雪之丞
级别: 火花会员
编号: 18260
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所属组织: GL党
组织头衔: 换头部部长
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白 夜
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窓から差し込む朝日が、テーブルの上に格子の形の影を作っている。 東に視線を向けたイシュタルは、太陽がいつもより高い位置に昇っていることを確認した。だが、待ち人はまだ現れる様子がない。特別な用事がない限り、朝食に遅れたことがない彼にしては珍しいことだった。 彼女が着いている食卓には、すでに二人分の食器が用意されている。傍らで指示を仰ぐ侍女にもうしばらく待つように伝え、イシュタルは再び視線を元に戻した。
ファバルと食事を共にするようになったのはいつからだったろうか。きっかけは、イシュタルの食事に毒が混入されるという物騒な出来事だった。それ以来、彼はいわば毒見役として必ずイシュタルと同じ食卓に着くようになり、その習慣だけが現在まで続いている。 囚人に等しい立場の自分にそこまでするファバルの気持ちが、当初イシュタルには理解できなかった。しかし今では、彼と共に食事の席に着くことに、何の疑問も感じていない自分に気づいている。それほどに、ファバルの存在は彼女にとって当たり前のものになってしまっていた。 それどころか、もしかしたら彼が来るのを心の底では待っているのではないだろうか。そんなことを思い、落ち着かない気持ちになることも時折あった。
四半時も経った頃だろうか。扉の向こうから、こちらに向けて走ってくる足音が聞こえてきた。イシュタルが目で合図をすると、控えていた侍女が朝食の準備に取り掛かる。手際よく絞った果実をグラスに注ぎ、温めたパンを皿に取り分け始めた。
「悪い! 遅くなった」 足音の主が、声と共に部屋の中に飛び込んでくる。ずっと走り詰めだったのだろう。肩が激しく上下していた。
「おはよう、ファバル」 イシュタルは、まだ目の前で荒い呼吸を繰り返しているユングヴィ公爵に声をかけた。 「おまえが食事に遅れるなんて、珍しいわね」 「待たせちまって悪かったな。こっちに向かう直前に、急な来客があったんだ」 まだ少し息をきらしながら、ファバルは笑顔を見せた。鮮やかな金の髪が、窓から差し込む朝日を弾く。少しまぶしいような思いで、イシュタルはそれを見つめた。
ファバルはイシュタルの向かいの席に腰を下ろすと、遅れたいきさつを話し始めた。いつも通り、朝食をとるためにイシュタルの部屋に向かおうとした時に、ある男の訪問を受けたという。 公爵に謁見を願い出る者は、ユングヴィの宮廷にも毎日列をなしていた。それは、単なるご機嫌伺いの貴族から、深刻な問題を抱えた訴状持参の地方領主までさまざまである。緊急を要するものが優先されるため、取り次ぎを願い出てから数日待たされることは珍しくない。
だが、そういった手続きを通さず、直接公爵の元を訪れる貴族も少数ながら存在する。それは、現在この国の宰相を務めるフェルン侯爵の一族だった。フェルンは、前ユングヴィ公爵スコピオの側近中の側近であり、彼が存命の頃から宮廷の実権をほぼ一手に握っている。文官ということもあり先の戦いの際には出陣せず、結果命を存えた彼は、主君の死に動揺する貴族達をまとめ上げ、新しい公爵へと差し出したのだ。戦後のユングヴィがさしたる混乱もなく、復興へと向かって進むことができたのは、彼の功績も大きいといえる。 その一方で、一族の栄達と繁栄のためには手段を選ばないという風評も、常に付きまとう人物だった。
