになにやら会話している二人に背を向けるようにして、デルムッドはその場を立ち去った。




楽園の向こう


--------------------------------------------------------------------------------



-2-




 兵舎まではもうすぐだったが、なんとなく疲れを感じてデルムッドは側にあった長椅子に腰を下ろした。両膝に腕をつき前かがみになった姿勢でふっと息をつく。身体が疲れているのではない。重いのは心だ。

 さすがにデルムッドにももうわかっていた。自分がさきほどから感じている寂しさのようなものが何なのか。
 この解放戦争が始まるまで、ティルナノグとそこに暮らす人々がデルムッドにとって全てだった。こうして故郷を発ち、外の世界に触れ、それまで知らなかった人々と出会い、新たな絆を結んでいき――。そしてそれに伴い、古い絆は次第に忘れ去られてしまうものなのかもしれない。そう思ってしまうことが寂しかった。



 あの地は楽園だった――。
 最近、ふとしたはずみにそんなことを思う。そのことが、外に出て初めてわかった。
 イザークでも限られた者しか知らない古の都ティルナノグ。その昔、遷都により打ち捨てられた廃城が、イザーク王国の復興を願う人々の希望の地となった。
 決して安全を保証された場所ではなかった。帝国の追求の目から逃れ、命を脅かされながら肩を寄せ合うような思いで過ごす日々ではあったが、そこには誰にも邪魔されない確かで暖かな空間があった。信じられる仲間だけの閉ざされた世界。多少窮屈ではあっても、ある種の幸福に包まれた心地よい場所でもあった。
 おそらく、もう二度とあの空間が戻ってくることはないのだろう。たとえこの戦いが勝利に終わり、仲間たちとイザークに帰ったとしても、あの日々は、心の繋がりは、濃密な絆はたぶん戻っては来ない。

 ―――少し感傷的になっているな…

 デルムッドは顔を上げ、自嘲気味な笑いを口許に浮かべた。全く自分らしくない、そう思う。
 だが、こんなことを考えていられるというのは、まだ気持ちに余裕があるということかもしれない。もっと戦況が激化してきたら、過去を振り返る余裕すらなくなるのだろうから。
 こんなことを考えているよりも、今自分にできることを考えよう…。そう気持ちを切り替え、立ち上がった時、前方から歩いてくる人影が目に入った。



「おはようございます、デルムッド様」
 濃い栗色の髪を肩の上辺りで切りそろえた少女が、こちらに向かって歩いてくる。おそらく、彼女も兵舎に戻るところなのだろう。その腕には、何枚もの紙片を束ねた書類挟みが抱えられていた。

「おはよう、ジャンヌ」
 彼女の姿を目にして、デルムッドの顔に自然と微笑みが浮かぶ。
 実は、彼がジャンヌの顔と名前を覚えたのはつい最近のことだった。アルスター攻略戦の少し前に解放軍に合流したリーフ王子率いるレンスター軍。その中に彼女はいた。
 その際にデルムッドは妹のナンナとの再会を果たしたわけだが、そのナンナを護衛するようにジャンヌはいつも後ろに控えている。だから、彼女の姿は何度も目にしていたはずなのに、ほとんど印象に残っていなかった。ジャンヌが物静かで控えめな性格だったのが災いしたのか、あるいはその時のデルムッドが妹しか目に入らない状態にあったせいか。
 ともかく、ナンナに紹介され、その後にトリスタンの妹だということを知り、デルムッドはようやく彼女の名前と顔を記憶に刻み込んだのだ。

 ジャンヌはデルムッドの前で足を止めると、生真面目な表情で一礼した。そんなところは、兄のトリスタンによく似ているなとデルムッドは思う。

「ところでジャンヌ、敬称ははずしてくれと言わなかったかな?」
 元々デルムッドは、敬称を付けられるのをあまり好まなかった。距離を置かれているように感じるからだ。だから、ジャンヌにもその意思を伝えたことがある。
 しかしジャンヌは、その時と同様に真剣な顔できっぱりと断った。
「とんでもありません。そんなことをしたら、兄に叱られてしまいます」
「それは……確かにそうかもしれないな…」
 デルムッドの脳裏に、ティルナノグで共に育った忠義に厚い臣下の顔が浮かぶ。
 ノディオンのクロスナイツを父に持つトリスタンは、王家の血を引くデルムッドを幼い頃から己の主として敬ってきた。デルムッドはむしろ、年の近い彼を兄のように慕い甘えたかったのだが、トリスタンはそれを許さず、頑として自分との間に一線を引き続けた。そんな彼が、自分の妹が主を呼び捨てにするのを見逃すはずがない。

 口をつぐんでしまったデルムッドを見上げ、ジャンヌは尚も言葉を続ける。
「それに…義務で敬称を付けているわけではありません。デルムッド様が、それだけのものを背負っていらっしゃるからです。わたし達を導いて下さるお方だからです。ですから、自然とそうお呼びしてしまうのです」

 聖戦士の血を引く者に対する、絶対の信頼と崇拝。それは、このユグドラル大陸において、ほとんど信仰に近い。イザークの民が、シャナン王子はもちろんのこと、スカサハやラクチェに対しても、今のジャンヌと同じようなまなざしを向けているのを、デルムッドはずっと目にしてきた。
 考えてみれば自分も、ダーナでヘズルの直系であるアレスと出会い、同じような思いを抱いたのではなかったか。だとしたら、ジャンヌのその思いは、本来アレスに向けられるべきものだ。そう思った。



「君たちをアグストリアに連れて行くのは俺じゃない。アレスだ」
 ジャンヌを諭すように、静かな声でそう言った。しかし彼女は、軽く目を見張ると首を横に振る。
「いいえ。兄が申しておりました。デルムッド様の存在があったからこそ、希望を失わずにここまで来ることができたのだと。アグストリアの王となられるのがアレス様だとしても、兄が心の支えとしているのはデルムッド様なのだと思います」
 そう言って、ジャンヌはほんのわずかに表情を緩めた。それは、ずっと張り詰めたような顔を保っていた彼女が、初めて見せた笑顔らしきものだった。
「兄からその話を聞いて、わたしにも新しい希望ができました。この戦いを勝ち抜いて、故郷の地を見てみたいと思うようになりました」
「じゃあ、いずれ君もアグストリアに帰るんだね」
「はい、ご迷惑でなければ、お供させていただきたいと思っています」

 それを聞いてなんとなくほっとするような、どこか安心している自分がいることにデルムッドは気づく。リーフ王子の軍に所属していた彼女は、いずれはレンスターに帰るものだと思い込んでいたのだ。
 ジャンヌがアグストリアに帰るつもりだと聞いて、なぜ自分が安心するのかはわからなかったけれど、もう少しだけ彼女と話をしてみたいと、ふいにそう思った。
 考えてみれば、ジャンヌとこれだけ言葉を交わしたのは初めてかもしれない。ナンナやトリスタンなど他に誰かが一緒にいる時は、彼女はほとんど口を開かないのだ。

「ジャンヌ、君はこれから何か用事は?」
「武器庫の点検は終わりましたので、これから兄に報告するだけです」
 早朝からすでに一仕事終えたらしい。兄によく似て、生真面目で働き者な彼女が好ましく感じられる。

「じゃあ、もしよかったら、その後で街に行かないか?」
「え?」
「アルスターの街の様子も見てみたいと思っていたんだ。君も一緒に行けるなら嬉しいけど」
 その言葉を受けて、ジャンヌの表情が困惑に彩られる。自分が誘われる理由がわからないという顔だった。もし社交辞令で声をかけてくれたのだとしたら、真に受けていいものか…。そんな戸惑いが感じられる。

「でも、わたしなどがご一緒しては、お邪魔なのでは…」
「そんなことはないよ。それに…そう、妹の話もいろいろと聞かせてほしいし」
 ふと思いついたことを口にしてみた。離れて暮らしていた妹のことを、フィンの下で一緒に育ってきたジャンヌに聞くのは、全く不自然なことではない。ジャンヌもそう思ったのだろう。その顔に、得心したような笑みが浮かぶ。
「あ、はい。そういうことでしたら、喜んで」
 口実に使ってしまったことを心の中でナンナに詫びながら、デルムッドは微笑んだ。
「じゃあ、ここで待っているから」
「はい。すぐに戻って参ります」

 兵舎の中へ消えていくジャンヌの後ろ姿を見送っているうちに、デルムッドは少しだけ心が軽くなっているのを感じた。
 ティルナノグの外に出なければ、アレスやナンナそして今目の前にいたジャンヌとも出会うことはなかっただろう。ジャンヌが自分の存在に希望を見出したと言うように、自分も彼女達から新しい何かを貰っている。
 たぶん自分にもまた、幼なじみ達と同じように少しずつ変化は訪れているのだ。そんなふうに素直に受け止めることができるような気がする。

 以前、傷ついた兵士達の治癒のために前線近くまで駆けつけたラナが、ふと見せた表情をデルムッドは思い出した。すでにナンナのライブによって治療を終えていた自分を見て、ラナは独り言のようにぽつりと呟いたのだった。

 ―――デルムッドの怪我を治す役目も、そろそろ終わりかしらね…

 そう言った時のラナの、少し寂しげな微笑。あの時の彼女も、さっきまでの自分と同じような気持ちだったのだろうか…。

 それでも、たとえ新しい絆が生まれても、古い絆が断ち切られるわけではないのかもしれない――。今は、なんとなくそう思うことができる。
 この戦いを通して、自分にとって大切な存在が増えた。ずっと無事を祈り再会を願っていた妹、生涯をかけて仕えたいと思った主君、そして共に故郷へと帰る仲間。
 そういった存在が出来ても、幼い頃から全てを分かち合い共に育った『家族』は、やはり心の大切な部分に棲んでいる。それはどんなに時を経ても、決して消えることはない。ならば、彼らにとっての自分も、きっと同じような存在なのだろう。
 そんなふうに考えたら、憂うべきことなど何もないのだと思えるようになった。

 やがて、兵舎の扉を開けて、ジャンヌがこちらに向かってくるのが見えた。待たせてはいけないと思っているのだろう。息を切らせて走ってくる。

「そんなに急がなくても大丈夫だよ、ジャンヌ」
 笑顔を浮かべながら、デルムッドもまたジャンヌのほうに向かって一歩を踏み出した。



-END-



[114 楼] | Posted:2004-05-22 17:18| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


白 夜


--------------------------------------------------------------------------------


-1-


 窓から差し込む朝日が、テーブルの上に格子の形の影を作っている。
 東に視線を向けたイシュタルは、太陽がいつもより高い位置に昇っていることを確認した。だが、待ち人はまだ現れる様子がない。特別な用事がない限り、朝食に遅れたことがない彼にしては珍しいことだった。
 彼女が着いている食卓には、すでに二人分の食器が用意されている。傍らで指示を仰ぐ侍女にもうしばらく待つように伝え、イシュタルは再び視線を元に戻した。

 ファバルと食事を共にするようになったのはいつからだったろうか。きっかけは、イシュタルの食事に毒が混入されるという物騒な出来事だった。それ以来、彼はいわば毒見役として必ずイシュタルと同じ食卓に着くようになり、その習慣だけが現在まで続いている。
 囚人に等しい立場の自分にそこまでするファバルの気持ちが、当初イシュタルには理解できなかった。しかし今では、彼と共に食事の席に着くことに、何の疑問も感じていない自分に気づいている。それほどに、ファバルの存在は彼女にとって当たり前のものになってしまっていた。
 それどころか、もしかしたら彼が来るのを心の底では待っているのではないだろうか。そんなことを思い、落ち着かない気持ちになることも時折あった。


 四半時も経った頃だろうか。扉の向こうから、こちらに向けて走ってくる足音が聞こえてきた。イシュタルが目で合図をすると、控えていた侍女が朝食の準備に取り掛かる。手際よく絞った果実をグラスに注ぎ、温めたパンを皿に取り分け始めた。

「悪い! 遅くなった」
 足音の主が、声と共に部屋の中に飛び込んでくる。ずっと走り詰めだったのだろう。肩が激しく上下していた。

「おはよう、ファバル」
 イシュタルは、まだ目の前で荒い呼吸を繰り返しているユングヴィ公爵に声をかけた。
「おまえが食事に遅れるなんて、珍しいわね」
「待たせちまって悪かったな。こっちに向かう直前に、急な来客があったんだ」
 まだ少し息をきらしながら、ファバルは笑顔を見せた。鮮やかな金の髪が、窓から差し込む朝日を弾く。少しまぶしいような思いで、イシュタルはそれを見つめた。


 ファバルはイシュタルの向かいの席に腰を下ろすと、遅れたいきさつを話し始めた。いつも通り、朝食をとるためにイシュタルの部屋に向かおうとした時に、ある男の訪問を受けたという。
 公爵に謁見を願い出る者は、ユングヴィの宮廷にも毎日列をなしていた。それは、単なるご機嫌伺いの貴族から、深刻な問題を抱えた訴状持参の地方領主までさまざまである。緊急を要するものが優先されるため、取り次ぎを願い出てから数日待たされることは珍しくない。

 だが、そういった手続きを通さず、直接公爵の元を訪れる貴族も少数ながら存在する。それは、現在この国の宰相を務めるフェルン侯爵の一族だった。フェルンは、前ユングヴィ公爵スコピオの側近中の側近であり、彼が存命の頃から宮廷の実権をほぼ一手に握っている。文官ということもあり先の戦いの際には出陣せず、結果命を存えた彼は、主君の死に動揺する貴族達をまとめ上げ、新しい公爵へと差し出したのだ。戦後のユングヴィがさしたる混乱もなく、復興へと向かって進むことができたのは、彼の功績も大きいといえる。
 その一方で、一族の栄達と繁栄のためには手段を選ばないという風評も、常に付きまとう人物だった。

 その朝ファバルの元を訪れた初老の貴族は、何よりも先に自分がフェルン侯爵に連なる者であることを説明した。男爵位を持つその男の名は、ファバルも耳にしたことがある程度である。つまり、宮廷内においてさほど重要な官職にはついていないということだろう。それでも彼は、フェルンの一族であるという事実をもって、自分は取り次ぎ無しに公爵に拝謁する権利を持っていると判断したらしい。
 無礼を咎められて当然の行為であったが、現在のユングヴィ公爵はそういったことに全く頓着しないことが彼にとって幸いした。時間がある限りは、相手の身分の上下を問わずとりあえずは耳を傾けるのが、ファバルの一貫した姿勢だったからである。