その朝ファバルの元を訪れた初老の貴族は、何よりも先に自分がフェルン侯爵に連なる者であることを説明した。男爵位を持つその男の名は、ファバルも耳にしたことがある程度である。つまり、宮廷内においてさほど重要な官職にはついていないということだろう。それでも彼は、フェルンの一族であるという事実をもって、自分は取り次ぎ無しに公爵に拝謁する権利を持っていると判断したらしい。 無礼を咎められて当然の行為であったが、現在のユングヴィ公爵はそういったことに全く頓着しないことが彼にとって幸いした。時間がある限りは、相手の身分の上下を問わずとりあえずは耳を傾けるのが、ファバルの一貫した姿勢だったからである。
「用件も簡単なものだっていうから、とりあえず話を聞いたんだけど…」 話しながらも瞬く間に香草のスープを空にしたファバルは、次の皿が運\ばれてくるまでの間つなぎに白パンに手を伸ばす。 「それにしても、貴族っていうのは何であんなに話が長いんだ?」 鶉のパテをパンに塗りながら、ファバルがうんざりしたような顔を見せた。自分もその「貴族」の筆頭であることなどすっかり忘れているらしい。 だが、それも無理はなかった。時候の挨拶から始まってご機嫌伺い、延々と続く前口上。しびれを切らしたファバルが先を促さなかったら、男爵はいったいいつ本題に入ったことか。 その様子を思い浮かべ、イシュタルは内心で苦笑をもらした。かつて領主としてマンスターの地を治めていた彼女には、思い当たる節が嫌というほどあったのだ。
「あ、そういえば、これを預かってきたんだった。おまえにって」 話の途中で、突然思い出したようにファバルは自分の懐を探る。すぐに目的のものを見つけ出し、イシュタルに向けて差し出した。その手の上には、革張りの小さな箱が乗\っている。 「わたしに?」 「ああ。渡せばわかるとか言ってたぜ」 全く心当たりのないイシュタルは、少し怪訝な顔を見せながらも、とりあえずその小箱を受け取った。 「公爵に使い走りを頼むなんて、その男爵もずいぶんといい度胸ね」 そんなことを言いながら、イシュタルは手にした小箱の蓋を開ける。その中身を目にしたとたん、彼女の表情が強張った。
それはほんのわずかな変化だったため、ファバルが気づくことはなかった。そしてそのまま、男爵の話を続けている。 それによると、その男爵はさらに上の役職に与ろうと、ここしばらくの間いろいろ働きかけていたのだが、この度きっぱりと引退を決め、田舎に引っ込むことにしたらしい。そしてその際に、領地の配置転換を希望してきたのだ。現在の領地を返上する代わりに彼が求めたのは、シエナという小さな港町だった。
「シエナみたいな小さな町に引退なんて、フェルンの一族にしちゃずいぶんと無欲な男だよな」 ファバルはとりあえず、今回は男爵の要望を聞くにとどめ、回答は保留としたのだが、内心では叶えてやっても特に問題はないのではないかと思っていた。だが、イシュタルの口からは意外な言葉が発せられた。
「そうでもないと思うわ。わりと欲の深い男よ」 「え?」 「シエナは小さな町ではあるけれど、ミレトスとグランベルを繋ぐ貿易の拠点の一つでもあるはずだわ。そういった町の領主は、港や河を使用する商船に自由に税をかけられるの。上手くやれば数年で一財産できるのじゃないかしら」 静かな表情で淡々とイシュタルは語っているが、ファバルはその内容に驚きを隠せなかった。領主が不正な利益を得ることも問題だが、もっと大きな問題もある。 彼の内心を読み取ったかのように、イシュタルは言葉を続ける。
「通行の税が上がれば、その分は価格に上乗\せされ結局は市民に負担をかけることになるわ。それを避けるために、船を使用せずに危険な山陸ぞいを通る商隊もでてくるでしょう。ようやく静かになった野盗の類が、また動き出す恐れもあるわ」 イシュタルは一旦言葉を切り、ファバルの目を見つめた。 「よけいなことかもしれないけど……。そういう町はよほど信頼のおける人物に任せるか、そうでなければ今まで通り公家の直轄領にしておくのが無難だと、わたしは思うけれど」
「―――その通りだな」 しばしの沈黙の後、ファバルは深く息を吐いた。 イシュタルが虚偽の情報を流している可能性については、ファバルは一切考えていない。少し調べさせれば、彼女の言葉が正しいことはすぐに証明されるだろう。今までにも彼女は、こうしたさりげない助言でファバルを助けてくれている。 それでもファバルは少しだけ心が重くなった。 基本的に人を疑うことが嫌いなファバルは、普段から他人の言葉の裏を探ろうとはしない。どんな人物でも、まずはそのまま受け入れようとする。だが、公爵としてこの宮廷に赴いてから、それを通すことがだんだんと難しくなっていた。 さっきの男爵も、見た目は人の良さそうな初老の男だった。宮廷の政争に疲れ、田舎に引っ込んでのんびり暮らしたいと言う彼の言葉に嘘は感じられなかった。この期に及んでも、あの男は望んだ土地の重要性を知らなかっただけなのではないだろうかと、心のどこかで思いたい自分がいる。
「それから、これもその男爵に返したほうがいいと思うわ」 涼やかな声に、物思いに沈んでいたファバルは思わず我に返る。目の前ではイシュタルが、先ほど受け取った皮張りの小箱をファバルに向けて差し出していた。 再びファバルの手元に戻ったその箱は、蓋が開けたままになっており、今度は中身がはっきりと見える。 上等の白絹が張られた箱の中央に、眩く光る青い宝石が納まっていた。大粒の青玉石の周りを小粒の金剛石がぐるりと取り囲んでおり、それが相当に高価なものであることは、宝飾品の類に詳しくないファバルにも容易に察することができる。そして箱の裏蓋には、贈り主の家紋と署名が記されていた。
「これは……どういう意味なんだ? イシュタル」 何事にも直接的な言葉を使わない貴族のやり方に、ファバルはどうも馴染めない。男爵がどういう意図を持ってこんなものをイシュタルに渡したのか、見当がつかなかった。 「要するに、それは賄賂よ。領地転換の口添えを、わたしに頼みたかったのでしょう。その挨拶代わりのようなもの…。おまえはこういうものを決して受け取らないから、わたしのほうに回ってきたのだと思うわ」 「でも………どうして、おまえに?」 「どうやらわたしは、公爵の囲われ者とでも思われているようね」 「何!?」 さらりとした口調で告げられた言葉に、ファバルは声を失った。 「無理もないわ。内乱を収めにフリージに行ったユングヴィ公が、銀の髪の女を内密に連れて帰った。援軍の謝礼として、フリージ公が一族の女を差し出したと、そう思われても仕方ないわね。よくあることだもの」 そう言ってイシュタルは可笑しそうに笑う。 「笑い事じゃないだろう!」 ファバルは思わず両手をテーブルに叩きつけていた。振動で食器が揺れる。めったなことでは大声を出さない彼の剣幕に、イシュタルは怪訝な表情を見せる。 「何を怒っているの? ファバル」 「そんな噂が立ったら、お前の将来に傷が付くじゃないか!」 まだ憤りを隠せない様子でファバルが答える。その言葉を聞いたとたんに、イシュタルの顔から表情が消えた。
「将来…? わたしの……?」 まるでその言葉の意味がわからないかのように、ゆっくりと繰り返す。 現在より先のことを考えなくなって、いったいどれくらい経つだろう。その言葉ほど、今の自分にとって縁遠いものはないかもしれない。静かな表情の下で、イシュタルはそう思う。 だが、ふいにその口許に笑みのようなものを浮かべた。 「じゃあ、責任をとって一生ここに置いてくれるかしら?」 言葉と共に、ほんの少しだけからかうような視線をファバルに投げかける。深い意味のある言葉ではなかった。話題を逸らしたいという思いが、ついそんなことを言わせたにすぎなかった。 しかし、彼女がごく軽い気持ちで口にした言葉に、ファバルは真剣な表情で黙り込む。それを見たイシュタルの顔から、再び表情が消えた。
「冗談よ。そこまで甘えるつもりはないわ」 いっそ冷たいとも思える声でそう告げた。こんなたわいもない言葉を真に受けて、本気で考え込んでいるファバル。彼という人間が、またわからなくなりそうだった。自分の常識では測れない彼の言動に接するたび、彼女の胸の中に不思議なさざ波が立つ。そしてそれは、いつもイシュタルを落ち着かない気分にさせる。