「用件も簡単なものだっていうから、とりあえず話を聞いたんだけど…」
 話しながらも瞬く間に香草のスープを空にしたファバルは、次の皿が運\ばれてくるまでの間つなぎに白パンに手を伸ばす。
「それにしても、貴族っていうのは何であんなに話が長いんだ?」
 鶉のパテをパンに塗りながら、ファバルがうんざりしたような顔を見せた。自分もその「貴族」の筆頭であることなどすっかり忘れているらしい。
 だが、それも無理はなかった。時候の挨拶から始まってご機嫌伺い、延々と続く前口上。しびれを切らしたファバルが先を促さなかったら、男爵はいったいいつ本題に入ったことか。
 その様子を思い浮かべ、イシュタルは内心で苦笑をもらした。かつて領主としてマンスターの地を治めていた彼女には、思い当たる節が嫌というほどあったのだ。

「あ、そういえば、これを預かってきたんだった。おまえにって」
 話の途中で、突然思い出したようにファバルは自分の懐を探る。すぐに目的のものを見つけ出し、イシュタルに向けて差し出した。その手の上には、革張りの小さな箱が乗\っている。
「わたしに?」
「ああ。渡せばわかるとか言ってたぜ」
 全く心当たりのないイシュタルは、少し怪訝な顔を見せながらも、とりあえずその小箱を受け取った。
「公爵に使い走りを頼むなんて、その男爵もずいぶんといい度胸ね」
 そんなことを言いながら、イシュタルは手にした小箱の蓋を開ける。その中身を目にしたとたん、彼女の表情が強張った。

 それはほんのわずかな変化だったため、ファバルが気づくことはなかった。そしてそのまま、男爵の話を続けている。
 それによると、その男爵はさらに上の役職に与ろうと、ここしばらくの間いろいろ働きかけていたのだが、この度きっぱりと引退を決め、田舎に引っ込むことにしたらしい。そしてその際に、領地の配置転換を希望してきたのだ。現在の領地を返上する代わりに彼が求めたのは、シエナという小さな港町だった。

「シエナみたいな小さな町に引退なんて、フェルンの一族にしちゃずいぶんと無欲な男だよな」
 ファバルはとりあえず、今回は男爵の要望を聞くにとどめ、回答は保留としたのだが、内心では叶えてやっても特に問題はないのではないかと思っていた。だが、イシュタルの口からは意外な言葉が発せられた。


「そうでもないと思うわ。わりと欲の深い男よ」
「え?」
「シエナは小さな町ではあるけれど、ミレトスとグランベルを繋ぐ貿易の拠点の一つでもあるはずだわ。そういった町の領主は、港や河を使用する商船に自由に税をかけられるの。上手くやれば数年で一財産できるのじゃないかしら」
 静かな表情で淡々とイシュタルは語っているが、ファバルはその内容に驚きを隠せなかった。領主が不正な利益を得ることも問題だが、もっと大きな問題もある。
 彼の内心を読み取ったかのように、イシュタルは言葉を続ける。

「通行の税が上がれば、その分は価格に上乗\せされ結局は市民に負担をかけることになるわ。それを避けるために、船を使用せずに危険な山陸ぞいを通る商隊もでてくるでしょう。ようやく静かになった野盗の類が、また動き出す恐れもあるわ」
 イシュタルは一旦言葉を切り、ファバルの目を見つめた。
「よけいなことかもしれないけど……。そういう町はよほど信頼のおける人物に任せるか、そうでなければ今まで通り公家の直轄領にしておくのが無難だと、わたしは思うけれど」

「―――その通りだな」
 しばしの沈黙の後、ファバルは深く息を吐いた。
 イシュタルが虚偽の情報を流している可能性については、ファバルは一切考えていない。少し調べさせれば、彼女の言葉が正しいことはすぐに証明されるだろう。今までにも彼女は、こうしたさりげない助言でファバルを助けてくれている。
 それでもファバルは少しだけ心が重くなった。
 基本的に人を疑うことが嫌いなファバルは、普段から他人の言葉の裏を探ろうとはしない。どんな人物でも、まずはそのまま受け入れようとする。だが、公爵としてこの宮廷に赴いてから、それを通すことがだんだんと難しくなっていた。
 さっきの男爵も、見た目は人の良さそうな初老の男だった。宮廷の政争に疲れ、田舎に引っ込んでのんびり暮らしたいと言う彼の言葉に嘘は感じられなかった。この期に及んでも、あの男は望んだ土地の重要性を知らなかっただけなのではないだろうかと、心のどこかで思いたい自分がいる。

「それから、これもその男爵に返したほうがいいと思うわ」
 涼やかな声に、物思いに沈んでいたファバルは思わず我に返る。目の前ではイシュタルが、先ほど受け取った皮張りの小箱をファバルに向けて差し出していた。
 再びファバルの手元に戻ったその箱は、蓋が開けたままになっており、今度は中身がはっきりと見える。
 上等の白絹が張られた箱の中央に、眩く光る青い宝石が納まっていた。大粒の青玉石の周りを小粒の金剛石がぐるりと取り囲んでおり、それが相当に高価なものであることは、宝飾品の類に詳しくないファバルにも容易に察することができる。そして箱の裏蓋には、贈り主の家紋と署名が記されていた。

「これは……どういう意味なんだ? イシュタル」
 何事にも直接的な言葉を使わない貴族のやり方に、ファバルはどうも馴染めない。男爵がどういう意図を持ってこんなものをイシュタルに渡したのか、見当がつかなかった。
「要するに、それは賄賂よ。領地転換の口添えを、わたしに頼みたかったのでしょう。その挨拶代わりのようなもの…。おまえはこういうものを決して受け取らないから、わたしのほうに回ってきたのだと思うわ」
「でも………どうして、おまえに?」
「どうやらわたしは、公爵の囲われ者とでも思われているようね」
「何!?」
 さらりとした口調で告げられた言葉に、ファバルは声を失った。
「無理もないわ。内乱を収めにフリージに行ったユングヴィ公が、銀の髪の女を内密に連れて帰った。援軍の謝礼として、フリージ公が一族の女を差し出したと、そう思われても仕方ないわね。よくあることだもの」
 そう言ってイシュタルは可笑しそうに笑う。
「笑い事じゃないだろう!」
 ファバルは思わず両手をテーブルに叩きつけていた。振動で食器が揺れる。めったなことでは大声を出さない彼の剣幕に、イシュタルは怪訝な表情を見せる。
「何を怒っているの? ファバル」
「そんな噂が立ったら、お前の将来に傷が付くじゃないか!」
 まだ憤りを隠せない様子でファバルが答える。その言葉を聞いたとたんに、イシュタルの顔から表情が消えた。

「将来…? わたしの……?」
 まるでその言葉の意味がわからないかのように、ゆっくりと繰り返す。
 現在より先のことを考えなくなって、いったいどれくらい経つだろう。その言葉ほど、今の自分にとって縁遠いものはないかもしれない。静かな表情の下で、イシュタルはそう思う。
 だが、ふいにその口許に笑みのようなものを浮かべた。
「じゃあ、責任をとって一生ここに置いてくれるかしら?」
 言葉と共に、ほんの少しだけからかうような視線をファバルに投げかける。深い意味のある言葉ではなかった。話題を逸らしたいという思いが、ついそんなことを言わせたにすぎなかった。
 しかし、彼女がごく軽い気持ちで口にした言葉に、ファバルは真剣な表情で黙り込む。それを見たイシュタルの顔から、再び表情が消えた。

「冗談よ。そこまで甘えるつもりはないわ」
 いっそ冷たいとも思える声でそう告げた。こんなたわいもない言葉を真に受けて、本気で考え込んでいるファバル。彼という人間が、またわからなくなりそうだった。自分の常識では測れない彼の言動に接するたび、彼女の胸の中に不思議なさざ波が立つ。そしてそれは、いつもイシュタルを落ち着かない気分にさせる。

「………俺はかわまない」
 ぽつりと、呟くようなファバルの声が聞こえた。
「え?」
 思わず顔を上げたイシュタルの目に、まっすぐに自分を見つめる空色の瞳が映る。すい込まれてしまいそうな澄んだ瞳の色。イシュタルの胸の奥が、自分でもよくわからないざわめきに覆われる。彼の言葉をどう受け取ればいいのか途方にくれていると、ふいにその視線はファバルのほうから逸らされた。

「俺が勝手にそう思ってるだけだ。……忘れてくれ」
 それだけ言うと、ファバルはそれきり黙りこんだ。侍女が、新しい料理の皿を運\んできたが、手を伸ばそうとしない。不自然な沈黙が辺りを覆う。しかし、静寂は意外な形で終わりを告げた。



白 夜


--------------------------------------------------------------------------------


-2-


「お食事中、失礼致します」
 前触れもなく、突然扉が開いた。その向こうに、一人の男が立っている。茶褐色の髪を後ろに撫で付けた、比較的がっしりした体躯の壮年の男だった。仕立ての良い上等の絹地の長衣は、彼が文官であることを示している。
 取り次ぎの者も通さずに、食事中とわかっている部屋に乗\り込んでくるなど、よほど緊急の用事でもない限り相当に不作法な行為と言えた。しかも相手は、このユングヴィの頂点に立つ公爵である。その公爵を前にしてこのような態度をとれる者は、宰相であるフェルン侯爵以外この国にはいなかった。


「何の用だ、フェルン。ここには近づかないよう言ってあるだろう」
 ファバルは、彼にしては珍しい冷ややかな視線を来訪者に向けた。イシュタルの身の回りの世話をする者以外が、彼女の住まう場所に近づくことをファバルは許していない。しかし、当の宰相は全く意に介した様子はなかった。

「誠\に申し訳ございません。急を要する件がございまして」
 顔中に笑みを貼り付け、言葉だけは丁寧に謝罪する。
「つい先ほど、トスカナの治水工事の承認がまだ頂けていないとうかがいました。公爵閣下はご多忙ゆえ、おそらくその件をご失念されているのではないかと思い、ご迷惑とは存じましたが、取り急ぎ参上致しました次第です」
 そう言いながら、すでに彼は小脇に挟んだ書類挟みから一枚の書類を抜き取り、テーブルの上に広げていた。
「こちらに署名をいただければ、私はすぐに退散いたしますので」
 その口調も態度も、公爵がこの書類に署名することを毛先ほども疑っていない様子だった。だが、ファバルの返答は彼にとっては思いもよらないものとなった。


「忘れてるわけじゃない。納得できないから許可しない。それだけだ」
「これは、これは…。ご納得がいかないとは、いったいどういうことでございましょう。手続上の不備は何もありませんが?」
 宰相は大袈裟に両手を広げ、さも心外だというふうに声を上げる。ファバルの顔に、苛立たしげな表情が浮かんだ。
「俺は実際にトスカナに行って、この目で確認してきた。土地の人々の話も充分に聞いた。緊急に工事が必要とはとても思えない。それよりもその予算を他に回すべきだ」
 きっぱりと言い切ると、睨みつけるような視線を宰相に向けた。宰相の顔から、初めて笑みが消える。柔和にさえ見えた表情が一変し、鋭い目の光が強調された。少時、静かな視線のぶつかり合いが続いたが、やがて宰相は目を伏せると小さくため息をつく。

「………スコピオ様でしたら、すぐにご承認いただけましたものを」
 独り言にしては少しばかり大きすぎる声で彼は呟いた。一旦広げた書類を片付けながら、ちらりと視線をファバルのほうに向ける。しかし、それに対してファバルは何も反応を返さなかった。

 再び書類挟みを小脇に抱え、一礼すると宰相は背を向けた。扉に向かいかけて、突然なにやら思い出したように振り返る。その顔には、部屋に入ってきた時と同じような作り笑いが貼り付けられていた。

「そういえば最近、妙な噂を耳にしました。閣下はこちらのお方を、いずれ公妃としてお迎えになられるおつもりだとか」
 問いかけながら、向かいに座っているイシュタルに、不躾ともいえる視線を投げかける。
「そうだとしたら、どうする」
 ファバルは、不快感を隠そうともせずに答えた。売り言葉に買い言葉のような返答だったが、それは宰相の思う壺だったらしい。
「閣下はお忘れになっておいでのようですな。ご自分が婚約者のいる身であらせられることを」
「何度言ったらわかる。俺はおまえの娘と婚約した覚えはない」
「いいえ。娘は…イザベラはユングヴィの公妃となるべく定められ、幼い頃から徹底した教育を受けて参りました。スコピオ様からもぜひにと望まれて、じきに式を挙げるはずだったのです。あのようなことがなければ今ごろは…」
 沈痛な面持ちで俯いた宰相は、計算された間を置いてから顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「この国に公妃となるべき女性は、イザベラをおいて他におりません」
 すでに幾度となく繰り返された虚しい論争に、ファバルはうんざりとした表情を見せる。
「おまえがそう考えていても、彼女はそうは思っていないはずだ」
「そのようなことはございません。娘は毎日、閣下のお越しをお待ち申し上げておりますとも」
 芝居がかったしぐさで右手を掲げ、次いで深く敬礼する。
「娘を少しでも憐れにお思いでしたら、ぜひ一度足をお運\び下さるようお願い申し上げます」
 顔を上げた宰相は、一瞬だけ牽制するような視線をイシュタルに向け、そして今度こそ振り返らずに扉の向こうへと消えていった。



「悪かったな、変なとこ見せちまって」
 ファバルがそう声を発するまで、少しの時間が必要だった。
 彼にとってこの部屋は、政務に関わる諸々の責務や重圧を忘れさせてくれる、ひと時の安らぎの場所でもあった。山積する様々な問題も、世間話のようにイシュタルに向かって話しているだけで、なんでもないことのように思えてくる。だから、宰相の突然の訪問は、神聖な場所に土足で踏み込まれたようにファバルには感じられたのだ。

「今のは、フェルン侯爵ね?」
 静かな表情のまま、イシュタルが確認するように問い掛けた。これまでファバルの話に何度となく登場した人物だが、実際に姿を見たのはこれが初めてだった。
「ああ。この国の宰相殿だ」
「問題のある人物なの?」
「いや。優秀な官僚だよ。あいつがいるおかげで、宮廷も波風立たずにどうにか纏まってる」
 気を取り直そうとするかのように、ファバルは再び目の前の料理に手を伸ばした。小皿に取り分けられた牡蠣の葡萄酒蒸しをつついているうちに、その表情も徐々に普段のものに戻ってく。
「ただ、自分と自分の一族に寛大すぎるところが問題なんだ。本来、国庫に入るべき金がだいぶそっちに流れているらしい。いずれどうにかするつもりだけど、先にやらなくちゃならないことがまだまだあるからな…。今はそこまで手が回らない」
「彼の娘と……結婚するの?」
 思いも寄らない質問に、ファバルは食事の手を止めた。その目に、ほんの少しだけ皮肉な色が浮かぶ。

「そうだなぁ。もし俺がイザベラと結婚したら、婚礼の夜にはさっそく公爵の死体が寝台の上に転がってるかもしれないな。そして、新婚早々に夫を失った可哀想な未亡人が仮の公爵として冊立され、その父親が摂政の座に就く。そんなとこじゃないか?」
「ファバル…」
「いや、もしかしたら彼女が公爵の子供を身ごもるまでは生かしておいてもらえるかもしれない」
「ファバル、やめて。そんな言い方はおまえらしくないわ」

 少し強い口調でイシュタルは遮った。彼の言葉はいつも真っ直ぐで、こんな自虐的な物言いは決してしない。普段、自分の前では笑顔しか見せないファバルの、今まで知らなかった一面を見たような気がする。それはいわば、ユングヴィ公爵としての顔であり、常に人の言葉の裏を読み続けなければならない政治家の顔でもあった。

「悪かった…」
 とたんに目の前の公爵は、叱られた子供のような表情でうなだれる。自分らしくない言動に、一番傷ついているのは彼自身なのだろう。そう思うと、イシュタルの胸にかすかな痛みが走る。

 やがてファバルは、神妙な面持ちで事の次第を話し始めた。
 フェルン侯爵のひとり娘イザベラは、前ユングヴィ公爵スコピオの婚約者だったという。反乱軍の討伐に向かったスコピオの帰還を待って婚礼の式を挙げるはずだったが、彼が婚約者の元へ生きて帰ることはなかった。戦場でスコピオの命を奪ったのは、ファバルの持つイチイバルだったのだ。

「フェルンにとっては娘が公妃になることが重要なんであって、公爵の首が挿げ替わったところでたいした問題じゃない。だが彼女にしてみれば、自分の婚約者を殺した男となんか、死んだって結婚できるわけないだろう?」
「そうとは限らないわ。貴族の娘に生まれた以上、政略結婚は当たり前のことだもの。一族に繁栄をもたらす婚姻なら、誇りに思うはずよ。その侯爵令嬢にとっても相手がユングヴィ公爵の肩書きを持っていれば、誰でもいいのじゃないかしら」
 貴族社会で生まれ育ったイシュタルにとっては当然とも言える問いかけに、ファバルは口ごもる。それは、彼がそういった「常識」を受け入れられないからなのだろうとイシュタルは思った。しかし、それが思い違いであることを次の瞬間に知ることになる。

「彼女とスコピオは幼なじみだったそうだ。二人は本当に愛し合っていたらしい…」
 ファバルが重い口を開いた。その言葉の持つ意味に、イシュタルは一瞬声を失ってしまう。
「………………そう」
 ようやくそれだけを口にした。だが、それ以上言葉は続かなかった。

 幼なじみ…。その一言を聞いた時、イシュタルの脳裏に浮かんだ、炎のような赤い髪の少年。過ぎ去った時を思い起こすと、イシュタルはいつも彼と共にあった。
 己の全てをかけて彼に仕えたつもりだった。そして彼はイシュタルの全てを支配していた。二人の間にあったものはいったい何だったのだろう。あれは愛と呼べるものだったのだろうか。そう自分に問いかけてみる。

 やがて静かな朝食が終わり、政務に戻るファバルの後ろ姿をイシュタルは黙って見送った。
 答は見つからなかった。




 いつもと変わりなく過ぎていくはずの、とある午後。いつもと同じように、イシュタルは長椅子に腰を下ろし書物を読みながら自室で時間を過ごしていた。ふいに扉を叩く音が聞こえ、書物から顔を上げる。
 この部屋を訪れる者は、数名の侍女の他には、城主であるファバルしかいない。しかし、今はファバルは執務中のはずだった。侍女を呼ぼうとしたが、それより早く静かに扉は開かれた。

「あなたがイシュタル様?」
 扉の影から顔を覗かせたのは、身なりの良いほっそりとした一人の女性だった。光沢のある繻子織りのドレスは、それが非常に高価な品だということをうかがわせる。しかし、黒\無地の地味なデザインからは、まるで喪服のような印象を受けた。年若い娘のわりにはあまり飾り気もなく、真珠の耳飾り以外これといった装飾品も身に付けていない。

「ごめんなさい。無理を言って通してもらいました。父の名前も、こんな時には役に立ちますわね」
 しっとりと落ち着いた声音で彼女は語りかけた。
「フェルン侯爵コンラートの娘、イザベラと申します。どうぞ、お見知りおき下さいませ」
 その名乗\りに、イシュタルは数日前に初めて目にしたこの国の宰相の顔を思い出した。彼の娘と名乗\る目の前の女性は、顔立ちこそ似ていなかったが、茶褐色の髪と瞳はそっくり同じだった。きっちりと髪を結い上げた額の形にも、なんとなく面影が感じられる。
 イシュタルは不躾にはならない程度の視線を彼女に向けたまま、入れとも出て行けとも言わなかった。それをどう受け取ったのか、イザベラは扉を閉めると部屋の中に進み入った。
「あなたのことは、宮廷でもいろいろと噂になっておりますわ、イシュタル様」
 小首をかしげ、微かな微笑みを浮かべる。

 表向きイシュタルは、フリージ公爵家の遠縁にあたる貴族の令嬢で、故あってユングヴィ公爵の賓客として城に滞在しているということになっている。
 先の戦争が終結した後、他国に逃れようとする貴族はいずれの国でも見受けられた。戦犯として裁かれることを恐れ、縁者を頼って亡命する者もあれば、圧政により領民の恨みを買い、命の危険を感じて妻子を避難させた領主もいる。イシュタルも、何らかの事情を抱え公爵に保護された貴族の娘なのだろうと、大方の者は思っていた。
 しかし、彼女に対するユングヴィ公の執着振りが人の口の端に上るにつれ、実はあの美女は公爵の妾妃なのではないかという噂も囁かれ始める。没落した貴族の令嬢が、生きていくために裕福な商人や領主の側室になるのは珍しくないことだ。フリージ公爵がユングヴィとの同盟の絆を深めるため、一族の娘を差し出したのではないか、いや、ユングヴィ公爵のほうから援軍の謝礼として要求したのではないか等々、あれこれと勝手な憶測が飛び交っていた。


 そういった噂の一部は、何らかの形でイシュタルの耳に入ることもあったが、それについて彼女はわずかの関心も抱くことはない。だから、今目の前に立っている侯爵令嬢がどの噂を信じていようとも、全く気にならなかった。
 波ひとつない水面のように静かな表情のイシュタルをイザベラが見つめる。

「国のために人身御供にされたようなものですわね、お気の毒に…。同盟国への援軍に見返りを求めるなど、いかにも傭兵上がりの公爵のなさりそうなことですわ」
 その声音には本心からの同情が感じられ、イシュタルは意外な思いがした。とはいえ、ファバルやフリージ公爵に対する見当違いな非難を看過することはできない。
「公爵は、人質としてわたしをこの国に伴ったのではありません。宮廷の噂など、いつも無責任でいいかげんなものばかりです。あまり鵜呑みになさらないほうが賢明でしょう」
 感情を交えない淡々とした声ではあったが、きっぱりとした否定の意志が込められていた。それは、イザベラにとっては意外な返答だったらしい。わずかに目を見張ると、不思議そうな表情を見せる。
「まあ。では、どのような理由でユングヴィにいらしたのかしら? やはり父の言うように、公爵はフリージ家から公妃を迎え、同盟を強めたいと望んでいらっしゃるのかしら?」
「わたしには、政治の事は何もわかりません」
 イシュタルは、再び書物に目を落とすとそれきり口を閉ざした。言外に退室を促しているのは、イザベラにも感じられただろう。しかし、彼女は立ち去る様子は見せなかった。

「そういえば…」
 沈黙の後に、再びイザベラが口を開いた。
「フリージ家には、雷神と呼ばれる公女殿下がいらっしゃったそうですわね。ユリウス殿下のご寵愛も深く、最後まで殿下に忠誠\を誓い、反乱軍…いえ、解放軍に単身立ち向かわれたと聞きました。愛する方を守るためにお命を落とされたなんて、私にはむしろ羨ましく思えますわ」
 観察するかのような視線が、イシュタルの全身に絡みつく。だが、イシュタルはまるで反応を示さなかった。
「たしか……その公女様のお名前もイシュタル様とおっしゃったとか…」
「ええ。フリージでは珍しくない名前です」
 書物から顔を上げることもなく、よどみのない声でイシュタルは答える。頁を繰る音だけがあたりに聞こえた。
「そうですの…」
 虚ろな声でイザベラは呟いた。その顔からは、彫像のように表情が失われている。しかし、彼女は再び不可思議な笑みを取り戻した。

「読書のお邪魔をして申し訳ありませんでした。そろそろ失礼致しますわね」
 扉のほうに向かって、衣擦れの音が遠ざかっていく。
「イシュタル様」
 扉を閉じようとして、思い出したようにイザベラは振り返り、声をかける。
「自分の運\命を自分で決められないという意味では、私もあなたと同じですわ」
 その表情がどこか寂しげだったことを、視線を落としたままのイシュタルは気づかなかった。



[115 楼] | Posted:2004-05-22 17:20| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


白 夜


--------------------------------------------------------------------------------


-3-


 季節が変わる頃、ユングヴィの城は新しい客人を迎え入れた。
 ヴェルダン国王夫妻レスターとパティ。そして、シアルフィ公妃ラナ。いずれも、ユングヴィ公爵の近しい血縁者である。彼らの滞在は、城内に明るい風をもたらした。何よりもそれは、ファバル自身に良い影響を与えたらしい。普段から明るく気さくだと評されることの多い公爵だが、ここのところ執務中にも笑顔が見られることが多くなった。


 そんなある日の夕刻、城内はいつになくあわただしい空気に包まれていた。ユングヴィの各地から、まるで申し合わせたように暴動の発生を知らせる報が舞い込み、調査と鎮圧のためにバイゲリッターの出動が続いているのだ。
 これまでユングヴィは、そういった問題とはほとんど無縁だった。ファバルが公爵としてこの地に赴任してからも、領地を巡る貴族同士の多少の小競り合いはあったにせよ、民衆\による反乱や暴動の類は起こっていない。それだけに事態を重く見た政府は各地に伝令を飛ばし、情報の収集を急いでいた。

「暴動? 市内でか?」
 レスターの報告を受け、ファバルは執務机から顔を上げた。
 執務室には、ファバルの他にレスターやパティ、ラナも詰めている。彼らも手分けをして、次々に舞い込んでくる報告の取り纏めを行なっていた。


「ああ。首謀\者も目的も不明だが、松明を手にした集団が市街地を城に向かって北上しているらしい」
 その返答に、ファバルは動揺を隠し切れなかった。
 一部の心得違いの貴族の反乱というのならまだ納得できる。しかし、この暴動が市民による自発的なものなら、自分の治世に国民が否という回答を突きつけているということだ。
 これまで自分がしてきたことは間違っていたのだろうか。この騒動の最初の報を受けて以来、ファバルは自問自答を繰り返している。

 だが、いずれにせよ、このまま放っておくことはできない。ファバルは暴動の鎮圧のために自ら出動することを決めた。すでに、バイゲリッターのほとんどは、少数の部隊に分かれて各地に飛んでいる。城内の守備のためにも、これ以上の数を割く事はできない。何よりも、膝元というべき城下街で起こった出来事だけに、自分の目で事実を確かめたかった。

「俺にも手伝わせてくれないか、ファバル」
 準備を整えるファバルに、レスターが声をかけてくる。愛用のキラーボウを手にした彼も、すでに出撃の用意はできていた。
「バカ言え。客人にそんなことさせられるか」
「何を水くさいことを言っている。以前は一緒に戦った仲だろう」
「そうよ、お兄ちゃん。一個中隊雇うより、レスターひとりのほうがよっぽど頼りになるわよ」
「だけど…」
 ためらうファバルの内心を察したレスターが笑みを浮かべる。相手の気持ちに敏感なところは、母親の血を受け継いでいるらしい。
「確かに、俺が関わると内政干渉ととられて問題になるかもしれない。だが、今は一人の手も必要な時だろう?」
 現在はヴェルダンの王位に就いているレスターがユングヴィの事情に介入するのは、下手をすると国際問題に発展しかねない。レスターに迷惑をかけてしまうことにならないかと、ファバルはそれを憂慮したわけだが、結局彼の厚意に甘えることにした。かつて共に戦ったレスターの存在は、なまじの援軍よりよほど心強いのは確かだった。



 小隊のみを率いたファバルとレスターは、市街地へと続く中央通りに向かって馬を走らせた。やがて、闇の中に浮かび上がるいくつもの松明の炎が見えてくる。
 様子を伺いながら近づくにつれ、予想していたほど大規模なものではないことがわかってきた。掛け声や鳴り物で大人数に見せかけてはいるが、思ったより小さな集団のようだった。
 松明の灯りに照らされて垣間見える彼らの姿は、帯剣し防具を身につけた者がほとんどで、一般市民とは少し様子が違っていた。しかし、その装備も服装もばらばらで統一感がない。少なくとも、どこかの貴族が所有する正式な軍隊ではないことがうかがえる。