「………俺はかわまない」 ぽつりと、呟くようなファバルの声が聞こえた。 「え?」 思わず顔を上げたイシュタルの目に、まっすぐに自分を見つめる空色の瞳が映る。すい込まれてしまいそうな澄んだ瞳の色。イシュタルの胸の奥が、自分でもよくわからないざわめきに覆われる。彼の言葉をどう受け取ればいいのか途方にくれていると、ふいにその視線はファバルのほうから逸らされた。
「俺が勝手にそう思ってるだけだ。……忘れてくれ」 それだけ言うと、ファバルはそれきり黙りこんだ。侍女が、新しい料理の皿を運\んできたが、手を伸ばそうとしない。不自然な沈黙が辺りを覆う。しかし、静寂は意外な形で終わりを告げた。
白 夜
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「お食事中、失礼致します」 前触れもなく、突然扉が開いた。その向こうに、一人の男が立っている。茶褐色の髪を後ろに撫で付けた、比較的がっしりした体躯の壮年の男だった。仕立ての良い上等の絹地の長衣は、彼が文官であることを示している。 取り次ぎの者も通さずに、食事中とわかっている部屋に乗\り込んでくるなど、よほど緊急の用事でもない限り相当に不作法な行為と言えた。しかも相手は、このユングヴィの頂点に立つ公爵である。その公爵を前にしてこのような態度をとれる者は、宰相であるフェルン侯爵以外この国にはいなかった。
「何の用だ、フェルン。ここには近づかないよう言ってあるだろう」 ファバルは、彼にしては珍しい冷ややかな視線を来訪者に向けた。イシュタルの身の回りの世話をする者以外が、彼女の住まう場所に近づくことをファバルは許していない。しかし、当の宰相は全く意に介した様子はなかった。
「誠\に申し訳ございません。急を要する件がございまして」 顔中に笑みを貼り付け、言葉だけは丁寧に謝罪する。 「つい先ほど、トスカナの治水工事の承認がまだ頂けていないとうかがいました。公爵閣下はご多忙ゆえ、おそらくその件をご失念されているのではないかと思い、ご迷惑とは存じましたが、取り急ぎ参上致しました次第です」 そう言いながら、すでに彼は小脇に挟んだ書類挟みから一枚の書類を抜き取り、テーブルの上に広げていた。 「こちらに署名をいただければ、私はすぐに退散いたしますので」 その口調も態度も、公爵がこの書類に署名することを毛先ほども疑っていない様子だった。だが、ファバルの返答は彼にとっては思いもよらないものとなった。
「忘れてるわけじゃない。納得できないから許可しない。それだけだ」 「これは、これは…。ご納得がいかないとは、いったいどういうことでございましょう。手続上の不備は何もありませんが?」 宰相は大袈裟に両手を広げ、さも心外だというふうに声を上げる。ファバルの顔に、苛立たしげな表情が浮かんだ。 「俺は実際にトスカナに行って、この目で確認してきた。土地の人々の話も充分に聞いた。緊急に工事が必要とはとても思えない。それよりもその予算を他に回すべきだ」 きっぱりと言い切ると、睨みつけるような視線を宰相に向けた。宰相の顔から、初めて笑みが消える。柔和にさえ見えた表情が一変し、鋭い目の光が強調された。少時、静かな視線のぶつかり合いが続いたが、やがて宰相は目を伏せると小さくため息をつく。
「………スコピオ様でしたら、すぐにご承認いただけましたものを」 独り言にしては少しばかり大きすぎる声で彼は呟いた。一旦広げた書類を片付けながら、ちらりと視線をファバルのほうに向ける。しかし、それに対してファバルは何も反応を返さなかった。
再び書類挟みを小脇に抱え、一礼すると宰相は背を向けた。扉に向かいかけて、突然なにやら思い出したように振り返る。その顔には、部屋に入ってきた時と同じような作り笑いが貼り付けられていた。