 その時思いも寄らないことが起こった。それまで、宮殿に向かって進んでいたその集団が、ファバルが率いる衛兵の一隊を目にしたとたんに松明を投げ捨て、元来た方に向かって逃走を始めたのだ。暴動の目的が公爵の治世に対する不満を訴えることにあるなら、当の本人を前に逃げ出すはずがない。
 しかも、一気に逃亡するのではなく、一定の距離を保ちながらまるで誘導するかのように遠ざかっていく。その不自然さに、ファバルは馬の手綱を引いた。

「なんだかおかしいな」
「おまえもそう思うか?」
 ファバルの呟きに、隣に馬を止めたレスターが答える。どうやら同じことを感じていたらしい。
「あまりに手応えがなさ過ぎる。行動も不自然だ。武器を身に付けているわりには、まるで戦う気がない」
「つまりこれは………囮ということか?」
 二人とも同じ結論に達した。そうと判断すると、行動は早かった。

「ファバル。こっちは俺に任せて、おまえは城に戻ってくれ。パティ達が心配だ」
「すまない、レスター。後は頼む」
 馬首を返し、再び城に向かうファバルの頭の中では、さまざまな推測が渦を巻いていた。
 今朝から続いている各地の暴動の報告が、宮殿から公爵とバイゲリッターを遠ざけることを目的としているならば、狙いは武力による城の制圧だろう。今、城内にはパティとラナという、人質にするには恰好の存在がある。彼女らを盾に、何らかを――おそらくは政権の委譲を――要求してくるのではないか。そして、その推測が正しければ、首謀\者は国内の貴族ということになる。
 最悪の事態を想定し、あらゆる対策を考えながら馬を飛ばす。やがて、再びユングヴィ城の明かりが視界に入ってきた。

 城に戻ったファバルは、城門が封鎖されていることを恐れたが、衛兵はいつも通りに公爵を迎え入れた。城内の様子も、暴動騒ぎによる慌しさはあったが、それを除けは普段と特に変わりがないように思える。少なくとも、いずれかの軍隊によって制圧された様子はない。
 とりあえず執務室に向かったが、そこには書記官の姿しかなかった。彼の話によると、身重のラナを休ませるためパティが付き添って二人で部屋に戻ったという。自分の心配が杞憂に終わることを祈りながら、ファバルは奥宮へと向かった。そこは賓客を接待するための一廓であり、パティ達やイシュタルの部屋もここにある。まずは、彼女達の無事を確認したかった。

 だが、本宮と奥宮の境にあたる扉の前でファバルの足が止まる。そこに、衛兵が二人倒れていた。死んではいないようだったが、何らかの方法で眠らされたらしい。扉を突き破るように開くと、ファバルは中に駆け込んだ。
 普段なら、侍女や小姓達とすれ違うはずの廊下は、異様なほどに静かだった。この奥宮には、誰もいないのではないかと思わせる。
 その時どこかから、剣の交わる音が聞こえてきた。思わずファバルはその方向に走り出す。廊下の角を一つ曲がった時、剣戟はひときわ大きくなった。近くの扉が開いたままになっている。それは、ヴェルダン国王夫妻が使用している部屋の一つだった。


「パティ!」
 飛び込んだ部屋の中は、椅子や家具の一部が倒れ、嵐が過ぎ去った後のような状態だった。剣の音は、テラスのほうから聞こえてくる。ガラスの扉は外に向かって開け放たれ、白い手織りのカーテンが夜風を受けてふわりとなびいていた。外に目をやると、月明かりに照らされた中庭で、金の髪の小柄な少女が二人の男を相手に戦っている。
 ファバルは無言で、イチイバルに二本の矢をつがえた。次の瞬間には、こちらに背中を向けてパティに剣を振り下ろそうとしていた男が首の後ろを貫かれ倒れ伏す。それとほぼ同時に、パティの横をすり抜けたもう一本の矢が、彼女の背後にいた男の左胸に突き刺さった。

「お兄ちゃん、遅いわよぉ…」
 兄の姿に安心したのだろう。パティが崩れるように芝生の上に座り込んだ。良く見ると、彼女の近くにもう一人の男が倒れている。おそらく、パティが倒したのものと思われた。倒れている男を検分していると、パティがいつの間にか近くに寄ってその様子を覗き込んでくる。
「ごめん、殺しちゃったかも。手加減できるほどの余裕はなかったから」
 彼女の言うとおり、その男はすでに息がないようだった。だが、パティにそう言わせるとは相当の腕の持ち主と思われる。父親を通じてわずかながらオードの血を引く彼女は、かつての戦いの中でイザークの剣士にも引けを取らない剣の使い手になっていた。

「大丈夫よ」
 その時、部屋の中から声が聞こえ、ファバルとパティは同時に振り返った。そこには、夜目にも白いローブを身に付けたラナが立っている。
「あの人が指示を出していたみたいだったから、とりあえず眠らせたわ」
 スリープの杖を抱えたままラナが指差した部屋の中に、一人の男が倒れていた。



 翌日は、宮廷中が大変な騒ぎとなった。公爵の妹でもある隣国ヴェルダンの王妃が何者かに命を狙われたという情報は、緘口令が敷かれていたにも関わらず、またたくまに広まっていく。
 前日、暴動の鎮圧に向かったバイゲリッターの各部隊も次々と帰還し、その結果、当日舞い込んだ暴動の報は全て虚偽の情報であることが判明した。バイゲリッターを分散させ、城の守備を手薄にするのが目的だったらしい。

 レスターが捕えた市街地の暴動騒ぎの実行犯達は、全て金で雇われたいわゆるならず者の類で、雇い主が誰なのかを知る者はいなかった。そんな中、パティを襲った刺客の生き残りが、仕事を依頼した人物の特徴を覚えていた。証言を元に調査が進められ、やがてある人物が浮上する。それは、宰相フェルン侯爵の家令の一人であった。


 扉が開き、ファバルが執務室に入ってきた。中で連絡を待っていたレスターは、憔悴した従兄弟の様子に、一瞬声をかけるのをためらってしまう。
 執務机の椅子ではなく、自分の向かいの長椅子に腰を下ろしたファバルを、レスターは痛ましいような思いで見つめた。

「やはり、宰相の差し金だったのか?」
 レスターが問いかけたのは、しばらく経った頃だった。ファバルは視線を下に向けたまま、疲れたように答える。
「ああ、家令が自供した。証拠もいくつか見つかっている。言い逃れは難しいだろう」
「だけど、どうしてパティが狙われたんだ? まさか、彼女がユングヴィの継承権を持っているからか?」
「いや、本当の狙いはイシュタルだ。暴動騒ぎを起こし、混乱に乗\じて彼女の命を奪うつもりだったらしい。イシュタルの部屋に向かう途中で、パティとラナに姿を見られたんだ」
「イシュタル殿?」
「彼女がユングヴィ公妃になるという噂があったんだ。フェルンは自分の娘が公妃になるためには、イシュタルが邪魔だと判断したんだろう」
 ファバルは自分の頭を抱えるようにして、深いため息をついた。
「俺のせいだ。俺が噂をきちんと否定しなかったから…」
「おまえのせいじゃない、ファバル。どんな理由があったにせよ、暗殺を正当化することなどできない。今回のことがなかったとしても、彼はいずれ違う形でユングヴィに害を成していただろう」
「レスター…」
「たとえ公爵の命を狙ったのではないとしても、これは立派な反逆罪だ」
「…ああ」
 ファバルの瞳を、昏い影がよぎった。


 即日、フェルンは宰相の任を解かれた。当分の間は監視役でもある執政官の館に預かりの身となり、行動も制限されることとなる。当然の事ながら、宮廷への出仕も許されない。もし罪状が明白になれば、領地の没収や爵位の降格もありうるだろう。彼が欲してやまなかった権力への道は閉ざされた。

 公爵への抗議文を残し、フェルン侯爵が自害したとの知らせがファバルの元に入ったのは、翌日の朝のことだった。


白 夜


--------------------------------------------------------------------------------


-4-


 フェルン侯爵の死から十日ほど経ったある日のこと、侯爵令嬢イザベラが、宮廷を辞すための挨拶にファバルの元を訪れた。父の葬儀を済ませた後、彼女は侯爵家の領地を全て国に返上し、今後は亡き母親から受け継いだ領内にある修道院に身を寄せることにしたという。
 父の喪に服しているのだろう。黒\いドレスに身を包んだほっそりとした姿は、以前よりもいっそう儚い印象を受ける。彼女と顔をあわせたのは二、三回にすぎなかったが、その時も身につけていたドレスの色はいつも黒\だった…そんなことを、ふとファバルは思い出す。イザベラは以前から、ずっと誰かの喪に服していたのだと、この時初めて彼は気づいた。


「フェルンのことは…すまなかった」
 ファバルは重い口を開いた。目の前の彼女は、意外なほどに落ち着いて見える。あまり感情のうかがえないその顔に、うっすらとした不可思議な笑みが浮かぶ。
「父は大罪を犯したのですから当然のことです。公爵が気に病まれることはありません」
「……修道院に入ると聞いたけど」
「ええ、残った財産も全て寄進致しました。これからは、父の冥福を祈りながら静かに暮らしますわ」
 そして短く礼の言葉を述べ、イザベラは退室しようと背を向けた。ひどく頼りなく見える後ろ姿に、ファバルが胸の底に押し隠していた罪の意識が疼きだす。
「もし俺に、何かできることがあったら言ってくれ」
 思わず、そう声をかけていた。
「……貴方に…できること?」
 イザベラが緩慢なしぐさで振り返る。彼女の顔から、再び表情が消えた。そのまましばらくの間、黙ってファバルの顔を見つめている。


「では………スコピオ様を返して」
 長い沈黙の後、ファバルの目を真っ直ぐに見返したままイザベラが言う。
「スコピオ様を生き返らせて。私をもう一度あの方に会わせて…」
 淡々とした口調が、彼女の絶望の深さを物語っている。その事実に、ファバルは打ちのめされる思いがした。
「それができないのなら、貴方にできることは何もありませんわ」
 表情を強張らせたままのファバルに一瞥を投げると、イザベラは扉の向こうに姿を消した。

 ―――貴方は私の命にも等しい方を永遠に奪ったのです。私はそのことを忘れはしません。

 彼女の瞳はそう糾弾していた。愛する人を殺した仇を、彼女はついに許すことはなかった。
 椅子の背もたれに背中を預け、身体を投げ出すようにしてファバルは天井を見上げた。
 あの時のことが蘇ってくる。


 ―――あたしは嫌よ、戦うなんて

 大きな空色の瞳を見開いてパティは言った。

 ―――だって、そのスコピオって人は、あたし達の従兄弟なんでしょ? ということは、レスターやラナと同じじゃない。話せばきっとわかってくれるわ。殺し合いなんて絶対に嫌!

 それはファバルにしても同じだった。ユングヴィ家は、二代に渡って肉親同士で血を流し合っている。こんなことは、自分達で終わりにすべきだと決意していた。だから、フリージ攻略の際、援軍として現れたバイゲリッターの討伐を自ら志願したのだ。戦うためではなく、話し合いをするために。

 だが、戦場で対峙した従兄弟は、蔑むような目をファバル達兄妹に向けた。

 ―――なるほど、反逆者の子は反逆者というわけか

 まるで挑発するかのように、馬上からスコピオは見下ろしていた。ファバルの呼びかけにも全く耳を貸そうとはしない。

 ―――海賊\に身を落としたと聞いてはいたが、貴様の母親は心根まで腐りきっていたと見える

 その一言に、ファバルの頭に血が上る。自分のことはなんと言われても耐える自信があった。しかし、母を侮辱されるのは許せない。思わず、イチイバルの弓弦に指がかかる。

「だめよ、お兄ちゃん!」
 その時、体当たりするかのような勢いで飛び込んできたパティ。
「絶対に説得するの! みんなでいっしょにユングヴィに帰るんでしょう?」
 訴える目の真剣な光に、ファバルは我に返る。弓弦から手を離し、もう一度話し掛けるためスコピオを見た時、その目が驚愕に見開かれた。スコピオは手にした弓を構えると、パティに向けて弓弦を引き絞ったのだ。その瞬間、ほとんど反射的にファバルはイチイバルの矢を放っていた。妹の危機に、考える間もなく身体は勝手に動いていた。

 だがスコピオは矢を放ちはしなかった。ファバルが攻撃の意志を見せたとたん彼は弓を下ろし、向かってくるイチイバルの矢を避けようともせずに真っ直ぐにこちらを見つめていた。
 あの時のスコピオの表情が、ファバルには忘れられない。まるで裁きを待つ人間のような、あの静かな表情は何だったのだろう。
 自分がとてつもない大きな間違いを犯してしまったことを、この時ファバルは思い知らされた。
 仕方がなかったのだとは言いたくなかった。それを言ってしまったら、かつて自分達を踏みにじった帝国の兵達と同じになってしまう。だから、スコピオの死も、フェルンの死も、イザベラの憎しみも悲しみも、目をそらさずに全部受け止めなくていけないのだと、そう思った。
 それでも、やりきれない思いは残る。

 ―――どうしてみんな死に急ぐんだ

 それがファバルは悔しかった。

 ―――生きてさえいれば、やり直すことはできるのに

 だが、その思いが彼らに伝わることはなかった。ファバルはどうしようもない無力感に襲われていた。




 その日の夕刻、ファバルがその部屋を訪れたのは、いつもよりだいぶ早い時間だった。まだ夕食には間があったが、いつになく疲れた表情の彼をイシュタルは黙って部屋に招き入れた。
 窓の外には、黄昏の空が広がっている。夕闇に向かって刻々と変化する景色をぼんやりと眺めながら、ファバルはぽつりぽつりとイザベラとのやりとりを話し始めた。

 それを聞いているうちに、イシュタルの脳裏にイザベラが突然この部屋を訪れた日のことが蘇ってくる。当時イシュタルには彼女の目的がわからなかったが、今では彼女がどんな気持ちだったのか、なんとなくわかるような気がする。イザベラは、同じ境遇のイシュタルに同情し慰めるためにやってきたのだ。そして、そうすることによって自分自身も慰められたかったのだろう。愛する者を失い、一人生き続けなければならない孤独を、誰かと分かち合いたかったのだ。
 自分はそれに応えてやれなかった――。その事実が消えない重石となってイシュタルの胸に残る。だが、それよりも遥かに重いものがファバルの中には残されたのだろう。そう彼女は思う。

「ちょっとだけ、堪えたかな…。公爵なんてものをやっていると、これからもこういうことがあるんだろうな…」
 イシュタルに背中を向け、窓の外を見つめたままファバルは言った。
「でもまあ、一度決めたことだから、がんばるしかないよな」
 その声だけを聞いていると、普段と特に変わりはないようにも思える。だが、どんなに辛くても、彼が自分の前では決してそれを見せないようにしていることをイシュタルは知っていた。
 見つめることしかできない彼女の前で、誰に聞かせるでもなくファバルが呟く。
「仇を討たれてやってもいいか…何度かそう思ったこともある。でも、やめた。それでスコピオが帰ってくるわけじゃないし、俺が死んだらパティを悲しませるからな」
「ファバル……」
 イシュタルはそっと彼の元へ歩み寄った。
「パティだけじゃないわ。おまえが死んだら……わたしもきっと悲しむわ」
「イシュタル…?」
 驚いたような表情でファバルが振り向く。そして目の前に佇むイシュタルを呆然と見つめた。
「だから、無理をするのはやめて、ファバル」

 ―――わたしがいるから…

 思わず口にしそうになって、慌てて自分を抑えた。その言葉を口にする資格が自分にはない。己の未来に、何の覚悟も責任も持っていない人間が言っていい言葉ではない。
 だからイシュタルは、何も言わずただ静かに彼に寄り添った。両腕を伸ばし、途方にくれたように自分を見ているファバルの頭ごとそっと抱き寄せる。
 しばし、そのまま立ち尽くしていたファバルは、やがて彼女の肩口に顔を埋め、縋り付くようにして嗚咽をもらし始めた。その黄金の髪を梳くように、イシュタルの指がゆっくりと滑ってゆく。

 ―――今だけなら許されるかもしれない

 そんなことをふとイシュタルは思う。
 自分の力など借りずとも、いずれファバルは立ち直る。それだけの強さを彼は持っている。だから、今この時だけ、自分が彼の心を慰めても、きっと許してもらえるだろう。イシュタルは自分に言い聞かせた。
 誰に許されるのか。神なのか、赤い髪の少年なのか、それとも自分自身にか。それはイシュタルにもわからなかった。


 実権を握っていた宰相の突然の失脚に一時は混乱を見せた宮廷も、次第に元の秩序を取り戻していった。信念を曲げず自分なりのやり方で政務に取り組む公爵の元、ユングヴィは緩やかではあるが着実な発展を遂げていく。
 歴代の国主の中で最も民に愛された公爵と彼が呼ばれるようになるのは、これよりもう少し後のことである。


-END-



[116 楼] | Posted:2004-05-22 17:20| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


Penny Rain


--------------------------------------------------------------------------------



 今にも泣き出しそうな灰色の雲がバーハラの上空を覆っている。
 間もなく振り出すであろう雨を予測してか、城外に出る者の数は比較的少なかった。勝利の余韻に浸る間もなく、全ての人々は戦後処理と復興に向けて忙しく立ち働いている。だから、王宮の広大な庭園の一角で言い争う男女の姿に気づく者は誰もいなかった。

「ナンナ、待てよ!」
 アーサーは、ようやく追いついた少女の手を掴んだ。ずっと走り続けたから、すっかり息が上がっている。庭園からもずいぶんと離れてしまったようだ。周囲の風景は、色とりどりの美しい花々から、樹木の立ち並ぶ緑の色彩に変わっていた。


「手を離して、アーサー」
 目の前で、艶やかな黄金の髪が翻る。榛色の瞳が真っ直ぐにアーサーの目を射た。その鮮やかな印象に、アーサーは思わず気圧されそうになる。
「離したら、また逃げるだろう?」
 二度と離すものかとの決意を込めて、アーサーはようやく捕まえた細い手首をさらに強く握り締めた。ナンナが思わず眉を顰める。
「…わかったわ、ちゃんと答えるから。だから、その手を離して」
 それでもまだ疑わしそうに、アーサーはなかなか手を離そうとはしない。しかし、自分を見つめる少女の真摯なまなざしに、不承不承といった呈で手の力を緩めた。
 アーサーの目を見つめたまま、ナンナはゆっくりと桜色の唇を開く。そして一言だけ、きっぱりと言い放った。


「わたしは、あなたと一緒にフリージに行くことはできないわ」
 それが、自分に求婚したアーサーに対するナンナの答えだった。
「どうして? だって君は、俺を好きだって言ってくれたじゃないか」
「あれは一時の気の迷いよ。あの時のわたしはどうかしてたんだわ」
 ナンナは一瞬だけ視線を逸らしたが、それはすぐに元の位置に戻される。
「わたしは、お母様の遺志を継いでノディオンに帰るわ。故郷に帰ることのできなかったお母様の代わりに、わたしには国の復興を見届ける義務があるのよ。デルムッド兄様には、お父様の国を継ぐという大切な責務があるから、わたししかいないの。お母様の思いを受け継ぐことができるのは。だから、あなたとフリージに行くことなんてできないわ」
 だが、今のアーサーにとって、それは言い訳にしか聞こえない。
「そんなこと言って、本当はあいつの側にいたいだけなんじゃないのか」
「なんですって?」
 少女の瞳に苛烈な炎が灯った。
「取り消しなさい、アーサー! わたしの、お母様への思いを侮辱するつもり!?」
 その怒りの激しさは、アーサーの言葉が全くの的外れではないことを言外に示している。だから、アーサーは引くつもりなど少しも無かった。
「母親なら、娘の幸せを一番に考えてるさ。自分の人生に縛り付けるようなことをするもんか。君は、母親を言い訳に使っているにすぎないんだ」
 怒りに赤く染まっていたナンナの顔から、一瞬にして血の色が引いていく。彼女はそのまま何も言わず、突然身を翻した。


「ナンナ!」
「来ないで!」
 差し伸べる手を振り払い、ナンナは再び走り出す。方向も定めずに、ただアーサーから遠ざかることだけを考えていた。
「ナンナ! そっちは崖になってるんだ。気をつけろ!」
 アーサーの言葉に、驚いたような表情でナンナが振り向く。しかし遅かった。ふいにバランスを崩した彼女が、宙を掴むように手を大きく伸ばした次の瞬間。彼女の身体は後ろに向かって倒れこみ、そしてアーサーの視界から消えていった。

「ナンナ!!」
 アーサーの絶叫が辺りに響く。
 ほぼ同時に、とうとう耐え切れなくなった空が銀色の雫を零しはじめた。




 雨が硝子を叩く音が続いている。単調な音楽にも似ているそれを聞き流しながら、アーサーは腕の中で眠る少女を見つめていた。
 ナンナが足を滑らせた崖は、幸いにもさほどの高さはなかった。柔らかな下草が生い茂っていたのも運\がよかったと言えるだろう。アーサーが駆けつけた時、ナンナはこれといった外傷もなく、ただ気を失っているだけだった。
 彼女を抱いて城に戻ろうとする途中、急に雨足が強くなった。庭園の片隅に小さな温室を見つけ中に入り込んだアーサーは、ここでこうして雨が止むのを待っている。
 大切な宝物でも包むように、ナンナの身体を自分のマントでくるみ、膝の上に抱きかかえた。早咲きの薔薇の馥郁とした香りの中で、まるで眠り姫のようにナンナは安らかな表情を浮かべている。普段は決してこんな近くに寄らせてはくれない気位の高い少女が、自分の腕の中で大人しく眠っているのが、なんだか嬉しいようなくすぐったいような不思議な気持ちだった。

「眠ってる時の君は、こんなに素直でかわいいのにね」
 まるで独り言でも囁くかのように、アーサーはそっとナンナに語りかけた。
「君は初めて会った時から俺を目の敵にしていたね。ちゃんとした覚悟もなしに成り行きで戦いに参加する、そんないい加減なところが許せないって。その時は生意気な女って思ったけど、でも、そんな気の強いところも嫌いじゃなかったんだ、本当は」
 絹糸のように細く艶やかな黄金の髪に指を絡ませると、愛おしげにアーサーはゆっくりと梳き流した。ナンナを見つめるその瞳が、優しい彩りに満ちていく。
「言うことはきついけど面倒見は結構よかったし…。こんなに気になって仕方がない女の子に出会ったのは、君が初めてだった。俺がケガするたびに、どうしてラナやユリアじゃなくて君のところに回復を頼みに行ってたか、気付いてた?」
 問い掛けても、少女は人形のように身じろぎひとつせずに目を閉じている。白磁の肌の中でひときわ鮮やかな唇の朱だけが、彼女が生ある者であることを証明していた。
「ねえ、ナンナ。俺と結婚しよう。俺達、案外似たもの同士だし、君の憧れの従兄殿は他の女の子に気があるみたいだし、君の性格の悪さを気にしない男なんて俺くらいのもんだぜ。それに…」
 アーサーの口許に、ふと笑みが浮かんだ。
「それに、やっぱり俺は、どうしようもなく君を愛してるみたいだから」


 その時―――

「バカね。普通はそれを最初に言うものよ」
 アーサーの声とは明らかに違う、凛とした涼やかな声が聞こえた。アーサーの腕の中で眠りについていた美しい人形が、夢見るように瞳を開く。
「ナンナ、気が付いたのかい?」
「とっくに気付いていたわ。ただ、疲れてたから目を閉じてただけよ」
「俺の腕の中は、そんなに居心地がよかった?」
「あなたがうるさく話しているから、少しも落ち着いて眠れなかったわ」
 身を起こし、離れようとするナンナを、アーサーは再び腕の中に引き戻した。
「愛してるよ、ナンナ。俺と結婚しよう」
 耳元で囁かれた真剣な声が、ナンナの抵抗を奪う。少しの間を置いてから身体を離すと、ナンナは目の前の瞳をじっと見つめた。それを受け止めるアーサーの瞳も、決して逸らされることはない。
 彼の瞳の中に映る自分の姿をしばし見つめていたナンナだったが、やがて諦めたように小さく息をついた。

「…仕方ないわね。あなた一人じゃ、フリージの先行きが心配だもの」
 待ち望んだ受諾の返事であるにも関わらず、そのそっけない言い方に、思わずアーサーは不満の表情を見せる。
「素直じゃないなあ。俺を愛してるって言えよ」
「思ってもいないことは言えないわ」
「ふうん……」
 アーサーの声が低くなった。こんな時、彼はろくなことを考えていない。警戒したナンナが距離をとろうとした瞬間、ふいに周囲の景色が回転した。
「きゃ!」
 気が付くと、ナンナの身体は身に纏ったマントごと、柔らかな芝生の上に押し倒されていた。温室の硝子の天井を背景に、いつものように人を食った笑みがナンナを見下ろしている。


「そんなふうに言われると、どうしても言わせたくなるなあ」
「もう、ふざけないで! 手を離しなさい、アーサー」
 アーサーを押しのけようと腕に力を入れた瞬間、ナンナの身体が硬直した。
「え?」
 ふいに襲ってきた未知の感覚。喉に押し当てられた柔らかく熱いもの。それがアーサーの唇であることに気づいた時、ナンナはこれまでに経験したことがないほどの混乱に陥った。
「ア…アーサー…!」
「ね? 無理やり言わされたくなかったら、今ここで自分から言っといたほうが得策だよ」
 アーサーはナンナを解放するつもりはまるでないらしい。芝生の上に手首を縫いとめた手も、拘束するかのように絡み付いてくる腕も、ナンナの力では押し返すことができない。いつもの悪ふざけだと思っていたナンナの心の隅に、初めて恐怖が忍び込む。
「いや! 離して、アーサー」
 意地もプライドも吹き飛んで、気づいたらそう叫んでいた。

 ふいに身体が軽くなった。すぐ近くから、抑えた笑い声が聞こえてくる。恐る恐るナンナがまぶたを開くと、笑いをかみ殺したような表情のアーサーの顔が目の前にあった。
「君でも、そんな顔するんだな」
 普段は硬い氷の鎧で心を覆い、滅多なことでは弱い部分を見せてくれない彼女の狼狽しきった表情は、アーサーの目にはひどく可愛らしく映る。
「あ、あなたなんか……」
 からかわれたと知って、ナンナの顔が怒りと羞恥に赤く染まる。アーサーを押しのけるように起き上がると、きっとした表情で彼を睨みつけた。
「礼儀知らずで恥知らずで自分勝手で! こんないい加減な人、絶対に許せない。今まで何度そう思ったかしれないわ! ……でも」
 ナンナは一瞬だけ視線を下に向ける。だが、すぐに顔を上げると、まっすぐにアーサーを見つめた。
「……愛してるわ」
 まるで挑むような口調。射抜くような視線。
 だが、そんな彼女がアーサーには愛しくて仕方がない。
「よく言えました」
 そう言うと、まだ緊張に身体を固くしているナンナを、すっぽりと腕の中に包み込んだ。
「一生大切にするよ、ナンナ。俺を選んだことを、絶対に後悔なんかさせないから」
「当然よ。そうでなかったら、許さないわ」
「うん、肝に銘じておく」
 自らに言い聞かせるように、静かに囁いたアーサーの声。それが、一見軽薄にも見られがちな彼の内なる真実であることに、ナンナはとっくに気づいてはいたけれど、すんなりと認めてやるほど素直になりきれてはいない。
 だから、ナンナの口をついて出るのは相変わらず憎まれ口だった。でも、アーサーはとても嬉しそうに微笑んで、彼女を抱きしめる腕に力を込める。やがてナンナも、そっとアーサーの背中に腕を伸ばした。あくまでも、仕方なく…というふうを装うのだけは忘れずに。


「雨が上がったね」
 アーサーの言葉に、ナンナは硝子張りの温室の外に視線を向けた。雲間から差し込む陽の光が、露を含んできらめく緑の風景を鮮やかに映し出している。景色に目を奪われている彼女の傍らで、静かにアーサーは立ち上がった。

「お手をどうぞ、お姫様」
 言葉と共に差し伸べられた右手に、ナンナは自らの手をそっと重ねた。


-END-



[117 楼] | Posted:2004-05-22 17:21| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