「そういえば最近、妙な噂を耳にしました。閣下はこちらのお方を、いずれ公妃としてお迎えになられるおつもりだとか」 問いかけながら、向かいに座っているイシュタルに、不躾ともいえる視線を投げかける。 「そうだとしたら、どうする」 ファバルは、不快感を隠そうともせずに答えた。売り言葉に買い言葉のような返答だったが、それは宰相の思う壺だったらしい。 「閣下はお忘れになっておいでのようですな。ご自分が婚約者のいる身であらせられることを」 「何度言ったらわかる。俺はおまえの娘と婚約した覚えはない」 「いいえ。娘は…イザベラはユングヴィの公妃となるべく定められ、幼い頃から徹底した教育を受けて参りました。スコピオ様からもぜひにと望まれて、じきに式を挙げるはずだったのです。あのようなことがなければ今ごろは…」 沈痛な面持ちで俯いた宰相は、計算された間を置いてから顔を上げ、きっぱりと言い切った。 「この国に公妃となるべき女性は、イザベラをおいて他におりません」 すでに幾度となく繰り返された虚しい論争に、ファバルはうんざりとした表情を見せる。 「おまえがそう考えていても、彼女はそうは思っていないはずだ」 「そのようなことはございません。娘は毎日、閣下のお越しをお待ち申し上げておりますとも」 芝居がかったしぐさで右手を掲げ、次いで深く敬礼する。 「娘を少しでも憐れにお思いでしたら、ぜひ一度足をお運\び下さるようお願い申し上げます」 顔を上げた宰相は、一瞬だけ牽制するような視線をイシュタルに向け、そして今度こそ振り返らずに扉の向こうへと消えていった。
「悪かったな、変なとこ見せちまって」 ファバルがそう声を発するまで、少しの時間が必要だった。 彼にとってこの部屋は、政務に関わる諸々の責務や重圧を忘れさせてくれる、ひと時の安らぎの場所でもあった。山積する様々な問題も、世間話のようにイシュタルに向かって話しているだけで、なんでもないことのように思えてくる。だから、宰相の突然の訪問は、神聖な場所に土足で踏み込まれたようにファバルには感じられたのだ。
「今のは、フェルン侯爵ね?」 静かな表情のまま、イシュタルが確認するように問い掛けた。これまでファバルの話に何度となく登場した人物だが、実際に姿を見たのはこれが初めてだった。 「ああ。この国の宰相殿だ」 「問題のある人物なの?」 「いや。優秀な官僚だよ。あいつがいるおかげで、宮廷も波風立たずにどうにか纏まってる」 気を取り直そうとするかのように、ファバルは再び目の前の料理に手を伸ばした。小皿に取り分けられた牡蠣の葡萄酒蒸しをつついているうちに、その表情も徐々に普段のものに戻ってく。 「ただ、自分と自分の一族に寛大すぎるところが問題なんだ。本来、国庫に入るべき金がだいぶそっちに流れているらしい。いずれどうにかするつもりだけど、先にやらなくちゃならないことがまだまだあるからな…。今はそこまで手が回らない」 「彼の娘と……結婚するの?」 思いも寄らない質問に、ファバルは食事の手を止めた。その目に、ほんの少しだけ皮肉な色が浮かぶ。
「そうだなぁ。もし俺がイザベラと結婚したら、婚礼の夜にはさっそく公爵の死体が寝台の上に転がってるかもしれないな。そして、新婚早々に夫を失った可哀想な未亡人が仮の公爵として冊立され、その父親が摂政の座に就く。そんなとこじゃないか?」 「ファバル…」 「いや、もしかしたら彼女が公爵の子供を身ごもるまでは生かしておいてもらえるかもしれない」 「ファバル、やめて。そんな言い方はおまえらしくないわ」
少し強い口調でイシュタルは遮った。彼の言葉はいつも真っ直ぐで、こんな自虐的な物言いは決してしない。普段、自分の前では笑顔しか見せないファバルの、今まで知らなかった一面を見たような気がする。それはいわば、ユングヴィ公爵としての顔であり、常に人の言葉の裏を読み続けなければならない政治家の顔でもあった。
「悪かった…」 とたんに目の前の公爵は、叱られた子供のような表情でうなだれる。自分らしくない言動に、一番傷ついているのは彼自身なのだろう。そう思うと、イシュタルの胸にかすかな痛みが走る。