黄 金 の 大 地
~きんのだいち~


--------------------------------------------------------------------------------



-1-




「ちょうどきりがいいから、今日はこれで終わりにしようか」
 検討を終えた書類に署名をすると、リーフは顔を上げた。
「おまえももう下がっていいよ、フィン」
 羽根ペンをインク壷に戻しながら、目の前に立つ青い髪の忠臣に声をかける。しかし、書類の束を書記官に手渡した後も、フィンはその場を立ち去ろうとはしなかった。問い掛けるような視線を向ける主君に向かって、やがて彼は意を決したように口を開く。
「陛下。伯爵夫人から、例のお話は考えていただけたかと打診\がありましたが」
 その言葉を聞いたとたん、若きトラキア王の眉間にかすかにしわが寄った。あからさまに大きなため息をついてから、少し皮肉を含んだ目で忠臣の顔を見返す。
「彼女はとてもいい人だが、おせっかいなのが玉に瑕だな」
「おせっかいなどではありません。王位に就いてそろそろ6年にもなろうかというのに、未だお妃を迎えようとなさらない国王を心配するのは、臣下として当然のことです」
「順番から言えば、私よりおまえの結婚のほうを心配すべきだと思うんだがな、伯爵夫人も」
「話をそらさないで下さい、陛下。旧アルスター王家の姫君と、コノート王家の血を引く姫君、いずれを選ばれても、陛下にとって大きな力となって下さるものと思われます」
「そうだ。いっそのことその話、おまえが受けたらどうだ?」
「リーフ様!」
 ついにたまりかねたように、フィンは声を荒らげた。無意識の内に、王位に就く以前から呼んでいた名を口にしてしまう。そんな彼を見つめる王の表情は、対照的に静かなものだった。



「なあ、フィン。私が結婚することは、そんなに必要不可欠なことか?」
「もちろんです。レンスター王家の血を…聖騎士ノヴァの貴い血を絶やすわけには参りません」
「まるで種馬のようだな、私は」
 若き主君の露骨な物言いに、堅物の臣下は眉をひそめたが、当の本人は意に介した様子もない。まるで独り言でも呟くように、淡々とした口調で言葉を続けていく。

「ノヴァの血の存続ということなら、姉上の子供たちがいるじゃないか。私にこのまま子がなければ、あの子たちのどちらかに自然と王位は継承されるだろう。難色を示す連中がいるようなら、形だけでも私の養子に迎えればいい。幼いながらにその身に聖痕を持つ、グングニルとゲイボルグの正当な継承者たちだ。彼らに王位が受け継がれることが、むしろ正しい流れなのかもしれない」
「リーフ様!」
 思わずフィンは叫んでいた。主君の独白には、己を蔑むような響きがかすかながら感じられる。彼を唯一無二の王として心の中に位置付けているフィンにとって、それは聞き逃すことができない言葉だった。
「なぜ、そのようなことをおっしゃるのです。聖痕の有無などに意味はありません。このトラキアを解放し、対立する二つの国をまとめあげたのは、リーフ様のお力ではありませんか。リーフ様こそが、この国を導く正当なる王であることは、誰もが認めている事実です」
 真摯に訴えるフィンの言葉に、リーフは自嘲ともとれる笑みを口の端に浮かべた。
「私の力など微々たるもの。おまえをはじめ、多くの人々の協力があってはじめて成し遂げられたことだ」
「しかし…!」
「フィン。おまえは悲しくないのか? おまえの敬愛する父上の聖なる血筋が、王家の本流から消えていってしまうかもしれないんだぞ」
 一瞬の沈黙があった。フィンの表情に、これまでとは違った険しさが走る。
「私がキュアン様にお仕えしたのは、あの方がゲイボルグの継承者であられたからでも、ノヴァの血を濃く受け継いでいらしたからでもありません。キュアン様ご自身を、誰よりも深く尊敬申し上げていたからです。たとえあの方が王子という身分になかったとしても、私の忠誠\はいささかも変わるものではありません」
 それだけは、どうしても伝えておかなければならない真実であり、ずっと己を支え続けたフィンの誇りだった。だから、彼はまっすぐに主の目を見つめたまま逸らそうとはしなかった。逆に、リーフのほうが失言を恥じたかのように目を伏せる。

「そうだな…すまない。おまえの、父上への思いを冒涜したわけではないんだ」
「…わかっております」
 フィンの視線の先でリーフは、テーブルの上に組んだ両手の先を見つめていた。そして再びゆっくりと言葉を選び始める。
「だが、それだけじゃないんだ。私は不要な争いの火種になるようなことは、できるだけ避けたいと思う。私の子は、おそらくその身に聖なる印を宿すことはないだろう。神器を継承できない王子と、すでに聖痕の現れている臣下の子。どちらを王位につけるかで、いずれ国内が二つに分かれる危険は、誰にでも容易に想像できることだ」
「幸いに、アルテナ様の御子様は姫君と若君です。お二人のどちらかが、いずれお生まれになるリーフ様の御子様と婚姻を結ばれることによって、内乱は避けられるかと思います」
「まだ生まれてもいない子供の結婚相手を、もう決めてしまうのかい? 私はそういうやり方は好きじゃないな」
「……王家に生まれた方には…それなりの責任というものもございます」
 苦しそうな表情でフィンは言った。彼とて、幼い頃から我が子の如く守り育てた主君に愛情のない婚姻を勧めるのは、当然ながら本意ではない。その思いはリーフ自身もよくわかっているのだろう。少しだけ、彼の視線が柔らかくなった。



「どうしても……言わなくてはならないのかな…」
「リーフ様?」
「私にはかつて、心に決めた女性がいた。彼女は今では手の届かない遠い人だ。でも、どうしても私は彼女を忘れることができそうもないんだ…」
 はっとしたような表情で、フィンは主君を見た。だが、リーフは視線を下に向けたまま、静かに言葉を続けていく。
「彼女以外の女性を妻に迎えるなんて考えられない。無理にそんなことをしても私は幸せにはなれないし、何よりも相手の女性を不幸にしてしまう。それくらいなら、ずっと独りでいたほうがよっぽどましだ」

「ナンナ様……ですか?」
 長い間を置いて、フィンが問う。それには答えずに、リーフはふいに顔を上げた。
「…子供の頃は、彼女が私の側からいなくなってしまう日がくるなんて、考えもしなかったよ」
 そして、どこか遠くを見るように視線を飛ばした。
「ナンナが私と一緒にレンスターに帰れないと言った時、どんなことをしても引き止めればよかった。ものわかりのいいふりをして、アレスとのことを祝福したりして…、どれだけ後悔したかしれない…」
「リーフ様……」
「私は自分の心がどんなに醜いか知っているんだ。ナンナの優しさに付け込んで、彼女の気持ちを翻させようと何度思ったことか……。アレスに微笑みかける彼女を見た時、心の奥底でアレスに憎しみを抱いたことさえある…」

 いつも朗らかで聡明な主君が、胸の奥深くに秘めていた闇。その存在に、フィンはこの時初めて気づいた。その事実に愕然とする。

「でも、ナンナに幸せになってほしいのも事実なんだ。彼女の笑顔を見るだけで、私は自分まで幸せになれるような気持ちがする。だから、結局私はナンナを引き止めることはできなかった」

 微笑すら浮かべながら静かに語る若き王。その横顔が、ふいに遠くに感じられた。彼はもう、自分の手の中の幼い王子ではないのだと、フィンにはとっくにわかっていたはずなのに、今改めてその事実を突きつけられた気がする。

「私はね、フィン。このトラキアに平和と繁栄を築くための礎になるつもりだ。そのために一生を捧げる覚悟でいる。だからせめて…、ナンナがいつか自分の中で思い出に変わるまで、彼女を思い続けることだけは許してほしい…」

 フィンは、返す言葉を見つけられなかった。そこまで覚悟を決めている主君に、いったいどんな言葉をかけることが出来ただろう。

「私とナンナとフィン…。三人とも血の繋がりはないのに、子供の頃からずっと一緒だったね。私にとってフィンは父上で、ナンナは妹みたいなものだった。だけど、いつしかナンナは妹と思うにはまぶしすぎる存在になっていって…。きっと、大人になったらナンナは私の妻になって、ずっと変わらず三人で暮らしていくものだと、そう信じていた。その願いはかなわなかったけれど、それでも私の家族はフィンとナンナなんだ」
 ずっと遠くを見つめていたリーフは、再びその視線をフィンの元へと戻した。
「でも、家族というものはいつかそれぞれに新しい家族を見つけて、離れ離れになるものなんだよね。フィンも、いずれ姉上の子が王太子として立った暁には、その子の傅役を頼むよ」
 だが、フィンは拝命の礼をとらなかった。
「畏れ入りますが、その儀ばかりはご容赦願います」
「え?」
「私がお仕えするのはキュアン様と、そして、キュアン様より託されたリーフ様のみ。他の誰をも主君に戴くつもりはございません」
「フィン…」
「かないますなら、この命が果てるまでお側に仕えさせていただくことを、お許し願いたく存じます」

 そこには、幼い頃からずっとリーフを見守り続けた淡青色の瞳があった。どこまでも深く静かなその色に、リーフはしばらく言葉を発することができなかった。次第に胸の中に熱いものが込み上げてくる。溢れ出しそうな感情を抑えるかのように、思わず片手を口許に当てた。やがてその唇から、ようやく一言だけ言葉が紡がれる。

「ありがとう…フィン」
 全ての思いが凝縮された、熱く静かな言葉だった。

 下を向いたままじっと一点を見つめていたリーフは、しばしの沈黙の後ゆっくりと顔を上げた。その表情は、少し前とはうって変わって明るいものだった。濃茶の瞳が、目の前のフィンを見つめる。

「フィン、おまえにはいなかったのかい? 生涯を共にしたいと思う女性は」
 思いも寄らない問いかけに、フィンは一瞬驚きの表情を見せる。たが、すぐに口許に笑みを取り戻した。
「いないわけではありませんでしたが、私が自分の気持ちを自覚した時には、あの方の心はすでに他の男のものでした」
「……そうか」
 フィンの想い人が誰なのか、なんとなくリーフにはわかるような気がした。自分が幼い頃、母親のように慕っていた美しい金の髪の女性。砂漠の向こうへと旅立った彼女が、とうとう目的の地へたどり着くことがなかったと知った時、フィンが人知れず慟哭の涙を流していたことにリーフは気づいていた。

「私達はよく似ているね」
「はい」
 互いに目を見合わせ、同時に苦笑をもらす。
 やがてリーフは、すっかり夜の帳が下りた窓の外に目を向けた。

「アグストリアを訪問するのも、もうじきだね…」
 その言葉に、忠臣はただ黙って頷きを返した。



黄 金 の 大 地
~きんのだいち~


--------------------------------------------------------------------------------



-2-




「ナンナ、用意はできたか?」
「もう少しよ。ちょっとだけ待って」
 アレスが妻の私室の扉を開けると、中にはナンナと娘の二人きりだった。大きな鏡台の前に座らせた幼い娘の髪を、母親自ら整えているらしい。大国アグストリアの王妃という立場にあるナンナだが、娘の身支度を侍女任せにはせず、可能な限り自分の手で行なっている。今、彼女は、娘の髪に瞳の色と同じ水色のリボンを結んでいた。
 娘の世話をしているナンナの姿を見るのがアレスは好きだった。安らぎと暖かさに満ちたその光景は、アレスにとって忘れていた何かを思い出させてくれるような気がする。

「はい、出来たわ。今日はね、お父様とお母様のお友達に会いに行くのよ。あなたもいい子にしていてね」
 小さな娘と視線を合わせ、微笑みながら言い聞かせるように話し掛ける。見た目は人形のように愛らしいのに、女の子らしい装いがあまり好みではないらしく、時間をかけて髪をくしけずり、かわいい髪飾りを丁寧に編みこんでも、すぐに解いてばらばらにしては女官たちを嘆かせている王女だった。
 母の言葉がわかったのかどうか、王女はこっくりと頷いた。だが次の瞬間、座っていた丸椅子から勢い良く飛び降りると、扉の前に立つ父に向かって走り出した。活発なこの王女は、父親が自分を抱き上げてくれるのを待ってなどいない。ほしいものは自分の手で掴み取る主義のようだった。

 ―――お父上の血を濃く引いていらっしゃるようでございますね

 ため息をつきながら女官長が言っていたのを、ナンナは苦笑と共に思い出す。父に走り寄るなり飛びついて、そのままよじ登り始めた娘を、アレスは仕方なく肩に担ぎ上げる。そんな父と娘に向かってナンナは歩み寄った。



「リーフ様にお会いするのも久しぶりね。今回はフィンも一緒だということだし、楽しみだわ」
「ああ、そうだな。公式の場で会うのはグランベルでの式典以来か。トラキアの王が初めて正式にアグストリアを訪問するということで、各国が注目しているらしい。相変わらず煩わしいものだな、王などという立場は」
 必要と在らば、ワープの魔法を使って単身トラキア王宮に乗\り込みかねないアレスは、こういった形式ばったことが好きではない。今ではすっかりアグストリア王としての威厳も風格も備えた彼ではあったが、内面は出会った頃と少しも変わっていないのだ。そんなことを思い、ナンナの口許に笑みが浮かぶ。
 そして、旧友の近況について、互いに二、三の情報を交換している時に、ナンナがふと思い出すように言葉をもらした。
「そういえば、リーフ様はまだお独り身なのよね。お妃を迎えるつもりはないのかしら?」
「ナンナ、おまえ……」
 一瞬、絶句した後、アレスは妻の顔を真正面から見据えた。
「絶対にそれをリーフの前で言うなよ」
「え? どうして?」
「どうしてって……」
 アレスは内心、頭を抱えていた。人の心の機微には聡いナンナが、どうしてこういうことに関しては極端に鈍いのか。リーフはかつてナンナに求婚している。そして、リーフが今でもナンナを忘れられないでいることは、彼女の姿を追うリーフの視線を見れば、アレスには手に取るようにわかる。
 肝心のナンナは、リーフにとってあの告白はすっかり過去の出来事になってしまったと思い込んでいるらしく、公式の場で顔をあわせることがあっても、何のこだわりもなくよき友人として接している。そのほうがアレスにとっては都合がいいので余計なことは言わずにきたが、リーフの胸の内を思うと恋敵というべき存在であるにも関わらず、深い同情を禁じ得なかった。
 不思議そうな表情で自分を見上げたままのナンナに、アレスは思わずため息をつく。
「どうしてもだ。いくら幼なじみだって、そんな個人的なことにまで踏み込むべきじゃない」
 いつもと立場が逆だ。アレスは思う。俺は何を常識人のようなことを言っているのだ。それもナンナに向かって。
 だが、根が素直なナンナは夫の言葉に微塵の疑いも持たずそのまま受け入れたようだった。
「それもそうね…。リーフ様にはリーフ様のお考えがあるのでしょうし」
 一旦言葉を切ると、ナンナは再びその頬に笑みを浮かべた。
「自分が結婚して幸せだから、ついよけいなお節介をやきたくなってしまうのね、きっと」
「俺と結婚して、本当に幸せだったか?」
 肯定の言葉が返ってくると信じてはいても、どうしても問いかけたくなってしまう。そして、答が得られるまでは不安を消し去れないのも、いつものことだった。そんなアレスに、ナンナは変わらぬ笑みを向ける。
「もちろんよ。今までにもいろいろ辛いこともあったけど、そしてこれからだって大変なことはたくさんあると思うけど、アレスさえ側にいてくれればわたしは幸せなの」

 ―――それは俺のセリフだ

 首にしがみつく娘を肩に乗\せたまま、アレスは妻の身体をそっと抱き寄せた。





 アグストリアの王宮に程近い場所に、他国からの賓客の供応のために使用される館がある。少し小さめの城といった風情の豪奢な造りのこの館に、昨日よりトラキア王国からの一行が滞在しているのであった。
 正式な会見の前に、アレスとナンナは彼らだけで非公式にこの場所を訪れた。明日には王宮の大広間にて、大勢の貴族達の見守る中、互いに国を代表するものとして形式的な挨拶を交わさなければならない。その前に、かつて共に戦った仲間として、立場に捉われずに会うことを双方が望んでいたのだった。

「ナンナ!」
 扉を開けた次の瞬間、懐かしい声がナンナの耳に飛び込んできた。椅子から立ち上がり、今にもこちらに向かって駆けてきそうな濃茶の髪の青年。もの心ついた頃から、長い時をずっと一緒に過ごした幼なじみの姿がそこにはあった。
 その後ろには、彼の最も信頼する臣下であるフィンと、今回の非公式な会見の段取りを行なったデルムッドが控えている。共に、トラキアとアグストリアそれぞれの、王の右腕とも言うべき存在だった。

「見違えたよ。会うたびに綺麗になっていくね、ナンナ」
 娘の手を引いたナンナに、リーフのほうから歩み寄って行った。
「リーフ様ったら、あいかわらず口がお上手ですね」
 親しげに言葉を交わす二人の様子は、友好国の王と王妃というよりは、やはり気の置けない友人同士という印象が強い。やがてリーフは、ナンナの隣に立つ長身のアグストリア王に視線を向ける。
「やあ、アレス。久しぶり」
「ああ」
 いわゆる仏頂面に近い表情と声でアレスは短く答える。だが、これが普段の彼の姿だということをよく知っているリーフは、まるで気にした様子もない。
「あれ? 珍しいね。私がナンナに声をかけても君が怒らないなんて」
 むしろ、からかうような表情で、その顔を覗き込む。アレスの眉間のしわが、少しだけ深くなったように見えるのは気のせいか。
 その一方で、ナンナは自分にとっては育ての親とも言うべきフィンに声をかけていた。

「懐かしいわ、フィン。元気そうでよかった」
「ナンナ様もおかわりなく」
 恭しく頭を垂れ、フィンは正式な礼をとる。
「そんな他人行儀な言葉遣いはやめて。以前のように、ナンナと呼んで。フィン」
「いいえ。そのようなわけには参りません。ナンナ様はすでに、大国アグストリアの王后陛下。私ごときが対等に口をきけるお方では、もはやございません」
「フィン…」
 トラキア王国の一家臣としての態度を崩そうとしないフィン。生真面目すぎる彼の表情に、ナンナはふと寂しい思いを抱いた。フィンと自分とは、ずっと変わらぬ家族だと思っていた。なのに、こうして国と身分という壁に隔てられてしまったことが切なく辛い。それは、故郷にも等しいレンスターを捨てて、愛する人との未来を選んだ自分への罰なのかもしれない。そんな思いが胸をよぎる。
 だが、それでもナンナは、アレスと共に歩む道を選んだことを、後悔してはいなかった。

 やがて女官たちが運\んできた飲み物や軽食を前に、それぞれ思い思いの場所に椅子を持ち寄り言葉を交わし始めた。幼い娘を膝の上に抱いたナンナを中心に、アレスとリーフがほぼ等間隔で座る。しかし、主に会話をしているのはリーフとナンナで、アレスは時折振られる話題に短い返事をするのみだった。その様子だけ見ていると、どちらが本当の夫婦なのかわからない。
 その傍らで、両国の宰相同士が談笑している。
「アグストリア王の懐刀は大変な切れ者との噂、トラキアにも届いております」
「フィン殿にそのようなお言葉を頂くとは…汗顔の至りです」
 そんな会話が聞こえてくる。

 大人たちの話に飽きたのか、小さな王女はいつの間にかナンナの膝の上で目を閉じていた。黄金の髪に縁取られた柔らかな頬と長いまつげ。その愛らしい寝顔をリーフが隣からのぞきこむ。
「ナンナによく似ているね。きっと美人になるだろうな」
「まあ」
 リーフがさらに顔を近づけると、視線でも感じたのか王女がふいに目を開けた。目覚めたばかりで、状況がよくわからないのだろう。母親の腕にしがみついたまま、少しぼんやりとした表情を浮かべている。だが、特に不安そうな様子も見せずに、まるで観察するようにゆっくりと周囲を見渡した。やがて、その視線はリーフの顔の上でぴたりと止まった。
 父親と同じ色の冴え冴えとしたアイスブルーの瞳が、じっとリーフを見つめている。

「不思議だな。さっき眠っていた時はナンナにそっくりだと思ったのに、こうして目を開けるとむしろアレスに似ているような気がする。意志の強そうなこの瞳のせいかな」
 独り言のようなリーフの言葉を受け、ナンナが微笑んだ。
「いずれ、ミストルティンを受け継ぐことになるのですもの。女の子とはいえ、強い心を持つ子に育ってほしいと思っています」
「聖痕が現れたんだね?」
「ええ。実はこの子、生まれた時からずっと右手が握った形のまま開かなくて、侍医からも治らないだろうと言われていたんです。でも、一歳を迎える頃には自然と指が開いて。そうしたら、握り込まれていた右手のひらにヘズルの聖痕があったんです」
「…じゃあ、これでアグストリアも安泰というわけだ」
 笑顔で答えながらもリーフの胸に、自分でも意識しないほどのかすかな痛みが生じていた。それは、もうずっと以前から、決して抜けない刺のように胸の奥に入り込み、ふとした折に動き出してはリーフを苦しめ続けてきたのだった。
 アレスが聖痕を持っているから、神器を継承する者だから、だからナンナが彼を選んだわけではない。それはリーフ自身も重々承知している。でも、それでも、胸の奥で小さく疼く何かが消えない。
 おそらくこれからもずっと、この小さな刺とは付き合っていかなくてはならないのだろうな…。そんなことを思い、リーフが苦笑を浮かべた時、それは聞こえてきた。

「くだらん…」
 ぼそりとした低い声に、思わずリーフもナンナも振り返る。その視線の先には、これまでほとんど言葉を発しなかったアレスが、退屈そうな表情を見せていた。
「聖痕だの何だのと、そんなものはただの痣にすぎないだろうが。それがあるかないかで、赤ん坊のうちから将来を決められてたまるか。俺の後を継がせるかどうかは、こいつの今後を見て俺が決めることだ」
 まるで自分の娘を突き放したような物言いに、なぜかナンナがすくりと笑う。
 王女が生まれた当初、直系なのに聖痕が現れないとは本当に王の子なのかと、心無い陰口をたたく者がいたことをナンナは知っている。だが、一貫して王女を世継ぎとして遇してきたアレスの揺るぎない態度が、彼女の心を支え続けてきた。だから、もう誰も王女の出自について疑いをはさむことの出来なくなった今になってそのようなことを言うアレスを、いかにも彼らしいとナンナは思った。
「あんなことを言ってますけど、結構甘い父親なんですよ」
 ナンナがこっそりとリーフに耳打ちする。アレスは鋭い目で妻を睨んだが、すでに遅かった。リーフはナンナと顔を見合わせて笑っている。
 やがてナンナは、腕の中の我が子の髪を慈しむように撫でた。
「でも、わたしも同じ意見です。本当はそんなこと、どうだっていいんです。聖痕が現れる前も今も、この子を愛する気持ちに違いはありませんもの。わたしは母親として、この子が幸せになってくれるよう祈るだけです」

 その瞬間、胸の奥がふいに軽くなったようにリーフは感じた。自分の内側で、ずっと長いこと固くわだかまっていたものが、すっと溶けていくような、そんな気がする。
「そうだね……」
 そっと手を伸ばし、リーフは王女の頭に軽く触れた。そのとたん、それまで不思議そうにリーフを見つめていた瞳に、笑みが浮かぶ。花がほころぶようなその笑顔が、リーフの中でナンナの顔と重なっていく。そのまま無言で、しばしリーフは王女の笑顔を見つめていた。

「よかったら、塔に上ってみるか? この時刻、夕景がみごとだぞ」
 沈黙を破るようにアレスが声をかけた時、窓の外では赤い太陽が西に傾きつつあった。




「すごい……」
 リーフが感嘆の声を上げる。彼らが見下ろす先には、大陸でも有数の穀倉地帯が広がっていた。夕陽を受け、金色に輝く麦の穂先。ゆるやかな風に揺れる大きなうねりが、まるで波のように地平の彼方まで続いている。不毛なトラキアの地を、自分の国として認識するようになったリーフにとって、この豊かな大地はまさに黄金色の楽土にも見えた。
「レンスターも緑豊かな土地ではあるけれど、なんというか格の違いを感じるなあ…」
 独り言のように呟くと、感じ入ったように再び金色の海原を見つめている。彼の背後で、フィンも感慨深い表情を浮かべていた。二十数年前に目にした風景を思い出しているのだろうか。
 隣に並ぶナンナとデルムッドは、また違った思いを胸に抱いていた。彼らがアグストリアに来た当初は、戦禍にみまわれ無残に放置された土地も多く見受けられた。それがここまでに復興したことを、そしてそれまでの苦難の道のりを思うと、やはり胸に迫ってくるものがある。
 皆がそれぞれの思いを胸に、ひとつの光景を見つめていた。
 やがてリーフは、ゆっくりとアレスのほうを振り返った。

「ところで、アレス。こんなところでなんだけど、ちょっと仕事の話をしてもいいかな」
「ああ。むしろ、こんなところでしたほうがいいと思うぞ」
 アレスが返す。部外者が交じらないこの場のほうが、互いに率直な意見が出せるのは確かだった。彼の意図を受け、リーフはトラキアの現状を直截に述べた。
「…そういうわけで、開墾に力を入れてはいるんだけど、まだまだ南トラキアの生産高は不安定だ。北からの援助にも限界がある。そこで、他国からの定期的な輸入も検討しているところなんだけど、この国にはトラキアに分けてもらえるくらいの穀物はあるだろうか」
 今までも、アグストリアからトラキアへの食料の援助は何度か行なわれていた。それに対しトラキアは、アグストリアの内乱時における竜騎士団の派兵や、物資の運\搬作業など人的資源を提供している。それは、あくまでも一時的な措置であり、互いの信頼関係に基づく援助と返礼の枠を出るものではなかった。
 しかし現在、南トラキアでは鉱山の発掘が進んでいる。新しい鉱脈もいくつか発見され、支払いのほうはそれでなんとかなりそうな目処もついていた。そうなれば、対等な立場での正式な取引も可能となる。
 アレスは、確認するような視線をデルムッドに向ける。それを受けて、若きアグストリアの宰相は頷いた。
「ええ。このアグストリアの穀倉地帯は、大陸の半分を充分に賄えるだけの生産量がありますから」
「そうだな。トラキアと交易を結べるのは、こちらとしてもありがたい話だ」
 主従の回答を受けて、リーフは晴れやかな表情を見せる。
「じゃあ、商談成立だね」
 夕陽に照らされた笑顔が輝いていた。

 どこまでも続く金色の穂先と、それを育む豊かな大地。それは、リーフが愛してやまないナンナの黄金の髪と榛色の瞳を思わせる。
 やがてリーフは、ナンナのほうへと視線を転じた。夕焼けの中、わが子を抱いた彼女は、全てを慈しむ聖母のような微笑を浮かべている。それを見ているだけで、リーフは自分の心の内側まで幸福で満たされていくような気がした。

 ―――どこにいても、どんなに離れていても、ずっと君の幸せを祈っているよ、ナンナ

 彼女の横顔を見つめたまま、リーフはそっと胸の中だけで囁いた。




-END-



[118 楼] | Posted:2004-05-22 17:22| 顶端
雪之丞

该用户目前不在线
级别: 火花会员
编号: 18260
精华: 1
发帖: 12974
威望: 0 点
配偶: 单身
火 花 币: 2062 HHB
组织纹章:
所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
注册时间:2004-05-22
最后登陆:2012-05-28
海蓝之钻(II)
查看作者资料 发送短消息 引用回复这个帖子


黄昏の城


--------------------------------------------------------------------------------




 太陽が草原の彼方へと姿を消し、夕闇が辺りを覆い始めた。城の内外に次々と灯される松明の火が、陽の光に代わって辺りを照らし出す。次第に深まる闇の中で、逆に明るさを増していくリボー城は、いつもとは違った賑わいに包まれていた。
 昨日まで城内を闊歩していた斧騎士達の姿は、今はどこにも見当たらない。二十年近くの長きに渡り、イザークを支配してきたドズル王朝はこの日倒れ、リボーの城もようやく本来の持ち主たちの手に戻ったのだった。
 祝勝の宴が開かれている大広間は、黒\髪としなやかな細身の体躯を持つ人々で溢れかえっている。そんなイザーク人の特徴を備えた少女が一人、人混みをかきわけるようにして歩いていた。誰かを探すように、周囲を見回しながら歩を進めている。やがて少女は、ある青年の背後で足を止めた。