やがてファバルは、神妙な面持ちで事の次第を話し始めた。 フェルン侯爵のひとり娘イザベラは、前ユングヴィ公爵スコピオの婚約者だったという。反乱軍の討伐に向かったスコピオの帰還を待って婚礼の式を挙げるはずだったが、彼が婚約者の元へ生きて帰ることはなかった。戦場でスコピオの命を奪ったのは、ファバルの持つイチイバルだったのだ。
「フェルンにとっては娘が公妃になることが重要なんであって、公爵の首が挿げ替わったところでたいした問題じゃない。だが彼女にしてみれば、自分の婚約者を殺した男となんか、死んだって結婚できるわけないだろう?」 「そうとは限らないわ。貴族の娘に生まれた以上、政略結婚は当たり前のことだもの。一族に繁栄をもたらす婚姻なら、誇りに思うはずよ。その侯爵令嬢にとっても相手がユングヴィ公爵の肩書きを持っていれば、誰でもいいのじゃないかしら」 貴族社会で生まれ育ったイシュタルにとっては当然とも言える問いかけに、ファバルは口ごもる。それは、彼がそういった「常識」を受け入れられないからなのだろうとイシュタルは思った。しかし、それが思い違いであることを次の瞬間に知ることになる。
「彼女とスコピオは幼なじみだったそうだ。二人は本当に愛し合っていたらしい…」 ファバルが重い口を開いた。その言葉の持つ意味に、イシュタルは一瞬声を失ってしまう。 「………………そう」 ようやくそれだけを口にした。だが、それ以上言葉は続かなかった。
幼なじみ…。その一言を聞いた時、イシュタルの脳裏に浮かんだ、炎のような赤い髪の少年。過ぎ去った時を思い起こすと、イシュタルはいつも彼と共にあった。 己の全てをかけて彼に仕えたつもりだった。そして彼はイシュタルの全てを支配していた。二人の間にあったものはいったい何だったのだろう。あれは愛と呼べるものだったのだろうか。そう自分に問いかけてみる。
やがて静かな朝食が終わり、政務に戻るファバルの後ろ姿をイシュタルは黙って見送った。 答は見つからなかった。
いつもと変わりなく過ぎていくはずの、とある午後。いつもと同じように、イシュタルは長椅子に腰を下ろし書物を読みながら自室で時間を過ごしていた。ふいに扉を叩く音が聞こえ、書物から顔を上げる。 この部屋を訪れる者は、数名の侍女の他には、城主であるファバルしかいない。しかし、今はファバルは執務中のはずだった。侍女を呼ぼうとしたが、それより早く静かに扉は開かれた。
「あなたがイシュタル様?」 扉の影から顔を覗かせたのは、身なりの良いほっそりとした一人の女性だった。光沢のある繻子織りのドレスは、それが非常に高価な品だということをうかがわせる。しかし、黒\無地の地味なデザインからは、まるで喪服のような印象を受けた。年若い娘のわりにはあまり飾り気もなく、真珠の耳飾り以外これといった装飾品も身に付けていない。
「ごめんなさい。無理を言って通してもらいました。父の名前も、こんな時には役に立ちますわね」 しっとりと落ち着いた声音で彼女は語りかけた。 「フェルン侯爵コンラートの娘、イザベラと申します。どうぞ、お見知りおき下さいませ」 その名乗\りに、イシュタルは数日前に初めて目にしたこの国の宰相の顔を思い出した。彼の娘と名乗\る目の前の女性は、顔立ちこそ似ていなかったが、茶褐色の髪と瞳はそっくり同じだった。きっちりと髪を結い上げた額の形にも、なんとなく面影が感じられる。 イシュタルは不躾にはならない程度の視線を彼女に向けたまま、入れとも出て行けとも言わなかった。それをどう受け取ったのか、イザベラは扉を閉めると部屋の中に進み入った。 「あなたのことは、宮廷でもいろいろと噂になっておりますわ、イシュタル様」 小首をかしげ、微かな微笑みを浮かべる。