「スカサハ。ヨハルヴァ知らない?」
 背中から聞き慣れた声がして、スカサハは振り返った。予想通り、目の前には双子の妹のラクチェが立っている。だが、勝利の喜びに沸き返る人々の中で、なぜか彼女は浮かない表情を見せていた。スカサハは、手にした杯を近くの卓の上に置いた。
「ヨハルヴァに何か用でもあるのか?」
「そういうわけじゃないけど、さっきから姿が見えないのよ」
 答えながらも、視線は絶え間なく辺りを見渡している。
「あいつを探してどうするつもりだ」
「どうするって……。だって、一人にしておけないじゃない」
「そっとしておいてやれ、ラクチェ。おまえが行っても、ヨハルヴァによけいな気を遣わせるだけだ」
 その言葉に、ラクチェは初めて兄の顔を真正面から見つめた。
「ずいぶん冷たいことを言うのね、スカサハ。ヨハルヴァは解放軍のために、自分の兄と父をその手にかけたのよ。今、彼がどんな気持ちでいるか考えたら、放ってなんかおけないでしょう」
 黒\曜石の瞳が責めるようにスカサハを見据える。彼女が言うことも尤もだった。敵の将を討った一番の功労者であるにも関わらず、ヨハルヴァの居場所はここにはない。
「もちろん、みんなが喜ぶのは当然よ。帝国の支配から解放されることは、わたし達イザークの民にとって悲願だったんだもの。わたしだって、この日が来ることをずっと夢見ていた」
 憤る心を静めるかのように、ラクチェは努めて声を抑えた。彼女とて、解放軍の勝利を喜ぶ気持ちはみなと一緒である。しかし、肉親の命を自らの手で奪うことになったヨハルヴァのことを思うと、どうしても素直に喜びだけに感情を任せることができないのだ。
「だから、みんながヨハルヴァの気持ちを思いやることができなくても、今は仕方がないと思ってる。でも――」
 一旦言葉を切ると、ラクチェは目の前の兄の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、わたしとスカサハだけは違うでしょう?」
 夜の闇を思わせるラクチェの瞳。その奥から、深い海の色にも似た青が浮かび上がってくる。普段は漆黒\に見える二つの瞳は、ふとした光の加減で青みを帯びる。それは、この兄妹がイザークの他にもう一つの血を受け継いでいる証だった。
 スカサハは、諦めたように視線を落とした。
「…さっき、その通路を奥のほうに向かって行くのを見た」
「ありがとう」
 うって変わって笑みを浮かべ走り去っていく妹の後ろ姿を、かすかなため息と共に兄は見送っていた。



 大広間から遠ざかるにつれ、灯りも人の気配も消えていった。しばらく進むとあたりはすっかり闇に覆われて、回廊の高窓から差し込むかすかな月の明かりだけが唯一の頼りだった。
 辺りには、堅牢な樫の扉が広い間隔で並んでいる。どうやら、身分の高い者達の私室がある一廓のようだった。ラクチェは重い扉を一つ一つ開け、中の様子を窺っていく。やがて、最も奥まった場所にある最後の扉を開いたが、部屋の中は闇に閉ざされて人の気配は感じられない。諦めて扉を閉じようとした時、奥のほうで微かな空気の動きを感じた。

「誰!?」
 反射的に声を上げていた。無念の思いを残して散った兵士の魂が幽鬼の姿になって現れたのかと、一瞬そんな妄想が頭をよぎる。だが、返ってきたのは耳慣れた低い声だった。
「ラクチェ…か?」
「ヨハルヴァなの?」
 それは、彼女が探していた人の声に違いなかった。同じ軍で身近に過ごすようになってそう時間は経っていないが、ラクチェはすでにその声を聞き分けられるようになっていた。まだ闇に目が慣れない中、手探りのような状態で少しずつ歩みを進める。部屋の奥にある窓からは、淡い月の光が差し込んでいた。唯一の光源であるその窓を目標に近づいて行った時、つま先が家具らしきものの一部にぶつかり思わずバランスを崩す。小さな悲鳴と共に倒れ込みそうになったラクチェの身体は、床に着く前に誰かの手によって支えられた。
「大丈夫か?」
 頭のすぐ上のほうでヨハルヴァの声がした。自分を助けてくれた相手が彼であることを確信し、安堵の気持ちが込み上げる。
「暗いから、足元に気をつけろよ」
 ヨハルヴァはそのままラクチェの手を引いて、窓のほうへと向かう。闇に慣れた目にはまぶしいと思えるくらいの空間がそこにはあった。おそらくこの部屋の主が来客を接待する時に使ったのだろう、向かい合わせの長椅子と、その間に置かれた背の低いテーブルが見える。書棚の影に隠れて、入り口の扉からは見えにくい位置にあったのだ。
 ヨハルヴァは長椅子の一方にさっさと腰を下ろすと、ラクチェの顔を見つめた。その表情には、特にいつもと違う様子は窺えない。

「どうした? こんなところへ。何か用でもあったのか?」
「いいえ、ただ……。あなたの姿が見当たらなかったから」
「それで、わざわざ探しに来てくれたってわけか。もしかして、俺が一人で泣いてるとでも思ったのか?」
 からかうようなその口調は、普段の彼と少しも変わったところがない。ラクチェは、なんとなく拍子抜けするような気分を味わいながら、その反面どこかほっとしている自分にも気づいていた。
「ヨハルヴァこそ、どうしてこんなところにいるの?」
「ここなら誰も来ないと思ったからな。俺が顔を出して、せっかくの祝宴に水を差したくなかったし」
 そう答えて、ヨハルヴァは周囲を見回すように視線を動かした。
「親父の部屋だ。王の私室にしちゃ意外と地味なもんだろう?」
 その言葉に促されるように、ラクチェも周囲に目を向ける。暗がりの中あまりはっりきとは見えないが、剥き出しの石壁も落ち着いた風合いの敷き物も壁掛けも、華美な印象は全くない。年代を感じさせる調度品の類や、相当に読み込まれたと思われる数多くの書物も、この部屋の主の人となりを表しているように思えた。
 イザークの民に奴隷のような生活を強いながら、自分は大勢の美女を侍らせ毎晩のように酒宴を開き、贅の限りを尽くしていたと言われていた王ダナン。その風評から漠然と想像していたものに比べると、確かにこの部屋はあまりにも簡素で実用的に思われた。


「座ったらどうだ」
 立ち尽くしたままのラクチェにヨハルヴァが声をかける。勧められるまま、ラクチェはヨハルヴァの向かい側に腰を下ろした。その時初めて、テーブルの上にあるものに気づく。封を切った葡萄酒の瓶と、酒の満たされた真鍮製のゴブレットが二つ。置いてある位置からして、ヨハルヴァが自分のために用意したものではないだろう。それが誰かのために捧げられたものであるということが、ラクチェには容易に想像できた。

「親父と兄貴が好きだったんだ。俺はあんまり好みじゃなかったけどな」
 ラクチェの視線を追い、ヨハルヴァが言う。
「兄弟の中じゃ、見た目は俺が一番親父に似てるらしい。だけど中身は、ヨハンの兄貴のほうが親父に近かったのかもしれねぇな。だから俺とも気が合わなかったんだろう」
 誰に語るというわけでもなく、ヨハルヴァは淡々と言葉を続けていく。ラクチェは黙ってそれを聞いていた。
「俺と兄貴は性格は正反対なのに、どういうわけか考えてることは同じことが多かった。だけど、互いに協力して何かをしたことは一度もない。どっちかが何かやろうとすると、たとえ自分もそうしたくても絶対に反対の行動をとるんだ」
 ヨハルヴァの口許に、苦笑にも似た笑みが浮かぶ。
「ガネーシャ陥落の報を受けた時、いよいよ心を決める時かもしれないと思った。俺が解放軍に協力したと知ったら、兄貴は絶対に反対の行動をとるだろう。そうわかっていても、俺は自分からおまえに会いに行った」
「そうよ。あなたの軍が力を貸してくれたから、わたし達は勝ち進むことができたんだわ」
 まるで自分の行動を否定するかのようなヨハルヴァの口調に、ラクチェは思わず口を挟む。ヨハルヴァは、再びラクチェの顔を正面から見つめた。
「だが、その役目は俺である必要はなかったのかもしれない。そう考えたことはないか?」
「どういう意味?」
「俺がそうだったように、兄貴だって解放軍に協力することぐらいは考えていたかもしれないんだ。もしかしたら、ここでこうしておまえと話していたのは、兄貴のほうだったかもしれないんだぜ。もし、あいつが先に解放軍に協力を申し出ていたら、俺は意地でも敵対していただろうからな」
 一瞬、ラクチェは言葉が出なかった。そんなことは考えたこともなかった。そして、考えたくなかった。

「それは……たぶんないわ」
 しばしの間を置いて、ラクチェは答えた。
「だってヨハン、わたしに言ったもの。『自分は父を裏切ることはできない』って」
 解放軍が蜂起する直前に、麓の街で出会ったヨハンの姿がラクチェの脳裏に蘇る。ラクチェに想いを告げ、その場で求婚したヨハンは、しかし同時に父を裏切ることもできないと、そう断言したのだった。
「ヨハンが解放軍に力を貸すことはありえなかったと思う。だから、あなたが今ここにいるのは偶然じゃない。少なくともわたしはそう思ってる」
「……………そうか…」
 ヨハルヴァが呟くのが聞こえた。少しだけ呆然とした表情がその顔に浮かんでいる。
「あいつが……そんなことを言ったのか……」
 だが徐々にその表情は、納得したような色に覆われていった。
「俺は、もうこれ以上何を言っても無駄だと思った時から、心の中で親父を切り捨てていた。だが兄貴は、親父のやり方には賛同できないと言いながらも、逆らうようなことはしなかった。俺と違って兄貴は、最後まで親父を理解しようと努めていたところがある。今になってふと思うんだ。兄貴には、俺の知らない親父の顔が見えていたのかもしれないって…な」
 言葉を切り、そしてヨハルヴァはぽつりと呟いた。
「―――俺は、兄貴が羨ましかったのかもしれない」
 今まで見たことがないような昏い瞳の色。それを目にした時、ふいに泣きたいような思いにラクチェは捉われた。

 ―――後悔しているの?

 そんな問いかけが、喉元まで出掛かっている。だが、それを口にすることはできなかった。それは決して言ってはいけない言葉だったから。
 だがヨハルヴァは、まるでラクチェの胸の内を読み取ったかのように口を開いた。
「だけど、後悔なんかしちゃいねえよ。するわけがない。それくらいなら最初からこんなことはしなかったぜ」
 自分自身に言い聞かせるようにヨハルヴァは言う。だがそれは、ラクチェの心を思いやっての言葉でもあるのだと彼女にはわかってしまった。そして同時に気づく。自分はただヨハルヴァにそう言ってほしくて、彼をこの戦いに巻き込んでしまった負い目を消してほしくて、ここに来ただけなのかもしれないと。

 ―――スカサハの言う通りだった…

 ここにいても、自分が彼のためにできることなど何もありはしないのだ。そう思い知らされた気がする。自分の身体に半分だけ流れるドズルの血。それだけで、ヨハルヴァを理解してやれるつもりになっていた。そう思い上がっていた。
 ラクチェは静かに椅子から立ち上がった。

「…ごめん、もう行くわね」
「ああ」
 視線を下に向けたまま、ヨハルヴァは引きとめようとはしない。その事実が、自分でも驚くほどにラクチェの心を落胆させる。もしかしたら呼び止めてくれるのではないか。ほんの少しでも、自分は彼にとって必要な人間なのではないか。そんなかすかな期待が、ラクチェの歩みをゆっくりとしたものに変える。だが、とうとうヨハルヴァからの呼びかけはなかった。
 窓からの明かりも届かない場所まで来た時、ラクチェは振り返った。

「ヨハルヴァ、わたしは…」
 今更何を言おうというのだろう。そう思っても止まらなかった。
「わたしは、あなたと戦わなくて済んでよかった。あなたが生きてここにいてくれてよかった」
 考えるより先に、心から溢れるように言葉が零れてくる。
「それだけは、真実(ほんとう)の気持ちだから」

 月の明かりは逆光となって、彼の表情は見えない。ラクチェは踵を返し、そのまま出口へと向かった。扉を開閉する音と、足早に走り去っていく靴音だけが残される。やがてそれも消え、再び静寂が辺りを覆った。



 ヨハルヴァは長椅子に深く腰掛けたまま、しばらく身じろぎひとつしなかった。俯き加減だったため、栗色の髪が目を覆うように落ちかかっている。ゆっくりと前髪をかき上げ、ひとつだけ息をついた。

「それだけで……」

 低い声でそう呟く。それから先を、ヨハルヴァは口にしなかった。
 ついさっき、真っ直ぐに自分を見つめていたラクチェの瞳。彼女の唇から紡がれた言葉、その想い。それが、自分にどんなに力を与えてくれるものだったか、おそらくあの少女は気づいてもいないのだろう。
 いつしか、ヨハルヴァの口許が笑みの形を作っていた。瞳の色は、さきほどの彼からは信じられないくらい、穏やかで優しい光を帯びている。
 ヨハルヴァは長椅子から立ち上がり、テーブルの上に視線を移した。二つのゴブレットが鈍い光を放つ。
「行ってくるぜ」
 短く言うと、部屋を横切り扉へと向かう。横顔が月の光に照らされ、そして闇の中へと消えていった。



-END-



[119 楼] | Posted:2004-05-22 17:23| 顶端
<<  3   4   5   6   7   8   9   10  >>  Pages: ( 12 total )

火花天龙剑 -> 火炎之纹章




Powered by PHPWind v3.0.1 Code © 2003-05 PHPWind
辽ICP备05016763号
Gzip enabled

You can contact us