表向きイシュタルは、フリージ公爵家の遠縁にあたる貴族の令嬢で、故あってユングヴィ公爵の賓客として城に滞在しているということになっている。 先の戦争が終結した後、他国に逃れようとする貴族はいずれの国でも見受けられた。戦犯として裁かれることを恐れ、縁者を頼って亡命する者もあれば、圧政により領民の恨みを買い、命の危険を感じて妻子を避難させた領主もいる。イシュタルも、何らかの事情を抱え公爵に保護された貴族の娘なのだろうと、大方の者は思っていた。 しかし、彼女に対するユングヴィ公の執着振りが人の口の端に上るにつれ、実はあの美女は公爵の妾妃なのではないかという噂も囁かれ始める。没落した貴族の令嬢が、生きていくために裕福な商人や領主の側室になるのは珍しくないことだ。フリージ公爵がユングヴィとの同盟の絆を深めるため、一族の娘を差し出したのではないか、いや、ユングヴィ公爵のほうから援軍の謝礼として要求したのではないか等々、あれこれと勝手な憶測が飛び交っていた。
そういった噂の一部は、何らかの形でイシュタルの耳に入ることもあったが、それについて彼女はわずかの関心も抱くことはない。だから、今目の前に立っている侯爵令嬢がどの噂を信じていようとも、全く気にならなかった。 波ひとつない水面のように静かな表情のイシュタルをイザベラが見つめる。
「国のために人身御供にされたようなものですわね、お気の毒に…。同盟国への援軍に見返りを求めるなど、いかにも傭兵上がりの公爵のなさりそうなことですわ」 その声音には本心からの同情が感じられ、イシュタルは意外な思いがした。とはいえ、ファバルやフリージ公爵に対する見当違いな非難を看過することはできない。 「公爵は、人質としてわたしをこの国に伴ったのではありません。宮廷の噂など、いつも無責任でいいかげんなものばかりです。あまり鵜呑みになさらないほうが賢明でしょう」 感情を交えない淡々とした声ではあったが、きっぱりとした否定の意志が込められていた。それは、イザベラにとっては意外な返答だったらしい。わずかに目を見張ると、不思議そうな表情を見せる。 「まあ。では、どのような理由でユングヴィにいらしたのかしら? やはり父の言うように、公爵はフリージ家から公妃を迎え、同盟を強めたいと望んでいらっしゃるのかしら?」 「わたしには、政治の事は何もわかりません」 イシュタルは、再び書物に目を落とすとそれきり口を閉ざした。言外に退室を促しているのは、イザベラにも感じられただろう。しかし、彼女は立ち去る様子は見せなかった。
「そういえば…」 沈黙の後に、再びイザベラが口を開いた。 「フリージ家には、雷神と呼ばれる公女殿下がいらっしゃったそうですわね。ユリウス殿下のご寵愛も深く、最後まで殿下に忠誠\を誓い、反乱軍…いえ、解放軍に単身立ち向かわれたと聞きました。愛する方を守るためにお命を落とされたなんて、私にはむしろ羨ましく思えますわ」 観察するかのような視線が、イシュタルの全身に絡みつく。だが、イシュタルはまるで反応を示さなかった。 「たしか……その公女様のお名前もイシュタル様とおっしゃったとか…」 「ええ。フリージでは珍しくない名前です」 書物から顔を上げることもなく、よどみのない声でイシュタルは答える。頁を繰る音だけがあたりに聞こえた。 「そうですの…」 虚ろな声でイザベラは呟いた。その顔からは、彫像のように表情が失われている。しかし、彼女は再び不可思議な笑みを取り戻した。
「読書のお邪魔をして申し訳ありませんでした。そろそろ失礼致しますわね」 扉のほうに向かって、衣擦れの音が遠ざかっていく。 「イシュタル様」 扉を閉じようとして、思い出したようにイザベラは振り返り、声をかける。 「自分の運\命を自分で決められないという意味では、私もあなたと同じですわ」 その表情がどこか寂しげだったことを、視線を落としたままのイシュタルは気づかなかった。
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[115 楼]
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Posted:2004-05-22 17:20| |
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